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須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫 す 4-2) 文庫 – 2006/10/5
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- 本の長さ464ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2006/10/5
- 寸法10.6 x 1.7 x 14.9 cm
- ISBN-104309420516
- ISBN-13978-4309420516
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商品の説明
著者について
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2006/10/5)
- 発売日 : 2006/10/5
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 464ページ
- ISBN-10 : 4309420516
- ISBN-13 : 978-4309420516
- 寸法 : 10.6 x 1.7 x 14.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 237,596位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 68位日本文学の全集・選書
- - 94位個人全集の全集・選書
- - 980位河出文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
(1929-1998)1929年生まれ。聖心女子大学卒業。
24歳で初めてイタリアを訪れ、29歳からの13年をイタリアで過ごす。1961年、ジュゼッペ・リッカと結婚、谷崎潤一郎をはじめとする日本文学の伊訳を多数出版。6年後に夫が急逝。1971年帰国。1972~1984年慶応義塾大学外国語学校で講師を務める。1973年上智大学国際部比較文化学科非常勤講師、同部大学院現代日本文学科兼任講師(後に比較文化学部教授)。
56歳でイタリア体験をもとにした文筆活動を開始。1991年『ミラノ 霧の風景』(白水社)で女流文学賞、講談社エッセイ賞を受賞。1998年心不全で他界。主な著書に『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』(ともに文藝春秋)、『トリエステの坂道』『地図のない道』(ともに新潮文庫)ほか。主な訳書にナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(ともに白水社)ほかがある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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今年、若松英輔さんが「霧の彼方 須賀敦子」を出した。若松の本なら読まずにいられない。これまでの若松のいくつかの評伝と同じように、死者、永遠を須賀から読み掘っている。
ぼくは、須賀の著作そのものを読み直してみたくなった。おもにイタリアで出会った人びとが登場するエッセイ、あるいは小説というか、文学。若松を通して教えられたことは、それは軽妙な小文でもなく、ゆたかな教養文でもなく、死者との対話だということだ。
登場人物は須賀の執筆時点ではこの世の旅を終えている。けれども、須賀の著作の中で、死者は生きている。いや、生き続けている死者との対話を須賀は著したのだった。
「大聖堂が船に似ていることに、私はなぐさめられた」(p.243)。ぼくらが集うのは小さな教会だが、名前に「ふね」がつく。須賀がそう記していることにぼくらはなぐさめられる。生者ばかりでなく死者も集い語り合うふねなのだと思う。
登場人物はカトリック左派の神父や貧しいけど愉快なインテリたち、その活動をサポートした旧貴族や大金持ちもいる。
どれも魅力的な人たちだ。ナチスの強制収容所を体験した人、ファシストやナチスとたたかった人々、それに憧れた世代……。1950年代初頭の希望にあふれる時代背景もあり、理想をめざす青年たちの共同体だった。
だが1967年になると、中国の文化大革命の影響で、若者たちが既成秩序をくつがえすことに狂奔し、政治が友情に先行する悪夢の日々になっていく。仕事の帰りに立ち寄って無駄口をたたく友人たちの姿も見られなくなった。
夫のペッピーノはその混乱の最中の1967年に41歳で急逝する。
その他の関係者もしだいに衰え、一人二人と欠けていく。
