無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
ぼくはエクセントリックじゃない―グレン・グールド対話集 単行本 – 2001/6/1
- 本の長さ319ページ
- 言語日本語
- 出版社音楽之友社
- 発売日2001/6/1
- ISBN-104276203651
- ISBN-13978-4276203655
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
商品の説明
商品説明
本書に収められた最も早い時期のインタビューは、カナダの日刊紙「スター・オブ・トロント」1959年3月28日号のためデニス・ブレイスウェイトがまとめたもの。そして一番最後の発言は、アメリカのジャーナリスト、デイヴィッド・デュバルの質問に答えるための下書き原稿で、グールドの死後見つかった。グールドが質問に答える態度に、奇人を思わせることろはまったくない。挑発的な質問にも冷静に答え、ユーモアを忘れない。ブルックナーの弦楽五重奏曲についてはこんなことを言っている。
「これは彼が書いたもっとも驚くべき作品です。昂揚の度毎に雷鳴が轟くことのない唯一の作品ですよ。一個の奇跡です!」
本書の半分に近い分量は、編者によって「ヴィデオ座談会」と名付けられた架空の記者会見に充てられている。グールドが実際に行ったいくつかのインタビュー、映像作家である編者がグールドと一緒に作った映画からの断片や個人的会話などを素材に、10人のジャーナリストとグールドがテレビ電話で話し合うという体裁にまとめられたものだ。グールドの能弁さに圧倒される。(松本泰樹)
内容(「MARC」データベースより)
登録情報
- 出版社 : 音楽之友社 (2001/6/1)
- 発売日 : 2001/6/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 319ページ
- ISBN-10 : 4276203651
- ISBN-13 : 978-4276203655
- Amazon 売れ筋ランキング: - 962,234位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 304位クラシック音楽論・理論
- - 1,071位音楽史
- カスタマーレビュー:
著者について
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
語られている本を読むのも楽しみのひとつ。
グレン・グールドについては、多くの本が出版されているし、
1982年に彼が急逝してからも、新刊書が出続けている。
すると、5冊以上読んだ頃になると、”あれ。これ、どこかで読んだな”という感じになる。
リリースされたCDについては、情報を整理した「グールドCDガイド本」が出ているが、
関連本についても、そうした類のものがほしくなる。
さて、この『ぼくはエクセントリックじゃない』だが、
内容的には、みすずの『グレングールド発言集』とかぶっている部分が多い。
特に両者のインタビュー部分は、かなり重なっている。
しかしまとめ方が違っているし、訳者も違うので、完全に同じではない。
『ぼくはエクセントリックじゃない』は「対話集」となっているが、対話ではない文章もあるし、
写真も掲載されている。だから書籍単体としての価値は失っていない。
写真としては、リヒテルとの2ショット写真もあれば、グールドがご機嫌に車を運転しているものもある。
演奏旅行中なのか、ホテルのベッドであくびをしていたり、
肘から先をすべて覆う異様に長い革製(?)の手袋の写真など、
なかなかヴァリエーションに富み、見応えがある。
掲載されている内容も、グールドの音楽や、人となりをよく伝えるもので、
読んでいると、これまでに聴いてきた彼の音楽に新たな光があてられたりする。
ここに引用したくなるような箇所はいくらでもあるが、たとえば、こんな話。
グールドは、バッハ以前の鍵盤作品として「バード&ギボンズ作品集」を残しているが、
多くのピアニストが名盤を残しているスカルラッティはほとんど録音していない。
しかしレコード会社としては当然のように、スカルラッティ・アルバムの制作をグールドに打診した。
