晩年フーコーは理解されない。晩年のフーコーに対して私的領域への閉じこもりと言う人もいる。しかし、フーコーは権力を分析することで私的領域など存在しないことを示したのではないのか。フーコーの行なった知の分析から、主体への回帰という評価へも同じ事が言える。一般になされている晩年フーコーへの評価のされ方はなんかおかしい。それを考えると、ドゥルーズがこの著作で晩年のフーコーへのきちんとした理解を示していることは素晴らしい。
この著作の要所は後半の論考「トポロジー」にある。ここでドゥルーズは言表可能性と可視性というキーワードでフーコーの著作をうまく整理している。言表可能性から描かれた「言葉と物」、可視性から描かれた「監獄の誕生」。または、否定神学的な前期と郵便的な後期と書くと東浩紀の整理と変わらない。しかし、言表可能性と可視性との関係は排他的なものではない。
『知の考古学』において、可視的なものは、結局、非言説的なものとして、もはや否定的にしか指示されないこと、言説的なものは、それだけよけいに非言説的なものと言説的な関係をもっていること、このことに私たちは驚きはしないだろう。(単行本版 p.108)
そして結局、外の力は絶えずダイアグラムを動揺させ、転倒させるのだ。しかし逆に、抵抗の横断的な関係は、たえず再地層化され、権力の結び目と出会い、結び目を作りさえする。(単行本版 p.148)
こうして、晩年のフーコーは知の軸でも権力の軸でもない新しい軸を見出す。普通の人にとっては「存在と時間」や「悦ばしき知識」の理解に達するだけで精一杯なところをフーコーはさらに先に駒を進めた、「アンチ・キリスト」の世界へと。結果的に、表面的な読みやすさにも関わらず、晩年フーコーは理解者を選ぶ貴族主義的著作である。
ちなみに、同じような整理はドゥルーズにも出来るだろう。それは読者の宿題だ。
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フーコー (河出文庫 ト 6-6) ペーパーバック – 2010/8/3
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ドゥルーズが盟友への敬愛をこめてまとめたフーコー論の決定版。「知」「権力」「主体化」を指標にフーコーの核心を読みときながら「外」「襞」などドゥルーズ自身の哲学のエッセンスを凝縮させた比類なき名著。
- 本の長さ263ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2010/8/3
- 寸法10.9 x 1.1 x 15 cm
- ISBN-104309462944
- ISBN-13978-4309462943
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著者について
1925年パリ生まれの哲学者。1995年、自ら死を選ぶ。スピノザやニーチェの研究を通じ西欧哲学の伝統を継承しつつその批判者となる。主著ーF・ガタリと共著『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』他。
1948年生まれ。哲学・フランス文学。著書に『土方巽――衰弱体の思想』、『〈兆候〉の哲学』、『ドゥルーズ――群れと結晶』など。訳書にアルトー『タラウマラ』、ジュネ『薔薇の奇跡』など。
1948年生まれ。哲学・フランス文学。著書に『土方巽――衰弱体の思想』、『〈兆候〉の哲学』、『ドゥルーズ――群れと結晶』など。訳書にアルトー『タラウマラ』、ジュネ『薔薇の奇跡』など。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2010/8/3)
- 発売日 : 2010/8/3
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 263ページ
- ISBN-10 : 4309462944
- ISBN-13 : 978-4309462943
- 寸法 : 10.9 x 1.1 x 15 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 241,912位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 188位フランス・オランダの思想
- - 474位西洋哲学入門
- - 989位河出文庫
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2007年4月30日に日本でレビュー済み
2003年10月23日に日本でレビュー済み
訳者のあとがきにもこのようなことは書かれているのですが、著者のドゥルーズはフーコーの友人として思い出話に浸るのではなく、フーコーの解釈者として淡々と骨子を記述しています。
私はこの本を読んで何故か泣いてしまいました。読んでみると、どこで泣いたのか全く分からないと思うでしょう。でも、自らの身体にまとわり付いた網の目を振りほどこうとするフーコーの叫び声が聞こえてくるような気がしました。ドゥルーズはそんなフーコーの姿を見事に描き出しているように思えます。
是非とも一読してみてください。
私はこの本を読んで何故か泣いてしまいました。読んでみると、どこで泣いたのか全く分からないと思うでしょう。でも、自らの身体にまとわり付いた網の目を振りほどこうとするフーコーの叫び声が聞こえてくるような気がしました。ドゥルーズはそんなフーコーの姿を見事に描き出しているように思えます。
是非とも一読してみてください。
2011年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ドゥルーズによるフーコー追悼論の本書は、章の進むごとに読み応えを得られるので、必要なら最終章から読むのもいいかと思う。
著者もまたこの世には無く、彼の言う器官なき身体へと帰還を果たしているのだろうか。ではそんなフランス現代思想の成果とは何だろう。
そのひとつには、現代思想の主題が自然主義哲学の系譜上にあることを明確にしたことで、自然科学的な研究成果を十全に援用しなければ
