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イデオロギーの崇高な対象 単行本 – 2001/1/1
- 本の長さ353ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2001/1/1
- ISBN-104309242332
- ISBN-13978-4309242330
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
ラカンの綿密な読解を通して明らかにされた、フロイトの「夢」とマルクスの「貨幣」の根源、徹底的に象徴化に抗う「現実的なるもの」の全貌。政治と精神分析に革命をひきおこした現代思想界の鬼才ジジェクの代表作。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2001/1/1)
- 発売日 : 2001/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 353ページ
- ISBN-10 : 4309242332
- ISBN-13 : 978-4309242330
- Amazon 売れ筋ランキング: - 265,984位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 146位その他の西洋思想関連書籍
- - 2,456位哲学 (本)
- - 2,570位思想
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年6月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は超難解ですが、大変面白い。政治全般やマルクス、あるいはユダヤ人、そしてフロイトを中心として精神分析など内容は多岐にわたる。ある程度理解出来た部分は大変面白いが、最低限の知識がないところはまったくのチンプンカンプン、私にとっては特に精神分析の分野が難解過ぎた!!ヒッチコックを中心として説明の随所に映画の内容から引用されているが、ジジェクのヨーロッパテイストが感ぜられて興味深い。繰り返しになるが、ある程度理解出来て大変興味深い部分とまったく理解出来ない内容が並列的に語られる事実について、自分自身の知識の偏りと深い欠如を感じた。まだまだ勉強せねば。
2023年11月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ラカンの解説書。
解説の言葉を借りると「本書をわかりやすく噛み砕いて解説する必要はない。いや、解説すべきではない」ので、レビューする必要はない。いや、レビューすべではない。
解説の言葉を借りると「本書をわかりやすく噛み砕いて解説する必要はない。いや、解説すべきではない」ので、レビューする必要はない。いや、レビューすべではない。
2017年9月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ジジエク氏が英語で最初に出版した本、且つ処女作とは言え、
これまでの数々のラカン論を論破しており、
ラカン論を理解していないと、難しいかもしれない。
理論の題材として、取り上げているものは、1960~80年代のヒットした映画など、
少し古いのは否めないが、本書を読んでから、映画鑑賞の姿勢が変わってきた。
考え方に広がりが出て、ジジェク氏なら、どう考えるか意識するようになった。
これまでの数々のラカン論を論破しており、
ラカン論を理解していないと、難しいかもしれない。
理論の題材として、取り上げているものは、1960~80年代のヒットした映画など、
少し古いのは否めないが、本書を読んでから、映画鑑賞の姿勢が変わってきた。
考え方に広がりが出て、ジジェク氏なら、どう考えるか意識するようになった。
2020年3月23日に日本でレビュー済み
もう10年以上前に、書店で購入させていただきました。
スラヴォイ・ジジェクーー1949年スロヴェニア生まれのラカン派哲学者。
ジャック・ラカンの正統的な後継者である、ラカンの女婿のジャック=アラン・ミレールのもとで学位を取得。
学位論文のタイトルは『最も崇高なヒステリー症者ヘーゲル』で、原著は1988年に出版(フランス語の書籍)。
この本は文庫(河出文庫)としても出版されているのですが、ぼくは両方持っているとはいえ、単行本版を最後まで読んだので、こちらにレビューを書くことにしました。
文庫版のAmazonレビューを拝見すると、「ジジェクは凡庸な書き手で、さすがに偽物だろう」という趣旨の評価がありました。
