高校生のとき、読んだ。
「こんな文で金、もらえるのか!?」
田舎のオタクには衝撃だった。小説って、もっとこう、丁寧で有意義なのでは?
しかも、書きたくない?ええ?
でも、今思えば、芥川賞とか直木賞の本よりも、驚きは大きかった。(よく考えたら、立派な小説を書こうとすることは陳腐だから)
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マリ&フィフィの虐殺ソングブック 単行本 – 1998/9/1
中原 昌也
(著)
- 本の長さ125ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日1998/9/1
- ISBN-104309012388
- ISBN-13978-4309012384
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
絶望的状況の中で繰り出されるイイ加減なコトバ、絶対に予想できないオチ、かなりナンセンスなのに何かを「あらわ」にする物語。「路傍の墓石」「血で描かれた野獣の自画像」など12の短篇を収録。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (1998/9/1)
- 発売日 : 1998/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 125ページ
- ISBN-10 : 4309012388
- ISBN-13 : 978-4309012384
- Amazon 売れ筋ランキング: - 630,101位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 14,352位日本文学
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年1月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これを短編小説といっていいものか、ショートショートと呼ぶべきか。
ショートショートなら何らかのオチがあってよさそうなものだが、そんなものは完全無視。
物語性など犬に食わせろ。
頭の中の妄想の一部を抜き出し、それを即興演奏のように高らかに鳴り響かせたかと思うやいなや、その残響の中ばっさり終わる。
あまりのあっけない終結に、次の作品になにか続きや関連があるのかと思いきや、他の作品になんらの関連性がない。
まるで素人かと思わせるような、あまりに凡庸な比喩や形容詞の合間に、突如ぐいっと食い込ませる台詞の数々。
なんなんだこれは。
文学を超えた新しいジャンルなのか。
そう、本作は万人にお勧めできる作品集ではない。
だが、このワケの分からぬ狂気の作品集には捨て置けぬ魅力がある。
特に、本作の中の一品「血で描かれた野獣の自画像」に登場する、異臭を放ち、時折”ギェッ、グェー”と不快な鳴き声を出し、身体中からぬめぬめした粘液を出している得体の知れない動物の登場シーンなどには、思わずイヒヒと一人笑いしてしまう。
ショートショートなら何らかのオチがあってよさそうなものだが、そんなものは完全無視。
物語性など犬に食わせろ。
頭の中の妄想の一部を抜き出し、それを即興演奏のように高らかに鳴り響かせたかと思うやいなや、その残響の中ばっさり終わる。
あまりのあっけない終結に、次の作品になにか続きや関連があるのかと思いきや、他の作品になんらの関連性がない。
まるで素人かと思わせるような、あまりに凡庸な比喩や形容詞の合間に、突如ぐいっと食い込ませる台詞の数々。
なんなんだこれは。
文学を超えた新しいジャンルなのか。
そう、本作は万人にお勧めできる作品集ではない。
だが、このワケの分からぬ狂気の作品集には捨て置けぬ魅力がある。
特に、本作の中の一品「血で描かれた野獣の自画像」に登場する、異臭を放ち、時折”ギェッ、グェー”と不快な鳴き声を出し、身体中からぬめぬめした粘液を出している得体の知れない動物の登場シーンなどには、思わずイヒヒと一人笑いしてしまう。
2015年11月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中原昌也が大嫌いだった。
著作を購読して、後悔した。
