著者はイギリスの進化心理学者で、サルの「盲視」の発見者として名高い。2004年にハーバード大学で行った「赤を見る」という講義が本になった。人間の身体は完全に物質から出来ている。しかし一方で人間は意識を持っている。その意識は、物質とはまったく違ったありかたをしている。とすれば、「物質がいかにして意識を持ちうるのか?」という難問が生まれる。たとえば、我々には「薔薇が赤く見える」。しかし脳の中のどこを探しても「赤い色」は存在しない。赤さと無縁の物質たる脳が、どこで「赤い色」を生み出すのだろうか。
この難問に著者は進化心理学の観点から答える。著者は感覚のもつ「いわく言いがたい感じ」こそ、意識の原型だと考える。我々のもつ感覚は、アメーバのような原初の生物が外界の刺激に「身悶えして」(p97)反応したことの名残なのだ。「身悶え反応」は、高等生物に進化するに従って鎮まり、脳の中に内面化された。原初の「身悶え反応」は、外界の客観的認識である「知覚」にもとづく対応行動と、もとの「身悶え」に由来する「情緒」「好悪の感じ」「気分」を伴う「感覚」とに分化した。我々がマティスの絵の「赤さ」に「衝撃を受けたり」、音楽に「陶酔」したりするのは、我々の「感覚」に残る、遠い昔の「身悶え」の残響である、と。ここまでは良い。が、その「いわく言いがたい感じ」と「意識」を結びつける議論がやや説明不足。
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赤を見る: 感覚の進化と意識の存在理由 単行本 – 2006/11/1
- ISBN-104314010177
- ISBN-13978-4314010177
- 出版社紀伊國屋書店
- 発売日2006/11/1
- 言語日本語
- 本の長さ172ページ
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登録情報
- 出版社 : 紀伊國屋書店 (2006/11/1)
- 発売日 : 2006/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 172ページ
- ISBN-10 : 4314010177
- ISBN-13 : 978-4314010177
- Amazon 売れ筋ランキング: - 654,292位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
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2011年5月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
テーマは◎、装幀は○、内容は△、というのが個人的な感想。
タイトルは秀逸。「この講義、ぜひ受けてみたい!」と思える好奇心をくすぐるテーマ、それにぴったりの装幀。本体が真っ赤、白いカバーから穴をあけて「赤を見ている」人のイラスト。・・・シンプルだが洒落ている。
しかし文章が(訳文の影響もあるのかもしれませんが)、やたら回りくどくて分かりにくい。文章そのものの問題ではなく、この洒落た装幀とのバランスとして、相対的にサービス精神に欠けているように感じられてしまうせいかもしれない。真っ赤なページを章の間にはさんでいるのだが、作者自身が述べているように、赤は本能的に生物を冷静にさせにくい。真っ赤の隣に、難解な文章があると、普通より読むのに時間がかかる。読むのに疲れて、中盤以降、電話の演劇のくだりや、共感のくだり、興味深い内容を、飛ばし読みしてしまった。どうあれ結びが独創的なら良いが、私としては、意外性の少ない結論だった。
タイトルは秀逸。「この講義、ぜひ受けてみたい!」と思える好奇心をくすぐるテーマ、それにぴったりの装幀。本体が真っ赤、白いカバーから穴をあけて「赤を見ている」人のイラスト。・・・シンプルだが洒落ている。
