本書は、ヴィンセント・スカーリー氏によって、ル・コルビュジエの『建築をめざして』以降で最も重要な書物と紹介されている。なぜなら、ル・コルビュジエが純粋なものを賞賛しているのに対して、正反対のことを述べているが、相互に補いあっているからだ。しばしば、ル・コルビュジエ、ミース、グロピウスに代表される近代建築に対しての、アンチテーゼとして語られることが多い本書だが、実際には、ル・コルビュジエに関しては特に多様性と対立性が見て取れるとして、擁護している。つまり、この本は、「排除されることで得られる安易な統一」に対して否定しているのであって、近代建築全体を批判しているのではない。
純粋主義や機能主義と言われることがある、ル・コルビュジエだけれども、よく見ると、こんなにも多様性と対立性を内包しているんだよ、と教えてくれる。例えば、サヴォア邸の外観は把握している人が多いが、一階の柱がスロープのためにずらされ、「調整された対立性」が見られることや、実は正方形平面にみえて、そうではないという「曖昧さ」があるところなど。近代建築で最もポピュラーと言っても過言ではない、サヴォア邸でさえ知っているとは言えないと思い知らされる。
また、コーリン・ロウが『マニエリスムと近代建築』で、ル・コルビュジエが歴史とつながりを持っていることを示したが、ヴェンチューリも、彼の作品に、過去の建築に見られるような多様性と対立性が見られる事を様々な例を挙げている点で、類似している。(出版はヴェンチューリの方が早い)
このように、本書ではル・コルビュジエに対する見方に彩りを添えているのであって、決して否定はしていない点を理解しなければならないと思う。
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建築の多様性と対立性(SD選書 174) 単行本 – 1982/11/1
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1923年のル・コルビュジエの著作『建築をめざして』以来、建築に関する著作の中で最も重要なものと位置づけられている本書は、近代建築運動の純粋主義に対し、いち早く多様性と対立性を賞揚したヴェンチューリの力作であると同時に、建築界の大きな財産でもある。建築を学ぶ人々の必読の書。
------------------------------
目次
1.ひとひねりした建築—穏やかなマニフェスト
2.多様性と対立性VS単純化または絵画風
3.曖昧さ
4.対立性の諸相—建築における「両者共存」の現象
5.続・対立性の諸相—二重の機能をもつ要素
6.つじつま合わせ、並びに秩序の限界?慣習的な要素
7.調整された対立性
8.並置された対立性
9.内部と外部
10.複雑な全体を獲得する責務
11.作品
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目次
1.ひとひねりした建築—穏やかなマニフェスト
2.多様性と対立性VS単純化または絵画風
3.曖昧さ
4.対立性の諸相—建築における「両者共存」の現象
5.続・対立性の諸相—二重の機能をもつ要素
6.つじつま合わせ、並びに秩序の限界?慣習的な要素
7.調整された対立性
8.並置された対立性
9.内部と外部
10.複雑な全体を獲得する責務
11.作品
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社鹿島出版会
- 発売日1982/11/1
- ISBN-104306051749
- ISBN-13978-4306051744
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商品の説明
出版社からのコメント
アンチモダニズムをいち早く唱え、見た目の単純さではなく“正確な歪み”や対立性を見出した設計論。『ラスベガス』とともに必読。
登録情報
- 出版社 : 鹿島出版会 (1982/11/1)
- 発売日 : 1982/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 256ページ
- ISBN-10 : 4306051749
- ISBN-13 : 978-4306051744
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2018年9月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2009年3月12日に日本でレビュー済み
ある編集者は最近の建築界の思考状況はこの本の状態から変わっていないとも言っていたが、確かに形態レベルでは進化したが思想レベルでは進化をせずに同じ問いを続けているのかもしれない。
