ある方にこれは1920のパリのバイブル、と言われて購入しました。
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祝祭と狂乱の日々: 1920年代パリ 単行本 – 1986/5/1
ウィリアム ワイザー
(著),
岩崎 力
(翻訳)
- 本の長さ417ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日1986/5/1
- ISBN-104309200842
- ISBN-13978-4309200842
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登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (1986/5/1)
- 発売日 : 1986/5/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 417ページ
- ISBN-10 : 4309200842
- ISBN-13 : 978-4309200842
- Amazon 売れ筋ランキング: - 858,233位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 128,455位ノンフィクション (本)
- - 228,115位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年6月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
狂乱の時代を知るのにとてもよいです。写真が豊富で視覚的にも資料としてお薦めです。アメリカ人視点のため私には初めて聞く名前のアーティストがたくさんいました。
2023年2月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
失望した、というのが正直なところだ。しかし、著者の力量に不足はない。調査は行き届いているし、パースペクティヴをできるかぎり大きくとって見晴らしのいい書き方をしているのも好感がもてる。斬新な視点も中にはあるし、これだけの情報の奔流をよく整理し的確に描写していく力も大したものだ。
当方のほうが不当なことはわかっちゃいるが、要するに望んでいたものは得られなかった、ということだ。[訳者あとがき]が[断章ふうに]と断っているのが象徴的だが、つまり、この本全体が断章ふうな、いわばスケッチに終始している。膨大な資料の山の中を滑走するような手際には畏れ入っても、ここに時代のダイナミズムが捕らえられているとは言い難いのではないか。ただ、欧羅巴中のさまざまなジャンルの傑物や青い芽や腐った俗物たちが巴里という街を行き交い通り過ぎていったことが活写されているにすぎない。
それでは、お前はいったい本書に何を期待したのか?と問われると、お恥ずかしい話、ここに登場する亡霊に会いたかったわけではない、としか言えない。もしかしたら、これらの断片的なエピソードの数々によって、大きな一枚の絵《1920年代パリ》を見ることができる人たちもいるのかも知れないが、当方には残念ながら見えなかった、ということに尽きる。各章の頭に[主な登場人物]とあるが、これだけの人たちが登場するんだよ、スゴイだろ?と言っているとしか思えないのだ。
いや、それだけじゃない。1920年5月24日の<朝まだき>に現職の大統領が線路上で発見され、彼の狂気が1920年代の本当のはじまりを告げる、なんて出だしは出色だ。なぜなら、チューリッヒから2人のダダイストが、彼の狂気を当たり前のこととしてしまうためにパリにやって来るのだから!こんなにワクワクさせるイントロダクションの後に、この芸術的狂気の描写はなぜに途切れてしまうのか!後は、意外な人たちの意外な出遭いをゴシップ風に綴っていくだけじゃあないか?
当方のほうが不当なことはわかっちゃいるが、要するに望んでいたものは得られなかった、ということだ。[訳者あとがき]が[断章ふうに]と断っているのが象徴的だが、つまり、この本全体が断章ふうな、いわばスケッチに終始している。膨大な資料の山の中を滑走するような手際には畏れ入っても、ここに時代のダイナミズムが捕らえられているとは言い難いのではないか。ただ、欧羅巴中のさまざまなジャンルの傑物や青い芽や腐った俗物たちが巴里という街を行き交い通り過ぎていったことが活写されているにすぎない。
それでは、お前はいったい本書に何を期待したのか?と問われると、お恥ずかしい話、ここに登場する亡霊に会いたかったわけではない、としか言えない。もしかしたら、これらの断片的なエピソードの数々によって、大きな一枚の絵《1920年代パリ》を見ることができる人たちもいるのかも知れないが、当方には残念ながら見えなかった、ということに尽きる。各章の頭に[主な登場人物]とあるが、これだけの人たちが登場するんだよ、スゴイだろ?と言っているとしか思えないのだ。
いや、それだけじゃない。1920年5月24日の<朝まだき>に現職の大統領が線路上で発見され、彼の狂気が1920年代の本当のはじまりを告げる、なんて出だしは出色だ。なぜなら、チューリッヒから2人のダダイストが、彼の狂気を当たり前のこととしてしまうためにパリにやって来るのだから!こんなにワクワクさせるイントロダクションの後に、この芸術的狂気の描写はなぜに途切れてしまうのか!後は、意外な人たちの意外な出遭いをゴシップ風に綴っていくだけじゃあないか?