個人的に日本はなぜ第二次大戦を戦ったのか、をテーマに歴史を遡っているが、日本独自の歴史の論理のみならず、どうしても西欧の帝国主義、大航海時代と産業革命に原因を求めざるを得ず、さらに遡る因果は何かを探していたところ、12世紀ルネサンスに行きあたった。
たまたま知ったこの本が、謎だった部分を明らかにしており、ミッシングリンクを発見した思いである。
アリストテレスの叡智が、ローマ帝国によるキリスト教の国教化、ゲルマン民族の大移動による崩壊とにより叡智との断絶を招く。それがレコンキスタを通じて再発見され、抵抗に遭いながらやがてキリスト教に受容され、ついには信仰と理性の離婚により西欧は飛躍的な科学発展を遂げる。
いくつか埋めるべきピースはまだあるが、アリストテレスからの流れを掴めたのはとても大きい。
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中世の覚醒: アリストテレス再発見から知の革命へ 単行本 – 2008/3/1
- 本の長さ502ページ
- 言語日本語
- 出版社紀伊國屋書店
- 発売日2008/3/1
- ISBN-104314010398
- ISBN-13978-4314010399
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登録情報
- 出版社 : 紀伊國屋書店 (2008/3/1)
- 発売日 : 2008/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 502ページ
- ISBN-10 : 4314010398
- ISBN-13 : 978-4314010399
- Amazon 売れ筋ランキング: - 589,272位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,539位ヨーロッパ史一般の本
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年4月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「哲学者」が固有名詞として、アリストテレスただ一人を指していた中世ヨーロッパに綺羅星の如く出現した思想家たちの生の軌跡が美事に描かれている。
この本で最も素晴らしいと思う点は、「覚醒」の時代に生きた彼ら(有名であれ無名であれ)の情熱と生き様が、精彩な絵巻を紐解いているかのように眼前にありありと感じられる事である。信と知とを携えて強靭に思考した星々のダイナミズムが、うねる時代の渦中で、時に不幸な結末を辿りつつも継承発展していった様を、冷静な筆致はしかし、これ以上ない程にエキサイティングなものとして伝えてくれる。
キリスト教が主たる話題で、イスラムとユダヤに関する記述は不足しているが、それは他の本で補えばよい。中世ヨーロッパの思想の入門書としては、万人に薦められる本です。
この本で最も素晴らしいと思う点は、「覚醒」の時代に生きた彼ら(有名であれ無名であれ)の情熱と生き様が、精彩な絵巻を紐解いているかのように眼前にありありと感じられる事である。信と知とを携えて強靭に思考した星々のダイナミズムが、うねる時代の渦中で、時に不幸な結末を辿りつつも継承発展していった様を、冷静な筆致はしかし、これ以上ない程にエキサイティングなものとして伝えてくれる。
キリスト教が主たる話題で、イスラムとユダヤに関する記述は不足しているが、それは他の本で補えばよい。中世ヨーロッパの思想の入門書としては、万人に薦められる本です。
2018年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
12世紀にレコンキスタが進みトレドがキリスト教徒の手に落ちると、そこには西欧世界ではほぼ失われたアリストテレスの著作が揃っていた。著者によれば当時の西欧世界は社会的に相対的安定期にあり知識を渇望していたので、この古代の哲学者の著作を競ってラテン語訳し、その写本は、パリやシチリアなど当時の文化の他の中心地に流布していった。
アリストテレスは前4世紀のギリシアの哲学者で、プラトンの弟子でありアレクサンダー大王の家庭教師も務めたとされる人物である。彼の基本的な考えは、現世は良きもので探求すべき価値があり、そして宇宙は永遠であるというものだった。これに対して、プラトンによればこの世は仮のもので真に大切なのは現実の背後にあるイデアの世界である、また宇宙には始まりと終わりがあるとする。この両者でどちらが、世界の神による創造や最後の審判を信じ、この世は苦しいもので救いを来世に求めるキリスト教の世界観によく合うかといえば、それはプラトンであろう。そのため、4-5世紀の教父アウグスチヌスはプラトン的な哲学をもとにキリスト教神学を打ち立てた。
