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百人一首を楽しくよむ 単行本 – 2002/12/1
井上 宗雄
(著)
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- 本の長さ255ページ
- 言語日本語
- 出版社笠間書院
- 発売日2002/12/1
- ISBN-104305702525
- ISBN-13978-4305702524
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対象商品: 百人一首を楽しくよむ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
和歌研究の第一人者が贈る百人一首鑑賞の決定版。日本古典のエッセンスを凝縮した百人一首を、改めて最新の解釈で読む。百人一首の知られざる魅力を平明に解説する。
登録情報
- 出版社 : 笠間書院 (2002/12/1)
- 発売日 : 2002/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 255ページ
- ISBN-10 : 4305702525
- ISBN-13 : 978-4305702524
- Amazon 売れ筋ランキング: - 531,405位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 31位百人一首 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年11月19日に日本でレビュー済み
#和歌 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき #返歌 #短歌 鹿の声聞いた記憶がない上に奥山道に迷って鳴くに #感想歌 鑑賞の質量ちょうどいいうえに歌枕地図とてもうれしい
2022年8月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
百人一首は不思議な書物である。
いや、本来は定家所有である小倉山荘、あるいはその近傍にあった宇都宮頼綱宅の障子に貼られていた色紙だというから、そもそもが書物ではないのだが。
もっと言うと、あくまでも定家卿が撰んだのは「百人一首」のプロトタイプともいうべき「百人秀歌」であり、「百人一首」は後代の別人による(かつては定家の跡取りの為家とされ、最近ではもう少し後の二条家の誰かだろうという)と研究者によって指摘されている。
ただ、中世後期以降の文化人は、誰もが百人一首を定家撰とみなしてきた、という伝統があるし、一般にも百人一首は定家撰と考えられている。
和歌史の巨頭たる藤原定家によって撰ばれたとされる、百首の歌。
だいたい7世紀から13世紀ぐらいまで、600年ほどの期間の和歌を、ほぼ時代順に並べている。
よく、「百人一首」は和歌の入門編とか代表的名歌選とかいわれるが、実際はそうでもない。
そこに選ばれた歌がその歌人の代表歌や名歌の類ではない場合が多いし、そもそも和歌史上の重要人物ではないこともあるからだ。
もちろん定家の円熟した美意識が反映されてはいるのだろうが、やはり初心者向けでもなければ、皆が認めるだろう秀歌とも言い難い。
では、これは一体何なのか?
私見では、これは「この国の歴史の始まりと終わりを、わずか百首に凝縮したもの」である。
もちろん、日本の歴史はそんなに短くない。
少なくとも、我々が学校で習った日本史の教科書はもっと長いスパンで書かれている。
あくまでも、藤原定家というひとりの公卿から見た始まりと終わり、というのがポイントである。
その始まりは、1天智天皇。
中臣鎌足と組んで、大化の改新を実行した古代の帝王である。
そして鎌足といえば、もちろん藤原姓を賜った初代だ。
藤原氏の名門を自認する定家にとって、この天智天皇と藤原鎌足という組合せはまさしくこの国の始原であり、かつ理想でもある。
蘇我氏に牛耳られていた朝廷。
それを打ち破った天皇による親政と、それを補弼する藤原の宰相。
これこそが定家の考える理想のかたちであり、この国のあるべき姿であり、同時に歴史の原型なのである。
ここから日本の歴史は始まり、あとはこの理想の反復、ないしはそこからの逸脱や失敗が並ぶことになる。
