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学校を救済せよ: 自己決定能力養成プログラム 単行本 – 1998/3/1
- 本の長さ286ページ
- 言語日本語
- 出版社学陽書房
- 発売日1998/3/1
- ISBN-10431363035X
- ISBN-13978-4313630352
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商品の説明
出版社からのコメント
これまでの教育のイメージを一変! 学校が変わらなければ、殺人は連鎖するーー本書の帯コピーで宮台氏が予告したように、酒鬼薔薇事件に始まった衝撃的な少年犯罪の発生は、その後もバスジャック事件等、現在まで引き継がれている。本書は宮台氏・尾木氏が、殺人、いじめ自殺、覚醒剤など、学校と子どもをとりまくあらゆる問題の現状を鋭く分析、自己決定に基づく教育システムの確立を提起した、これまでの教育のイメージを一変する画期的な書である!
内容(「MARC」データベースより)
学校が変わらなければ殺人は連鎖する。ナイフ殺人事件、酒鬼薔薇事件、いじめ、不登校、校則、援助交際、教師、親等、学校と子どもを取り巻くあらゆる問題を分析。自己決定に基づく教育システムの確立を提言。
登録情報
- 出版社 : 学陽書房 (1998/3/1)
- 発売日 : 1998/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 286ページ
- ISBN-10 : 431363035X
- ISBN-13 : 978-4313630352
- Amazon 売れ筋ランキング: - 723,108位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 648位学校教育一般関連書籍
- - 17,719位教育学一般関連書籍
- - 86,404位社会・政治 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1959年、宮城県生まれ。
社会学者、評論家。首都大学東京教授。公共政策プラットフォーム研究評議員。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了(社会学博士)。『日本の難点』(幻冬舎)、『14歳からの社会学』(世界文化社)、『中学生からの愛の授業』(コアマガジン)『<世界>はそもそもデタラメである』(メディアファクトリー)、『制服少女たちの選択』(朝日文庫)、『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)など多数。
1947年生まれ。早稲田大学卒業後、海城高校、東京都公立中学教師として、22年間ユニークで創造的な教育実践を展開。現在、教育評論家、臨床教育研究所「虹」所長、法政大学教授・教職課程センター長、早稲田大学大学院教育学研究科客員教授。執筆、調査・研究活動、全国への講演活動のほかメディア出演も多数(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『尾木ママの「脱いじめ」論 (ISBN-10: 4569679463)』が刊行された当時に掲載されていたものです)
カスタマーレビュー
星5つ中4.5つ
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3グローバルレーティング
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2001年5月6日に日本でレビュー済み
現代教育のはらむ諸問題について、若手社会学者と長い教師経験を持つ教育評論家が、明快かつ妥当なビジョンを提示している。学校というシステムを相対化し、今後進みゆくべき教育のあり方を考えるための必読文献と言えよう。
2009年9月10日に日本でレビュー済み
私は宮台氏と同じくリベラルを自認しており宮台氏の論にも本書に限らず賛同する面が多いが本書の主張にはいくらか行き過ぎたものがあるのではという念が否めない。特に私が深刻に本書で宮台氏への反発を覚えた点を以下に述べたい。まず簡潔に結論から先に言っておく。私が感じた問題は二点挙げられる。一つは宮台氏の教育論は自己決定を強要する点で不自由で冷酷たりうるという点。もう一つは宮台氏が過剰にコミュニケーション能力を重視し、それを持たない人間をあからさまに軽蔑しており、この態度は正しくリベラルな態度ではなく思える点。以下詳しく長々展開。
