退屈論に仮託して、古今東西の文学・評論を切りつける。
容赦仮借のない切り口は、退屈しのぎにうってつけである。
退屈を克服する方法については、一応述べられているが、
著者も述べている通り、あまり期待しない方がいい。
退屈の本質に関する考察であり、
退屈を何とかしようとする本ではないからだ。
博覧強記の人間の雑談は、何をテーマにしても面白い。
嫌いな人も多いようだが、
高尚な話をこれほど分かりやすく読ませてくれる人もいないのだから、
ぜひ長生きをして、読者を楽しませてほしい。
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退屈論 (河出文庫 こ 11-1) 文庫 – 2007/10/1
小谷野 敦
(著)
- 本の長さ261ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2007/10/1
- ISBN-104309408710
- ISBN-13978-4309408712
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登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2007/10/1)
- 発売日 : 2007/10/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 261ページ
- ISBN-10 : 4309408710
- ISBN-13 : 978-4309408712
- Amazon 売れ筋ランキング: - 763,472位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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作家、比較文学者。1962年茨城県生まれ、埼玉県育ち。海城高校卒、東大文学部英文科卒、同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了、学術博士。大阪大学言語文化部講師、助教授(英語)、国際日本文化研究センター客員助教授、現在は文筆家。博士論文は『<男の恋>の文学史』、1999年『もてない男』がベストセラーに。2002年『聖母のいない国』でサントリー学芸賞。2011年『母子寮前』で芥川賞候補、2014年「ヌエのいた家」で同。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年5月28日に日本でレビュー済み
古今東西の文学、歴史、さらにアニメの知識を動員して、スーパーエリート小谷野氏が人々を倦怠に追い込む退屈に関して考え抜いた一冊
2007年11月14日に日本でレビュー済み
不倫の末離婚した女性がいた。
「だってあの人は、ダンナさんだけじゃ足りん
かったんやから」
彼女のことをそう誰かが言ったとき、直感的に
それは違う、と思った。「足りない」というのは
十全な状態に対して何かが不足していること。
そうではない。そして、おそらく彼女は夫に
「飽きた」のでもないだろうと私は思った。
…退屈だったのだ。足りなかったのは、
退屈をまぎらわすものだったのだ。そこには
愛なんてものもあまり関係はなくて。
本書はやや荒っぽくて性急な議論の展開は
気になるものの、少なくとも退屈な本ではない。
一点気になるのは「退屈である」という状態と
「飽きた」という状態の線引きが曖昧であるところか。
私個人はこの2つがすんなりつながる気はしないんだけど。
「飽きた」=特定の対象への興味が薄れた状態
「退屈」 =興味を持てる対象がない状態
私のイメージはこうなんですが。
ここのところ、もっとつっこんでほしいです。
「だってあの人は、ダンナさんだけじゃ足りん
かったんやから」
彼女のことをそう誰かが言ったとき、直感的に
それは違う、と思った。「足りない」というのは
十全な状態に対して何かが不足していること。
そうではない。そして、おそらく彼女は夫に
「飽きた」のでもないだろうと私は思った。
…退屈だったのだ。足りなかったのは、
退屈をまぎらわすものだったのだ。そこには
