無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
「忘れられた日本人」の舞台を旅する----宮本常一の軌跡 単行本 – 2006/2/9
木村 哲也
(著)
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2006/2/9
- ISBN-10430922444X
- ISBN-13978-4309224442
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2006/2/9)
- 発売日 : 2006/2/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 256ページ
- ISBN-10 : 430922444X
- ISBN-13 : 978-4309224442
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,044,309位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 817位日本の民俗
- - 2,556位文化人類学一般関連書籍
- - 29,413位エッセー・随筆 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.3つ
5つのうち4.3つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
11グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2021年10月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
宮本常一の名作の舞台をすべて旅する、という主題にまず新規性がある。調査旅行が行われた1990年代には関係者がまだたくさん生存しており、話を聞くことが可能だった。今から同じことを試みようとしても不可能であるだけに、今後時間の経過とともに価値を増す一冊だと思われる。版元品切れ絶版の模様なので、ぜひ再刊(文庫化ないし電子書籍化)を望む。
2019年10月15日に日本でレビュー済み
2007再掲
図書館本
1971年生まれの木村氏が大学ー大学院院時代にひとり新聞「みるきくあるく」等に連載した文章をまとめたそうである。
宮本常一の様に野宿したり民家に泊まりながら宮本常一の歩いた道をたどり、「忘れられた日本人」に登場する人やその末裔から話を聞いている。
当時の木村さんの若さからか、固さの見える文章であるが、それも彼の誠実さの現れであろう。現在は宮本氏の出生地である周防大島文化交流センターで学芸員として宮本さんが残した資料を未来へ継承すべく力をそそいている。是非とも宮本ワールドを、そして宮本スピリッツを多くの人へ、未来へ伝えてもらいたい。
「ヤンキーのくせに、人なつっこく。。。」という文章が木村さんの若さを表しているのかな(笑)
図書館本
1971年生まれの木村氏が大学ー大学院院時代にひとり新聞「みるきくあるく」等に連載した文章をまとめたそうである。
宮本常一の様に野宿したり民家に泊まりながら宮本常一の歩いた道をたどり、「忘れられた日本人」に登場する人やその末裔から話を聞いている。
当時の木村さんの若さからか、固さの見える文章であるが、それも彼の誠実さの現れであろう。現在は宮本氏の出生地である周防大島文化交流センターで学芸員として宮本さんが残した資料を未来へ継承すべく力をそそいている。是非とも宮本ワールドを、そして宮本スピリッツを多くの人へ、未来へ伝えてもらいたい。
「ヤンキーのくせに、人なつっこく。。。」という文章が木村さんの若さを表しているのかな(笑)
2018年7月29日に日本でレビュー済み
著者は1971年生まれの民俗学研究者であり、「あるく・みる・きく」を徹底して実践した宮本常一(1907-81年)とは少し年が離れている。著者自身は宮本の著書を通じてその魅力に憑りつかれ、周防大島文化交流センターなど宮本にゆかりの場所で仕事をした後、現在は独自の研究活動を行っている。