しかし、12世紀にはキリスト教をアリストテレス的哲学を援用して再統合しようとする一連の人たちが現れてきた。その一部は彼の自然哲学ー森羅万象の現実の出来事を理解しようとするものーに惹かれたのだろう。まず、最初にアベラールが普遍論争の中で唯名論的主張(個別の事物こそ大事)をなし、反対派と論争した。この唯名論という考え方自体が非プラトン的でアリストテレス的である。さらに2世紀の間、ロジャー・ベーコンやアルベルトゥスらの論客らが登場し論争は続くが状況は変化する。異端とされたカタリ派は正統に対しアリストテレス哲学で武装して反論をしてきたのだ。その結果、正統の中でも異端審問に熱心だったドミニコ会が積極的にアリストテレス哲学を学び反論する必要を理解した。その中での巨人が、トマス・アクィナスである(神学大全)。これらの神学者はいずれも信仰を疑うことなどなかったが、彼らの論は、信仰の世界と自然哲学の世界(理性)を分離し、その距離を広げることに結果的にはなっていった。ちょうど、現実の西欧世界で教皇権が世俗の王の権威に打ち負かされつつあったように。この流れを決定的にしたのが、オッカムのウイリアムやドゥンス・スコトゥスである。アリストテレス哲学の導入は、結局理神論や汎神論へと道を開くことになり、彼らの反対者はその点で正しかったのだ。つまり、科学革命ではアリストテレスの自然哲学を打倒することがその内実を占めていたのだが、それ以前、つまり近代科学の芽を育てたのはアリストテレスの自然哲学だったのだ。ビュリダンのインペトゥスが力学の端緒だったように、この神学論争の中でアリストテレスを否定もしながら科学は育っていった。
内容が複雑な割には(細かい神学論争の中身は、まさにスコラ的で現代人の我々にはその違いの重要性がもはや容易には理解できない)、大変面白い。中世がどのように暗黒ではなかったのか、ということがよくわかる。論争に関わる各派各人の悲喜劇などとても人間臭い興味を引く、ことにアベラールのエロイーズとの有名な一件などは。ただし12世紀神学者に比べて14世紀の神学者については、そもそも叙述量が少ないのは、どうしてなのかと疑問を持った。
アリストテレスは前4世紀のギリシアの哲学者で、プラトンの弟子でありアレクサンダー大王の家庭教師も務めたとされる人物である。彼の基本的な考えは、現世は良きもので探求すべき価値があり、そして宇宙は永遠であるというものだった。これに対して、プラトンによればこの世は仮のもので真に大切なのは現実の背後にあるイデアの世界である、また宇宙には始まりと終わりがあるとする。この両者でどちらが、世界の神による創造や最後の審判を信じ、この世は苦しいもので救いを来世に求めるキリスト教の世界観によく合うかといえば、それはプラトンであろう。そのため、4-5世紀の教父アウグスチヌスはプラトン的な哲学をもとにキリスト教神学を打ち立てた。
しかし、12世紀にはキリスト教をアリストテレス的哲学を援用して再統合しようとする一連の人たちが現れてきた。その一部は彼の自然哲学ー森羅万象の現実の出来事を理解しようとするものーに惹かれたのだろう。まず、最初にアベラールが普遍論争の中で唯名論的主張(個別の事物こそ大事)をなし、反対派と論争した。この唯名論という考え方自体が非プラトン的でアリストテレス的である。さらに2世紀の間、ロジャー・ベーコンやアルベルトゥスらの論客らが登場し論争は続くが状況は変化する。異端とされたカタリ派は正統に対しアリストテレス哲学で武装して反論をしてきたのだ。その結果、正統の中でも異端審問に熱心だったドミニコ会が積極的にアリストテレス哲学を学び反論する必要を理解した。その中での巨人が、トマス・アクィナスである(神学大全)。これらの神学者はいずれも信仰を疑うことなどなかったが、彼らの論は、信仰の世界と自然哲学の世界(理性)を分離し、その距離を広げることに結果的にはなっていった。ちょうど、現実の西欧世界で教皇権が世俗の王の権威に打ち負かされつつあったように。この流れを決定的にしたのが、オッカムのウイリアムやドゥンス・スコトゥスである。アリストテレス哲学の導入は、結局理神論や汎神論へと道を開くことになり、彼らの反対者はその点で正しかったのだ。つまり、科学革命ではアリストテレスの自然哲学を打倒することがその内実を占めていたのだが、それ以前、つまり近代科学の芽を育てたのはアリストテレスの自然哲学だったのだ。ビュリダンのインペトゥスが力学の端緒だったように、この神学論争の中でアリストテレスを否定もしながら科学は育っていった。
内容が複雑な割には(細かい神学論争の中身は、まさにスコラ的で現代人の我々にはその違いの重要性がもはや容易には理解できない)、大変面白い。中世がどのように暗黒ではなかったのか、ということがよくわかる。論争に関わる各派各人の悲喜劇などとても人間臭い興味を引く、ことにアベラールのエロイーズとの有名な一件などは。ただし12世紀神学者に比べて14世紀の神学者については、そもそも叙述量が少ないのは、どうしてなのかと疑問を持った。
2008年6月30日に日本でレビュー済み