愛なんてものもあまり関係はなくて。
本書はやや荒っぽくて性急な議論の展開は
気になるものの、少なくとも退屈な本ではない。
一点気になるのは「退屈である」という状態と
「飽きた」という状態の線引きが曖昧であるところか。
私個人はこの2つがすんなりつながる気はしないんだけど。
「飽きた」=特定の対象への興味が薄れた状態
「退屈」 =興味を持てる対象がない状態
私のイメージはこうなんですが。
ここのところ、もっとつっこんでほしいです。
2010年7月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
最終章が最も重要な部分である。おそらく多くの若者が最終章の結論に苛立ちを覚えるだろうが(そうでもないか)殺人でもない限り物事は少しずつ良くしていくほかは無い。おそらく新人類と呼ばれる評論家で小谷野さんほど穏やかな人は居ないのではないか。みんな何か勘違いしているみたいだけど。ところで、ほどほど、で文学の作家を検索してみたところ一人しか居なかった。当然かもしれないけどなんか釈然としないなあ。小谷野さんの作風は庶民の常識に近い。運動(もちろん政治)ばかりしてる大学では生きていけなかったのだろう。(そうでない人のほうが多いのでしょうが)日本文化のインチキ、なんていかにも左翼が書きそう。
2015年2月10日に日本でレビュー済み
毎度の事ながら、出るわ出るわの引用の嵐はなんとかならんの? おそらく著者にとってはページ数をかせいで原稿料を増やす必要と
東大の先輩として後輩諸君に威厳を示す為と、研究資料として使って欲しいとの優しい心遣いだと思うのだが、一般読者にとっては
ちょっと煩わしい量である。まあ買うと付いてくる特典の読書ガイドだと思っておくが。
全体には「退屈」をきっかけにして様々な文学、哲学、性風俗、社会論等を述べているのだが、脇道に逸れまくって「退屈」なんて
どこへやらの箇所も多い。時々思い出したように「退屈」に戻ってくる有り様だ。だから「退屈」を論じた本と思わないほうがいい。
はあ〜(嘆息)。 キャッチーなタイトルと「飽きないか?」のモチーフに踊らされた私がバカだった。
「退屈」によってもたらされたものは論じていても、「退屈」とは何で、何に由来するかとか(大脳の発達とかホルモンがどうのこうの位では
論じた事にはならない)、「飽きる」との違いは?等の本質的な問いに対する答えはここには無い。第1章冒頭の森鴎外の「カズイスチカ」の
引用は見事で、こんな素晴らしい所に目を付けたのに何でここから論を展開しないのか?何ですぐに他に行ってしまうのだ?これは期待できるか!
と思ったのも束の間、その後は延々と人様の意見に講釈を加えていくだけ。もうそろそろ他人の考えに寄りかかった本ばかり書いていないで自信を
持って自分の意見を堂々とブチ上げたらどうか。読者はテーマに対するあなたの考えを知りたいのである。引用された人たちの考えばかりを知りたい
のではない。「退屈学」事始めだと!これのどこが「退屈学」なんだ。ただの文芸・社会評論じゃないか。自分の意見も構築できずにエラソーに。
読書ガイドとしての価値に対してのみ3つ星進呈。一般教養を学びたい人には重宝する。
東大の先輩として後輩諸君に威厳を示す為と、研究資料として使って欲しいとの優しい心遣いだと思うのだが、一般読者にとっては
ちょっと煩わしい量である。まあ買うと付いてくる特典の読書ガイドだと思っておくが。
全体には「退屈」をきっかけにして様々な文学、哲学、性風俗、社会論等を述べているのだが、脇道に逸れまくって「退屈」なんて
どこへやらの箇所も多い。時々思い出したように「退屈」に戻ってくる有り様だ。だから「退屈」を論じた本と思わないほうがいい。
はあ〜(嘆息)。 キャッチーなタイトルと「飽きないか?」のモチーフに踊らされた私がバカだった。
「退屈」によってもたらされたものは論じていても、「退屈」とは何で、何に由来するかとか(大脳の発達とかホルモンがどうのこうの位では
論じた事にはならない)、「飽きる」との違いは?等の本質的な問いに対する答えはここには無い。第1章冒頭の森鴎外の「カズイスチカ」の
引用は見事で、こんな素晴らしい所に目を付けたのに何でここから論を展開しないのか?何ですぐに他に行ってしまうのだ?これは期待できるか!
