ネタバレあり。
人間は生きている限り、色んなしがらみを抱えていくしかないのだなぁ、と思わせます。
ごめんなさい。これから先の記事では、本編ストーリーを殆ど語ってしまいます。ネタバレになりますが……。ストーリーを知ってしまっても、読みごたえが減じるような作品ではないですからご安心ください。
主人公・秋幸の実父が、甲斐性の有る男なんですが、性に関してはやりたい放題な生き方をします。
土地を買いたたいて利益を得ようとする時に、その利益とは無関係なのですが、他人の家に入っていって人の妻を強姦する。それによって出来た子が、主人公・秋幸なんです。(間違ってたらごめんなさい。本編が長いので正確な背景が再確認しにくくて…)
秋幸は冒された妻の本来の夫との間の子として育てられます。
母の竹原フサには、主人公の実父浜村龍造への意地があったのでしょう。
浜村龍造には、本妻が居て妾が居ます。そしてフサとも関係を持ちました。
そして、フサのほうには前夫との間に三人の子が居て、再婚相手の繁蔵との生活には繁蔵の連れ子が居ます。浜村龍造とフサの間に出来てしまった子が、秋幸。浜村龍造と本妻の間に三人の子。浜村龍造と愛人の間に一人の子。
これだけの子供がそれぞれ成長して、それぞれに思いを持って生きている。
フサの前夫の子らは、独立して離れているが、そんな子らが、フサの孫娘が結婚することになって、祝言のために顔を合わす。
家族それぞれのじがらみ、業を思わされます。
フサの前夫との間の子、郁男(長兄)は、秋幸が幼い頃に、毎日のように畳に包丁を突き立てて、「お前ら二人とも殺してやる」と凄みます。郁男にしてみれば、母フサは、浜村龍造によって穢されている訳です。浜村龍造の血の入った弟、秋幸も同時に憎いのです。
しかし、結局、郁男は殺人を犯すのではなく、家の裏山の柿の木で首を縊って死んでしまいます。
フサの二番目の夫は、(前夫は病死です)竹原繁蔵。繁蔵は建設業をしています。繁蔵に家で育てられた秋幸は、大人になると繁蔵の下で働き、26歳の現在、土方仕事の一つの組を任されています。
つるはしで土を掘り起こす様子が、体験した者でしか書けない、汗と熱気が沸き立つ描写でした。
さらに、何故、一生懸命に肉体労働に邁進するのか。それは、自分が浜村龍造の子で、性に無頓着な獣の血を受け継いでいると常々思っているから、その気持ちを浄化させる為に働いているのです。
浜村龍造は、フサとは一緒になれず、別の土地に生きています。その龍造との再会。材木屋をやっている俺のところに来ないか、という龍造の秋幸に対する誘い。
龍造は、土地を買い占め、それを転売することで成り上がってきた男。目論んでいる建物を建てるのに邪魔な家には立ち退きを迫り、それでも家が残ると付け火をするといった悪事を重ねてきて成功した男です。しかし、彼自身の口から秋幸に対して、それを認める発言はついに得られませんでした。
自己を記念する為、後世に足跡を遺す為、さらには自己の栄誉心から、浜村龍造は枯木灘という土地に、浜村孫一の碑を建てます。浜村孫一とは、戦国時代の武将で、織田信長(家康だったかも)に抗い、昔からの土地を護る為に玉砕覚悟で戦い戦死した男です。敗走するとき、和歌山の山中に逃げ込み、片目になり片足を引きずりながら命からがら枯木灘に辿りつく。そこでついに息絶えた。その浜村孫一と浜村龍造は血縁で繋がっている(孫一が先祖であった)という保証はどこにもない訳だけれども、こじつけてでも碑を建ててしまう。
そういうやり手で悪い男の龍造を、秋幸は心から赦すことができない。
妾の娘にも手をかけてしまったと噂のある浜村龍造。秋幸は、どうせ俺の血は穢れているんだという思いから、自分の異母兄妹の売春婦をしていたさと子とも知っていながら関係を持ってしまう。
最後は、龍造の正式の子の秀雄と口論になり、祭りの夜、「自分の父親を悪く言うな」と、石を持って殴りかかってきた秀雄を秋幸は反対に殺してしまう。その秀雄と口論になっている姿が、秀雄が、幼いときの自分であり、今の自分は自殺する前の郁男のように感じる、と主人公自ら文中で語っています。
親族の永い歴史であり、昔あったことと同じような事が何代か先にも起こる、というのは神話的構造です。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』も、同じ範疇に入ります。
ストーリーを殆ど語ってしまって申し訳ありません。
文体は、悪文と言われる適切ではない日本語も頻出してきて、三人称で書かれて主語はその度その度に出てきますが、主語が変わるのが目まぐるしく読みにくい作品でした。
しかし、その文体が、何故か読み進み後半にもなってくると、荒々しい路地の人達の気性や生きるための徒労のような仕事を表すにはぴったりくる文章に感じました。
『枯木灘』本編のような内容は、普通にある生活とは言えないかも知れませんが、生活そのものを忠実に描写すると、その期間が長いと、うーん、と呻ってしまう文学になりえるなぁ、と感じました。
感想としては、生きるのは、生きていくのは、大変だなあ、と思いました。どんな人にも色んな事が起こるし
、しがらみを持ちながらでも人間は生きていくしかない、と感じさせられます。
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枯木灘 (河出文庫 102A) ペーパーバック – 1980/6/1
中上 健次
(著)
自然に生きる人間の原型と向き合い、現実と物語のダイナミズムを現代に甦えらせた著者初の長篇小説。毎日出版文化賞と芸術選奨文部大臣新人賞に輝いた新文学世代の記念碑的な大作!