形骸化した現代の物語を、陳腐なる表現を濫用して、皮肉に再現することで、平凡で無力なる執筆者たちを虚仮にしてゆく露悪趣味や、掌編小説ともいわれる分量の物語を、中途半端に破壊して終焉させる、陰湿なる創作上の暴力といえるような作品の繰替えしに、神経をさかなでされていた。
斯様に、白眼視していた中原昌也文學が、鳥渡したきっかけで、《たのしめる》ようになった。鳥渡したきっかけというのは、ソローキンの短編集『愛』である。世界文學史上最大の変態作家にして、ノーベル文学賞の有力候補と見做されているソローキンの、《愛》などみじんもかんじられない作品集『愛』のなかでは、十九世紀露西亜文學を髣髴とさせる牧歌的な物語が、端正なる文軆で叙述されてゆき、唐突なる登場人物の狂癲、性的倒錯、不気味な暴力、無慙なる殺戮などで中断され、近現代文學への《死亡通知》がなされる。中原昌也自身が、ソローキンの新作の帯に《あこがれます》などと寄稿しているように、ソローキンを讀むと、中原昌也が《なにをしたいのか》がはっきりとわかるのである。
同時に、中原昌也を鑽仰する評者たちの気持ちも、そこそこ、わかるようになった。三島賞の選評にて、福田和也氏が、おなじく、『あらゆる場所に花束が… (新潮文庫)』の解説にて、渡部直己氏が指摘したように、中原昌也文學を文學史上において定義すると、ヌーヴォー・ロマンの傍流ともいえる。ヌーヴォー・ロマンの基本概念は、《文學は最早、書きつくされたのだから、廃墟となった文學をもやしつくそう》ということであり、ビュトールの二人称小説や、ロブ=グリエのアンチ・クライマックス、クロード・シモンの何頁にもわたるセンテンスというような異常なる文學的挑戦に代表される。
ヌーヴォー・ロマンの文豪たちが、《文學の廃墟》を《大火災》で灰燼に帰したのならば、中原昌也は、《大火事でのこった文學の瓦礫》で、《ぼやさわぎ》をおこしているようなものだ――ソローキンは、《虫螻一匹いなくなった文學の廃墟》に、《なおも、大量破壊兵器を投下しよう》としているわけだが――。斯様なる文脈において、中原昌也の文學的挑戦は、《できることならば、だれも満足しない小説を書きたい》という独自なものとなった。
といえども、中原昌也文學を、ヌーヴォー・ロマンなどとして、単純明快に文學史上において定義することは、厳密には難儀である。《すべてのテキストに吐き気がする》というソローキンのテキストが、ソローキン文學としかいえないように、ソローキンに蠱惑された中原昌也も、中原昌也文學としかいえないふしがある。ソローキンが、《過去の文學たちの墓標まで破壊》しつくそうとしているのならば、中原昌也には、《過去の文學の墓標に、一輪ずつ花束をささげてゆく》くらいのやさしさがある、というと、中原昌也への冒瀆になるだろうか。
デビューから現在まで、中原昌也文學の姿勢は一貫しているようだ。
ゆえに、総論として、星五点を中原昌也氏の全文學活動にささげたい。
著作を購読して、後悔した。
形骸化した現代の物語を、陳腐なる表現を濫用して、皮肉に再現することで、平凡で無力なる執筆者たちを虚仮にしてゆく露悪趣味や、掌編小説ともいわれる分量の物語を、中途半端に破壊して終焉させる、陰湿なる創作上の暴力といえるような作品の繰替えしに、神経をさかなでされていた。
斯様に、白眼視していた中原昌也文學が、鳥渡したきっかけで、《たのしめる》ようになった。鳥渡したきっかけというのは、ソローキンの短編集『愛』である。世界文學史上最大の変態作家にして、ノーベル文学賞の有力候補と見做されているソローキンの、《愛》などみじんもかんじられない作品集『愛』のなかでは、十九世紀露西亜文學を髣髴とさせる牧歌的な物語が、端正なる文軆で叙述されてゆき、唐突なる登場人物の狂癲、性的倒錯、不気味な暴力、無慙なる殺戮などで中断され、近現代文學への《死亡通知》がなされる。中原昌也自身が、ソローキンの新作の帯に《あこがれます》などと寄稿しているように、ソローキンを讀むと、中原昌也が《なにをしたいのか》がはっきりとわかるのである。
同時に、中原昌也を鑽仰する評者たちの気持ちも、そこそこ、わかるようになった。三島賞の選評にて、福田和也氏が、おなじく、『あらゆる場所に花束が… (新潮文庫)』の解説にて、渡部直己氏が指摘したように、中原昌也文學を文學史上において定義すると、ヌーヴォー・ロマンの傍流ともいえる。ヌーヴォー・ロマンの基本概念は、《文學は最早、書きつくされたのだから、廃墟となった文學をもやしつくそう》ということであり、ビュトールの二人称小説や、ロブ=グリエのアンチ・クライマックス、クロード・シモンの何頁にもわたるセンテンスというような異常なる文學的挑戦に代表される。