うーむ、とぼくは唸ってしまいました。確かに。確かに言われてみると心の中でモヤモヤと言語化出来ていなかったモノを言語化していただけたような気持ちがします。
それでも星を5個つけたのは、この本を「哲学書」として読むのではなく、「哲学的評論」として読むと知的にスリリングで面白いと思ったからです(この本を最初一読して抱いた印象が、我が国の「評論=批評」に近いなぁというものでした)。
さて、内容ですが、レビュータイトルがそのまま結論ですね。
「イデオロギーとは≪享楽≫である」(本書帯より)。
つまりイデオロギーというのはフロイトの言う「物(das Ding)」であり、ラカンの言う対象aであり、ということは現実界に属しており、対象aに触れると人は享楽を感じます。享楽というのは苦痛をもたらすものでありながら、同時に快感を覚えるものでもあります。
結論は以下の部分だと思われるので引用します。
「右に述べたようなことは、一見すると純粋に思弁的な考察のように見えるが、これは精神分析的イデオロギー論にとって計り知れないほど重要である。狂暴で無意味な現実を引き受けて自分自身の作品として受け入れることを可能にする「空しい身振り」とは、最も初歩的なイデオロギー操作、<現実界>の象徴化、そしてそれが意味ある全体性に変形されること、そして大文字の<他者>の中に書き込まれること、それ以外の何であろうか。われわれは文字通り(つまり比喩としてではなく)、この「空しい身振り」が大文字の<他者>を措定し、それを存在させる、と言うことができる。この身振りを構成している純粋に形式的な転向とは、前象徴的な<現実界>から象徴的現実への、つまりシニフィアンのネットワークの網に囚われた<現実界>への転向に他ならない。言い換えると、この「空しい身振り」を通して、主体は大文字の<他者>の実存を前提とするのである」(p.343)
つまり、「精神分析的イデオロギー論」とは、イデオロギー=物(das Ding)=対象aを「シニフィアンのネットワークの網」に絡め取ること、平たく言えば「<現実界>の象徴化」を試みることです。
「訳者あとがき」にあるように、「ジジェクのもうひとつの大きな特徴は、ラカンについて論じる際に、サブカルチャーから例を拾ってくるということである。(中略)その手際は相当にアクロバティックで、浅田彰氏の言葉を借りれば、「その語り口は香具師めいて見えるほど才気に満ちている」」(pp.346-347)ので、リーダブルでもあり、知的スリリングさを楽しめます(だからこそ、逆に上述したように議論の正統さ=正確さが気になるところではありますが、ぼくは門外漢なのでそこまでは分かりかねます)。
オススメです。
スラヴォイ・ジジェクーー1949年スロヴェニア生まれのラカン派哲学者。
ジャック・ラカンの正統的な後継者である、ラカンの女婿のジャック=アラン・ミレールのもとで学位を取得。
学位論文のタイトルは『最も崇高なヒステリー症者ヘーゲル』で、原著は1988年に出版(フランス語の書籍)。
この本は文庫(河出文庫)としても出版されているのですが、ぼくは両方持っているとはいえ、単行本版を最後まで読んだので、こちらにレビューを書くことにしました。
文庫版のAmazonレビューを拝見すると、「ジジェクは凡庸な書き手で、さすがに偽物だろう」という趣旨の評価がありました。
うーむ、とぼくは唸ってしまいました。確かに。確かに言われてみると心の中でモヤモヤと言語化出来ていなかったモノを言語化していただけたような気持ちがします。
それでも星を5個つけたのは、この本を「哲学書」として読むのではなく、「哲学的評論」として読むと知的にスリリングで面白いと思ったからです(この本を最初一読して抱いた印象が、我が国の「評論=批評」に近いなぁというものでした)。
さて、内容ですが、レビュータイトルがそのまま結論ですね。
「イデオロギーとは≪享楽≫である」(本書帯より)。
つまりイデオロギーというのはフロイトの言う「物(das Ding)」であり、ラカンの言う対象aであり、ということは現実界に属しており、対象aに触れると人は享楽を感じます。享楽というのは苦痛をもたらすものでありながら、同時に快感を覚えるものでもあります。
結論は以下の部分だと思われるので引用します。
「右に述べたようなことは、一見すると純粋に思弁的な考察のように見えるが、これは精神分析的イデオロギー論にとって計り知れないほど重要である。狂暴で無意味な現実を引き受けて自分自身の作品として受け入れることを可能にする「空しい身振り」とは、最も初歩的なイデオロギー操作、<現実界>の象徴化、そしてそれが意味ある全体性に変形されること、そして大文字の<他者>の中に書き込まれること、それ以外の何であろうか。われわれは文字通り(つまり比喩としてではなく)、この「空しい身振り」が大文字の<他者>を措定し、それを存在させる、と言うことができる。この身振りを構成している純粋に形式的な転向とは、前象徴的な<現実界>から象徴的現実への、つまりシニフィアンのネットワークの網に囚われた<現実界>への転向に他ならない。言い換えると、この「空しい身振り」を通して、主体は大文字の<他者>の実存を前提とするのである」(p.343)
