無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
源泉の感情 (河出文庫 み 15-3) 文庫 – 2006/2/4
三島 由紀夫
(著)
- 本の長さ440ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2006/2/4
- ISBN-104309407811
- ISBN-13978-4309407814
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2006/2/4)
- 発売日 : 2006/2/4
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 440ページ
- ISBN-10 : 4309407811
- ISBN-13 : 978-4309407814
- Amazon 売れ筋ランキング: - 392,994位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 421位論文集・講演集・対談集
- - 1,571位河出文庫
- - 6,646位近現代日本のエッセー・随筆
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威。
1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。
主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。
カスタマーレビュー
星5つ中4.9つ
5つのうち4.9つ
6グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年9月3日に日本でレビュー済み
読書感想文のものすごいオタクというかフェチで、それが高じて、自分でも真似して美しい文章を書きたくなって、物書きになったのではと思う。よく言われているように、祖母夏子の影響が大きいのではないかと思う。女の子のように育てられ、女の子のような敏感な感受性や美意識(美しさを称える意識)が徹底的に植つけられているのだと思う。成長し、学校で他の男の子たちと遊ぶ中で、男の子としての自分と、女の子としての自分の矛盾に劣等感を感じるとともに、他の男の子に無い鋭敏繊細な感受性への優越感との両方を合わせ持つこと、合一することになったのではないか。
2008年2月25日に日本でレビュー済み
本書は、三島由紀夫と小林秀雄、安部公房、野坂昭如、石原慎太郎、武田泰淳、坂東三津五郎などとの、合計十四もの豪華な大御所対談が収録された一冊です。
伝統主義者たる三島の文学に対する驚くべき豊饒な知識と、それを通して彼が透視する同時代の文学というものが対談により顕現され、非常に勉強になります。全ての対談を通して、三島や対談者の、昭和日本男児特有のパッションが感ぜられ、意見が異なるところは妥協せずに言い合うという姿勢が凄く魅力的です。これを読むと、平野啓一郎氏の対談集が、単に知性重視の戯言にすら見えてしまいます。三島はやはり、平野氏以上に豊富な知識と情熱を備えた人物であり、疑うこと無きカリスマです。彼の知性には嫉妬を感じる前に天晴れお手上げという状態です。まあ、小林秀雄に『金閣寺』を「小説では無くて叙情詩」として一蹴されてしまったのは可哀相ですが 苦笑。我々の時代を認識する為にも非常に有益な対談集でした。
伝統主義者たる三島の文学に対する驚くべき豊饒な知識と、それを通して彼が透視する同時代の文学というものが対談により顕現され、非常に勉強になります。全ての対談を通して、三島や対談者の、昭和日本男児特有のパッションが感ぜられ、意見が異なるところは妥協せずに言い合うという姿勢が凄く魅力的です。これを読むと、平野啓一郎氏の対談集が、単に知性重視の戯言にすら見えてしまいます。三島はやはり、平野氏以上に豊富な知識と情熱を備えた人物であり、疑うこと無きカリスマです。彼の知性には嫉妬を感じる前に天晴れお手上げという状態です。まあ、小林秀雄に『金閣寺』を「小説では無くて叙情詩」として一蹴されてしまったのは可哀相ですが 苦笑。我々の時代を認識する為にも非常に有益な対談集でした。
2011年1月5日に日本でレビュー済み
三島と福田恒存の対談を探していたところ、中に収載されているのを発見して手にした一冊。
小林秀雄との対談は、はるか昔まだ私が浪人生だった頃読んだ記憶もあるが、改めて読み直し、新鮮な印象を受けた。
文壇の大御所やら、新進作家、古典芸能の達人など対談相手は様々で話題も多岐に渉るが、共通するテーマは、「芸術とは何か?」と言う一点に絞られようか。そういう点では、件の福田氏との対談だけ、話題が天皇制など社会論に終始しており、異質と言えよう。
対談の妙は、対立する議論の中から、それぞれの立場や思想がくっきりと浮かび上がり、論点が自他の目の前で整理されていく点にあると思うが、そういう意味で、小林氏との対談と、安部公房との対談に、そのあたりの妙が浮き上がっているように思う。特に後者では、安部が指摘する「内なる読者」の存在を三島が懸命に否定するところに、何か三島の弱点が、否本質が隠されているように感じられる。
それは一言で言えば、無意識の否定ではなかろうか?徹底した意識家「三島」にとって、自分が意識しないせりふや叙述の存在など、許しがたいものなのだろう。しかしそれは、逆に言えば三島の作品を、どこか人工的で作り物めいた不自然さが終始付きまとうという宿命から逃れられなくしているとも言えよう。そこに、天才三島の創造性の限界が露呈してはいまいか?