一見、単純に多様なものを受け入れようとする考えだと誤解を招くように思えるが「全てを偶然性にゆだねることは許されない。p.81」と考え方を前提にして本書は読み進めて行くべきだと思う。同じような言葉でコルビジェの「システムのない芸術作品などありえない」という言葉を取り上げている。それは「建築家は慣習を用い、それに生気をもたらすべきだと思う。P.83」という考え方にも反映されているだろう。慣習とはまさにシステムであり秩序である。重要なのは偶然性を引入れることと秩序が同時に存立することである。それは本文中のアルド・ファン・アイクの引用に通じるだろう、
「建築とは、明確に規定された媒介空間(残存部分)を形成する事だと考えられている。だからと言って、主空間はほったらかしのままで良いとか、絶えず変転しても良いというのではない。その反対に、空間の連続性を重んずる現行の概念(一種の病気のようなもの)とか、外と内、一つの空間とほかの空間、一つの存在とほかの存在などの、空間相互の間の区分を消滅させてしまおうという傾向とは、はっきり袂を分かつものである。空間相互は、双方にとって重要なものを保ちつつ、明確に規定された媒介空間を介して結びつけられるのだ。その意味で、媒介空間は、反目しあう両極が再び双対現象に帰するような、共通の土壌をもたらすのである」。
p.152-153
秩序を保ち、かつ偶然を受け入れる一つの状態とは「空間相互は、双方にとって重要なものを保ちつつ、明確に規定された媒介空間を介して結びつけられ」ている状態である。ミースのユニバーサルスペースのような多義的な「一」の状態でもなく、コルビジェの純粋幾何学で形成される「明確でしかも曖昧さのない偉大な単純形態」でもない、その中間のような構造を持った空間だと考えられる。そして、中間を形成するのに「残存部分」(媒介空間)が重要になる。まさに、この空間が全体に揺らぎを与え、無境界的な役割を果たす「間」である。
建築の各空間を大小の「間」を介して繋がる、そこでは
両者共存という現象は、より限定するならば、建築における対立性に帰すると言え、一方、対等な組合せは、統一に帰するのだ。
p.186
という大きく分けて「両者共存」と「対等な組合せ」という「対立性」と「統一性」を引き起こす二つの空間の組合せ手法/力が示される。多様性はこの二つの力によって保持される性質だと言えるだろう。それは以下のような説明で槙さんの「グループ・フォーム」とも繋がる。
ポポロ広場の双子の教会堂の各々は、プログラムの段階では完成しているが、形態表現の段階では未完成だと言える。先述した通り、非対称の位置に付けられた塔が、各々の教会堂を、より大きな全体へ屈曲しているのだ複雑な建物でありながら、それ自体をとると不完全であるようなものは、槙の言う「グループ・フォーム」に該当する。それは、「完璧な建物」もしくは孤立したパヴィリオンの反対のものである。
p.191
重要なのは「未完成」を成立させるための秩序(建築) そのような視点なのではないか?と思った。
そして、多様な形態を生み出す、という視点では現在行なわれるコンピュータプログラミングによる形態生成もヴェンチューリの頃から行なわれる形態生成も多様性の概念が本質的には同じ概念で作られているように思われる。そういう意味では、「モノの多様性と対立性」という感じがする。しかし、ここで述べられている考え方は「モノゴトの多様性と対立性」を考える上でも重要な知見を秘めているように思える。
そういう点で考えると、同時期にG・ベイトソンが精神の生態学を世に送り出していたと言う事実は興味深いように思える。
一見、単純に多様なものを受け入れようとする考えだと誤解を招くように思えるが「全てを偶然性にゆだねることは許されない。p.81」と考え方を前提にして本書は読み進めて行くべきだと思う。同じような言葉でコルビジェの「システムのない芸術作品などありえない」という言葉を取り上げている。それは「建築家は慣習を用い、それに生気をもたらすべきだと思う。P.83」という考え方にも反映されているだろう。慣習とはまさにシステムであり秩序である。重要なのは偶然性を引入れることと秩序が同時に存立することである。それは本文中のアルド・ファン・アイクの引用に通じるだろう、
「建築とは、明確に規定された媒介空間(残存部分)を形成する事だと考えられている。だからと言って、主空間はほったらかしのままで良いとか、絶えず変転しても良いというのではない。その反対に、空間の連続性を重んずる現行の概念(一種の病気のようなもの)とか、外と内、一つの空間とほかの空間、一つの存在とほかの存在などの、空間相互の間の区分を消滅させてしまおうという傾向とは、はっきり袂を分かつものである。空間相互は、双方にとって重要なものを保ちつつ、明確に規定された媒介空間を介して結びつけられるのだ。その意味で、媒介空間は、反目しあう両極が再び双対現象に帰するような、共通の土壌をもたらすのである」。