と思ったのも束の間、その後は延々と人様の意見に講釈を加えていくだけ。もうそろそろ他人の考えに寄りかかった本ばかり書いていないで自信を
持って自分の意見を堂々とブチ上げたらどうか。読者はテーマに対するあなたの考えを知りたいのである。引用された人たちの考えばかりを知りたい
のではない。「退屈学」事始めだと!これのどこが「退屈学」なんだ。ただの文芸・社会評論じゃないか。自分の意見も構築できずにエラソーに。
読書ガイドとしての価値に対してのみ3つ星進呈。一般教養を学びたい人には重宝する。
2014年12月14日に日本でレビュー済み
この帯の文句はウソじゃないと思います。いろんな事象を「退屈」というキーワードで読み解いてます。「『遊びが大切だ』とか『快楽を肯定せよ』とか言われると、もうごく単純な疑問が湧いてくる。それはつまり、『飽きないか』ということなのだ。」というのが最初の方にでてきます。解説の方は「この一言で心をむんずと掴まれた」と書かれています。私もそうでした。今まで理解できなかった人間の性が少し分かるような気がしました。
2002年10月14日に日本でレビュー済み
退屈論と銘打つこの本は、りっぱな現代文明論にもなっている。
豊富な知識を背景にした文章は、軽妙な文体によって読みやすい。
この本を読むこと自体は、勿論退屈ではない。多くのことを考えさせられる。氏のエッセイ的著作においては毎度のことなのだが、話題が多岐に渡りすぎる嫌いがあり、初めて読む者には多少の混乱を覚えるかもしれない。
しかし論理ははっきりしている。論旨をたどっていくことは苦にならない。
この本はいろいろな側面から読むことができる。
ここでは、最近の学問の潮流やメディアで活躍する学者・評論家たちの、近年の動向を視野に置いた発言に注目しておくことにする。
具体的には生物学や心理学の動向、個人名では谷沢永一、小林よしのり、福田和也、五木寛之等等である。ここでは後半に注目する。
谷沢永一の文芸評論の優秀さをてっとりばやく知りたい人は、『紙つぶて』を読むといい。その谷沢の近年の迷走ぶりをしっかりと注において批判している。「保守」の悲惨な末路の一例である。小谷野氏は、既に自分を保守主義者と規定している。「保守」に関心がある人は、こうしたところにも注意しておきたい。
そして若い方。著者は、福田和也、宮台真司の奥には「ニーチェ主義」があることを指摘し、それをうさんくさいものとしてしりぞける。最近のナショナリズムの流行にも「退屈」という問題テーマをかぎとっていると思われる著者の立場がここからもうかがえる。宮台も福田も、若い者に人気があり、どちらもそれぞれの立場で「今、真剣に衼pえるべきことは何か」を追求しておりその功績は評価されてしかるべきだ。しかし、原理的な「答え」を出してしまっているそのやり方をこの著者はうとましく思っているらしい。それは著者が問題を扱うそのもってまわった「手つき」みたいなものから、十分想像できることだ。
著者の立場からは、現代において、このような原理的な思考は端的に「危ない」ものとされる(ようだ)。
また他方では、五木寛之や俗流森田療法のような、安易な現状肯定の思想も拒否する。最後のほうでカール・ポパーの言葉の引用があるところなどは、著者のそうした問題意識からたどり着くところの基本的な態度を明示する。
原理よりもまず事実につけ。といったことや、社会は変えられるところは変えられる。変える努力をする!といった態度である。
日本の前近代の歴史にたいする知識の豊富さは、この本の現代文明論としての信用度を増してくれる。たとえば宮台真司はこの歴史的知識に欠けるところがある。
理性によってまちがったことがでてきてしまったら、理性によって変えていくしかない。社会はいい方向に変えていくべきものである。そしてその際に、人間の「退屈する本能」にたいする考察を深めておくことが必要である。そのことによって、われわれはもっと広い文明的視野を得ることができ、今の社会をもう少しましなものにしていくことができるのではないか。
大上段に構えて、こういうことを主張しているのではない。
それとなくそういう思想を提示している。
ここらへんがなんとなく、この本に「希望」を感じてしまうところなのである。
豊富な知識を背景にした文章は、軽妙な文体によって読みやすい。
この本を読むこと自体は、勿論退屈ではない。多くのことを考えさせられる。氏のエッセイ的著作においては毎度のことなのだが、話題が多岐に渡りすぎる嫌いがあり、初めて読む者には多少の混乱を覚えるかもしれない。
しかし論理ははっきりしている。論旨をたどっていくことは苦にならない。
この本はいろいろな側面から読むことができる。