しかし文章が(訳文の影響もあるのかもしれませんが)、やたら回りくどくて分かりにくい。文章そのものの問題ではなく、この洒落た装幀とのバランスとして、相対的にサービス精神に欠けているように感じられてしまうせいかもしれない。真っ赤なページを章の間にはさんでいるのだが、作者自身が述べているように、赤は本能的に生物を冷静にさせにくい。真っ赤の隣に、難解な文章があると、普通より読むのに時間がかかる。読むのに疲れて、中盤以降、電話の演劇のくだりや、共感のくだり、興味深い内容を、飛ばし読みしてしまった。どうあれ結びが独創的なら良いが、私としては、意外性の少ない結論だった。
2013年5月22日に日本でレビュー済み
ハンフリーは、人類は映像記憶を喪失した代わりに概念記憶(言語)を獲得したという考えである。
映像記憶は刻々と変わり、それは無垢の眼で見ているのみである。従って、この場合時間の概念は生まれない。
過去・現在・未来の時制(概念)が生まれるのは、言語の使用つまり概念記憶となってからである。
それは、現在性と経常性の違いと言ってもいい。
さて、「赤を見る」である。
ここでもハンフリーは、「感覚」(感情が介在する)と「知覚」(概念が主体)の二つを用意する。
アウトプットは一つであるが、インプットには二つの系統がある。これは、盲視に無意識的視覚がある事実が参考となっている。
また、感覚・知覚は単に受け身ではなく能動的な「内なる眼」を持つ。
「感情」とは、感覚による外界刺激からの局所的反応の「身悶え」に由来する。
人は、感覚により意識を持つようになる。感覚はその都度自己を確認する。
そして、「意識」が成立するには自己言及つまり、記憶・時間という言語概念を必要とする。
「自己意識」とは、錯覚であり実体はない。
また、「意識」とは、言語による偽りの実体を創り出すメカニズムである。
そして、錯覚であることを隠蔽せざるを得ないため「意識」は解かりにくくなるのである。
心身二元論も「意識」の罠である。
自、他、意識、心、体、生、死、神、宗教等々言語概念に実体はない。
ハンフリーは、これらの単なる二項対立図式を嫌い、主体と外の世界あるいは概念間に動的関係を組み入れる。
また、「言語」とは、自己言及=入れ子構造を本来内蔵しているため個と全体とは繋がる。
そして、進化心理学者として全ては錯覚の自己・意識から始まりそしてそれは、進化上有利であったと説明するのである。
大森荘蔵も「意識」を妄想であるとした。そして、その中に自分を閉じ込めて世界という写像をバーチャル化したと言っている。結論は、奇しくも同じである。
映像記憶は刻々と変わり、それは無垢の眼で見ているのみである。従って、この場合時間の概念は生まれない。
過去・現在・未来の時制(概念)が生まれるのは、言語の使用つまり概念記憶となってからである。
それは、現在性と経常性の違いと言ってもいい。
さて、「赤を見る」である。
ここでもハンフリーは、「感覚」(感情が介在する)と「知覚」(概念が主体)の二つを用意する。
アウトプットは一つであるが、インプットには二つの系統がある。これは、盲視に無意識的視覚がある事実が参考となっている。
また、感覚・知覚は単に受け身ではなく能動的な「内なる眼」を持つ。
「感情」とは、感覚による外界刺激からの局所的反応の「身悶え」に由来する。
人は、感覚により意識を持つようになる。感覚はその都度自己を確認する。
そして、「意識」が成立するには自己言及つまり、記憶・時間という言語概念を必要とする。
「自己意識」とは、錯覚であり実体はない。
また、「意識」とは、言語による偽りの実体を創り出すメカニズムである。
そして、錯覚であることを隠蔽せざるを得ないため「意識」は解かりにくくなるのである。
心身二元論も「意識」の罠である。
自、他、意識、心、体、生、死、神、宗教等々言語概念に実体はない。
ハンフリーは、これらの単なる二項対立図式を嫌い、主体と外の世界あるいは概念間に動的関係を組み入れる。
また、「言語」とは、自己言及=入れ子構造を本来内蔵しているため個と全体とは繋がる。
そして、進化心理学者として全ては錯覚の自己・意識から始まりそしてそれは、進化上有利であったと説明するのである。
大森荘蔵も「意識」を妄想であるとした。そして、その中に自分を閉じ込めて世界という写像をバーチャル化したと言っている。結論は、奇しくも同じである。
2020年1月2日に日本でレビュー済み
小弟が、他の本の内容に関連して、進化論を葬り去った書評どもを御高覧ください。