p.152-153
秩序を保ち、かつ偶然を受け入れる一つの状態とは「空間相互は、双方にとって重要なものを保ちつつ、明確に規定された媒介空間を介して結びつけられ」ている状態である。ミースのユニバーサルスペースのような多義的な「一」の状態でもなく、コルビジェの純粋幾何学で形成される「明確でしかも曖昧さのない偉大な単純形態」でもない、その中間のような構造を持った空間だと考えられる。そして、中間を形成するのに「残存部分」(媒介空間)が重要になる。まさに、この空間が全体に揺らぎを与え、無境界的な役割を果たす「間」である。
建築の各空間を大小の「間」を介して繋がる、そこでは
両者共存という現象は、より限定するならば、建築における対立性に帰すると言え、一方、対等な組合せは、統一に帰するのだ。
p.186
という大きく分けて「両者共存」と「対等な組合せ」という「対立性」と「統一性」を引き起こす二つの空間の組合せ手法/力が示される。多様性はこの二つの力によって保持される性質だと言えるだろう。それは以下のような説明で槙さんの「グループ・フォーム」とも繋がる。
ポポロ広場の双子の教会堂の各々は、プログラムの段階では完成しているが、形態表現の段階では未完成だと言える。先述した通り、非対称の位置に付けられた塔が、各々の教会堂を、より大きな全体へ屈曲しているのだ複雑な建物でありながら、それ自体をとると不完全であるようなものは、槙の言う「グループ・フォーム」に該当する。それは、「完璧な建物」もしくは孤立したパヴィリオンの反対のものである。
p.191
重要なのは「未完成」を成立させるための秩序(建築) そのような視点なのではないか?と思った。
そして、多様な形態を生み出す、という視点では現在行なわれるコンピュータプログラミングによる形態生成もヴェンチューリの頃から行なわれる形態生成も多様性の概念が本質的には同じ概念で作られているように思われる。そういう意味では、「モノの多様性と対立性」という感じがする。しかし、ここで述べられている考え方は「モノゴトの多様性と対立性」を考える上でも重要な知見を秘めているように思える。
そういう点で考えると、同時期にG・ベイトソンが精神の生態学を世に送り出していたと言う事実は興味深いように思える。
2014年1月20日に日本でレビュー済み
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Venturiのいう'contradiction'は、建築の中で相対するものが止揚する様態を述べたものである。本書の'contradiction"は、徒に際立つことなく(ambiguity)、共存し合い(both-and)、互いの意味を共有し、受け容れ(accommodate)、融合し(adapte)、相互に随順(inflection)するなど、極めて仲の良い間柄にあり、対立する要素さえも強引に隣り合わせる(superadjacency)のである。ゲバ棒を振り回して体制に立ち向う「対立性」は、ここにはない。むしろ、一見矛盾しながらも高め合う「相対性」である。
第1章で使われている、'whole'と'totality'について、辞書によると、'whole'は、「欠けた部分のない全体」、'totality'は、「個々のものを合わせた結果としての全体」となっている。即ち、'whole'は、外的要因からの全体、つまり、内容を受け容れる容器であり、'totality'は、内的要因からの総体、つまり、内容それ自体の総体である。それ故に、'whole'は、容器の輪郭、或いは容器相互の関係を示すもので、その中の内容を示すものではない。逆に、'totality'は、内から観た内容を示すもので、その外との関係を示すものではない。従って、'whole'と'totality'は、同じ事象を外から観た場合と、内から観た場合との相対である。亦、第六章最終行の"the circumstantial and the contextual"は、「外的要件」と「内的要件」との相対である。Venturiは、第九章の結びに、'whole'と'totality'、或いは'the circumstantial'と'the contextual'を堅牢な壁で分けるべきであるとしている。この壁の在り方が、ギリシャ、イタリアと繋がる西洋建築と伝統的日本建築との基本的な違いである。つまり、自然界と対抗することで在る西洋建築と、自然と伴に在ろうとする日本建築との相対を為すものである。
