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女ぎらい――ニッポンのミソジニー 単行本(ソフトカバー) – 2010/10/6
上野 千鶴子
(著)
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男の「女ぎらい」と女の「生きづらさ」を解剖する!
わたしの中の〈女〉が嫌い? 女好きの男は、実は女ぎらい?
ミソジニー。男にとっては「女性嫌悪」、女にとっては「自己嫌悪」。――「皇室」から「婚活」「負け犬」「DV」「モテ」「少年愛」「自傷」「援交」「東電OL」「秋葉原事件」まで…。上野千鶴子が、男社会の宿痾を衝く。
ブックデザイン:鈴木成一デザイン室
◆『朝日新聞』読書欄(2010/11/14付)、『日本経済新聞』書評(11/7付)、共同通信配信書評(11/7付)、『週刊文春』書評(11/25号)、『週刊読書人』書評(11/19付)、『サンデー毎日』特集記事(11/28号)、『婦人公論』(12/22-1/7号) 「ルポルタージュ 時代を創る女たち:上野千鶴子」、日経ビジネスオンライン書評(12/13)、サイゾーウーマン(『女ぎらい』著者インタビュー)、『読売新聞』(2011/3/4夕刊)「松任谷由実プレミア対談 yumiyoriな話http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/yumiyori/20110304-OYT8T00678.htm、『週刊ポスト』書評(4/8号)、Inter FM「ラジオデイズ~ラジオの街で逢いましょう」(4/10)等で紹介!
<本文より>
社会学者という職業を、ときどき因業だと思うことがある。自分にとって気持ちのよいもの、美しいもの、心温まるものではなく、むしろ不快なもの、むかつくもの、許しがたいものを対象に選び、なぜそうなるのか、その謎を理解しようとしてしまう執念に取り憑かれるからだ。
書き手にとってと同様、本書は多くの読者にとって、女にとっても男にとっても――とりわけ男にとって――不愉快な読書経験をもたらすだろう。なぜならそれは多くの男女が目をそむけていたいことがらのひとつだからだ。
(あとがき)
わたしの中の〈女〉が嫌い? 女好きの男は、実は女ぎらい?
ミソジニー。男にとっては「女性嫌悪」、女にとっては「自己嫌悪」。――「皇室」から「婚活」「負け犬」「DV」「モテ」「少年愛」「自傷」「援交」「東電OL」「秋葉原事件」まで…。上野千鶴子が、男社会の宿痾を衝く。
ブックデザイン:鈴木成一デザイン室
◆『朝日新聞』読書欄(2010/11/14付)、『日本経済新聞』書評(11/7付)、共同通信配信書評(11/7付)、『週刊文春』書評(11/25号)、『週刊読書人』書評(11/19付)、『サンデー毎日』特集記事(11/28号)、『婦人公論』(12/22-1/7号) 「ルポルタージュ 時代を創る女たち:上野千鶴子」、日経ビジネスオンライン書評(12/13)、サイゾーウーマン(『女ぎらい』著者インタビュー)、『読売新聞』(2011/3/4夕刊)「松任谷由実プレミア対談 yumiyoriな話http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/yumiyori/20110304-OYT8T00678.htm、『週刊ポスト』書評(4/8号)、Inter FM「ラジオデイズ~ラジオの街で逢いましょう」(4/10)等で紹介!
<本文より>
社会学者という職業を、ときどき因業だと思うことがある。自分にとって気持ちのよいもの、美しいもの、心温まるものではなく、むしろ不快なもの、むかつくもの、許しがたいものを対象に選び、なぜそうなるのか、その謎を理解しようとしてしまう執念に取り憑かれるからだ。
書き手にとってと同様、本書は多くの読者にとって、女にとっても男にとっても――とりわけ男にとって――不愉快な読書経験をもたらすだろう。なぜならそれは多くの男女が目をそむけていたいことがらのひとつだからだ。
(あとがき)
- ISBN-10431401069X
- ISBN-13978-4314010696
- 出版社紀伊國屋書店
- 発売日2010/10/6
- 言語日本語
- 寸法13 x 2.1 x 19 cm
- 本の長さ288ページ
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商品の説明
出版社からのコメント
◆朝日新聞読書欄(11/14付)、日本経済新聞書評(11/7付)、共同通信配信書評(11/7付)、週刊文春書評(11/25号)、『サンデー毎日』特集記事(11/28号)で紹介!
