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文字移植 (河出文庫 た 15-1 BUNGEI Collection) 文庫 – 1999/7/1
- 本の長さ152ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日1999/7/1
- ISBN-10430940586X
- ISBN-13978-4309405865
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登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (1999/7/1)
- 発売日 : 1999/7/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 152ページ
- ISBN-10 : 430940586X
- ISBN-13 : 978-4309405865
- Amazon 売れ筋ランキング: - 880,953位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
【著者紹介】
多和田葉子(たわだ・ようこ)
小説家、詩人。1960年3月23日東京都中野区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルク大学大学院修士課程修了。文学博士(チューリッヒ大学)。
1982年よりドイツに在住し、日本語とドイツ語で作品を手がける。1991年『かかとを失くして』で群像新人文学賞、1993年『犬婿入り』で芥川賞を受賞。2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞、2002年『球形時間』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、2003年『容疑者の夜行列車』で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞、2005年にゲーテ・メダル、2009年に早稲田大学坪内逍遙大賞、2011年『尼僧とキューピッドの弓』で紫式部文学賞、『雪の練習生』で野間文芸賞、2013年『雲をつかむ話』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数。2016年にドイツのクライスト賞を日本人で初めて受賞。2018年『献灯使』で全米図書賞翻訳文学部門受賞。
著書に『ゴットハルト鉄道』『飛魂』『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』『旅をする裸の眼』『ボルドーの義兄』『百年の散歩』『地球にちりばめられて』などがある。
ヨーロッパ、アメリカ、アジアでこれまで700回以上の朗読会を開いている。アメリカではスタンフォード大学、コーネル大学、マサチューセッツ工科大学など1999年以降多数の大学に招かれ、数日から数ヶ月滞在。著作は日本語でもドイツ語でも20冊以上出版されており、フランス語訳、英訳の他にも、イタリア語、中国語、ポーランド語、韓国語、ロシア語、オランダ語、スェーデン語、ノルウェー語などの翻訳が出ている。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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「ペルソナ」でもそうですが、この作者は「言語」に対しての意識が敏感です。特に、異なった言語間での差異について、です。文字移植では、(おそらく)ある小説をドイツ語から日本語に翻訳するために火山島にやってきた女の話です。彼女は訳すことについて真摯に向き合っています。現実と小説世界の境界は破壊され、日本語とドイツ語の境界は破壊され、主人公はしだに分裂していきます。翻訳とはおそらく一度言語を解体して、母国語に直していく作業ですが、この小説では主人公が解体されていきます。バナナと水のメタファ、海を越えられない女、火口に立つ女、言語の限界に猛進していく実に刺激的な小説です。
他の彼女の作品は読んで惹かれるものがあり、好きな作家です。
が、これは自身のイライラを他人に移植させる... だからといって本人がこれを書くことで一体? 申し訳ないが趣味が悪いし気分も悪い。
乾いた河底を「わたし」と歩く「作者」は、こう呟く。<水があったら道ではなくて河でしょう。それでも別に困りはしないけれど。道がなかったら歩かなければいいのだから>。水が流れていた痕跡としての道と、ドラゴン風に追い払われた水。恐らく「水」は言葉の意味の、島に転がる「石」は単語のメタファーだ。乾いたインクの染みとしての文字が、失われた意味の痕跡だとすれば、「わたし」の訳した言葉は水性インクのように危うい。水の流れを伝えるべき言葉の群れは、実際に水が流れたなら、消失してしまうだろう。
統辞法の異なる言語への移植作業(=翻訳)に四苦八苦する「わたし」にとって、自らが逐語訳的に異国語の統辞法に沿って配列してしまい、意味を半ば解体してしまった日本語は、「濡れもせず乾きもせずに石の上に絶えず揺れている影」、言葉の分裂によって知覚も感情も分裂してしまった、彼女自身の影である。<道がなかったら歩かなければいい>という言葉は、翻訳者という存在、「わたし」を排除する言葉だ。
どこまでも異邦人でしかいられない彼女が「二十五メートルしか泳げない」のはどこか、カフカの『審判』で掟の門番が語る「三人目の門番を見ただけでも俺には耐えられない」という言葉に似ている。言語を越えて真実を見ようとする者が直面する、死や狂気のような、直視し難いものの露出。
「わたし」の皮膚に起こるアレルギーや、靴に勝手に入って痛みを与える小石、或いは島の人々との何気ない会話など全て、「文字移植」に伴う拒絶反応に苦しむ「わたし」の症状の表れでもある。意味の外れた文字の物質性から、皮膚感覚へ。
翻訳・解釈という作業の難しさを、詩的実験的な文体でごりごりと書いていく、という感じでしょうか。狙いは何となく分かるのだけれど、そして理屈で説明のつかないことを表現しようとしていることも分かるのだけれど、私には少々実験的な匂いが強すぎました。