ならなくなったことで、これによって、哲学者は同時に科学的にならざるを得なくなった。だからドゥルーズの用語も難解になり、同時に
半端なものにもなってしまう。それでも彼のフーコー論に迫力があるのは、知と権力(存在)の読解に由来するものだ。
フーコーは、現実問題としてヨーロッパ社会(権力構造)を読み解き、そしてそれは、科学的(考古学)な方法に依っている。大いに告発を
含み隠しながら、その将来が探求されたと思うが、フレンチライクな表現の複雑さがあって、易くそれらを読ませてくれないのは、残念。
例えばパノプティコンひとつを取って見ても、これが社会化され現代の管理システムとしてどこまで進化しているかなどと想像を巡らせるなら、
そこには極めてハードな問題が含まれおり、それらは今、文芸(マンガ、アニメ、ゲーム含む)表現の重要な基本テーマのひとつにもなっている。
著者もまたこの世には無く、彼の言う器官なき身体へと帰還を果たしているのだろうか。ではそんなフランス現代思想の成果とは何だろう。
そのひとつには、現代思想の主題が自然主義哲学の系譜上にあることを明確にしたことで、自然科学的な研究成果を十全に援用しなければ
ならなくなったことで、これによって、哲学者は同時に科学的にならざるを得なくなった。だからドゥルーズの用語も難解になり、同時に
半端なものにもなってしまう。それでも彼のフーコー論に迫力があるのは、知と権力(存在)の読解に由来するものだ。
フーコーは、現実問題としてヨーロッパ社会(権力構造)を読み解き、そしてそれは、科学的(考古学)な方法に依っている。大いに告発を
含み隠しながら、その将来が探求されたと思うが、フレンチライクな表現の複雑さがあって、易くそれらを読ませてくれないのは、残念。
例えばパノプティコンひとつを取って見ても、これが社会化され現代の管理システムとしてどこまで進化しているかなどと想像を巡らせるなら、
そこには極めてハードな問題が含まれおり、それらは今、文芸(マンガ、アニメ、ゲーム含む)表現の重要な基本テーマのひとつにもなっている。
2004年8月7日に日本でレビュー済み
現在、状況と密接した形でジジェク、ネグリ等の問題提起が注目される中、これだけは、つまり他のDeleuzeの全てのテキストを断念してでも読む価値がある。少なくても、これだけはアクチュアルであり続けるだろう。もちろん、そのテキストのすべての言葉がではなくても。
ここで「アクチュアル」という意味は、仮に現存する全てのDeleuzeやフーコー、また彼等に関するその他のあらゆるテキストがその記憶とともに消え失せたと仮定して、そんな状況にある人が本書を手にとって読んでも、やはり自分自身の生存に関わる刺激をきっと受けるだろうということである。ほんの一文、あるいは一節にかもしれないが。
ここで「アクチュアル」という意味は、仮に現存する全てのDeleuzeやフーコー、また彼等に関するその他のあらゆるテキストがその記憶とともに消え失せたと仮定して、そんな状況にある人が本書を手にとって読んでも、やはり自分自身の生存に関わる刺激をきっと受けるだろうということである。ほんの一文、あるいは一節にかもしれないが。
2007年9月2日に日本でレビュー済み
言うまでもなく難解をきわめる。前半は多様体だの特異点だのトポロジーだの
数学用語の無茶な援用が鼻についてどうにもいらつくが、だんだん多少言いたい事はわかってくる。
フーコーの思考を、力の交錯が現実や歴史を作り出す抽象的なシステムの図式として描き出したいわけだ。
228ページには「フーコーのダイアグラム」なる図が実際に描かれている。
下方の左右に「可視性」と「言表」の知の地層があり、それらの地層(形式)は
それぞれの外部にある「戦略」の帯域における諸力の闘争によって生み出される。
それぞれの「地層」には縦横斜めに亀裂が走っており、この亀裂を通じて知の交通が行われ、
外部への超越もなされる。さらに戦略的帯域のさらに外に「外の線」があり、
この外が本当の「外」である。力は外からもたらされ、ダイアグラム全体の力の場を変更する恐ろしい作用をする。
そして外の線が内部へと折れ曲がり畳まれて襞を作ることによって、そこに内部の外部としての主体の帯域が形成される。
この「襞」の概念があらゆる思考の歴史を説明するらしい。
再帰性システムとか複雑系との関連で言及されているのを見ることがあるが、イメージはつかめないこともない。
神や人間も諸力の組み合わせによる作用だとするなら、最後に未来に向けて「超人」への展望が開けてくる。
「人間は自分自身において、生命と労働と言語を解放するのである。」
デリダがレヴィナスの追悼として書いた『アデュー』と並ぶ、なかなか感動的な追悼論文。
数学用語の無茶な援用が鼻についてどうにもいらつくが、だんだん多少言いたい事はわかってくる。
フーコーの思考を、力の交錯が現実や歴史を作り出す抽象的なシステムの図式として描き出したいわけだ。
228ページには「フーコーのダイアグラム」なる図が実際に描かれている。
下方の左右に「可視性」と「言表」の知の地層があり、それらの地層(形式)は
それぞれの外部にある「戦略」の帯域における諸力の闘争によって生み出される。
それぞれの「地層」には縦横斜めに亀裂が走っており、この亀裂を通じて知の交通が行われ、
外部への超越もなされる。さらに戦略的帯域のさらに外に「外の線」があり、
この外が本当の「外」である。力は外からもたらされ、ダイアグラム全体の力の場を変更する恐ろしい作用をする。
そして外の線が内部へと折れ曲がり畳まれて襞を作ることによって、そこに内部の外部としての主体の帯域が形成される。
この「襞」の概念があらゆる思考の歴史を説明するらしい。
再帰性システムとか複雑系との関連で言及されているのを見ることがあるが、イメージはつかめないこともない。
神や人間も諸力の組み合わせによる作用だとするなら、最後に未来に向けて「超人」への展望が開けてくる。
「人間は自分自身において、生命と労働と言語を解放するのである。」
デリダがレヴィナスの追悼として書いた『アデュー』と並ぶ、なかなか感動的な追悼論文。