現在の様式の科学がなぜ西欧で発展したのかを追求して行くとルネサンスに行き着く。では、ルネサンスがなぜ起こったのかを見ようと思えば、中世の文化に足を踏み入れることになる。科学研究を生業にしているのだから、そのルーツを理解しようとするのだが、根が深い。
本書では、中世中期のギリシャ哲学特にアリストテレスの再発見から説き起こして、大学(主としてパリ大学)での教養学と神学との闘争をルネサンス直前まで追っている。かなりの大部で記載的なのだが、興味を持って読み続けることが出来たのは、「科学の萌芽」が少しずつ育つのを見ることが出来たからなのだろう。
特に、ルネサンス直前のウィリアム・オッカム(オッカムの剃刀のオッカム)の論理と、ジャン・ビュリダンのインペトゥス(ニュートン力学の質量そのもの)には驚いた。ガリレオの力学は虚空から突然生まれた訳ではなかったのだ。
その論理なり科学なりが、基本的にはキリスト教神学の強化、ないしは経験と神学の調和を目指す神学の一部として、修道士によってなされたと言うのが、きわめて興味深いところである。西欧以外、宗教的にはカトリック圏以外では、このような発展はなかった。では、カトリック圏と、正教圏、イスラム圏、中国、日本などと、何が違ったのであろうか。
その答えは本書にはない。しかし、この歴史を見て、宗教権力と世俗権力の並立が大学の権力からの独立を用意したからではないかと思うようになった。もちろん、それだけですべてが説明できる訳ではないし、私にとっても腑に落ちた気分からはほど遠い。まあ、世紀の大問題を考えているのだから、そう簡単に答えが出るはずはないよなあ。
本書では、中世中期のギリシャ哲学特にアリストテレスの再発見から説き起こして、大学(主としてパリ大学)での教養学と神学との闘争をルネサンス直前まで追っている。かなりの大部で記載的なのだが、興味を持って読み続けることが出来たのは、「科学の萌芽」が少しずつ育つのを見ることが出来たからなのだろう。
特に、ルネサンス直前のウィリアム・オッカム(オッカムの剃刀のオッカム)の論理と、ジャン・ビュリダンのインペトゥス(ニュートン力学の質量そのもの)には驚いた。ガリレオの力学は虚空から突然生まれた訳ではなかったのだ。
その論理なり科学なりが、基本的にはキリスト教神学の強化、ないしは経験と神学の調和を目指す神学の一部として、修道士によってなされたと言うのが、きわめて興味深いところである。西欧以外、宗教的にはカトリック圏以外では、このような発展はなかった。では、カトリック圏と、正教圏、イスラム圏、中国、日本などと、何が違ったのであろうか。
その答えは本書にはない。しかし、この歴史を見て、宗教権力と世俗権力の並立が大学の権力からの独立を用意したからではないかと思うようになった。もちろん、それだけですべてが説明できる訳ではないし、私にとっても腑に落ちた気分からはほど遠い。まあ、世紀の大問題を考えているのだから、そう簡単に答えが出るはずはないよなあ。
2020年1月12日に日本でレビュー済み
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新しい発見がある本。一神教の世界の難しさと国際政治で平和を考える際の、知られざる背景というか歴史の流れを発見できた。
2019年1月28日に日本でレビュー済み
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他の方のレヴューで足りている気もするが、非常に面白く読めたので書いておきたい。
まず、中世ヨーロッパにおいてアリストテレス受容がいかに衝撃的なものであったのかが、非常にいきいきと描かれており興味深く読めた。これまで12世紀ルネサンス史観のようなものをどこか毛嫌いしていたところがあったが、14、5世紀のルネサンスを準備するには必要不可欠な過程であったと改めて知ることができた。その上で、たとえば、古川安『科学の社会史』(ちくま学芸文庫)なども指摘するように、12世紀のアリストテレス受容は、もう一度別な形で14、5世紀に遅れて復活したギリシャ哲学を背景とした思想に乗り越えられることとなり、中世はもう1度覚醒したともいえる。その意味では、本書は、その前半部分のみを扱い、アリストテレスの偉大さを強調しすぎた嫌いが若干あるかもしれない。しかし、強調しすぎてもしすぎることはないほどアリストテレスが偉大なのも、また事実であろう。いずれにせよ、良い読書体験であった。
まず、中世ヨーロッパにおいてアリストテレス受容がいかに衝撃的なものであったのかが、非常にいきいきと描かれており興味深く読めた。これまで12世紀ルネサンス史観のようなものをどこか毛嫌いしていたところがあったが、14、5世紀のルネサンスを準備するには必要不可欠な過程であったと改めて知ることができた。その上で、たとえば、古川安『科学の社会史』(ちくま学芸文庫)なども指摘するように、12世紀のアリストテレス受容は、もう一度別な形で14、5世紀に遅れて復活したギリシャ哲学を背景とした思想に乗り越えられることとなり、中世はもう1度覚醒したともいえる。その意味では、本書は、その前半部分のみを扱い、アリストテレスの偉大さを強調しすぎた嫌いが若干あるかもしれない。しかし、強調しすぎてもしすぎることはないほどアリストテレスが偉大なのも、また事実であろう。いずれにせよ、良い読書体験であった。
