著者ミシェル・ウエルベックの『服従』が、2015年にフランスで起きたイスラム過激派によるシャルリー・エブド事件を予言したといわれている。さらに本書『セロトニン』は、フランスで起きた黄色いベスト運動を予言したといわれている。
黄色いベスト運動とは、2018年11月17日からフランスではじまった、燃料価格の上昇や生活費の高騰などに抗議する運動のことである。毎週土曜日に蛍光色の黄色いベストを着て集まるところから、黄色いベスト運動と呼ばれている。
本書の予言部分は、頁198から214になる。農業者組合の集会から、保安機動隊との衝突で11人の犠牲者が出たという報告までである。犠牲者の中には主人公の友人も含まれる。
小説とは、書かれた時代の空気を、物語として文章化したものであろう。そして時に、小説は時代を鋭く読むが故に、実際の事件を予言することがある。
古くは、旧体制のフランス社会を痛烈に批判するディドロの『ラモーの甥』は、フランス革命を予言していたともいわれる。ラモーの場合は、拝金主義をあざ笑いながら、それに寄生するという現代的な生き方をも予言していた。
ロシアのドストエフスキーは父殺しをテーマに『カラマーゾフの兄弟』を著したが、未完成となった続編には1881年の皇帝アレクサンドル二世の暗殺が描かれることになったろうという定説がある。もっとも小説の発表前に暗殺が実行されて、皇帝暗殺のストーリーは書けなくなっていたかもしれないが。
本書を読むきっかけは、この予言の書というところにあったのだが、訳者あとがきにもあるように(p.292)、本書は中年男の引きこもりと遁走(訳者は蒸発といっている)の物語ととらえたい。
最悪の同棲相手ユズから逃げ出すことから物語は展開する。ユズは日本人である。ウエルベックは日本嫌いなのだろうか、バカな金持ちは日本の庭師に日本庭園を造らせるとか、「禅かぶれみたいな奴らは、本質的なのは標的と一体になることだとか言うだろうけど、ぼくはそういったたわごとは信じない、それに日本人はスポーツ射撃はまったくダメで、一度も国際的な競技に勝ったことなどないんだ。(p.191)」などという。
主人公のフロラン=クロード・ラブルストは、2017年に開発されたというキャプトリクスという名の抗うつ剤を服用している。しかし、そんな抗うつ薬は聞いたことがない。胃腸で生成されたセロトニンが作用すると説明されているが、脳には血液脳関門があるので腸で作られたセロトニンを通すはずがない。この薬は恐らくフィクションだろう。
小説はもともとフィクションなので、薬の名前がフィクションであっても問題はない。フィクションは、うつ病の人がこのように饒舌に生き生きと語ることはあり得ないというところにある。そこでキャプトリクスを持ち出して、それができると辻褄合わせをしたのだろう。ただし副作用で、性能力の喪失があるとして、物語の展開に利用した。
本作はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に似ている。プルーストはお菓子のマドレーヌの味覚から過去の鮮やかな記憶が蘇るという始まりである。一方ウエルベックは、白く楕円形で小粒の錠剤を服用していることで記憶を蘇らせることができた。そして記憶の内容は、女性たちとの恋愛のディテールを著したという共通点がある。
しかし、プルーストの恋愛は美しいといえるものだが、ウエルベックの恋愛は後悔と自責に満ちている。「ぼくの人生もこの風景と同じくらい形を持たず不確かに思われた。(p.200)」、「(話すたびに)自分が職業人生において完全に失敗した、その核心をついていると感じていた、....同時に、では私生活で何か成し遂げられたのか、女性を幸せにしたとか、せめて飼い犬を幸せにしたとか、それさえもないのだ。(p.203)」と語る。このうつ的な気分が全編を支配している。
本作はウエルベック初めての恋愛小説だそうだが(p.297)、私はタイトルが『セロトニン』とあるだけに、うつ病の回復過程をシミュレートした作品に思える。過去を思い出して整理すること、それは決してナラティブ・セラピーのようにポジティブな過去に変換することではない。また、自由という幻想に身を任せることでもない。
最後の頁で主人公は自殺を免れ、「ぼくは一人の女性を幸せにできたかもしれない。または二人を。」と回想する。うつ病の回復とは、せいぜいこのようなものである。ウエルベックは宗教的な意味を込めて、誰もが徴(しるし)を持っていると締めくくる。
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セロトニン 単行本 – 2019/9/26
ミシェル・ウエルベック
(著),
関口涼子
(翻訳)
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巨大生化学メーカーを退職した若い男が、遺伝子組換えや、過去の女性たちへの呪詛や悔恨を織り交ぜて語る現代社会への深い絶望。
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2019/9/26
- 寸法13.7 x 2.5 x 19.7 cm
- ISBN-104309207812
- ISBN-13978-4309207810
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商品の説明
著者について
ミシェル・ウエルベック
1958年フランス生まれ。ヨーロッパを代表する作家。98年『素粒子』がベストセラー。2010年『地図と領土』でゴンクール賞受賞。15年には『服従』が世界中で大きな話題を呼んだ。『ある島の可能性』など。
関口 涼子