- 本の長さ312ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日1980/6/1
- ISBN-104309400027
- ISBN-13978-4309400020
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登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (1980/6/1)
- 発売日 : 1980/6/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 312ページ
- ISBN-10 : 4309400027
- ISBN-13 : 978-4309400020
- Amazon 売れ筋ランキング: - 132,166位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1946年和歌山県新宮市生まれ。作家・批評家・詩人。『灰色のコカコーラ』でデビュー。73年、『十九歳の地図』が第69回芥川賞候補となる。76年 『岬』で第74回芥川賞を受賞。ウィリアム・フォークナーに影響を受け、土俗的な手法で紀州熊野を舞台に「紀州サーガ」とよばれる小説群を執筆。92年没(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 紀州 木の国・根の国物語 (ISBN-13: 978-4041456118 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年11月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
推薦文を読み購入したげれど内容がまったく理解不能でこんなに感じているのは私だけ?と不安になるほど退屈なないようでした。
2015年11月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
文庫化されたときには、本編と付記のための目次が入るわけで、1ページ分ずれる。単行本が出たときは、あの家系図が冒頭を飾ったのではないかと推測する。
前半の、出所して戻ってきただけで火災が増える「その男」の存在感は素晴らしいが、たとえば、五郎、秀雄、徹、女なら美智子、紀子、さと子などのキャラクターの違いが感じられないので、平板な印象になった。そういう描き分けに興味が無いのかもしれないけど。
噂によって事実が歪曲されていくところに注目したのは、面白い。
前半の、出所して戻ってきただけで火災が増える「その男」の存在感は素晴らしいが、たとえば、五郎、秀雄、徹、女なら美智子、紀子、さと子などのキャラクターの違いが感じられないので、平板な印象になった。そういう描き分けに興味が無いのかもしれないけど。
噂によって事実が歪曲されていくところに注目したのは、面白い。
2011年1月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
既に社会的評価の定まった本作ですが、自分なりの解釈を交え、レビューにしたいと思います。
一読のみの感想です、しかし、そこに再読したかのような感覚があったのが何故か不思議です。
実は本作、何度か読了まで挫折を重ねています。その文体には、ある種独善的とも言えるほどの
迫真性があり、特異な読力を要求されるからです。こうしたことは、近年の作風にはあり得ないものでしょう。
幸い、ネットに執筆当時のエッセイを見つたので、以下、一部抜粋します。
「ドストエフスキイの小説『罪と罰』を読んだのは高校時代だった、と思う。いや読んだのではなく、
読みかけて途中退屈し、後はとばし読みしたのは、である。それからしばらくして、私にはその
ドストエフスキイは、軽蔑と嘲笑の対象だった。(中略)よくこんなに退屈なものを冗長に書けるものだと、
感じ入り、また軽蔑した。文庫本を次々買って来て読み囓りはするが、冗長な文章につきあっているほど
暇じゃない、とほうり出した。実際、暇はなかった。聴きたいジャズが、朝から自分の耳の中で鳴っていたし、
借りていた部屋の外はペテルブルグではなく一千万の都会の朝だ」
ドフトエフスキーについては、私にとっても似たようなものですが、この「枯木灘」にも、今、同様の思いを抱きます。
この作品は、熊野という場の根拠に最善を恵まれたろう、作者による畢生の名作と評価されますが、その可能性を確かめる意味で、
自身の率直な感想を言いたいと思います。これには柄谷氏の評論などの影響もありますが、凡そそれは、一点に集約されます。
本作中、最も印象的な部分を引きます。