◆2011年1月20日(木)朝日カルチャーセンター新宿教室で『女ぎらい ニッポンのミソジニー 出版記念講座』開催予定。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=98665&userflg=0
◆2011年1月20日(木)朝日カルチャーセンター新宿教室で『女ぎらい ニッポンのミソジニー 出版記念講座』開催予定。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=98665&userflg=0
著者について
1948年富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了。現在、東京大学大学院教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニア。1980年代以降、常に時代の先端を疾走し、現代社会のさまざまな問題を問い続けてきたフェミニスト。近年は、老い、福祉、ケアに専門領域を広げている。1994年『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)でサントリー学芸賞を受賞。『家父長制と資本制』(岩波書店)、『女遊び』(学陽書房)、『スカ-トの下の劇場』(河出書房新社)、『おひとりさまの老後』(法研)、『ひとりの午後に』(NHK出版)、『戦後日本スタディーズ』全3巻(共編著、紀伊國屋書店)など著書多数。
登録情報
- 出版社 : 紀伊國屋書店 (2010/10/6)
- 発売日 : 2010/10/6
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 288ページ
- ISBN-10 : 431401069X
- ISBN-13 : 978-4314010696
- 寸法 : 13 x 2.1 x 19 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 193,364位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 24,850位社会・政治 (本)
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著者について
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2024年1月26日に日本でレビュー済み
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とても役立つ
2014年4月1日に日本でレビュー済み
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我が意を得たり!の読後感です。
子どもの頃から感じてきたことを、上野先生がわかりやすく言語化してくださいました。
いろんな人に読んで欲しいです。
子どもの頃から感じてきたことを、上野先生がわかりやすく言語化してくださいました。
いろんな人に読んで欲しいです。
2012年6月12日に日本でレビュー済み
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it's good book, you will know about japanese women.
2010年10月13日に日本でレビュー済み
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「女ぎらい=ミソジニー」と題されているが、著者は「ミソジニーの男には、女好きが多い」と言う(p7)。奇妙な逆説に見えるが、そうではない。きわめて包括的な「女性蔑視」が、「ミソジニー」の本質である。というのも、「いい女や美しい女をものにした男」は、何よりも男の集団の中で高い評価を得るからであり、女はもともと男たちが評価を競う「獲物」という低い位置にあるからだ。「いい女や美しい女」であることは、それ自体において、あるいは女自身にとって価値があるというよりも、そういう女は「男に選ばれる」からこそ、女自身も自分が「いい女や美しい女」でありたいと望む。つまり、女自身の欲望は、男の欲望に合わせて形成される。そうなる理由は、男が権力と金を握る男性優位の社会がある以上、強い男や裕福な男に選ばれた女が、それだけ幸福になるからである(「女は金についてくる」=ホリエモン)。いや、そんなことはない、高い地位と経済力をもつキャリアウーマンもいるじゃないかと思う人もいるだろう。だが、キャリアウーマンであっても、男に選ばれない女は、「女として幸福ではない、かわいそうな女」という評価を男から受ける。女は男に選ばれてこそナンボのものなのだ。女は「選ばれる対象」という受動的な位置に置かれているので、男はどこかで女を自分より一段低いものと考えている。これが「ミソジニー=女性蔑視」の本質であり、また、たとえ男に選ばれた「いい女」であっても、男の欲望に従属して自分の幸福があることに「自己嫌悪」を覚えないわけにはいかない。現代もまた、娘が父親の贈与と交換の対象であった時代(レヴィ=ストロース)とあまり変らないではないか、と。こうしたミソジニー=ホモソーシャル=ホモフォビアの三位一体化図式は、アメリカの社会学者セジウィックに由来するが、著者は、日本の時事的問題にも光を当てる。売春や援助交際をめぐる宮台真司批判、男性と女性で評価の異なる東電OL事件、中村うさぎがなぜ女性に人気があるかなど、冴えた分析が光る。