つまり、「精神分析的イデオロギー論」とは、イデオロギー=物(das Ding)=対象aを「シニフィアンのネットワークの網」に絡め取ること、平たく言えば「<現実界>の象徴化」を試みることです。
「訳者あとがき」にあるように、「ジジェクのもうひとつの大きな特徴は、ラカンについて論じる際に、サブカルチャーから例を拾ってくるということである。(中略)その手際は相当にアクロバティックで、浅田彰氏の言葉を借りれば、「その語り口は香具師めいて見えるほど才気に満ちている」」(pp.346-347)ので、リーダブルでもあり、知的スリリングさを楽しめます(だからこそ、逆に上述したように議論の正統さ=正確さが気になるところではありますが、ぼくは門外漢なのでそこまでは分かりかねます)。
オススメです。
2016年6月26日に日本でレビュー済み
『欲望を諦めるな』→「欲望と折り合いを付けるな。」
不足の自覚が人生のデフォルト。『C:気高く飢える』
自分に対して、安易に説明しきるのはあまり良い事ではない。
当たり前のことについての象徴性について。
ある行動の象徴性。行動には前提、条件が含まれており、
その辺が象徴に繋がる。
←お互い様ではあるけど、物凄く暴力的。
~だから=でしょ?みたいな考えはどうしてもあるわけで。
あなたの行動はこういう意味でダメなんですよ。
って伝えたりするのは、かなりありがちで怖いこと。
ユニークな行動解釈にこそ、その人の個性が宿る?
→人が良いと思う所で、悪いと思ったり?
『マルクスが理解できるから共産主義者だ、というのは間違いだ。
共産主義者だからマルクスを理解できるんだ。』P84
←後付けの論理。結果と状態の論理の方向。
『道を知っている者は迷う』
「求めるから失望できる。行動しているから失敗できる」
ある属性、ある行動が何を意味するか?
意味があって、行動するのか。行動したことで意味が決まるのか。
指示対象と因果関係
機械である以上、生産量増大による…って部分だけど、
人の仕事の効率化に多分、限度はない。
量を作れるようになったところで…な部分はあるわけで。
ある対象にどういう象徴を見出すか?
自分が思う、ある対象に対するイメージ。
『イメージとまなざし』
人は人と関わってかつ人のことを気にするほど、平均的な人間になる。
自分が想像する他者は、平均的なものにならざるを得ない。
自分が思う
(他者がある対象に対して思う)
イメージは、
極端な想像はできないので、他者の期待に応える人生は、
平均的なものになりがちな気がする。
『誰のために主体はその役割を演じているのか。
主体がある種のイメージにみずからを同一化するとき、
いかなるまなざしが考慮されているのか。
自分が自分自身を見る見方と、
そこから見ると自分が自分にとって好ましく見えるような場所との、
このずれは、
ヒステリー(とその亜種としての強迫神経症)の理解にとって、
いわゆるヒステリー症者の劇場にとって、きわめて重要である。』P203
クールビズ、制服か私服か。
自由で選択肢が増えると、情報量が増す。
自由と象徴。
象徴を理解することの大切さ。GAP問題。
個性は人が判断するもの。
自分が他者に期待する反応。という構造を含めるとそういう話になる。
欲望・象徴・空想→価値、この辺の関わりについて説明できるように。
強制された選択
選択が意味するものを出来る限り、正確に把握した方がいい。
選択しない。という選択も含めて何かを意味するので、
選択は常に強制されていると考えられる。
「選択しないことを選択しているんでしょ?」って考え。
罪悪感
←不作為論
ある行動が選択肢に含まれるか?というのは凄い個性。
そして、ある行動が選択肢に含まれなかった。事をあまり
人は後悔しないけど、選択肢に含まれたけど、
行動しなかったことに関して、人は後悔する。
・・・はずの主体
信じているはず、楽しんでいるはず、欲望しているはず。
不足の自覚が人生のデフォルト。『C:気高く飢える』
自分に対して、安易に説明しきるのはあまり良い事ではない。
当たり前のことについての象徴性について。
ある行動の象徴性。行動には前提、条件が含まれており、
その辺が象徴に繋がる。
←お互い様ではあるけど、物凄く暴力的。
~だから=でしょ?みたいな考えはどうしてもあるわけで。
あなたの行動はこういう意味でダメなんですよ。
って伝えたりするのは、かなりありがちで怖いこと。
ユニークな行動解釈にこそ、その人の個性が宿る?
