〇星5つの理由
新しい視点であった。いままでも「死」について考えてきたが、このような厳しい視点があることを知ることができた。
〇講評
二つのことをいっている。
第一は、「死体」とか「腐乱」である。たしかに、それを直視しなければ死者と向き合うことはできないであろう。
第二は、死者と自分との関係である。沖縄、靖国、ベトナム、ウクライナなど。
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弔いの哲学 (シリーズ・道徳の系譜) 単行本 – 1997/8/1
小泉 義之
(著)
- 本の長さ137ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日1997/8/1
- ISBN-10430924193X
- ISBN-13978-4309241937
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
弔いとは哀悼ではない。誰かの死と私の生の断絶を思い知る事である。あらゆる問題の根本をなす生者と死者の関係を明確にする事から、現在のあらゆる幻想と欺瞞を撃ちくだく、気鋭のデカルト研究者の哲学入門。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (1997/8/1)
- 発売日 : 1997/8/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 137ページ
- ISBN-10 : 430924193X
- ISBN-13 : 978-4309241937
- Amazon 売れ筋ランキング: - 804,006位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,723位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 4,977位哲学 (本)
- - 6,028位思想
- カスタマーレビュー:
著者について
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2004年3月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
加藤典洋の『敗戦後論』よりもはるかにビビッドに、生者が死者にどう対峙すべきか論じています。
そのための本ではないだろうが、靖国や戦後補償の問題などを考える上でも示唆に富んだ本でしょう。
「<誰がために鐘は鳴る>のかと言えば、死者のためにではなく、鐘をつく人と鐘を聞く人のために鳴るのだし、遠くで鐘を聞きたがっている人のために鳴るのだ。」
そのための本ではないだろうが、靖国や戦後補償の問題などを考える上でも示唆に富んだ本でしょう。
「<誰がために鐘は鳴る>のかと言えば、死者のためにではなく、鐘をつく人と鐘を聞く人のために鳴るのだし、遠くで鐘を聞きたがっている人のために鳴るのだ。」
2018年2月1日に日本でレビュー済み
小泉義之の名前を知ったのは、同じ「シリーズ道徳の系譜」の一冊『なぜ人を殺してはいけないのか?』での、永井均の対話相手としてであった。「人を殺してもいい」という永井均のラディカルな言説に較べるとはなはだ真っ当な思想の持ち主であり、逆に言えば少々物足りないという印象を持っていたのだが、本書はそんな印象を覆すのに充分な刺激的な内容になっている。
小泉の論点は以下の3点に集約されると思う。
(1)死と生は徹底的に断絶している。だれかの死とだれかの生とのあいだには関係がない。
(2)死と生を関係づけるという妄想は、刑罰制度をそなえた集団の成立と同時に発生した。
(3)死体なくして死はない。死そのものなどというものはない。あるのは死体のみである。
(1)と(2)の論点を整理すると以下のようになる。
AがBを殺したとする。そのときわれわれはAによってBが死んだとみなし、Aに刑罰を課そうとする。場合によってはAを殺そうと(死刑にしようと)する。
しかし実のところ、Bの死とAの生は関係がない。たとえAがBを殺したのだとしても。
これは破綻した屁理屈にしか聞こえないかも知れないが、実はそうでもない。因果関係とは常に恣意的なものだ。AがBを殺した要因は無数にあり、そのどれもが等価であるとするならば、Bの死の責任をAの生に帰するのは理不尽でさえある。
むしろこうとも言える。Bの死とAの生を関係付けたいから、われわれは復讐としての刑罰を、すなわち死刑を構築したのだ、と。
さらに(3)に関しては以下のような疑問を呈することができるように思う。
確かに死体なくして死はない。われわれは死体を見ることはできても死を見ることはできない。死の物象化が進捗していることは否めない。
しかしわれわれは他人の死体しか見ることができない。自分の死体を見ることは永遠にできない。
であれば自分の死、私の死を、死体なしにどうやって把握すればいいのか。
死の物象化は、おそらくは「私の死」に起因して進捗する。もしかすると小泉はそれ(「私の死」)を「幻想に過ぎない」と一蹴するのかも知れない。そのような方向性も可能だとは思う。死そのものなどというものはなく、あるのは死体だけだとすれば、私にとって私の死は存在しない。
そのような考え方が大きな救いになることは認めつつも、私の死こそがおそらくは哲学を可能にし、のみならず私の存在そのものを可能にした。
(1)に話を戻すと、だれかの死とだれかの生とのあいだには関係がないかも知れないが、私の死と私の生とのあいだには関係がある。私の生がなければ私の死はなく、私の死がなければ私の生もない。