また、目当ての福田恒存との対談だが、予想に反して、福田氏の論理が三島の美学を跳ね返して、その強靭さを見せている点が興味深かった。国防、憲法、天皇論どれをとっても、福田氏が三島の過激をしっかり受け止める懐の深さを見せている。この辺り、三島は福田恒存を本当に信頼していたし、人間的にも頼りにしていたのではないかと感じられた。しかも、福田氏との対談の最後が、はからずも三島の自決への決断を促しているように思えるのは深読みだろうか?
ところで、これとほぼ時を同じくして私は、「ホソカタムシの誘惑」という昆虫研究に関する本を読んだ。そこにあるのは、意識からは最も遠い、即物的な博物学の世界である。三島に足りないのは、この即物的な、非意識の世界なのではないだろうか?と、ふと思った。
「玩物喪志」という言葉があるが、三島などを見ていると、私は寧ろ「玩物創志」と言いたくなる。あまりに人工的な、意識の世界にばかり閉じこもっていると、人は正常な現実感覚を失ってしまうのではないだろうか?そう思えば、物を玩ぶことにもそれなりの、魂の救済としての効用がありはしまいかと思われて仕方無い(H23.1.2)。
小林秀雄との対談は、はるか昔まだ私が浪人生だった頃読んだ記憶もあるが、改めて読み直し、新鮮な印象を受けた。
文壇の大御所やら、新進作家、古典芸能の達人など対談相手は様々で話題も多岐に渉るが、共通するテーマは、「芸術とは何か?」と言う一点に絞られようか。そういう点では、件の福田氏との対談だけ、話題が天皇制など社会論に終始しており、異質と言えよう。
対談の妙は、対立する議論の中から、それぞれの立場や思想がくっきりと浮かび上がり、論点が自他の目の前で整理されていく点にあると思うが、そういう意味で、小林氏との対談と、安部公房との対談に、そのあたりの妙が浮き上がっているように思う。特に後者では、安部が指摘する「内なる読者」の存在を三島が懸命に否定するところに、何か三島の弱点が、否本質が隠されているように感じられる。
それは一言で言えば、無意識の否定ではなかろうか?徹底した意識家「三島」にとって、自分が意識しないせりふや叙述の存在など、許しがたいものなのだろう。しかしそれは、逆に言えば三島の作品を、どこか人工的で作り物めいた不自然さが終始付きまとうという宿命から逃れられなくしているとも言えよう。そこに、天才三島の創造性の限界が露呈してはいまいか?
また、目当ての福田恒存との対談だが、予想に反して、福田氏の論理が三島の美学を跳ね返して、その強靭さを見せている点が興味深かった。国防、憲法、天皇論どれをとっても、福田氏が三島の過激をしっかり受け止める懐の深さを見せている。この辺り、三島は福田恒存を本当に信頼していたし、人間的にも頼りにしていたのではないかと感じられた。しかも、福田氏との対談の最後が、はからずも三島の自決への決断を促しているように思えるのは深読みだろうか?
ところで、これとほぼ時を同じくして私は、「ホソカタムシの誘惑」という昆虫研究に関する本を読んだ。そこにあるのは、意識からは最も遠い、即物的な博物学の世界である。三島に足りないのは、この即物的な、非意識の世界なのではないだろうか?と、ふと思った。
「玩物喪志」という言葉があるが、三島などを見ていると、私は寧ろ「玩物創志」と言いたくなる。あまりに人工的な、意識の世界にばかり閉じこもっていると、人は正常な現実感覚を失ってしまうのではないだろうか?そう思えば、物を玩ぶことにもそれなりの、魂の救済としての効用がありはしまいかと思われて仕方無い(H23.1.2)。