本書で宮台氏が提唱する「自己決定能力養成プログラム」というのは要するに「ただ子供の自己決定を尊重するだけでなく自己決定を押し付けよ、自己決定せざるをえない環境を作れ」というプログラムだ。私は個人的にも自己決定は大好きなのだが、本書で宮台氏が調子よく「自己決定のシステムにすると、何かが起こると、自分が招いたことなんだという態度が養成される」「自分で尻をぬぐえるような態度を養うということが、教育の自由化プログラムの最初であり最後である」とか言っているといくらかの危機感や恐怖を覚えるのは何故だろうか。
これはよく言われるネオリベ的な自己責任の恐ろしさ、自己責任の冷たさに通じると思うのだが無論宮台氏はネオリベではないし、リベラルに対してそう間違えるのは最も失礼な事だ。だがあれだけ無警戒に自己責任自己責任と言っていては政治理論の差異になどあまり関心のない一般の人が「ネオリベと呼ばれる人達と同種なんじゃ…」と誤解してもしょうがない面がある。同時にそれを断言するためには、宮台氏の自己責任論があくまでリベラルなものであってネオリベ的な冷たさを備えていない事を十分に説明する必要がある。後の宮台氏はともかく本書内に限定すればそれが出来ているようには見えない。
また私は例えば髪型や第一ボタン、寝る時間、さらにはお辞儀の角度などというものを細かく管理され命令されれば「そんなもの私の勝手だろう!」と自己決定論者になりたくなる。しかしだからといって何でもかんでも、自分が確固とした意志も信念も願望もない事についてまで自己決定を迫られれば「いやそれはどうでもいいので自己決定したくありません」となる。ある時には自己決定したい私もある時には人任せにしたい。そういう方がむしろ普通で現実的に思えるのだが本人の望みに関係なく万人に自己決定を常に強要するというプログラムは果たしてどうなのだろうか。私は自由主義はあまり自由主義的でない個人の生き方も許容してこその自由主義だと考えている。宮台氏の論は自由主義を追及するあまり自由主義的な生き方や人間性以外許されないという不自由をもたらして見える。
私が自由大好き人間にも関らず反発を覚えてしまうのはこのせいであるようだ。それは授業数削減や個性の尊重というゆとり教育の理念には賛同しつつも(勿論一般的にはこっちの理念が不人気だ)「個性を育てる」だの「コミュニケーション能力を育てる」だのとお節介な事を言い出す点には反対したくなるのに似ている。誰もがどんな性格であれ個性的であるにも関らずその個性を尊重するのではなく、「個性的と周りに判断されるほど特異な人間性を持つように強要されてしまう」その欺瞞に私はムカついた。コミュ力は宮台氏も評価しており、それがない高学歴などを本書でも散々あざ笑っているがそれは対人能力が低いという個性の否定でもあるし、一定の人間性、徳を強要する非リベラルな態度でもある。
「高学歴は学歴という虚構的な頭の良さだけはあるがコミュ力に乏しく実践にも使えず人間として低品質で、それに対して茶髪金髪の学校で不良扱いされた低学歴の方がよっぽどか活き活きしており実践能力もあり仕事にも使える」というようなイメジが宮台氏にはあるようだがこれはステレオタイプな偏見に過ぎる気がする。成熟社会では真面目でいい子が不登校になりがちでストリートで遊ぶ不良やオタクは上手く生きていくなどと言っている箇所もありこれは宮台氏にしては浅はかな認識に思える。何か自分のリベラルを体現してると判断されるものは全ていいかのような偏った認識に基づいてバイシュン少女や不真面目な子供が過剰に賞賛されている気がするのだ。
そもそもオタク系の子供の方がずっと学校でも世間でも迫害を受けやすく生きにくいと思うが、仮に宮台氏の認識が真実だとしてもさっき言ったように特定の人間性を善しとし特定の人間性を卑しめるのは基本的にリベラルな態度ではない。勿論宮台氏個人が勝手に不良系の人を好いて、単なる高学歴を軽蔑するのは自由なのだが、コミュ力のある人間の方が優れているという価値観を教育にまで導入して全員に押し付けようとする時点でリベラルに即しているとは言い難い。
現在の学校がコミュ力を軽視しているという宮台氏の認識も経験的には必ずしも的を射ていない気がする。学校では教室や班や集団行動やを通じて集団性や協調性が過剰なまでに重んじられ生徒間でもコミュ力がその子供の地位を決定するかのような仕組みが存在する。そこではコミュ力のある者こそが生き残り、例えば宮台氏らに乗り越えられるべき現状とされる「勉強だけが出来るような子供」は学校内で持て囃されるどころかむしろ淘汰されてしまうのである。イジメが多くの場合にコミュ力のない子供を対象にするというのもよく言われる常識のようなものである。そんな中にあってもあれほどにコミュニケーションをプッシュし強要する宮台氏の教育論が本当にリベラルなのか私にはまだ納得がいかない。「コミュ力がなくてもいい」という寛容で、コミュ力のない個性を含む多様性を擁護するのが本当にリベラルな態度ではないのか。