たとえば、24菅原道真、25藤原定方、26藤原忠平の辺りは、これもまたもう一つの理想の聖代であろう。
ただ、肝心の宇多天皇の(またその次代の醍醐天皇の)歌は取り上げられていないが。
その代わり、宇多天皇との確執が噂される陽成院の歌が13首目に採られているのも興味深い。
「延喜の治」とも称されるように、この時代は理想的な政治が行われていた御代である。
その動かぬ確かな証拠として、文化領域における『古今和歌集』という勅撰集の存在を挙げることができる。
天皇のすぐれた治世と、その反映としての文化=和歌の隆盛。
政治史と文化史が共に、配列された「和歌」によって看取できるのがこの「百人一首」の特徴である。
つまり、この100首というのは、政治史的に重要な人物の歌と、文化史的に重要な歌、あるいはそのどちらにおいても重要な歌などが、定家の美意識に則って配置されているのである。
ただし、この取捨選択にはかなり「クセ」があって、たとえば四代にわたって天皇を補佐した大権力者・藤原基経などは政治史上の超重要人物であるが、和歌は収録されていない。
時に天皇をも超えかねない横暴な権力者ぶりが、定家の価値観というか歴史観に合わないのだろう。
なので摂関政治の頂点とされる藤原道長も、同様に採られていない。
というより、どちらかというと歴史的には「敗者」と呼ばれる側の人物に積極的な視線が向けられがちなのも、百人一首の特徴である。
勝者ではなく、勝者によって辛酸をなめさせられた、あるは翻弄されたような人物に光を当て、しかもかえってそのことによって、読者にはその背後にいた権力者の存在を暗示せしめるようになっている。
たとえば、13陽成院は基経によって皇位から早々に引きずりおろされ、14源融は皇籍復帰の望みを基経によって阻まれ、15光孝天皇は基経の意向で晩年思いがけず皇位を手にしている。
そしてこれらの「歴史」は、77崇徳院で一度目の危機を迎える。
「保元の乱」、つまり摂関家も巻き込んだ壮絶な後継争いの結果、崇徳上皇が「島流し」に遭うという歴史上の一大画期である。
かの名僧・慈円によれば、この乱を契機として「武者の世」が到来したとされる。
天皇ないし朝廷と、それを支える貴族の根底が揺らいだ瞬間である。
では、歴史のほんとうの終わりはどこか。
もちろん、99の後鳥羽院である。
承久の乱。
治天の君たる天皇(上皇)が、たかが関東の領主連合のトップに過ぎない、北条という低い身分の武士に敗れ去ってしまった。
義時はそもそも幕府の執権、いわば将軍家の家司であり、天皇から見れば「家来の家来」である。
官位もたかだか従四位下、右京権大夫に過ぎず、公卿ですらない。
保元の乱ではいちおうが天皇同士、摂関家同士の争いだったが、それとは根本的にレベルが異なる。
天皇という唯一無二の存在が、東夷によってこの国の頂点から引きずり下ろされたのである。
朝廷に仕える定家にとって、これが歴史の終わりでなくて何であろうか。
しかも、この後鳥羽院というのは定家にとってすこぶる微妙な存在であった。
院はまこと多方面に才気活発で文武に優れ、しかも和歌においては父・俊成を師とするいわば同門である。
じつは、この人もまた「理想の帝王」になれたかも知れない人物なのだ。
これはレビュワーの想像だが、この才気溢れる天皇を、自分が大臣として補弼していたら…という思いを、定家は心のどこかで抱いていたのではないかと思われる。
定家は、大臣という官職に特別な憧れをもっていた。
しかし、定家の家は御子左流といい、あの道長の子孫ではあるものの、やや傍流で大納言が極官の家格である。
しかも、父の俊成は公卿とはいいながら、皇太后宮大夫と納言にすら至っていないのである。
危機感にも似た旺盛な出世欲もついに満たされることなく、定家自身もどうにか晩年権中納言に昇り、官暦を終えた。
息子の為家が権大納言に昇ることで、どうにか面目を施したが。
院は、定家に和歌の才は認めても、政治の才までは認めてくれなかったのである。
そして、無謀にも開始した北条氏との闘争にあっさり敗れ、流刑先の隠岐で不遇の死を遂げた。
ちなみに百人一首における定家自身の歌(おそらく定家にとって、定家自身もまた政治史、文化史両方における重要人物なのである)は、97「来ぬ人をまつ(待つ/松)…」で始まる幽玄な恋の歌である。
いったい、定家はこの歌で、この「百人一首」で誰を待っているのか?