1970年生まれ。詩人・翻訳家。訳書に、P・シャモワゾー『素晴らしきソリボ』、J・エシュノーズ『ラヴェル』など。多和田葉子、杉浦日向子など、日本の小説・コミックのフランス語訳も数多く手がけている。
1958年フランス生まれ。ヨーロッパを代表する作家。98年『素粒子』がベストセラー。2010年『地図と領土』でゴンクール賞受賞。15年には『服従』が世界中で大きな話題を呼んだ。『ある島の可能性』など。
関口 涼子
1970年生まれ。詩人・翻訳家。訳書に、P・シャモワゾー『素晴らしきソリボ』、J・エシュノーズ『ラヴェル』など。多和田葉子、杉浦日向子など、日本の小説・コミックのフランス語訳も数多く手がけている。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2019/9/26)
- 発売日 : 2019/9/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 304ページ
- ISBN-10 : 4309207812
- ISBN-13 : 978-4309207810
- 寸法 : 13.7 x 2.5 x 19.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 225,009位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 20,922位文芸作品
- カスタマーレビュー:
著者について
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2019年12月15日に日本でレビュー済み
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2019年11月13日に日本でレビュー済み
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結局男を現世に縛るのは性欲と断言された虚しさ、前作に続き「さかしま」をやりたかったのかとも思う。泣く。
2021年5月3日に日本でレビュー済み
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つくづく日本は島国で良かった。そして先進国として 移民 難民政策に消極的で良かった。シャボンディ島!
2023年3月5日に日本でレビュー済み
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ディプレッシブな人間の言動・思考回路は真に迫るものがあった。
日本は、これが売れる国になってほしくない。
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2020年4月24日に日本でレビュー済み
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インテリ左派のフランス人の孤独が絶妙な匙加減で描かれている。グランゼコールの高等農業学校を卒業しているだけあって、農業に関する文章はかなり綿密な下調べをしているようで、緻密。特にアプリコットの描写は笑える。
日本人読者にはユズの描き方が気になる方もいるかも知れないが、その辺りはわざとステレオタイプ、滑稽に描いていると受け流しましょう。
本人も言及している通り、現代のプルーストだと思う。
翻訳も大変読みやすい。
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2019年10月22日に日本でレビュー済み
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圧倒的な資本の力を前に敗北を続ける左派エリートの絶望感が見事に描かれている。モラルを失った現代社会では人々の関心が貨幣に集中し、国家でさえも資本に取り込まれてゆく中で、社会的な理想・理念を抱く知的左派には居場所が無くなりつつある。加えて、資本が人々の関係をドライに断ち切ってゆくことで生まれる孤独によって、その絶望感は増すばかりである。引きこもりや自殺など、恋人も含めて日本を暗喩する表現が多いと訳者後書きで触れられている通り、この国も同じ問題を抱えている。
本書も救い用の無い終わり方で、この先の社会には、全く答えが無いように思えるが、案外、暗闇の方が光は見えてくるものである。過度な性的描写には辟易としたが非常に良い内容だったので、他の著作も読んでみようと思う。
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2019年12月26日に日本でレビュー済み
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主人公のやや重たい転落の顛末が語られていきます。最後の方に向かうにつれて、行動があぶなくなっており、やめろー!と止めに入りたくなる。こんな人生もあるのかなあ。こんな人生もあるんだから、お前も頑張れよ、という意味なのか。読み終わってから色々考えてしまった。
2020年1月1日に日本でレビュー済み
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ヨーロッパを代表する作家の最新刊。キャリアも経済力もあり知性にも恵まれた中年男が抗うつ剤を服用するとセロトニンの働きで性欲が減退してしまう。彼は愛あるセックスが望めないと恋人のもとから「蒸発」することを試みる。しかし、すべてが悪い方へ向かっていると見える現代社会に彼はいらだち、失望し、自分の居場所を見出すことができない。かろうじて自殺への誘惑を振りほどくが答えはみつからない。ウエルベックの作品は「予言の書」とも呼ばれるが、この小説の予言は灰色の世界である。