本書で宮台氏が提唱する「自己決定能力養成プログラム」というのは要するに「ただ子供の自己決定を尊重するだけでなく自己決定を押し付けよ、自己決定せざるをえない環境を作れ」というプログラムだ。私は個人的にも自己決定は大好きなのだが、本書で宮台氏が調子よく「自己決定のシステムにすると、何かが起こると、自分が招いたことなんだという態度が養成される」「自分で尻をぬぐえるような態度を養うということが、教育の自由化プログラムの最初であり最後である」とか言っているといくらかの危機感や恐怖を覚えるのは何故だろうか。
これはよく言われるネオリベ的な自己責任の恐ろしさ、自己責任の冷たさに通じると思うのだが無論宮台氏はネオリベではないし、リベラルに対してそう間違えるのは最も失礼な事だ。だがあれだけ無警戒に自己責任自己責任と言っていては政治理論の差異になどあまり関心のない一般の人が「ネオリベと呼ばれる人達と同種なんじゃ…」と誤解してもしょうがない面がある。同時にそれを断言するためには、宮台氏の自己責任論があくまでリベラルなものであってネオリベ的な冷たさを備えていない事を十分に説明する必要がある。後の宮台氏はともかく本書内に限定すればそれが出来ているようには見えない。
また私は例えば髪型や第一ボタン、寝る時間、さらにはお辞儀の角度などというものを細かく管理され命令されれば「そんなもの私の勝手だろう!」と自己決定論者になりたくなる。しかしだからといって何でもかんでも、自分が確固とした意志も信念も願望もない事についてまで自己決定を迫られれば「いやそれはどうでもいいので自己決定したくありません」となる。ある時には自己決定したい私もある時には人任せにしたい。そういう方がむしろ普通で現実的に思えるのだが本人の望みに関係なく万人に自己決定を常に強要するというプログラムは果たしてどうなのだろうか。私は自由主義はあまり自由主義的でない個人の生き方も許容してこその自由主義だと考えている。宮台氏の論は自由主義を追及するあまり自由主義的な生き方や人間性以外許されないという不自由をもたらして見える。
私が自由大好き人間にも関らず反発を覚えてしまうのはこのせいであるようだ。それは授業数削減や個性の尊重というゆとり教育の理念には賛同しつつも(勿論一般的にはこっちの理念が不人気だ)「個性を育てる」だの「コミュニケーション能力を育てる」だのとお節介な事を言い出す点には反対したくなるのに似ている。誰もがどんな性格であれ個性的であるにも関らずその個性を尊重するのではなく、「個性的と周りに判断されるほど特異な人間性を持つように強要されてしまう」その欺瞞に私はムカついた。コミュ力は宮台氏も評価しており、それがない高学歴などを本書でも散々あざ笑っているがそれは対人能力が低いという個性の否定でもあるし、一定の人間性、徳を強要する非リベラルな態度でもある。
「高学歴は学歴という虚構的な頭の良さだけはあるがコミュ力に乏しく実践にも使えず人間として低品質で、それに対して茶髪金髪の学校で不良扱いされた低学歴の方がよっぽどか活き活きしており実践能力もあり仕事にも使える」というようなイメジが宮台氏にはあるようだがこれはステレオタイプな偏見に過ぎる気がする。成熟社会では真面目でいい子が不登校になりがちでストリートで遊ぶ不良やオタクは上手く生きていくなどと言っている箇所もありこれは宮台氏にしては浅はかな認識に思える。何か自分のリベラルを体現してると判断されるものは全ていいかのような偏った認識に基づいてバイシュン少女や不真面目な子供が過剰に賞賛されている気がするのだ。
そもそもオタク系の子供の方がずっと学校でも世間でも迫害を受けやすく生きにくいと思うが、仮に宮台氏の認識が真実だとしてもさっき言ったように特定の人間性を善しとし特定の人間性を卑しめるのは基本的にリベラルな態度ではない。勿論宮台氏個人が勝手に不良系の人を好いて、単なる高学歴を軽蔑するのは自由なのだが、コミュ力のある人間の方が優れているという価値観を教育にまで導入して全員に押し付けようとする時点でリベラルに即しているとは言い難い。
現在の学校がコミュ力を軽視しているという宮台氏の認識も経験的には必ずしも的を射ていない気がする。学校では教室や班や集団行動やを通じて集団性や協調性が過剰なまでに重んじられ生徒間でもコミュ力がその子供の地位を決定するかのような仕組みが存在する。そこではコミュ力のある者こそが生き残り、例えば宮台氏らに乗り越えられるべき現状とされる「勉強だけが出来るような子供」は学校内で持て囃されるどころかむしろ淘汰されてしまうのである。イジメが多くの場合にコミュ力のない子供を対象にするというのもよく言われる常識のようなものである。そんな中にあってもあれほどにコミュニケーションをプッシュし強要する宮台氏の教育論が本当にリベラルなのか私にはまだ納得がいかない。「コミュ力がなくてもいい」という寛容で、コミュ力のない個性を含む多様性を擁護するのが本当にリベラルな態度ではないのか。