ここでは、最近の学問の潮流やメディアで活躍する学者・評論家たちの、近年の動向を視野に置いた発言に注目しておくことにする。
具体的には生物学や心理学の動向、個人名では谷沢永一、小林よしのり、福田和也、五木寛之等等である。ここでは後半に注目する。
谷沢永一の文芸評論の優秀さをてっとりばやく知りたい人は、『紙つぶて』を読むといい。その谷沢の近年の迷走ぶりをしっかりと注において批判している。「保守」の悲惨な末路の一例である。小谷野氏は、既に自分を保守主義者と規定している。「保守」に関心がある人は、こうしたところにも注意しておきたい。
そして若い方。著者は、福田和也、宮台真司の奥には「ニーチェ主義」があることを指摘し、それをうさんくさいものとしてしりぞける。最近のナショナリズムの流行にも「退屈」という問題テーマをかぎとっていると思われる著者の立場がここからもうかがえる。宮台も福田も、若い者に人気があり、どちらもそれぞれの立場で「今、真剣に衼pえるべきことは何か」を追求しておりその功績は評価されてしかるべきだ。しかし、原理的な「答え」を出してしまっているそのやり方をこの著者はうとましく思っているらしい。それは著者が問題を扱うそのもってまわった「手つき」みたいなものから、十分想像できることだ。
著者の立場からは、現代において、このような原理的な思考は端的に「危ない」ものとされる(ようだ)。
また他方では、五木寛之や俗流森田療法のような、安易な現状肯定の思想も拒否する。最後のほうでカール・ポパーの言葉の引用があるところなどは、著者のそうした問題意識からたどり着くところの基本的な態度を明示する。
原理よりもまず事実につけ。といったことや、社会は変えられるところは変えられる。変える努力をする!といった態度である。
日本の前近代の歴史にたいする知識の豊富さは、この本の現代文明論としての信用度を増してくれる。たとえば宮台真司はこの歴史的知識に欠けるところがある。
理性によってまちがったことがでてきてしまったら、理性によって変えていくしかない。社会はいい方向に変えていくべきものである。そしてその際に、人間の「退屈する本能」にたいする考察を深めておくことが必要である。そのことによって、われわれはもっと広い文明的視野を得ることができ、今の社会をもう少しましなものにしていくことができるのではないか。
大上段に構えて、こういうことを主張しているのではない。
それとなくそういう思想を提示している。
ここらへんがなんとなく、この本に「希望」を感じてしまうところなのである。
2008年9月23日に日本でレビュー済み
退屈をキーワードに世の成り立ちを解きほぐす、社会学的エッセイとでもいえる本。
で、この本の肝から先にいってしまえば、退屈から「大きな物語」を求める動き(ナショナリズム、新興宗教など)に対する警鐘をしっかり書いている所にあると思われる。ポパーや宮台氏の名前も出てくるところだ。
ここはおおいに賛成だし勇気付けられるのだがしかし、ポパーに関する基礎知識がない人に対して十分な説得力があるかというと少し疑問で、また、この肝心な箇所の記述の分量自体も少ない。やはり読んでいて面白いのは、著者の博識に裏付けられた様々な分野の著書に対する言及であり、今作は生物学にまで及んでいる。そして言及対象への否定・肯定の歯切れも良く、小谷野氏の著作の面白さがこういう所にあるのは今作も変わらない。
この事じたいが「退屈」がじつにやっかいなものである事の証明になっている。「大きな物語」の拒否とかスローライフの勧めとか本来前面に押し出すべき所を中心に据え、わき道にそれず、また詳細に論じてしまうと大衆というのは退屈してしまったりするのだろう。
で、この本の肝から先にいってしまえば、退屈から「大きな物語」を求める動き(ナショナリズム、新興宗教など)に対する警鐘をしっかり書いている所にあると思われる。ポパーや宮台氏の名前も出てくるところだ。
ここはおおいに賛成だし勇気付けられるのだがしかし、ポパーに関する基礎知識がない人に対して十分な説得力があるかというと少し疑問で、また、この肝心な箇所の記述の分量自体も少ない。やはり読んでいて面白いのは、著者の博識に裏付けられた様々な分野の著書に対する言及であり、今作は生物学にまで及んでいる。そして言及対象への否定・肯定の歯切れも良く、小谷野氏の著作の面白さがこういう所にあるのは今作も変わらない。
この事じたいが「退屈」がじつにやっかいなものである事の証明になっている。「大きな物語」の拒否とかスローライフの勧めとか本来前面に押し出すべき所を中心に据え、わき道にそれず、また詳細に論じてしまうと大衆というのは退屈してしまったりするのだろう。