それは、まさしくこの後鳥羽院であろうと思われてならない。
彼は「みもこがれつつ」後鳥羽院を、というより後鳥羽院と宰相定家がつくり得たかも知れない理想の聖代を、ひっそりと待ち望んでいたのではないか。
すくなくとも文化面においては、彼は聖代の証左たる『新古今和歌集』を、つまり後鳥羽院の命による勅撰集を、撰者の一人として撰び得たのだから。
かくして、彼にとってのあるべき歴史はここに終わったのである(ちなみに100の順徳院は後鳥羽院の子である)。
じっさい、朝廷はこれ以降ある種の「飾り物」として、どうにかその命脈を保っていくことになる。
ただし、先にも触れたが定家卿はかの「百人秀歌」において、実は後鳥羽院と順徳院の歌を採っていない。
当時は鎌倉方が京の動向に目を光らせていた時期だから、後鳥羽院については実質タブーであり、私的な色紙であっても撰ぶのは危険極まりなかった。
そもそもが、百首の選出を依頼した宇都宮蓮生は鎌倉方の武士である。
また、定家は承久の乱という愚行に走った院を冷笑していたフシもある。
なのでレビュワー的には、定家卿の「真意」を汲んだ者が、後に百人一首を撰んだのだと考えたい。
それにしても気がかりなのは、定家がはたして後の建武の新政や、さらに後の王政復古の大号令をどう評価するだろうか、という疑問である。
天皇親政の復活に、心躍らせるのだろうか。
それとも「紅旗征戎、わが事にあらず」(朝敵征伐なんて自分に関係ない)なのだろうか。
そもそも、自身の嫡流が二条家も京極家も江戸期には断絶し、現代まで続くのは冷泉家だけであることを、どう思うだろうか。
まことに興味は尽きない。
いや、本来は定家所有である小倉山荘、あるいはその近傍にあった宇都宮頼綱宅の障子に貼られていた色紙だというから、そもそもが書物ではないのだが。
もっと言うと、あくまでも定家卿が撰んだのは「百人一首」のプロトタイプともいうべき「百人秀歌」であり、「百人一首」は後代の別人による(かつては定家の跡取りの為家とされ、最近ではもう少し後の二条家の誰かだろうという)と研究者によって指摘されている。
ただ、中世後期以降の文化人は、誰もが百人一首を定家撰とみなしてきた、という伝統があるし、一般にも百人一首は定家撰と考えられている。
和歌史の巨頭たる藤原定家によって撰ばれたとされる、百首の歌。
だいたい7世紀から13世紀ぐらいまで、600年ほどの期間の和歌を、ほぼ時代順に並べている。
よく、「百人一首」は和歌の入門編とか代表的名歌選とかいわれるが、実際はそうでもない。
そこに選ばれた歌がその歌人の代表歌や名歌の類ではない場合が多いし、そもそも和歌史上の重要人物ではないこともあるからだ。
もちろん定家の円熟した美意識が反映されてはいるのだろうが、やはり初心者向けでもなければ、皆が認めるだろう秀歌とも言い難い。
では、これは一体何なのか?
私見では、これは「この国の歴史の始まりと終わりを、わずか百首に凝縮したもの」である。
もちろん、日本の歴史はそんなに短くない。
少なくとも、我々が学校で習った日本史の教科書はもっと長いスパンで書かれている。
あくまでも、藤原定家というひとりの公卿から見た始まりと終わり、というのがポイントである。
その始まりは、1天智天皇。
中臣鎌足と組んで、大化の改新を実行した古代の帝王である。
そして鎌足といえば、もちろん藤原姓を賜った初代だ。
藤原氏の名門を自認する定家にとって、この天智天皇と藤原鎌足という組合せはまさしくこの国の始原であり、かつ理想でもある。
蘇我氏に牛耳られていた朝廷。
それを打ち破った天皇による親政と、それを補弼する藤原の宰相。
これこそが定家の考える理想のかたちであり、この国のあるべき姿であり、同時に歴史の原型なのである。
ここから日本の歴史は始まり、あとはこの理想の反復、ないしはそこからの逸脱や失敗が並ぶことになる。
たとえば、24菅原道真、25藤原定方、26藤原忠平の辺りは、これもまたもう一つの理想の聖代であろう。
ただ、肝心の宇多天皇の(またその次代の醍醐天皇の)歌は取り上げられていないが。
その代わり、宇多天皇との確執が噂される陽成院の歌が13首目に採られているのも興味深い。
「延喜の治」とも称されるように、この時代は理想的な政治が行われていた御代である。
その動かぬ確かな証拠として、文化領域における『古今和歌集』という勅撰集の存在を挙げることができる。
天皇のすぐれた治世と、その反映としての文化=和歌の隆盛。
政治史と文化史が共に、配列された「和歌」によって看取できるのがこの「百人一首」の特徴である。
つまり、この100首というのは、政治史的に重要な人物の歌と、文化史的に重要な歌、あるいはそのどちらにおいても重要な歌などが、定家の美意識に則って配置されているのである。
ただし、この取捨選択にはかなり「クセ」があって、たとえば四代にわたって天皇を補佐した大権力者・藤原基経などは政治史上の超重要人物であるが、和歌は収録されていない。