宮本常一著『忘れられた日本人』(岩波文庫)は、宮本が戦前から戦後にかけて、高度成長以前の日本各地を旅行し聞書きを行った記録である。農山漁村の地域社会に生きた、普通の日本人たちの貴重な記録と言ってよい。本書は、その『忘れられた日本人』の舞台となった土地と人とを再訪し、ゆかりの人たちと出会うという、宮本常一の世界を若者が追体験した記録である。いずれの土地でも、もはや宮本を直接知る人達は限られているが、関係者たちに深い印象と影響を残していた。日本の農山漁村は激変したが、その激変の様子が著者の再訪で痛々しいほど明らかになる。『忘れられた日本人』が古くからある日本人の肖像を描いたラストチャンスであったことが痛感される。本書の再訪記によって、『忘れられた日本人』を一層味わい深く読み返すことが出来そうである。
本書の「はじめに」で引用しているように、岩波書店のPR誌『図書』(1987年5月号)の岩波文庫創刊60周年アンケート「私の三冊」で、司馬遼太郎が『忘れられた日本人』を次のように、的確かつ簡潔に評している。
「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河とをこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」
『図書』(2017年5月号)の岩波文庫創刊90周年アンケート「私の三冊」でも4人が『忘れられた日本人』を挙げている。その中で、映画プロデューサーの鈴木敏夫氏が本書を高畑勲、宮崎駿両氏から教えられて読んだとし、両氏のジブリ映画発想の原点が本書にあることを知った、と書いている。宮本常一『忘れられた日本人』は、忘れ去られようとしている日本人の心を記録した貴重な本であると言えよう。本書はその宮本常一が稀有の旅人であったことを改めて証明した。
宮本常一著『忘れられた日本人』(岩波文庫)は、宮本が戦前から戦後にかけて、高度成長以前の日本各地を旅行し聞書きを行った記録である。農山漁村の地域社会に生きた、普通の日本人たちの貴重な記録と言ってよい。本書は、その『忘れられた日本人』の舞台となった土地と人とを再訪し、ゆかりの人たちと出会うという、宮本常一の世界を若者が追体験した記録である。いずれの土地でも、もはや宮本を直接知る人達は限られているが、関係者たちに深い印象と影響を残していた。日本の農山漁村は激変したが、その激変の様子が著者の再訪で痛々しいほど明らかになる。『忘れられた日本人』が古くからある日本人の肖像を描いたラストチャンスであったことが痛感される。本書の再訪記によって、『忘れられた日本人』を一層味わい深く読み返すことが出来そうである。
本書の「はじめに」で引用しているように、岩波書店のPR誌『図書』(1987年5月号)の岩波文庫創刊60周年アンケート「私の三冊」で、司馬遼太郎が『忘れられた日本人』を次のように、的確かつ簡潔に評している。
「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河とをこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」
『図書』(2017年5月号)の岩波文庫創刊90周年アンケート「私の三冊」でも4人が『忘れられた日本人』を挙げている。その中で、映画プロデューサーの鈴木敏夫氏が本書を高畑勲、宮崎駿両氏から教えられて読んだとし、両氏のジブリ映画発想の原点が本書にあることを知った、と書いている。宮本常一『忘れられた日本人』は、忘れ去られようとしている日本人の心を記録した貴重な本であると言えよう。本書はその宮本常一が稀有の旅人であったことを改めて証明した。
2006年5月5日に日本でレビュー済み
宮本常一の名著『忘れられた日本人』の舞台すべてを旅した紀行文。
しかも同じ土地に二度三度訪ねているところが凄い。
宮本の旅から半世紀。
その間、その土地の人たちがどう生きてきたか、克明に記録してゆく。
宮本の作品とつなげて読むと、明治維新〜戦中〜戦後までの一大近現代史となる。
東北、三河山中、大阪、瀬戸内海、四国山中、玄界灘の離島…。
宮本の作品がそうであるように、この本からも日本文化の多様性を教えられる。
「土佐源氏」を創作ではないかと疑った人に対して、
取材ノートを手に憤ったという逸話を、
岩波文庫解説で網野善彦が吉沢和夫氏の証言として紹介しているが、
著者は吉沢氏にも取材し、網野の記述の誤りを引き出している点なども価値が高い。
最後にひとつ。
この本は宮本の足跡をたどった「旅の記録」という評価が今後なされる予感があるが、
単に旅するだけでなく、著者の文献資料の読み込みの丁寧さも讃えておきたい。
巻末に上げられた参考文献は130点を超えている。
ダンボール箱に何十冊と詰った
「文字をもつ伝承者」田中梅治翁の手書きの遺稿から
宮本来訪の記事を見つけ出すなどの根気は、
単なる旅への情熱とは別に、文献資料の探索力の高さの証左だろう。
しかも同じ土地に二度三度訪ねているところが凄い。
宮本の旅から半世紀。