2018年8月22日に日本でレビュー済み
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この本をレビューするには私は言葉を知らなさすぎる。
エンパワメントされたりげっそりさせられたり忙しい一冊です。
それにしても、ここに出てくる「男流」文学、一冊も読んだことがないのですが。
読んでなくてすみませんが、この本に書いてある通りのものだとしたらなんかすごいですね。
しょうもないっていうか、、、
うーん、機会があれば読んでみますが特にあえて読みたくはないかな。。
エンパワメントされたりげっそりさせられたり忙しい一冊です。
それにしても、ここに出てくる「男流」文学、一冊も読んだことがないのですが。
読んでなくてすみませんが、この本に書いてある通りのものだとしたらなんかすごいですね。
しょうもないっていうか、、、
うーん、機会があれば読んでみますが特にあえて読みたくはないかな。。
2010年12月6日に日本でレビュー済み
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ミソジニーという概念そのものは、フェミニズムを少しかじった人間にとっては目新しくもなく、(レビュアーの一人が指摘しているように)ジェンダー論についての新しい視点を期待して読むとがっかりするかも。だいたい、ミソジニストとして最初に出てくるのが吉行淳之介だもんね。いまどき吉行淳之介なんて読む人いる?ただ、フェミニズムはその歴史的役割をほぼ終えたのではと思ってた私にとっては、いまだに女性蔑視が再生産され続けていることを認識させてくれたという意味で、価値がある一冊だった。例えば、最近のいわゆる「性的弱者」や「非モテ」援護論に潜むミソジニーとか。(この場合の「弱者」は必ず男のことだよね。よーするに彼らは、「我々にも人並みにおんなをよこせ」と言ってる訳だ。)女性の社会進出の進展と少子化の影響で、母親が娘に「息子」としての期待と「娘」としての期待を過剰に押し付けるが故に、母娘の関係が病的に歪んでしまうことがあるとか。今までフェミ論に縁がなかった人にとっては、目からうろこがいくつか落ちること請け合い。
2010年11月9日に日本でレビュー済み
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人の懐く観念には3つの水準、すなわち個人幻想、対幻想、共同幻想があり、個人幻想と共同幻想は逆立し、対幻想はそれらとは直に結びつかず、初源性を湛えながら(本質は非歴史的に)存在している。吉本隆明『共同幻想論』からの(上っ面だけかもしれぬ)知見だが、長い間「そう考えるべきなんだろうな」と思ってきた。
本書を読み、そんな見方を一変された。個人幻想と共同幻想が逆立していく要に、対幻想が権力のエロス化を通じて強力に機能していることを知らされたのだ。少なくとも近代に(近代家族のもとで生きる私達に)おいては! 著者はセジウィックの概念を用い、フーコーなどを引用しながら、その恐るべき仕掛けを白日の下に晒していく。それは衝撃的なものである上に、十分な説得力で示される。今の世の中はおかしい、分からない、嫌だと感じている人は、ぜひ読んでみるべき書だ。目の前にある大きな困難の形と、少しの希望が見えてくるのではないだろうか。
自由と平等の(民主主義)社会を担う近代的個人が、育つはずの近代家族――法などの共同幻想の侵入さえ拒む、このプライベートな空間は、対幻想が育まれる場のはずだが、実はDVや児童虐待の蔓延する、正に言葉通りの“無法”地帯であったのだ。事件報道される極端な事例だけ指すのではない。ごく一般的に、と言うより“あまねく”ということだ。だが、私達(特に男)にはそれが自覚できないよう仕組まれている(というか、気付きたくない)。権力はエロス化して侵入を果たし、私達の一挙手一投足を、そして思考や感情の末端までをも巧みに操る。そこで(疎外された)対幻想は再生産され、世の中のジェンダーによる支配構造を支え続ける。
ところで、著者は「欲望の三角形」ということを本書の最後の方で記す。現代の異性愛(によりつくられている秩序)には、一対の男女ではなく、ふたりの男とひとりの女がいる必要があるという。そうであるならば、対幻想についてもう少し正確に言うことが出来るかもしれない。私達(近代人)は、言葉通りであるところの対幻想の形成を阻まれているのであり、共同幻想が偽りのそれを押しつけていることになる。その押しつけの主犯は、当然男達なのだが。
対幻想もどきを捨てること(捨てられるか?)。その先に、さらに大きな(大きすぎる!)課題があること。とりあえず、それだけは本書により分からせてもらったと思っている。
本書を読み、そんな見方を一変された。個人幻想と共同幻想が逆立していく要に、対幻想が権力のエロス化を通じて強力に機能していることを知らされたのだ。少なくとも近代に(近代家族のもとで生きる私達に)おいては! 著者はセジウィックの概念を用い、フーコーなどを引用しながら、その恐るべき仕掛けを白日の下に晒していく。それは衝撃的なものである上に、十分な説得力で示される。今の世の中はおかしい、分からない、嫌だと感じている人は、ぜひ読んでみるべき書だ。目の前にある大きな困難の形と、少しの希望が見えてくるのではないだろうか。