第二章の"less is more"についての本書訳は、龍安寺の枯山水に馴染んでいる日本人としては間の抜けた訳(p-38.,4行目)である。後に続く"Less is a bore"のためであろうが、徒に、VenturiとMiesとの対立を煽っているだけである。本章に於けるMiesの別邸(pavilion)と、住宅(house)との比較は、意味がない。別邸或いは離宮は、世間の喧騒や煩わしい家事から離れて、最小限度の人工物と伴に自然と戯れるためのものである。即ち、有形の饒舌さを棄て(less)て、無形の豊かさを満たす(more)ものである。この様な建築と住むための建築(domestic architecture)を並置することは、お門違いであり、Venturiが有形の物にしか関心を向けることができないことを示すものである。
建築における無形の豊かさは、そこで生活する人に委されるべきものであり、彼や此やと説明すればするほど(more)、それは嫌味にになり、精神的な豊かさは貧しく(less)なる。「多様なほど、賑やかで、面白い」かも知れないが、「多様なほど、煩わしい」でもある。
有形の饒舌さを棄てる(less)ことは、朧気(曖昧)であること(ambiguity)になる。「ひたすら不完全を崇拝し、故意に物を未完成の侭にしておいて、人の想像にその完全を委ねる......[岡倉覚三「茶の本」]」、日本の空き屋(数寄屋)[pavilion]は、第三章にVenturiが提示する意図した朧気(曖昧)であること(ambiguity)に溢れている。この小さな庵(pavilion)だけでなく、日本の住宅は、欧米の住宅と比較すると、総ての点で朧気で、多様性を許容する空間であるといえる。「(日本の建築は)、西洋式の何もかもが常に出っぱなしになっている(機能を限定している)のではなく、必要のない時はしまう所を作り、生活する空間を空けることである。」[F. L. Wright; Organic Architecture And The Orient (1954) 訳;遠藤 楽(ライトの住宅:彰国社)]の様に、多様な機能を受け容れることができる。
第九章の緩衝帯(lining space)についても、日本建築の長く突き出した軒先の空間や縁側の空間は、それに続く座敷の緩衝帯(lining)であり、「空間の中の空間」を朧気に(ambiguous)構成するものでもある。内外を流動する空間は、人の生活を自然と伴に在ろうとする日本建築では当たり前のことである。これもまた、自然を人の生活と対立するものとして扱う西洋の世界観と相対するものである。
世にある総ての事象は、様々な因果関係に依って成り立っているが、個々の事象は、その固有の必然性に基づいて存在し、その存在の大きさと方向性を示す固有のベクトルを持っている。それらを並置するとき、そこには相対関係が発生する。つまり、美しいものが在って醜いものがあり、静なるものが在って、動なるものがあり、貧しいものが在るからこそ、豊かなものがあるのである。物体がそれを包む空間があって存在する様に、相対関係によって、その存在を把握することができるのである。Venturiも第六章に、「平凡さと煩雑さの両面をもつ陳腐なものが在るから、新しい建築が在るのであり、逆に、新しい建築が在るから、陳腐なものがあるのである。」[本書訳p-84 8〜11行目]と、その相対関係を示している。この様に、相対関係は、どちらかが良くて、どちらかが悪いというのではなく、そのどちらかにとって相対するもう一方は、腹と背、或いは表裏一体のものである。建築は、これら相対するものを一つの全体とするものであるから、これら多様な事象を一義的な形態に押し込むのではなく、多義の要素を仲良く、止揚させた方が豊かな建築になるとVenturiは、言いたいのである。所謂近代建築論から進歩したものといえる。本訳者に実践的経験の無さを感じるため、星三つとする。
第1章で使われている、'whole'と'totality'について、辞書によると、'whole'は、「欠けた部分のない全体」、'totality'は、「個々のものを合わせた結果としての全体」となっている。即ち、'whole'は、外的要因からの全体、つまり、内容を受け容れる容器であり、'totality'は、内的要因からの総体、つまり、内容それ自体の総体である。それ故に、'whole'は、容器の輪郭、或いは容器相互の関係を示すもので、その中の内容を示すものではない。逆に、'totality'は、内から観た内容を示すもので、その外との関係を示すものではない。従って、'whole'と'totality'は、同じ事象を外から観た場合と、内から観た場合との相対である。亦、第六章最終行の"the circumstantial and the contextual"は、「外的要件」と「内的要件」との相対である。Venturiは、第九章の結びに、'whole'と'totality'、或いは'the circumstantial'と'the contextual'を堅牢な壁で分けるべきであるとしている。この壁の在り方が、ギリシャ、イタリアと繋がる西洋建築と伝統的日本建築との基本的な違いである。つまり、自然界と対抗することで在る西洋建築と、自然と伴に在ろうとする日本建築との相対を為すものである。