→人が良いと思う所で、悪いと思ったり?
『マルクスが理解できるから共産主義者だ、というのは間違いだ。
共産主義者だからマルクスを理解できるんだ。』P84
←後付けの論理。結果と状態の論理の方向。
『道を知っている者は迷う』
「求めるから失望できる。行動しているから失敗できる」
ある属性、ある行動が何を意味するか?
意味があって、行動するのか。行動したことで意味が決まるのか。
指示対象と因果関係
機械である以上、生産量増大による…って部分だけど、
人の仕事の効率化に多分、限度はない。
量を作れるようになったところで…な部分はあるわけで。
ある対象にどういう象徴を見出すか?
自分が思う、ある対象に対するイメージ。
『イメージとまなざし』
人は人と関わってかつ人のことを気にするほど、平均的な人間になる。
自分が想像する他者は、平均的なものにならざるを得ない。
自分が思う
(他者がある対象に対して思う)
イメージは、
極端な想像はできないので、他者の期待に応える人生は、
平均的なものになりがちな気がする。
『誰のために主体はその役割を演じているのか。
主体がある種のイメージにみずからを同一化するとき、
いかなるまなざしが考慮されているのか。
自分が自分自身を見る見方と、
そこから見ると自分が自分にとって好ましく見えるような場所との、
このずれは、
ヒステリー(とその亜種としての強迫神経症)の理解にとって、
いわゆるヒステリー症者の劇場にとって、きわめて重要である。』P203
クールビズ、制服か私服か。
自由で選択肢が増えると、情報量が増す。
自由と象徴。
象徴を理解することの大切さ。GAP問題。
個性は人が判断するもの。
自分が他者に期待する反応。という構造を含めるとそういう話になる。
欲望・象徴・空想→価値、この辺の関わりについて説明できるように。
強制された選択
選択が意味するものを出来る限り、正確に把握した方がいい。
選択しない。という選択も含めて何かを意味するので、
選択は常に強制されていると考えられる。
「選択しないことを選択しているんでしょ?」って考え。
罪悪感
←不作為論
ある行動が選択肢に含まれるか?というのは凄い個性。
そして、ある行動が選択肢に含まれなかった。事をあまり
人は後悔しないけど、選択肢に含まれたけど、
行動しなかったことに関して、人は後悔する。
・・・はずの主体
信じているはず、楽しんでいるはず、欲望しているはず。
2016年7月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ジジェクの著作で一番好きな作品です。難解な理論を映画、文学作品などを取り上げて、平易な言葉で解説しています。
2019年8月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
フロイトからラカンの線は、自我を図式的に二つに分けて一方を空想界に住まわせ、世界を空想的なものとして語ることを可能にした。ラカンに至っては主体を象徴界に置くことで、むしろ現実の場所をなくしてしまう。もちろんラカン本人だけはなぜかすべての仕組みを理解しているのである。そしてヘーゲルからマルクスへの道は、自在に主観と客観世界を逆転させる論法を可能にする。この二つの思想的背景に加え、映画や小説などのフィクションを交えれば、どんな現実離れしたことでも、これが現実だよといって読者に差し出せるというものだ。つまりいかなるでたらめもひねり出せる魔法の杖である
ジジェクの論法は例えば、法は法であるから人が従うのであって、そこに真実があるからではない、みたいな言い草に典型的だ。法は一般的な妥当性の緩やかな同意だから、まっすぐに人の真実を表すわけではないことは確かだが、でも殺人は個人の安寧にとってあまり良いものではないだろう。つまり法はいくばくかの真実を含んではいるわけで、そういう微妙なところを無視して極論を述べる。これでは例えばハイエクのようなきめ細かな議論を反駁できない。もちろん私はハイエクが正しいなどというつもりなのではなく、ジジェクの方が人間心理に寄り添ったより深い議論であると考えるとしたら、それは読み手の理解力があまりに幼いと思うのだ