「あるのは死体だけ」という考え方はとても魅力的ではあるが、その考え方はともすれば哲学を殺し、のみならず「私」の存在そのものを抹消することになりはしないだろうか。
小泉の論点は以下の3点に集約されると思う。
(1)死と生は徹底的に断絶している。だれかの死とだれかの生とのあいだには関係がない。
(2)死と生を関係づけるという妄想は、刑罰制度をそなえた集団の成立と同時に発生した。
(3)死体なくして死はない。死そのものなどというものはない。あるのは死体のみである。
(1)と(2)の論点を整理すると以下のようになる。
AがBを殺したとする。そのときわれわれはAによってBが死んだとみなし、Aに刑罰を課そうとする。場合によってはAを殺そうと(死刑にしようと)する。
しかし実のところ、Bの死とAの生は関係がない。たとえAがBを殺したのだとしても。
これは破綻した屁理屈にしか聞こえないかも知れないが、実はそうでもない。因果関係とは常に恣意的なものだ。AがBを殺した要因は無数にあり、そのどれもが等価であるとするならば、Bの死の責任をAの生に帰するのは理不尽でさえある。
むしろこうとも言える。Bの死とAの生を関係付けたいから、われわれは復讐としての刑罰を、すなわち死刑を構築したのだ、と。
さらに(3)に関しては以下のような疑問を呈することができるように思う。
確かに死体なくして死はない。われわれは死体を見ることはできても死を見ることはできない。死の物象化が進捗していることは否めない。
しかしわれわれは他人の死体しか見ることができない。自分の死体を見ることは永遠にできない。
であれば自分の死、私の死を、死体なしにどうやって把握すればいいのか。
死の物象化は、おそらくは「私の死」に起因して進捗する。もしかすると小泉はそれ(「私の死」)を「幻想に過ぎない」と一蹴するのかも知れない。そのような方向性も可能だとは思う。死そのものなどというものはなく、あるのは死体だけだとすれば、私にとって私の死は存在しない。
そのような考え方が大きな救いになることは認めつつも、私の死こそがおそらくは哲学を可能にし、のみならず私の存在そのものを可能にした。
(1)に話を戻すと、だれかの死とだれかの生とのあいだには関係がないかも知れないが、私の死と私の生とのあいだには関係がある。私の生がなければ私の死はなく、私の死がなければ私の生もない。
「あるのは死体だけ」という考え方はとても魅力的ではあるが、その考え方はともすれば哲学を殺し、のみならず「私」の存在そのものを抹消することになりはしないだろうか。
2006年7月6日に日本でレビュー済み
「誰かの死と私の生は、徹底的に断絶している」。
著者はこう述べ、にもかかわらず人はそのような断絶をたやすく見失い、そこに何か関係があるかのような〈妄想〉にとらわれ、その〈妄想〉が哀悼や追悼・葬礼や喪の仕事を支えているとする。その上で、「弔い」とは誰かの死と私の生とが徹底的に断絶していることを思い知ることだ、とするのである。
著者が述べていることには基本的に異存はない。にもかかわらず、あるいはだからこそ、そこには大きな取りこぼしがあるように思える。つまり、
「誰かの死と私の生は、徹底的に断絶している」
これもまた一つの〈妄想〉だという事実である。この二つの〈妄想〉は、「どちらかが真で、もう一方が偽である」といった関係にはない。本当のことは、一つではないのだ。
例えば、本書ではベネディクト=アンダーソンが徹底的に罵倒されているのだが、アンダーソンがこんなことを言っているとは評者には思えない。だが、著者にはどうやらこのように見えているようである。〈妄想〉にとらわれているのは、アンダーソンであろうか、著者であろうか、それとも評者なのであろうか…。
死や死者をめぐってもそもそ思考をめぐらしている評者にとっては、得るところのすこぶる多い一冊ではあった。けれども、上に書いたような「割り切れなさ」を著者がいともたやすく一刀両断に割り切ってしまっている点は、どうにも割り切れなさを覚える。そこにかえって、この本が積み残した広大にして豊饒な領域の広がりを感じた。
著者はこう述べ、にもかかわらず人はそのような断絶をたやすく見失い、そこに何か関係があるかのような〈妄想〉にとらわれ、その〈妄想〉が哀悼や追悼・葬礼や喪の仕事を支えているとする。その上で、「弔い」とは誰かの死と私の生とが徹底的に断絶していることを思い知ることだ、とするのである。
著者が述べていることには基本的に異存はない。にもかかわらず、あるいはだからこそ、そこには大きな取りこぼしがあるように思える。つまり、
「誰かの死と私の生は、徹底的に断絶している」
これもまた一つの〈妄想〉だという事実である。この二つの〈妄想〉は、「どちらかが真で、もう一方が偽である」といった関係にはない。本当のことは、一つではないのだ。
例えば、本書ではベネディクト=アンダーソンが徹底的に罵倒されているのだが、アンダーソンがこんなことを言っているとは評者には思えない。だが、著者にはどうやらこのように見えているようである。〈妄想〉にとらわれているのは、アンダーソンであろうか、著者であろうか、それとも評者なのであろうか…。
死や死者をめぐってもそもそ思考をめぐらしている評者にとっては、得るところのすこぶる多い一冊ではあった。けれども、上に書いたような「割り切れなさ」を著者がいともたやすく一刀両断に割り切ってしまっている点は、どうにも割り切れなさを覚える。そこにかえって、この本が積み残した広大にして豊饒な領域の広がりを感じた。