第二章の"less is more"についての本書訳は、龍安寺の枯山水に馴染んでいる日本人としては間の抜けた訳(p-38.,4行目)である。後に続く"Less is a bore"のためであろうが、徒に、VenturiとMiesとの対立を煽っているだけである。本章に於けるMiesの別邸(pavilion)と、住宅(house)との比較は、意味がない。別邸或いは離宮は、世間の喧騒や煩わしい家事から離れて、最小限度の人工物と伴に自然と戯れるためのものである。即ち、有形の饒舌さを棄て(less)て、無形の豊かさを満たす(more)ものである。この様な建築と住むための建築(domestic architecture)を並置することは、お門違いであり、Venturiが有形の物にしか関心を向けることができないことを示すものである。
建築における無形の豊かさは、そこで生活する人に委されるべきものであり、彼や此やと説明すればするほど(more)、それは嫌味にになり、精神的な豊かさは貧しく(less)なる。「多様なほど、賑やかで、面白い」かも知れないが、「多様なほど、煩わしい」でもある。
有形の饒舌さを棄てる(less)ことは、朧気(曖昧)であること(ambiguity)になる。「ひたすら不完全を崇拝し、故意に物を未完成の侭にしておいて、人の想像にその完全を委ねる......[岡倉覚三「茶の本」]」、日本の空き屋(数寄屋)[pavilion]は、第三章にVenturiが提示する意図した朧気(曖昧)であること(ambiguity)に溢れている。この小さな庵(pavilion)だけでなく、日本の住宅は、欧米の住宅と比較すると、総ての点で朧気で、多様性を許容する空間であるといえる。「(日本の建築は)、西洋式の何もかもが常に出っぱなしになっている(機能を限定している)のではなく、必要のない時はしまう所を作り、生活する空間を空けることである。」[F. L. Wright; Organic Architecture And The Orient (1954) 訳;遠藤 楽(ライトの住宅:彰国社)]の様に、多様な機能を受け容れることができる。
第九章の緩衝帯(lining space)についても、日本建築の長く突き出した軒先の空間や縁側の空間は、それに続く座敷の緩衝帯(lining)であり、「空間の中の空間」を朧気に(ambiguous)構成するものでもある。内外を流動する空間は、人の生活を自然と伴に在ろうとする日本建築では当たり前のことである。これもまた、自然を人の生活と対立するものとして扱う西洋の世界観と相対するものである。
世にある総ての事象は、様々な因果関係に依って成り立っているが、個々の事象は、その固有の必然性に基づいて存在し、その存在の大きさと方向性を示す固有のベクトルを持っている。それらを並置するとき、そこには相対関係が発生する。つまり、美しいものが在って醜いものがあり、静なるものが在って、動なるものがあり、貧しいものが在るからこそ、豊かなものがあるのである。物体がそれを包む空間があって存在する様に、相対関係によって、その存在を把握することができるのである。Venturiも第六章に、「平凡さと煩雑さの両面をもつ陳腐なものが在るから、新しい建築が在るのであり、逆に、新しい建築が在るから、陳腐なものがあるのである。」[本書訳p-84 8〜11行目]と、その相対関係を示している。この様に、相対関係は、どちらかが良くて、どちらかが悪いというのではなく、そのどちらかにとって相対するもう一方は、腹と背、或いは表裏一体のものである。建築は、これら相対するものを一つの全体とするものであるから、これら多様な事象を一義的な形態に押し込むのではなく、多義の要素を仲良く、止揚させた方が豊かな建築になるとVenturiは、言いたいのである。所謂近代建築論から進歩したものといえる。本訳者に実践的経験の無さを感じるため、星三つとする。
2005年5月11日に日本でレビュー済み
~コルビュジェの『建築をめざして』以降、最も重要な建築書の中の一つであると賞賛され、『ラスベガス』と並ぶヴェンチューリの名著である。彼は、秩序とは必ずしも整然としているものではなく、真の秩序とはその中に多様性と対立性を包含しているものである、としている。純粋主義に基づく近代建築の「意味の明快さ」に対するアンチテーゼとしての多様性と対~~立性とは、その多様さや対立を包むがゆえの「意味の豊富さ」である。マニエリスム建築を中心とする豊富な図版によるデザイン原理の解説は、ファサードデザインの範疇に限らず現在なお幅広い多様な解釈が可能である。これを読まずして現代建築は語れないと言える「マスト」な一冊である。~