自由と平等の(民主主義)社会を担う近代的個人が、育つはずの近代家族――法などの共同幻想の侵入さえ拒む、このプライベートな空間は、対幻想が育まれる場のはずだが、実はDVや児童虐待の蔓延する、正に言葉通りの“無法”地帯であったのだ。事件報道される極端な事例だけ指すのではない。ごく一般的に、と言うより“あまねく”ということだ。だが、私達(特に男)にはそれが自覚できないよう仕組まれている(というか、気付きたくない)。権力はエロス化して侵入を果たし、私達の一挙手一投足を、そして思考や感情の末端までをも巧みに操る。そこで(疎外された)対幻想は再生産され、世の中のジェンダーによる支配構造を支え続ける。
ところで、著者は「欲望の三角形」ということを本書の最後の方で記す。現代の異性愛(によりつくられている秩序)には、一対の男女ではなく、ふたりの男とひとりの女がいる必要があるという。そうであるならば、対幻想についてもう少し正確に言うことが出来るかもしれない。私達(近代人)は、言葉通りであるところの対幻想の形成を阻まれているのであり、共同幻想が偽りのそれを押しつけていることになる。その押しつけの主犯は、当然男達なのだが。
対幻想もどきを捨てること(捨てられるか?)。その先に、さらに大きな(大きすぎる!)課題があること。とりあえず、それだけは本書により分からせてもらったと思っている。
2012年4月29日に日本でレビュー済み
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自分は女でありながら女が苦手だと感じており、ミソジニ―(女ぎらい)という言葉を初めて知ったので何か参考になるかと手に取ってみました。
著者はフェミニストだから「女は身分が低く蔑視されてきた」という切り口で話が進んで行くのは当然だけれど、読み進める内に違和感を覚えた。
女好きな男がミソジニ―(女性嫌悪)である説に納得はするが、女を性的に支配したがる男の嫌いな「女」とは女性全般ではなく、男を支配する女=母親である。女や妻は社会的弱者になる場合もあるが、家庭内における母親の位置は支配的立場になることも少なくない。その視点が抜け落ちている。
著者は8章で「ミソジニ―の男がたったひとり、侮蔑の対象とカテゴリー出来ない女が「母」である」と書いているが、母に支配されながらも反抗出来なかった男は、母以外の異性を支配する事によって叶わなかった欲求を成就させようとする。そういう男にとって本当の敵(嫌悪対象)は、実は「女」ではなく「母」である。そしてそれが無意識下で行われているのが厄介なのだ。
本書の中の母像が画一的でリアリティに欠けるのは、女は社会的弱者になりやすいが「母」になる事で支配者になることも出来るという事実に触れていないからだ。母が女のカテゴリーに含まれていないというなら納得だけれど。
最終章では「フェミニストは女ぎらいだ」と肯定した上で「このミソジニ―の社会で生まれ育ってミソジニ―を身につけていない女はまずいない…(中略)…もしミソジニ―から完全に自由な女がいたら、その女性は闘う対象を持たないのだから、フェミニストである理由も無い。」と書いている。フェミニストが闘っている相手は「女性蔑視の社会」なのだろうか?「女性蔑視から自由な女(=母という存在)」なのだろうか?
私が女を苦手に感じる(女ぎらいな)のは、女が男に依存しているからでも理不尽に耐えながら愚痴を垂れ流しているからでもない。似た者同士で群れたがり他者の差異を認めたがらないところだ。男が他者との差異の中で自分を発見するのに対し女は他者との共感の中にアイデンティティを求める。著者にも自分達のカテゴリー(フェミニズム)以外の人間を否定(排除)している部分に私の苦手な「女らしさ的」なものを感じる。
著者はフェミニストだから「女は身分が低く蔑視されてきた」という切り口で話が進んで行くのは当然だけれど、読み進める内に違和感を覚えた。
女好きな男がミソジニ―(女性嫌悪)である説に納得はするが、女を性的に支配したがる男の嫌いな「女」とは女性全般ではなく、男を支配する女=母親である。女や妻は社会的弱者になる場合もあるが、家庭内における母親の位置は支配的立場になることも少なくない。その視点が抜け落ちている。
著者は8章で「ミソジニ―の男がたったひとり、侮蔑の対象とカテゴリー出来ない女が「母」である」と書いているが、母に支配されながらも反抗出来なかった男は、母以外の異性を支配する事によって叶わなかった欲求を成就させようとする。そういう男にとって本当の敵(嫌悪対象)は、実は「女」ではなく「母」である。そしてそれが無意識下で行われているのが厄介なのだ。
本書の中の母像が画一的でリアリティに欠けるのは、女は社会的弱者になりやすいが「母」になる事で支配者になることも出来るという事実に触れていないからだ。母が女のカテゴリーに含まれていないというなら納得だけれど。
最終章では「フェミニストは女ぎらいだ」と肯定した上で「このミソジニ―の社会で生まれ育ってミソジニ―を身につけていない女はまずいない…(中略)…もしミソジニ―から完全に自由な女がいたら、その女性は闘う対象を持たないのだから、フェミニストである理由も無い。」と書いている。フェミニストが闘っている相手は「女性蔑視の社会」なのだろうか?「女性蔑視から自由な女(=母という存在)」なのだろうか?
私が女を苦手に感じる(女ぎらいな)のは、女が男に依存しているからでも理不尽に耐えながら愚痴を垂れ流しているからでもない。似た者同士で群れたがり他者の差異を認めたがらないところだ。男が他者との差異の中で自分を発見するのに対し女は他者との共感の中にアイデンティティを求める。著者にも自分達のカテゴリー(フェミニズム)以外の人間を否定(排除)している部分に私の苦手な「女らしさ的」なものを感じる。