時に天皇をも超えかねない横暴な権力者ぶりが、定家の価値観というか歴史観に合わないのだろう。
なので摂関政治の頂点とされる藤原道長も、同様に採られていない。
というより、どちらかというと歴史的には「敗者」と呼ばれる側の人物に積極的な視線が向けられがちなのも、百人一首の特徴である。
勝者ではなく、勝者によって辛酸をなめさせられた、あるは翻弄されたような人物に光を当て、しかもかえってそのことによって、読者にはその背後にいた権力者の存在を暗示せしめるようになっている。
たとえば、13陽成院は基経によって皇位から早々に引きずりおろされ、14源融は皇籍復帰の望みを基経によって阻まれ、15光孝天皇は基経の意向で晩年思いがけず皇位を手にしている。
そしてこれらの「歴史」は、77崇徳院で一度目の危機を迎える。
「保元の乱」、つまり摂関家も巻き込んだ壮絶な後継争いの結果、崇徳上皇が「島流し」に遭うという歴史上の一大画期である。
かの名僧・慈円によれば、この乱を契機として「武者の世」が到来したとされる。
天皇ないし朝廷と、それを支える貴族の根底が揺らいだ瞬間である。
では、歴史のほんとうの終わりはどこか。
もちろん、99の後鳥羽院である。
承久の乱。
治天の君たる天皇(上皇)が、たかが関東の領主連合のトップに過ぎない、北条という低い身分の武士に敗れ去ってしまった。
義時はそもそも幕府の執権、いわば将軍家の家司であり、天皇から見れば「家来の家来」である。
官位もたかだか従四位下、右京権大夫に過ぎず、公卿ですらない。
保元の乱ではいちおうが天皇同士、摂関家同士の争いだったが、それとは根本的にレベルが異なる。
天皇という唯一無二の存在が、東夷によってこの国の頂点から引きずり下ろされたのである。
朝廷に仕える定家にとって、これが歴史の終わりでなくて何であろうか。
しかも、この後鳥羽院というのは定家にとってすこぶる微妙な存在であった。
院はまこと多方面に才気活発で文武に優れ、しかも和歌においては父・俊成を師とするいわば同門である。
じつは、この人もまた「理想の帝王」になれたかも知れない人物なのだ。
これはレビュワーの想像だが、この才気溢れる天皇を、自分が大臣として補弼していたら…という思いを、定家は心のどこかで抱いていたのではないかと思われる。
定家は、大臣という官職に特別な憧れをもっていた。
しかし、定家の家は御子左流といい、あの道長の子孫ではあるものの、やや傍流で大納言が極官の家格である。
しかも、父の俊成は公卿とはいいながら、皇太后宮大夫と納言にすら至っていないのである。
危機感にも似た旺盛な出世欲もついに満たされることなく、定家自身もどうにか晩年権中納言に昇り、官暦を終えた。
息子の為家が権大納言に昇ることで、どうにか面目を施したが。
院は、定家に和歌の才は認めても、政治の才までは認めてくれなかったのである。
そして、無謀にも開始した北条氏との闘争にあっさり敗れ、流刑先の隠岐で不遇の死を遂げた。
ちなみに百人一首における定家自身の歌(おそらく定家にとって、定家自身もまた政治史、文化史両方における重要人物なのである)は、97「来ぬ人をまつ(待つ/松)…」で始まる幽玄な恋の歌である。
いったい、定家はこの歌で、この「百人一首」で誰を待っているのか?
それは、まさしくこの後鳥羽院であろうと思われてならない。
彼は「みもこがれつつ」後鳥羽院を、というより後鳥羽院と宰相定家がつくり得たかも知れない理想の聖代を、ひっそりと待ち望んでいたのではないか。
すくなくとも文化面においては、彼は聖代の証左たる『新古今和歌集』を、つまり後鳥羽院の命による勅撰集を、撰者の一人として撰び得たのだから。
かくして、彼にとってのあるべき歴史はここに終わったのである(ちなみに100の順徳院は後鳥羽院の子である)。
じっさい、朝廷はこれ以降ある種の「飾り物」として、どうにかその命脈を保っていくことになる。
ただし、先にも触れたが定家卿はかの「百人秀歌」において、実は後鳥羽院と順徳院の歌を採っていない。
当時は鎌倉方が京の動向に目を光らせていた時期だから、後鳥羽院については実質タブーであり、私的な色紙であっても撰ぶのは危険極まりなかった。
そもそもが、百首の選出を依頼した宇都宮蓮生は鎌倉方の武士である。
また、定家は承久の乱という愚行に走った院を冷笑していたフシもある。
なのでレビュワー的には、定家卿の「真意」を汲んだ者が、後に百人一首を撰んだのだと考えたい。
それにしても気がかりなのは、定家がはたして後の建武の新政や、さらに後の王政復古の大号令をどう評価するだろうか、という疑問である。
天皇親政の復活に、心躍らせるのだろうか。
それとも「紅旗征戎、わが事にあらず」(朝敵征伐なんて自分に関係ない)なのだろうか。
そもそも、自身の嫡流が二条家も京極家も江戸期には断絶し、現代まで続くのは冷泉家だけであることを、どう思うだろうか。
まことに興味は尽きない。