「フサは秋幸を連れて繁蔵と逢引した。まめを繁蔵がかみくだいて秋幸に食べさせた、と言った。いつの日か分からぬが、
映画に行き、秋幸がその画面の中のおどけた男の仕種が気味悪く早く帰ろうと言った。それがチャップリンだった、と後でわかった。
(中略)郁男は自殺した。美恵は気が触れた。秋幸一人、無傷だった。いや秋幸でさえ、ひとたびこの、父と父の子と、
母と母の子の家を出ると、無傷では済まされない。」(P136)
この小説は、中上健次の内面世界の劇です。内面化された熊野の地と血縁は、現実のそれとは別ものである筈です。
そこで中上健次少年にとってのチャップリンと言う他者が告白されます。専横な力の象徴としての父、その柵の下で、主人公、秋幸は、
発作的に兄弟を殺してしまい、その小説世界から逃れ、隠されてしまいます。終結にはそして、幼児性を象徴する徹が強調されてゆきます。
この小説は、中上健次という他者性そのものです。私は終止その人とその世界に突き放されたまま、それを読み終えました。
こんな小説を読んだことは、正直に言ってありません。小説自体が隣人そのものである様なものです。
[強烈なリアリティによる自己の寓話]と、言ってみてもよいでしょうか?多くの作家がこのような境遇に恵まれることはないでしょうし、
以降の日本文学は、この成果を巧みにスキップしてしまったようで、この頃の小説は、小説然として佇んでいる気がします。
「かくして、『枯木灘』という私の処女長篇は、ドストエフスキイという作家に反発しながら書いた。だが、いまひるがえってみると、
反発や軽蔑とは触発というものと同義である事に気づくのである。つまり、さながら敬虔なクリスチャンが聖書をめくり一節を読むように、
深夜、一人、ドストエフスキイを読んでいたように思えてくるのである」
嘗て作家のそうしたように、今、この小説を読み返す者のどれほどあるのか分かりません。
現実の全てである筈もない小説表現の担うべき分とは、ではその先にどんな梢を伸ばすべきなのか、柔らかな葉の表に日を撥ね得るのか、
「枯木灘」とは、寂しい碑銘にならないことを切に願います。
夢の力 (1981年) (角川文庫)
一読のみの感想です、しかし、そこに再読したかのような感覚があったのが何故か不思議です。
実は本作、何度か読了まで挫折を重ねています。その文体には、ある種独善的とも言えるほどの
迫真性があり、特異な読力を要求されるからです。こうしたことは、近年の作風にはあり得ないものでしょう。
幸い、ネットに執筆当時のエッセイを見つたので、以下、一部抜粋します。
「ドストエフスキイの小説『罪と罰』を読んだのは高校時代だった、と思う。いや読んだのではなく、
読みかけて途中退屈し、後はとばし読みしたのは、である。それからしばらくして、私にはその
ドストエフスキイは、軽蔑と嘲笑の対象だった。(中略)よくこんなに退屈なものを冗長に書けるものだと、
感じ入り、また軽蔑した。文庫本を次々買って来て読み囓りはするが、冗長な文章につきあっているほど
暇じゃない、とほうり出した。実際、暇はなかった。聴きたいジャズが、朝から自分の耳の中で鳴っていたし、
借りていた部屋の外はペテルブルグではなく一千万の都会の朝だ」
ドフトエフスキーについては、私にとっても似たようなものですが、この「枯木灘」にも、今、同様の思いを抱きます。
この作品は、熊野という場の根拠に最善を恵まれたろう、作者による畢生の名作と評価されますが、その可能性を確かめる意味で、
自身の率直な感想を言いたいと思います。これには柄谷氏の評論などの影響もありますが、凡そそれは、一点に集約されます。
本作中、最も印象的な部分を引きます。
「フサは秋幸を連れて繁蔵と逢引した。まめを繁蔵がかみくだいて秋幸に食べさせた、と言った。いつの日か分からぬが、
映画に行き、秋幸がその画面の中のおどけた男の仕種が気味悪く早く帰ろうと言った。それがチャップリンだった、と後でわかった。
(中略)郁男は自殺した。美恵は気が触れた。秋幸一人、無傷だった。いや秋幸でさえ、ひとたびこの、父と父の子と、
母と母の子の家を出ると、無傷では済まされない。」(P136)
この小説は、中上健次の内面世界の劇です。内面化された熊野の地と血縁は、現実のそれとは別ものである筈です。
そこで中上健次少年にとってのチャップリンと言う他者が告白されます。専横な力の象徴としての父、その柵の下で、主人公、秋幸は、
発作的に兄弟を殺してしまい、その小説世界から逃れ、隠されてしまいます。終結にはそして、幼児性を象徴する徹が強調されてゆきます。
この小説は、中上健次という他者性そのものです。私は終止その人とその世界に突き放されたまま、それを読み終えました。
こんな小説を読んだことは、正直に言ってありません。小説自体が隣人そのものである様なものです。