その間、その土地の人たちがどう生きてきたか、克明に記録してゆく。
宮本の作品とつなげて読むと、明治維新〜戦中〜戦後までの一大近現代史となる。
東北、三河山中、大阪、瀬戸内海、四国山中、玄界灘の離島…。
宮本の作品がそうであるように、この本からも日本文化の多様性を教えられる。
「土佐源氏」を創作ではないかと疑った人に対して、
取材ノートを手に憤ったという逸話を、
岩波文庫解説で網野善彦が吉沢和夫氏の証言として紹介しているが、
著者は吉沢氏にも取材し、網野の記述の誤りを引き出している点なども価値が高い。
最後にひとつ。
この本は宮本の足跡をたどった「旅の記録」という評価が今後なされる予感があるが、
単に旅するだけでなく、著者の文献資料の読み込みの丁寧さも讃えておきたい。
巻末に上げられた参考文献は130点を超えている。
ダンボール箱に何十冊と詰った
「文字をもつ伝承者」田中梅治翁の手書きの遺稿から
宮本来訪の記事を見つけ出すなどの根気は、
単なる旅への情熱とは別に、文献資料の探索力の高さの証左だろう。
2006年4月28日に日本でレビュー済み
不世出の民俗学者、宮本常一の代表作『忘れられた日本人』の
舞台となった土地にひとつひとつ足を運び、
可能な限り宮本が訪れた当時の関係者に会って聞き取った話を
道中の体験とともに一冊にまとめたのが本書である。
まだ若い著者の、宮本とその作品に対する思い入れは強く、
ほとんど崇拝に近いものを感じさせるが、
それが時折息苦しく感じられてしまうのは、
今ひとつ文章が練れていないせいもあってか、
宮本を語ろうとして自らを語ってしまっている箇所が多く、
そこに宮本への単なる敬愛だけではない、
一種の独占欲のようなものが混じっていることを
読者に敏感に感じ取らせてしまうからだろう。
「宮本の著作を読んで訪ねて来たのはあなたが初めてだ」
という意味のことを、著者は何度か言われており、
それが事実であることを疑うつもりはないが、
取りようによっては自慢に聞こえかねないこの種の言葉は、
一回だけさりげなく記すべきではなかったか。
少なくとも、宮本本人であればそのように心がけたはずだ。
あとがきにも、昨今の「宮本ブーム」ともいうべき状況を
どこか苦々しく感じている旨が記されており、
「宮本常一を知るのが少しでもおくれていたら、
これらの再評価の大合唱に食傷して、
こんな旅はする気にならなかったかもしれない」
とまで述べられているのだが、これに対しては、
「あなたにとっての宮本常一とは、
ブームに嫌気がさせば簡単に捨てられるほどの
お手軽な対象でしかなかったのか」
と言っておきたい。
舞台となった土地にひとつひとつ足を運び、
可能な限り宮本が訪れた当時の関係者に会って聞き取った話を
道中の体験とともに一冊にまとめたのが本書である。
まだ若い著者の、宮本とその作品に対する思い入れは強く、
ほとんど崇拝に近いものを感じさせるが、
それが時折息苦しく感じられてしまうのは、
今ひとつ文章が練れていないせいもあってか、
宮本を語ろうとして自らを語ってしまっている箇所が多く、
そこに宮本への単なる敬愛だけではない、
一種の独占欲のようなものが混じっていることを
読者に敏感に感じ取らせてしまうからだろう。
「宮本の著作を読んで訪ねて来たのはあなたが初めてだ」
という意味のことを、著者は何度か言われており、
それが事実であることを疑うつもりはないが、
取りようによっては自慢に聞こえかねないこの種の言葉は、
一回だけさりげなく記すべきではなかったか。
少なくとも、宮本本人であればそのように心がけたはずだ。
あとがきにも、昨今の「宮本ブーム」ともいうべき状況を
どこか苦々しく感じている旨が記されており、
「宮本常一を知るのが少しでもおくれていたら、
これらの再評価の大合唱に食傷して、
こんな旅はする気にならなかったかもしれない」
とまで述べられているのだが、これに対しては、
「あなたにとっての宮本常一とは、
ブームに嫌気がさせば簡単に捨てられるほどの
お手軽な対象でしかなかったのか」
と言っておきたい。
2006年5月5日に日本でレビュー済み
宮本常一の名作『忘れられた日本人』の魅力が倍加する本。
これだけ人と物事に密着しながら、
全く馴れなれしくならず、絶えず爽やかな風が吹き抜けているような新鮮な文体。
旅で培った著者の力量は並大抵のものではないと感じる。
「土佐源氏」成立の経緯に分け入って創作疑惑を追及。
ハンセン病者の境遇に胸を痛めながら、
隔離施設には生涯踏み込もうとしなかった宮本の欺瞞をさりげなく指摘。
離島振興論の変遷をたどり、その問題点を指摘するあたり、
宮本への熱い敬意に裏打ちされながらも醒めた視点が一貫していて、