グールドはこれを了承し、レコーディングが行なわれた。その時には3曲が録音されたが、
レコーディング・セッションはそこで終わってしまった。
グールドにとっては、ソナタ3曲を弾くことが限界だったらしい。
たしかにそれでグールドによるスカルラッティアルバムは作成されるが、それ以上のものにはならない。
たとえばホロヴィッツもスカルラッティアルバムの名盤を遺しているが、
それをしのぐ音楽的な衝撃みたいなものは、そこには込められない。そういう感触だったのだろう。
彼の音楽は、首尾一貫しているようで、かなり謎めいた部分もあるので、
彼の発言、考え方、趣味、方向性も、読み進めるほどに断片的になり、
なにか一貫した、大きなまとまりにはなっていかない。
時おり、グールドに関するものが、むしょうに読みたくなることがあるが、
読み終えてしまうと、読書の充実感を感じているというよりは、
グールドアルバムが持っている不思議な輝きや完成度にまた向かおうとする自分がいる。
もしかしたら、そのために、グールド関連本の読書をしているのかもしれない。
本書の第2部として仕立てられたバーチャルなラジオ座談会ではグールドの哲学が彼自身によってかなり具体的に説明されているだけでなく、彼に起きたエピソードの釈明にも余念がない。指揮者ジョージ・セルとの確執も興味深い。彼は表現上セルに敬意を払いつつも、実質的にこの巨匠をこき下ろしている。グールドがクリーヴランドとのコンサートで弾く筈だったシェーンベルクのピアノ協奏曲はセルの意向で省かれた。彼によればセルは新ウィーン楽派にも全く興味がなかったし、この協奏曲も勉強していなかった。もう1曲のベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番のリハーサルでは椅子の高さの調節と弱音ペダルの使用でセルとの関係は決定的な決裂に至る。『タイム』誌にはセルが「私が自分の手であなたの尻を5ミリほど削ってあげますよ。もっと低く座れるようにね」と言ったことが掲載され、グールドはその言葉が実際にセルから出たことを突き止める。その後セルへの追悼文を掲載した『エスクワイア』誌では「そういうばかばかしいことを止めなければ(椅子の調節に夢中になっているグールドに対して)君の尻の穴に、椅子の脚を一本突っ込みますよ」に変形されていた。
グールドは録音芸術という形態を徹底的に追究した稀に見る音楽家だった。つまり彼は聴衆を排して録音するだけでなく、1曲を構成し仕上げるために準備しておいた多くのテイクを切り貼りして彼が理想とする音楽に近付けた。楽章ごとに異なった時期に録音し、異なったピアノを使ったベートーヴェンのソナタを、あたかも一台の楽器で通し演奏したかのようにグラフィック・イコライザーによって編集することも厭わなかった。しかしそんなことを何の臆面もなく語ること自体、グールドの新時代への音楽への構想が如何に明確で具体的だったかを示しているのではないだろうか。
対話の内容は音楽的な話題を含めてかなり高度で込み入っているが訳出は良くこなれていて理解し易い。また掲載されている少年時代から亡くなる少し前までの多くのスナップ写真は素顔のグールド像を捉えている。エクセントリックでありたいとは思いもよらなかった彼が、自分自身に正直に生きれば生きるほど、逆に他人からはますますエクセントリックに見えてくるというパラドックス的人生がややもすれば滑稽だが、いずれにしてもグールドの演奏は勿論こうしたエピソードを知らなくても充分鑑賞できるし、彼の創造する音響力学からその素晴らしさを感じ取ることも可能だ。しかしながら伝説的に伝えられている彼の表現の源泉を知る上では非常に示唆的な対話集と言えるだろう。
その突出した音楽の才能だけでなく、彼の音楽が知によって創造されているということがこの一冊でよく解る気がする。50歳の誕生日を迎えたばかりの日で、何の前触れも無くこの世を去ったグレングールドという人物のことを私は何一つ解ってはいなかったのだとこの本を読んで感じた。
死して尚、彼の生命力、情熱を感じることが出来るのは必ずしもCDやレコードだけではないと思う。音楽ではない「言葉」で彼の語る彼自身を、彼の中を流れる静かで激しい情熱を、グールドを愛する人、そして音楽を、ピアノを愛する全ての人に是非とも読んでほしい。