それ故に、「大進化」は有り得ませんので、この本に書いてある、大脳視覚領が全く欠損してしまった脳損傷患者であるヒトやサルにも物が見えるという「盲視」現象によって、「霊魂・心とは、脳機能とは、基本的に、別のものであり、脳は其れを補助しているだけだ。」という事実が証明されました。
エマ・バーン『悪態の科学』でも、その事実は傍証されていますが。(小弟の書評を御高覧ください。)
それ故に、「大進化」は有り得ませんので、この本に書いてある、大脳視覚領が全く欠損してしまった脳損傷患者であるヒトやサルにも物が見えるという「盲視」現象によって、「霊魂・心とは、脳機能とは、基本的に、別のものであり、脳は其れを補助しているだけだ。」という事実が証明されました。
エマ・バーン『悪態の科学』でも、その事実は傍証されていますが。(小弟の書評を御高覧ください。)
2010年6月9日に日本でレビュー済み
著者が悪いのか、訳者が悪いのか、その両方か。
本書の内容は、生まれつき盲目の人に、
赤色を説明するややこしさに匹敵する。
結論として、何が言いたかったのか、
回りくどすぎる煙幕のお陰で、まったく見えてこない。
本書の内容は、生まれつき盲目の人に、
赤色を説明するややこしさに匹敵する。
結論として、何が言いたかったのか、
回りくどすぎる煙幕のお陰で、まったく見えてこない。
2015年8月7日に日本でレビュー済み
仏教経験者なら、図1(p.16)、図2(p.21)、図3(p.35)を見て、瑜伽唯識の教義を思い浮かべる。
瑜伽唯識には、「四分・三類境」という基本的な教義がある。これは瑜伽行の実践で体験したことを整理したものである。折角なので、詳細な説明は省略して、全体構成を下記する。
【A.四分説】≡「能変の心」の作用 = 認識対象をすべて変現して認識する能動的な心[A2~A4]
[A1] 相分 ≡ 客観的側面(認識対象)=心それ自体から転変した影像
[A2] 見分 ≡ 主観的側面=見分は相分を認識する。
[A3] 自証分(自体分) ≡ 自らが対象を認識していることを自覚する側面=自証分は見分と相分を生成し、自証分は見分を認識する。
[A4] 証自証分 ≡ 自証分の確認をさらに認知するもの=証自証分は自証分を生成し、それぞれが相手を認識する。
【B.三類境】≡「所変の心」の機能 = 能変の心で変現された受動的な認識対象
[B1] 性境 ≡ 能変の心の影響を受けることなく、相分は本質に従う。= 円成実性(還滅縁起)
[B2] 影境(錯乱相) ≡ 見分のみに随い、本質(事物)と全く関係が無い。= 遍計所執性(流転縁起)
[B3] 帯質境(分別相) ≡ 実の本質を含むが本質そのものではない。= 依他起性(十二支縁起)
***
さて、本書の図2の説明(p.23~34、若干言葉を補った)と瑜伽唯識の教義の対応を述べてみる。
(S1) Sは赤い感覚(にまつわる事実)bを抱く。
(S2) Sはこの赤い感覚を抱いているという概念 p(b) を感じる。
(S3) Sはスクリーン(にまつわる事実)aが赤だという概念 p(a) を知覚する。
(S4) Sは自らの「自己」を経験する。
これを瑜伽唯識の四分説の言葉で説明すると次のようになる。
(瑜伽1) Sの見分が相分(スクリーン)に赤い感覚bを抱く。
(瑜伽2) Sの自証分は見分がこの赤い感覚を抱いているという概念 p(b) を感じたことを認識する。
(瑜伽3) Sの自証分は見分と相分を認識してスクリーンaが赤だという概念 p(a) を知覚する。
(瑜伽4) Sの証自証分は自らの「自己」である自証分を経験する。
瑜伽唯識の方が、Sの働きがよく理解できる。
***
さらに、釈尊の「四念処」を理解すれば、瑜伽唯識の教義内容はさらに明確になる。
<釈尊の教法の真義>によれば、時空等の二元性を有する三次元世界(これを仏教では欲界と呼ぶ)の凡夫は、欲界の無知(三結という煩悩)を除去することにより、聖者となり、やがて非二元性の境域である高次元世界のブッダに進化する方法を指導した。その一つが四念処である。
四念処は次の四つである。
[1.身念処(感覚器官)]
[2.受念処(感情)]
[3.心念処(心、思考)]