ヌーヴォー・ロマンの文豪たちが、《文學の廃墟》を《大火災》で灰燼に帰したのならば、中原昌也は、《大火事でのこった文學の瓦礫》で、《ぼやさわぎ》をおこしているようなものだ――ソローキンは、《虫螻一匹いなくなった文學の廃墟》に、《なおも、大量破壊兵器を投下しよう》としているわけだが――。斯様なる文脈において、中原昌也の文學的挑戦は、《できることならば、だれも満足しない小説を書きたい》という独自なものとなった。
といえども、中原昌也文學を、ヌーヴォー・ロマンなどとして、単純明快に文學史上において定義することは、厳密には難儀である。《すべてのテキストに吐き気がする》というソローキンのテキストが、ソローキン文學としかいえないように、ソローキンに蠱惑された中原昌也も、中原昌也文學としかいえないふしがある。ソローキンが、《過去の文學たちの墓標まで破壊》しつくそうとしているのならば、中原昌也には、《過去の文學の墓標に、一輪ずつ花束をささげてゆく》くらいのやさしさがある、というと、中原昌也への冒瀆になるだろうか。
デビューから現在まで、中原昌也文學の姿勢は一貫しているようだ。
ゆえに、総論として、星五点を中原昌也氏の全文學活動にささげたい。
2011年10月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中原昌也氏の名前だけは長く知っていたのだがこの度初めて処女作集を読了。まず面白い。そして著者の現実へと唾棄の感覚と恐怖がない交ぜとなった感受性は、日本の純文学の中ではなかなか見当たらない稀有なものだ。中原氏は山田詠美、高橋源一郎両氏によるゲスト対談本
顰蹙文学カフェ (講談社文庫)
の中で「小説書いてもいいことなんか全然ない」「お金にもならない」とネガティブな発言ばかりが目立つ。本書の脱リアリズムと実験性は彼自身の『現実なんて馬鹿馬鹿しい。だけど怖いし得体が知れない』といった類の恐らくは凄まじい嫌悪と恐怖から派生した、中原氏にとってはある意味「選択のしようがないリアリズム」なのだろう。著者は間違いなく自身の生理から出発し、その意識と才能に忠実に小説を書いている。現在は執筆活動を中断していると仄聞したが、この才能は惜しい。日本におけるトマス・ピンチョンやドン・デリーロにもなりそうな資質を持った中原氏には一念発起して凄い長編を書いて欲しい。まあ、この作風じゃお金にはなりそうにないけど・・・。
2015年1月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
たとえば、興味がないテレビを観るともなくつけていても、部分的にピントが合うかのように一瞬引き付けられる瞬間があるものだ。しかし、この作品にそのような瞬間は無かった。まるで子供の落書きを観賞している気分だった。解説では'天才'や'芥川賞を取れる'などと絶賛されている。この作品のどこがどのように評価されているのだろう。町田康を読んだ時と似た感触だった。今の私の好みには合わなかった。この作品がずっと気になっていて購入してしまったわけだが、的確な書評に出会えなかったことも原因だろう。'これを読んだらもう死んでもいい'という感想には驚愕だ。
2015年5月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
褒めています。読み終わって数年経ちましたが今でも時折り話題にしています。それだけインパクトがあったのでしょう。
2015年2月28日に日本でレビュー済み
この本の前に読んだもの
芥川龍之介 地獄変・偸盗(短編集)
阿部和重 グランド・フィナーレ
中村文則 掏摸
(物語の筋や結末などに触れています。)
文芸といったものに挑んでいる、或いは、籠絡しようとしている。
「ブラスバンドを加えての歌合戦。」この短編集の冒頭『路傍の墓石』は七五調の一文にはじまる。
「歌合戦」と「書類」は、言葉を支点としての対照、行為者と観察者、実践と観念を連想させ、語り手の焦りは近代文学の憂鬱を象徴する。が、その刹那、銃声が遮る。そして/しかし、その銃声は、空砲だった。