理屈の杜撰さはあらゆるページにでる。等価交換が存在するという前提から搾取という概念が導き出されるが、資本主義の登場以前は等価交換が一般的であったという想定はどうなのだろう。マルクスの原始共産制のような、暢気な絵空事をよくも書いたものだ
ラカンを巻き込めば過去を変えることもできる。それはある意味ではそうなのだろう。ジジェクはそのうえ、過去と未来を交換することさえやってみせる。ある意味ではそれも可能だろう。問題はその「ある意味」を丁寧に解きほぐすことではないか。信じられないことにジジェクは過去と未来の交換をまっすぐな事実として語るのだが、軽口とか冗談とかではない。あまりの軽薄に唖然とするところだが、ジジェクの魔力に取りつかれた人は引っかかることなく読み流すのだろうか
そのほか、資本主義全体の構造と個人の行動とは、抽象―個別の関係ではないだろうとか、いろいろ言いたいことはあるが、ジジェクの信奉者にはこうしたことは少しも響かないんだろうな。書き手からすればハッタリでもなんでも読者を巻き込めば勝ちだが、進んでこういう偽書に称賛を与える必要はない。残念だ
ジジェクというのは、ちょっと斜に構えて知的ぶりたい人の素材として便利なのだろうという感想しか浮かばない。ジジェク自身も物事の本質を見極めるだけの思考力の欠如した、ただ出来合いの知識をあれこれ按配するだけの、自分の言葉を持たない、非常に薄っぺらな人間なのだろうと思う。この本からこの着想は中々と思えるようなものは何も得られなかった。読むほどにただ徒労感のみ募る凡庸な書き手
ジジェクの論法は例えば、法は法であるから人が従うのであって、そこに真実があるからではない、みたいな言い草に典型的だ。法は一般的な妥当性の緩やかな同意だから、まっすぐに人の真実を表すわけではないことは確かだが、でも殺人は個人の安寧にとってあまり良いものではないだろう。つまり法はいくばくかの真実を含んではいるわけで、そういう微妙なところを無視して極論を述べる。これでは例えばハイエクのようなきめ細かな議論を反駁できない。もちろん私はハイエクが正しいなどというつもりなのではなく、ジジェクの方が人間心理に寄り添ったより深い議論であると考えるとしたら、それは読み手の理解力があまりに幼いと思うのだ
理屈の杜撰さはあらゆるページにでる。等価交換が存在するという前提から搾取という概念が導き出されるが、資本主義の登場以前は等価交換が一般的であったという想定はどうなのだろう。マルクスの原始共産制のような、暢気な絵空事をよくも書いたものだ
ラカンを巻き込めば過去を変えることもできる。それはある意味ではそうなのだろう。ジジェクはそのうえ、過去と未来を交換することさえやってみせる。ある意味ではそれも可能だろう。問題はその「ある意味」を丁寧に解きほぐすことではないか。信じられないことにジジェクは過去と未来の交換をまっすぐな事実として語るのだが、軽口とか冗談とかではない。あまりの軽薄に唖然とするところだが、ジジェクの魔力に取りつかれた人は引っかかることなく読み流すのだろうか
そのほか、資本主義全体の構造と個人の行動とは、抽象―個別の関係ではないだろうとか、いろいろ言いたいことはあるが、ジジェクの信奉者にはこうしたことは少しも響かないんだろうな。書き手からすればハッタリでもなんでも読者を巻き込めば勝ちだが、進んでこういう偽書に称賛を与える必要はない。残念だ
ジジェクというのは、ちょっと斜に構えて知的ぶりたい人の素材として便利なのだろうという感想しか浮かばない。ジジェク自身も物事の本質を見極めるだけの思考力の欠如した、ただ出来合いの知識をあれこれ按配するだけの、自分の言葉を持たない、非常に薄っぺらな人間なのだろうと思う。この本からこの着想は中々と思えるようなものは何も得られなかった。読むほどにただ徒労感のみ募る凡庸な書き手