偶像崇拝に陥る危険から救っている。
民俗学史の解説もわかりやすく丁寧で、
専門の領域を超えて広く読まれるべき良質のルポルタージュであり評伝。
これだけ人と物事に密着しながら、
全く馴れなれしくならず、絶えず爽やかな風が吹き抜けているような新鮮な文体。
旅で培った著者の力量は並大抵のものではないと感じる。
「土佐源氏」成立の経緯に分け入って創作疑惑を追及。
ハンセン病者の境遇に胸を痛めながら、
隔離施設には生涯踏み込もうとしなかった宮本の欺瞞をさりげなく指摘。
離島振興論の変遷をたどり、その問題点を指摘するあたり、
宮本への熱い敬意に裏打ちされながらも醒めた視点が一貫していて、
偶像崇拝に陥る危険から救っている。
民俗学史の解説もわかりやすく丁寧で、
専門の領域を超えて広く読まれるべき良質のルポルタージュであり評伝。
2006年7月23日に日本でレビュー済み
わたしは、『忘れられた日本人』に収められたいくつかの挿話を、大
昔に『日本残酷物語』で読みました。それは、まさしく「バラ色の発展
法則などというものはなく、もしあるとしても、その一人一人の生命を
埋没していく容赦もない自然と歴史の暴力の前には、引かれもののの小
唄や老婆の念仏よりもはかない気休めのように見える」(橋川文三『歴
史と体験』)ものでした。そして、その時走った戦慄と同時の感じたあ
る不思議な懐かしさを今でも時々思い出し、あれは何っだたのかと自問
することがあります。本書には、それを考えるヒントがあると思いま
す。
宮本の聞き書きの対象になった者の多くは、明治維新をはさんで生き
た人々だったそうです。歴史の激動期を見聞することで、ものごとの変
遷を記銘できたことに加え、世の栄枯盛衰に無常を感じていた人々を敢
て選んでいたそうです。もうひとつは、そのような歴史叙述の方法が、
一方では西欧近代に範型を求める川島法社会学などの近代主義を相対化
すると共に、他方ではそれに対抗すべき民俗学が常民史に一元化してし
まったことへの批判を意図していたのではないかという指摘です。特
に、漂泊・差別・性という視角を封印してしまった民俗学への飽き足ら
なさは、尋常のものではなかったようです。それらのことを含め、人そ
れぞれの一回きりの人生にまつわる豊饒と哀切を歴史事象として等身大
で書ききること、それを自らの学問として構想していたように見えます。
それはともかく、本書を読んで、宮本の生きた時代から今日までの間
に失われたもの、篤農家と世間師、善根宿とメシモライ、そして焼畑と
共同作業を通じての女の世間などなど、その多さに気が付き愕然としま
す。古老の遺書に文字を持ったことの喜びを見出した宮本が、簡単に情
報をデジタル化し、相互にやりとりする現在の暮らしをみたときには、
一体どのように言うのでしょうか。
昔に『日本残酷物語』で読みました。それは、まさしく「バラ色の発展
法則などというものはなく、もしあるとしても、その一人一人の生命を
埋没していく容赦もない自然と歴史の暴力の前には、引かれもののの小
唄や老婆の念仏よりもはかない気休めのように見える」(橋川文三『歴
史と体験』)ものでした。そして、その時走った戦慄と同時の感じたあ
る不思議な懐かしさを今でも時々思い出し、あれは何っだたのかと自問
することがあります。本書には、それを考えるヒントがあると思いま
す。
宮本の聞き書きの対象になった者の多くは、明治維新をはさんで生き
た人々だったそうです。歴史の激動期を見聞することで、ものごとの変
遷を記銘できたことに加え、世の栄枯盛衰に無常を感じていた人々を敢
て選んでいたそうです。もうひとつは、そのような歴史叙述の方法が、
一方では西欧近代に範型を求める川島法社会学などの近代主義を相対化
すると共に、他方ではそれに対抗すべき民俗学が常民史に一元化してし
まったことへの批判を意図していたのではないかという指摘です。特
に、漂泊・差別・性という視角を封印してしまった民俗学への飽き足ら
なさは、尋常のものではなかったようです。それらのことを含め、人そ
れぞれの一回きりの人生にまつわる豊饒と哀切を歴史事象として等身大
で書ききること、それを自らの学問として構想していたように見えます。
それはともかく、本書を読んで、宮本の生きた時代から今日までの間
に失われたもの、篤農家と世間師、善根宿とメシモライ、そして焼畑と
共同作業を通じての女の世間などなど、その多さに気が付き愕然としま
す。古老の遺書に文字を持ったことの喜びを見出した宮本が、簡単に情
報をデジタル化し、相互にやりとりする現在の暮らしをみたときには、
一体どのように言うのでしょうか。