[強烈なリアリティによる自己の寓話]と、言ってみてもよいでしょうか?多くの作家がこのような境遇に恵まれることはないでしょうし、
以降の日本文学は、この成果を巧みにスキップしてしまったようで、この頃の小説は、小説然として佇んでいる気がします。
「かくして、『枯木灘』という私の処女長篇は、ドストエフスキイという作家に反発しながら書いた。だが、いまひるがえってみると、
反発や軽蔑とは触発というものと同義である事に気づくのである。つまり、さながら敬虔なクリスチャンが聖書をめくり一節を読むように、
深夜、一人、ドストエフスキイを読んでいたように思えてくるのである」
嘗て作家のそうしたように、今、この小説を読み返す者のどれほどあるのか分かりません。
現実の全てである筈もない小説表現の担うべき分とは、ではその先にどんな梢を伸ばすべきなのか、柔らかな葉の表に日を撥ね得るのか、
「枯木灘」とは、寂しい碑銘にならないことを切に願います。
夢の力 (1981年) (角川文庫)
2013年7月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自分の読解力が無いのか読み進めるのが辛かった。
物語は目まぐるしい場面の移り変わり、
気づくと過去の記憶をたどってる場面に移り変わり
それに気づくと、今度は場所が移り変わる。
今読んでる場面がいつのできことなのか分からなくなる。
この文書構成に何度挫折しかけたか。。
作業のように読みきった感は否めない。
小さな集落の複雑な血縁関係の中、各自が本能の赴くまま生きて行き
結局その集落の中で救いようの無い虚無感だけが残された。
物語は目まぐるしい場面の移り変わり、
気づくと過去の記憶をたどってる場面に移り変わり
それに気づくと、今度は場所が移り変わる。
今読んでる場面がいつのできことなのか分からなくなる。
この文書構成に何度挫折しかけたか。。
作業のように読みきった感は否めない。
小さな集落の複雑な血縁関係の中、各自が本能の赴くまま生きて行き
結局その集落の中で救いようの無い虚無感だけが残された。
2020年8月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
幻冬舎の見城社長の薦めでこの本を手にとりました。しかし、こんな本もまだまだ有るんだなぁ、と嬉しく思います。
これほど美しい土の描写を見たことがありません。風や太陽の表現は良く目にするものの、土がこれほどまでに生き生きと、そして通底して絡んでくるのはこの小説以外にないでしょう。
昔を思い出します。ここほど複雑な系図ではありませんが、枯木灘のような疎ましい親族づきあいはどこにでもあると思います。その場にいて怒鳴りたくなるような、昔話と辛気臭い近所の悪口雑言。
お盆に読むことをおすすめします。ちょうどいいと思います。
これほど美しい土の描写を見たことがありません。風や太陽の表現は良く目にするものの、土がこれほどまでに生き生きと、そして通底して絡んでくるのはこの小説以外にないでしょう。
昔を思い出します。ここほど複雑な系図ではありませんが、枯木灘のような疎ましい親族づきあいはどこにでもあると思います。その場にいて怒鳴りたくなるような、昔話と辛気臭い近所の悪口雑言。
お盆に読むことをおすすめします。ちょうどいいと思います。
2011年3月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人間の心の内側から搾り出すような文章表現は、終始ストーリーとしてはメロドラマだなと思いつつ冷めた目で読んでいるのに、一瞬で感情移入させられてしまう見事さがあった。
話の内容は、どうしようもない親の子に生まれた主人公とその家族や周辺の人々が、どうしようもない血に巻き込まれて生きていくという話である。憎んでいるものの、自分の血の半分はその憎い男のもので、心の奥底では愛情(父親を愛したいという願望)もある。その中で葛藤しながらも、自分の心の奥底に憎む父親と同じ物を見てしまい苦悩する。そんな話だ。
不幸な生い立ちだとは思うが、主人公は血に負けただけだ。似たような境遇を乗り越えた人もいるだろう。そんな負け犬の話だ。
話の内容は、どうしようもない親の子に生まれた主人公とその家族や周辺の人々が、どうしようもない血に巻き込まれて生きていくという話である。憎んでいるものの、自分の血の半分はその憎い男のもので、心の奥底では愛情(父親を愛したいという願望)もある。その中で葛藤しながらも、自分の心の奥底に憎む父親と同じ物を見てしまい苦悩する。そんな話だ。
不幸な生い立ちだとは思うが、主人公は血に負けただけだ。似たような境遇を乗り越えた人もいるだろう。そんな負け犬の話だ。