「空砲」のイメージ。これはこの短編集を象徴している。暴力的であり、強制力を持ち、唐突である空砲。しかし、弾丸はなく何も壊されない(実際は、危険であるが)。現実世界では音は薄れ行くけれども、人々の記憶には衝撃が残る。
「『研ぎ澄まされた判断力』を持つ冷静な人」は、知識人といったものか、或いは、神の視点を意味するか。終盤の美術教師に対応するように思う。
カフェの教師達と美術教師は、対照だ。カフェの教師は、貶め標準化を迫る。(主人公は、真面目に対話したことを、後悔する。)美術教師は、性の開放を目論み、おずおずと不良少年と共感する(主人公により夢想される)。
この短編『路傍の墓石』の終わりを見てみる。
ジーンズの下の「完全な勃起」と「黒人の野生的なエロス」は、ローリング・ストーンズのアルバム「スティッキー・フィンガーズ」のジャケットと、その一曲目の「ブラウン・シュガー」を連想させる。セックス(乱交・異人種間性交・クンニリングスなど)、ドラック(ヘロイン)、奴隷制、サドマゾを軽快に歌う曲。「俺は別段、人前で勃起することが恥ずかしいとは思わないのだが。」と、タブーから逃れる。(ここに晩年のフーコーが見えるとは、言い過ぎか。)
また、「完全な勃起」は、冒頭の「不完全な書類」と対応する。言葉を弄ぶ傍観者が、「馬の絵」と「主任教師との空想上の会話」とに感応し勃起する。(空砲ではなく)突然の哄笑が興っても、勃起するのが当然だと言うように。世界との関係が、言葉ではなく、生理的反応によって示される。
山本有三の『路傍の石』(1937〜38)と読み比べても良いだろう。(教師や絵についての挿話がある。主人公の吾一は、「……」が示すように、環境からの影響によって行動が促されているように見える。)
芥川龍之介 地獄変・偸盗(短編集)
阿部和重 グランド・フィナーレ
中村文則 掏摸
(物語の筋や結末などに触れています。)
文芸といったものに挑んでいる、或いは、籠絡しようとしている。
「ブラスバンドを加えての歌合戦。」この短編集の冒頭『路傍の墓石』は七五調の一文にはじまる。
「歌合戦」と「書類」は、言葉を支点としての対照、行為者と観察者、実践と観念を連想させ、語り手の焦りは近代文学の憂鬱を象徴する。が、その刹那、銃声が遮る。そして/しかし、その銃声は、空砲だった。
「空砲」のイメージ。これはこの短編集を象徴している。暴力的であり、強制力を持ち、唐突である空砲。しかし、弾丸はなく何も壊されない(実際は、危険であるが)。現実世界では音は薄れ行くけれども、人々の記憶には衝撃が残る。
「『研ぎ澄まされた判断力』を持つ冷静な人」は、知識人といったものか、或いは、神の視点を意味するか。終盤の美術教師に対応するように思う。
カフェの教師達と美術教師は、対照だ。カフェの教師は、貶め標準化を迫る。(主人公は、真面目に対話したことを、後悔する。)美術教師は、性の開放を目論み、おずおずと不良少年と共感する(主人公により夢想される)。
この短編『路傍の墓石』の終わりを見てみる。
ジーンズの下の「完全な勃起」と「黒人の野生的なエロス」は、ローリング・ストーンズのアルバム「スティッキー・フィンガーズ」のジャケットと、その一曲目の「ブラウン・シュガー」を連想させる。セックス(乱交・異人種間性交・クンニリングスなど)、ドラック(ヘロイン)、奴隷制、サドマゾを軽快に歌う曲。「俺は別段、人前で勃起することが恥ずかしいとは思わないのだが。」と、タブーから逃れる。(ここに晩年のフーコーが見えるとは、言い過ぎか。)
また、「完全な勃起」は、冒頭の「不完全な書類」と対応する。言葉を弄ぶ傍観者が、「馬の絵」と「主任教師との空想上の会話」とに感応し勃起する。(空砲ではなく)突然の哄笑が興っても、勃起するのが当然だと言うように。世界との関係が、言葉ではなく、生理的反応によって示される。
山本有三の『路傍の石』(1937〜38)と読み比べても良いだろう。(教師や絵についての挿話がある。主人公の吾一は、「……」が示すように、環境からの影響によって行動が促されているように見える。)
2016年12月19日に日本でレビュー済み
世の中への憎悪や怒り、常識や良識への挑発。ここまで純粋な悪意で書かれた小説も珍しい。
しかもそのくせ凄いチャーミングだからムカつく(笑い)
しかもそのくせ凄いチャーミングだからムカつく(笑い)