[4.法念処(意識)]
釈尊のように、言葉の定義を厳密に決めるところから着手する必要がある。
瑜伽唯識には、「四分・三類境」という基本的な教義がある。これは瑜伽行の実践で体験したことを整理したものである。折角なので、詳細な説明は省略して、全体構成を下記する。
【A.四分説】≡「能変の心」の作用 = 認識対象をすべて変現して認識する能動的な心[A2~A4]
[A1] 相分 ≡ 客観的側面(認識対象)=心それ自体から転変した影像
[A2] 見分 ≡ 主観的側面=見分は相分を認識する。
[A3] 自証分(自体分) ≡ 自らが対象を認識していることを自覚する側面=自証分は見分と相分を生成し、自証分は見分を認識する。
[A4] 証自証分 ≡ 自証分の確認をさらに認知するもの=証自証分は自証分を生成し、それぞれが相手を認識する。
【B.三類境】≡「所変の心」の機能 = 能変の心で変現された受動的な認識対象
[B1] 性境 ≡ 能変の心の影響を受けることなく、相分は本質に従う。= 円成実性(還滅縁起)
[B2] 影境(錯乱相) ≡ 見分のみに随い、本質(事物)と全く関係が無い。= 遍計所執性(流転縁起)
[B3] 帯質境(分別相) ≡ 実の本質を含むが本質そのものではない。= 依他起性(十二支縁起)
***
さて、本書の図2の説明(p.23~34、若干言葉を補った)と瑜伽唯識の教義の対応を述べてみる。
(S1) Sは赤い感覚(にまつわる事実)bを抱く。
(S2) Sはこの赤い感覚を抱いているという概念 p(b) を感じる。
(S3) Sはスクリーン(にまつわる事実)aが赤だという概念 p(a) を知覚する。
(S4) Sは自らの「自己」を経験する。
これを瑜伽唯識の四分説の言葉で説明すると次のようになる。
(瑜伽1) Sの見分が相分(スクリーン)に赤い感覚bを抱く。
(瑜伽2) Sの自証分は見分がこの赤い感覚を抱いているという概念 p(b) を感じたことを認識する。
(瑜伽3) Sの自証分は見分と相分を認識してスクリーンaが赤だという概念 p(a) を知覚する。
(瑜伽4) Sの証自証分は自らの「自己」である自証分を経験する。
瑜伽唯識の方が、Sの働きがよく理解できる。
***
さらに、釈尊の「四念処」を理解すれば、瑜伽唯識の教義内容はさらに明確になる。
<釈尊の教法の真義>によれば、時空等の二元性を有する三次元世界(これを仏教では欲界と呼ぶ)の凡夫は、欲界の無知(三結という煩悩)を除去することにより、聖者となり、やがて非二元性の境域である高次元世界のブッダに進化する方法を指導した。その一つが四念処である。
四念処は次の四つである。
[1.身念処(感覚器官)]
[2.受念処(感情)]
[3.心念処(心、思考)]
[4.法念処(意識)]
釈尊のように、言葉の定義を厳密に決めるところから着手する必要がある。
2008年8月1日に日本でレビュー済み
赤を見ているときの「あの感覚」を追い求めた本。
クオリアと意識の謎に挑んでいる。
赤いスクリーンを見るとき、人は
・赤い感覚を抱く
・この赤い感覚を抱いていることを感じる
・スクリーンが赤だと知覚する
・自らの「自己」を経験する
といったことがおこる(p34)。
まず、筆者は知覚と感覚を峻別する。
それは、筆者はサルの盲視実験で有名な人だが、盲視研究によって感覚抜きの知覚の存在が明らかになっているからだ。
機能的な知覚ではない、感覚の役割は、「自己」の感じを表すことだと筆者は言う。
感覚なしの知覚では、自分が主体的に動いているという実感が発生しないのだ。
そして、筆者は、感覚とは局所反応の「身もだえ」が進化したものだという。
もともと局部で起きていた身もだえが、脳内に潜在化され、内側にフィードバックされるだけとなったのが感覚なのだ。
そして、意識の役割は、「私」の感覚を錯覚させて作り出すことにある。
だからこそ意識の問題は難しい(解けては困る)し、重要(重要であることが意識の機能だ)であることになる。
クオリアと意識についてのこの説は、非常に興味深い。
感覚のフィードバック機構と、自己を作り出すメカニズム、身もだえ、などは読んでいてスリリングでさえある。
ただ、やはり「あの感じは何か」は手からすり抜けてしまった気がする。
