純文学大好きそう。
決して一般向けじゃないし、作者自身も一部の人だけに書いたと言い切っています。『ブス』がメタファであることですらわからず、そのままとっちゃうような馬鹿は読まなくていい、ということですね。
じゃあ、なんで最後に自作品の解説をつけちゃうのでしょう? 徹底的な矛盾だ。批評家がいないと言われてしばらく、たしかに、この作品をまともに批評できる人はいないのかもしれない。でも、だから自分で自分の作品を解説するか? テーマやメッセージを言い切ってわかりやすく解説することは、『文学』じゃあないはず。
でも、笙野頼子はそれもわかっている。だから、最後の最後で虚構の自分に自分を罵倒させている。自作品を自作品の中で批評しているという事実こそが、今の純文学の抱える脆弱性の批判となっているんだ。
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絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男 単行本 – 2006/4/21
笙野 頼子
(著)
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2006/4/21
- ISBN-104309017584
- ISBN-13978-4309017587
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登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2006/4/21)
- 発売日 : 2006/4/21
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 208ページ
- ISBN-10 : 4309017584
- ISBN-13 : 978-4309017587
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,541,009位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 36,429位日本文学
- カスタマーレビュー:
著者について
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1956年三重県生まれ。立命館大学法学部卒業。81年「極楽」で群像新人文学賞を受賞しデビュー。91年『なにもしてない』で野間文芸新人賞、94年 「二百回忌」で三島賞、同年「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞、2001年『幽界森娘異聞』で泉鏡花文学賞、04年『水晶内制度』でセンス・オ ブ・ジェンダー大賞、05年『金毘羅』で伊藤整文学賞、以上の各賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 海底八幡宮 (ISBN-13: 978-4309019376 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2006年7月23日に日本でレビュー済み
“これは夢ではない。ふと気が付くと、私は「若く」、「美しく」、「有名」になっていた。/しかも「痩せ」ていた”……って、凄いですけど、この書き出し。今までの小説の前提が全て覆されてしまったのだから。もちろん「私」こと八百木千本あらため(させられ)美ガ原キレ子は、そんな変化を受容しない。監禁され、痴漢野郎……じゃなかった知感野労共のプロポーズメールを浴びせられながらも(げーっ)、反権力の闘いの手を緩めない!
「説教師カニバットと百人の危ない美女」の続編であるこの作品において、“誇り高く、野太い、反逆ブス”作家・八百木はひとつの壁に突き当たる。年を取ってきた、という事実だ。“ある種の男”にとってはブスだろうが美人だろうが“ばばーは全部ばばー”なのだから。これまで八百木は、ブス道を究めることでブスを相対化し、ブスを否定する男たちと文学を通して闘い続けてきた。だからこの作品は、いわゆるブスが美人になって幸せになる変身譚(もちろんそこには素敵な王子様が)の全否定であることは確か。そこに、ブス道を究めることの困難、他人への嫉妬と無責任と捩れたプライドで弱者を抑圧する男たち、判らないものはなかったことにする評論家たち、そして幼女の身体を「部分」としてしか見ない変態ロリコンたち……とさまざまなテーマが、笙野文体で疾走する。一読しただけでは理解できない部分もあるが、それこそファンにとっては望むところだ。
末尾の書き下ろし「八百木千本様へ笙野頼子より」は、笙野氏本人による、最近作の交通整理のような解説。文壇・論壇での“日本の精神世界にはびこる最近の馬鹿げた無責任と現実感覚の喪失”に対する怒りには、強く共感する。特に某文芸誌上での合評には、呆れ果て激怒していたので、笙野氏本人の実名攻撃に溜飲下ったよ。疾走し続ける笙野氏に、ただもうついて行くのみ!
「説教師カニバットと百人の危ない美女」の続編であるこの作品において、“誇り高く、野太い、反逆ブス”作家・八百木はひとつの壁に突き当たる。年を取ってきた、という事実だ。“ある種の男”にとってはブスだろうが美人だろうが“ばばーは全部ばばー”なのだから。これまで八百木は、ブス道を究めることでブスを相対化し、ブスを否定する男たちと文学を通して闘い続けてきた。だからこの作品は、いわゆるブスが美人になって幸せになる変身譚(もちろんそこには素敵な王子様が)の全否定であることは確か。そこに、ブス道を究めることの困難、他人への嫉妬と無責任と捩れたプライドで弱者を抑圧する男たち、判らないものはなかったことにする評論家たち、そして幼女の身体を「部分」としてしか見ない変態ロリコンたち……とさまざまなテーマが、笙野文体で疾走する。一読しただけでは理解できない部分もあるが、それこそファンにとっては望むところだ。
末尾の書き下ろし「八百木千本様へ笙野頼子より」は、笙野氏本人による、最近作の交通整理のような解説。文壇・論壇での“日本の精神世界にはびこる最近の馬鹿げた無責任と現実感覚の喪失”に対する怒りには、強く共感する。特に某文芸誌上での合評には、呆れ果て激怒していたので、笙野氏本人の実名攻撃に溜飲下ったよ。疾走し続ける笙野氏に、ただもうついて行くのみ!