2019年2月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
すでに、書評として御三方の立派な書評があり、本書の内容については十分説明見されているが、あえて感想を述べたい。
著者のルーベンスタイン氏も翻訳者の小沢千恵重子もともに、専門分野の学者ではないと思われるが、それ故か、かえってわかりやすかった。最後の山本芳久氏の解説も、簡にして要を得ており、理解をより深めるのに役立った。
著者のルーベンスタイン氏も翻訳者の小沢千恵重子もともに、専門分野の学者ではないと思われるが、それ故か、かえってわかりやすかった。最後の山本芳久氏の解説も、簡にして要を得ており、理解をより深めるのに役立った。
2018年12月6日に日本でレビュー済み
豊かな内容、巧みなストーリーテリング、自然な訳文が相俟って、
西洋中世の知的世界を圧倒的な光輝のもとに描き出す名著である。
中世の知識人たちは、アリストテレスという衝撃をさまざまな形で受け止めた。
それは基本的に、信仰(キリスト教)と理性(アリストテレス)をいかに調和させるかという問題をめぐるものだった。
従来の中世像は、階統的に秩序づけられた世界観の下で信仰と理性の調和が保たれるという静態的なものであり、
思想史的にそれを体現するのは「天使的博士」トマス・アクィナスであろう。
本書でルーベンスタインが示すのは、それとは逆に、きわめて動態的なものとしての中世、
すなわち常に激烈な論争が繰り広げられてきた歴史としての中世である。
(トマスも体制秩序の体現者としてではなく、そうした論争家の一人として生き生きと登場する)
本書を読む限り、異端審問による言論弾圧が厳しくなるのはむしろ近世以後で、
中世には少なくとも知識人の世界にはある種の公共圏が成立していたようだ。
(そういえば魔女狩りが盛んに行われたのも中世よりむしろ近世である)
大事なのは、中世において、信仰と理性をどのように調和させるのかについて論争がつねにあったとしても、
調和させることの必要性は共有されていたという点である。
なぜなら、本来は国際紛争の専門家である著者の見立てでは、信仰と理性を切り離してしまった近代は、
グローバリゼーションの進む現代において、世界観を異にする他者と対話する術を失い立ちすくんでいるからだ。
現代の我々は、信仰と理性が切り離せないという中世人の正しい洞察に立ち返らねばならない。
最後に翻訳について。訳文自体も素晴らしいが、特筆すべきは本文中に組み込まれた訳注である。
著者の主張を専門的なレヴェルで訂正したり、言及・引用される文献の原典にいちいちあたり補足説明するという、
専門研究者顔負けの恐るべき労力を要する仕事をさりげなくこなしている。訳者に敬意を表したい。
西洋中世の知的世界を圧倒的な光輝のもとに描き出す名著である。
中世の知識人たちは、アリストテレスという衝撃をさまざまな形で受け止めた。
それは基本的に、信仰(キリスト教)と理性(アリストテレス)をいかに調和させるかという問題をめぐるものだった。
従来の中世像は、階統的に秩序づけられた世界観の下で信仰と理性の調和が保たれるという静態的なものであり、
思想史的にそれを体現するのは「天使的博士」トマス・アクィナスであろう。
本書でルーベンスタインが示すのは、それとは逆に、きわめて動態的なものとしての中世、
すなわち常に激烈な論争が繰り広げられてきた歴史としての中世である。
(トマスも体制秩序の体現者としてではなく、そうした論争家の一人として生き生きと登場する)
本書を読む限り、異端審問による言論弾圧が厳しくなるのはむしろ近世以後で、
中世には少なくとも知識人の世界にはある種の公共圏が成立していたようだ。
(そういえば魔女狩りが盛んに行われたのも中世よりむしろ近世である)
大事なのは、中世において、信仰と理性をどのように調和させるのかについて論争がつねにあったとしても、
調和させることの必要性は共有されていたという点である。
なぜなら、本来は国際紛争の専門家である著者の見立てでは、信仰と理性を切り離してしまった近代は、
グローバリゼーションの進む現代において、世界観を異にする他者と対話する術を失い立ちすくんでいるからだ。
現代の我々は、信仰と理性が切り離せないという中世人の正しい洞察に立ち返らねばならない。
最後に翻訳について。訳文自体も素晴らしいが、特筆すべきは本文中に組み込まれた訳注である。
著者の主張を専門的なレヴェルで訂正したり、言及・引用される文献の原典にいちいちあたり補足説明するという、
専門研究者顔負けの恐るべき労力を要する仕事をさりげなくこなしている。訳者に敬意を表したい。