あの感じがどういう機能を持つかはわかったが、あの感じがどう作られているかは、やはりきちんとした答えにはたどり着いていないようだ。
講演録なのでわかりやすく、200pもないのですぐ読める。
軽く脳科学と意識に触れたいならオススメである
クオリアと意識の謎に挑んでいる。
赤いスクリーンを見るとき、人は
・赤い感覚を抱く
・この赤い感覚を抱いていることを感じる
・スクリーンが赤だと知覚する
・自らの「自己」を経験する
といったことがおこる(p34)。
まず、筆者は知覚と感覚を峻別する。
それは、筆者はサルの盲視実験で有名な人だが、盲視研究によって感覚抜きの知覚の存在が明らかになっているからだ。
機能的な知覚ではない、感覚の役割は、「自己」の感じを表すことだと筆者は言う。
感覚なしの知覚では、自分が主体的に動いているという実感が発生しないのだ。
そして、筆者は、感覚とは局所反応の「身もだえ」が進化したものだという。
もともと局部で起きていた身もだえが、脳内に潜在化され、内側にフィードバックされるだけとなったのが感覚なのだ。
そして、意識の役割は、「私」の感覚を錯覚させて作り出すことにある。
だからこそ意識の問題は難しい(解けては困る)し、重要(重要であることが意識の機能だ)であることになる。
クオリアと意識についてのこの説は、非常に興味深い。
感覚のフィードバック機構と、自己を作り出すメカニズム、身もだえ、などは読んでいてスリリングでさえある。
ただ、やはり「あの感じは何か」は手からすり抜けてしまった気がする。
あの感じがどういう機能を持つかはわかったが、あの感じがどう作られているかは、やはりきちんとした答えにはたどり着いていないようだ。
講演録なのでわかりやすく、200pもないのですぐ読める。
軽く脳科学と意識に触れたいならオススメである
2006年12月23日に日本でレビュー済み
感覚というのは一種の行動である、という奇妙奇天烈な説を、寄せ手からめ手から解説し、読み終わるときにはなるほど!とおもわせてくれました。
「知覚」と「感覚」は同時並行に進行するものであり、「感覚」が失われてもなお「知覚」は可能であるということを、「盲視」という症例をもとに説明したり、
(盲視: 脳に損傷を受けて、本人は「見える」とはおもえないのに、実際には「見えていて、わかる」ということがあるらしい)
「感覚」は「反応」をモニターする機能として進化してきたと考えられる、ということを「電話」という一人芝居を例に出して説明したり、
「ミラーニューロン」が、行動の一種であるところの「感覚」を、それが行動であるがゆえに模倣しやすく、よって社会的な「共感」の基盤になっているという話や、
(人形劇や昆虫など、実際には「感覚」をもっていないであろう「対象」に「感情移入」できてしまうのは、ここらへんが関係しているのだろうかと、勝手に想像してちょっと興奮しました)
「感覚」は「現在という瞬間」を、その前後の時間的厚みをともなって感じられる理由や、
とにもかくにも、「感覚」というものが何なのか、そしてその果たす意義について、興奮を味わいながら楽しめた本でした。
「知覚」と「感覚」は同時並行に進行するものであり、「感覚」が失われてもなお「知覚」は可能であるということを、「盲視」という症例をもとに説明したり、
(盲視: 脳に損傷を受けて、本人は「見える」とはおもえないのに、実際には「見えていて、わかる」ということがあるらしい)
「感覚」は「反応」をモニターする機能として進化してきたと考えられる、ということを「電話」という一人芝居を例に出して説明したり、
「ミラーニューロン」が、行動の一種であるところの「感覚」を、それが行動であるがゆえに模倣しやすく、よって社会的な「共感」の基盤になっているという話や、
(人形劇や昆虫など、実際には「感覚」をもっていないであろう「対象」に「感情移入」できてしまうのは、ここらへんが関係しているのだろうかと、勝手に想像してちょっと興奮しました)
「感覚」は「現在という瞬間」を、その前後の時間的厚みをともなって感じられる理由や、
とにもかくにも、「感覚」というものが何なのか、そしてその果たす意義について、興奮を味わいながら楽しめた本でした。