たとえば編集者のガッティは、夫を亡くした須賀を「睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ」とさとしてくれたが、「……ガッティの精神があのはてしない坂道を、はじめはゆっくり、やがては加速度的に下降しはじめ……」最後は友人の顔も忘れてしまう。
「書店の仲間みんなが、晩い青春の日に没頭した愉しい「ごっこ」の終わりだったように思えてならない」と須賀は振り返る。
物語が終わると消えてしまう映画の人物のように、遠い国の遠い時間の人になってしまう。霧の向こうの世界に行ってしまう。「霧の風景」とは死者の世界の入口を暗示している。
楽しく力強く向こう見ずな日々があったから、その喪失が胸に迫る。でもそんな日々があったから、今は亡き愛すべき仲間を須賀は詩情あふれる文章でつづることができた。
須賀はサバの詩「人生ほど、生きる疲れを癒やしてくれるものは、ない」を引用し、次のように記す。
「若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」
須賀を含め、登場人物のほとんどは敬虔なカトリック教徒だ。だれもが「よりよく生きよう、より御心にかなうように生きよう」と努力している。脱落もあるけれども「よりよく生きる義務を神に負っている」という原則は変わらない。
神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。
生き生きした青春の日々があったからこそ、老いと死と、それにともなう孤独という試練をも肯定的に受け止められる。夫の死すらも、人生の大切な要素として受け入れている。
強制収容所で家族を失ったビクトル・フランクルは「輝ける日々ーーそれが過ぎ去ったからといって泣くのではなく、それがあったことに、ほほえもう」と記した。
須賀のたどりついた精神の高みはフランクルのそれとよく似ている。
須賀敦子さんはたぶん、いわゆるバイタリティあふれる吸引力のある女性ではないのだろう。
しっかり、常に誠実で、表面だけじゃなくしっかり人の話に耳を傾け、真摯に素直に人に対面する人だ。
でなければ、こんなエッセイは書けるはずがない。おとなしげだけど、ものすごく誠実で愛に溢れた人、なかなかいそうでいない。
イタリアの希有な人々との希有な蜜月の物語だが、須賀さんという人間も相当希有だ。
自分の人生に迷ったら、思い出すことが誰にでもあるだろうけど、私はこのエッセイとその著者を思い出すだろう。
白水社のエッセイの小径シリーズで「ヴェネツィアの宿」を読み、好みの作者だと言っていたので
彼女の書いたものを全部読んで見たかったのだろう。
自分とかみさんとは読む傾向が違うと思い込んでいたので、最近になってふと手に取って読み始めたのだが、
確かによく書けていると思う。人物描写、風景、季節の風が運んでくる街にあふれる樹々の香り、人々のざわ
めき、出会った人たちの気質や言葉つきまで、筆者と一緒に傍で見て、聞いているように感じられ、イタリアが
そこに存在しているように目の前に浮かび上がり、巧い文章だなと感心する。
この1巻に含まれる「ミラノ霧の風景」と「コルシア書店の仲間たち」の2編は、彼女がミラノで過ごし結婚し
夫と死別し日本へ帰るまでの、自分の経験を下敷きに書かれたものだが、出会う様々な背景をもった人たちを
愛情をこめて書いている。「旅のあいまに」のエッセイも同じように、彼女の感性がささやかな出会いを筆に
のせていて、どの文章も彼女が監督で作った映画を見ているように感じさせ、いい。
全体に感じることだが、イタリアの宗教的な雰囲気が漂い、夫を失うという厳しい現実があったことも含めて
愛する人、親しい人との別れ(死別)が底流に流れていると感じる。
余談だが、前後して遠藤周作が留学体験を描いた「ルーアンの丘」を読んだ。遅ればせながら戦後の同時期に二人がフランスに留学していたことに気づいた。それぞれの作家の目に移った戦後や、外国を読み比べてみるのも面白いのかもしれない。
しかしこの本を読んでそれが全くの誤りだったことに気付かされた。
『ミラノ 霧の風景』などは近代日本語で書かれたエッセイの中で5本の指に入る傑作ではなかろうかと思うぐらい美しい。
この全集第1巻では、そうした著者の作品群の魅力について池澤夏樹が的確な解説を寄せている。
池澤は、著者が「よい生活」を送っていたと指摘する。「よい生活」とは「経済的に豊かという意味ではなく、おちついて、見るもの聞くものに誠実に接し、着実に暮らす」ことを指して言ってるのだが、その通りだと思う。
著者はイタリア時代、決して経済的に恵まれていた訳ではない。しかし彼女の目を通して言葉にされた北イタリアの自然、街角の風景、自身と友人たちの交流、その友人たちの人生の、何と美しいことか。著者が一刻一刻を大切に誠実に、無駄にすることなく生きていたことが文章の端々から感じ取れるのだ。
それに比べれば自分はとんでもなく良くない生活を送っているなあと、本を読んでいる間中反省させられ通しだった。