たとえば「テレビが見えている。だからそこに見てる私が存在する」とデカルトが言ったとすれば、経験論者ヒュームは、「テレビ画面が私であっていいはずだ」と言ったと私には思える。
たとえば、鏡の前にりんごがあるとします。
質問 鏡の前のりんごと鏡の中のりんごのどちらが本等のりんごの視覚に近いでしょうか。
答え 鏡の中のりんご。
理由 鏡の前のりんごには存在感がある。
でも、りんごの視覚そのものには、存在感はないので、存在感のない鏡の中のりんごが本等の視覚に近いと言えます。
存在感を確認する実験
1、あなたは、たまごを用意して、パックから1つ取り出して割って見せます。
2、「それじゃあ、もうひとつ割ります」と言って、パックからたまごを出す。
でも、たまごを手からすべり落とします。
たまごは、テーブルの上でバンウンドして、地面に落ちて、高くバウンドして、転がりました。
3、そこで、見てる人に、そのたまごを渡してこう言います。
「他の人もここに同じたまごがありますので、手にとってごらんください」と言って、用意したたまごを配ります。
「みなさんがお持ちのは、たまご型のゴムボールです。それを自分の前のテーブルに置いてもらえますか」
4、「みなさんは、これを見てたまごの存在感を持ちましたね」
「でも、これが壊れずに、バウンドするのを見て、あれっ、と思ったでしょう」
「その時、たまごの存在感は消えました」
「何だろうと思いましたね」
「一瞬、見えているけど何だかわからない、空白な感じがしたはずです」
「そして、これをしっかり触って確かめたので、みなさんの前のたまごは、ゴムボールの存在感を持っていますね」
以上のことで、われわれが日常見ている事物の存在感について気づくことができると思います。
この実験から、われわれがふだん見ている事物は、視覚映像と存在感の二つによって形成されていることがわかります。
そして、視覚映像は目に映った映像そのままであるのに対して、存在感は脳の中でつくられている。
このため、存在感は時として壊れます。しかし新たな経験によって作り替えられます。
このことは存在感の主要な構成要素は記憶だということがわかると思います。そして存在感の発生の仕方として、視覚映像によって一方的に発生し、視覚と表裏一体となって知覚されてる。
存在感の形成の仕方として経験による直接性と経験のみによる強い一方性をあげることができます。
そして視覚映像によって形成される存在感は、あたかも視覚映像の一部であるような視覚映像との一体性を持って形成されています。
鏡の外の世界(経験の圧倒的な強さ)
鏡の中のりんごに存在感がないのは、それが触れることができないからです。鏡の中のりんごには触れた経験がなく、かじった経験がない。このため、経験に基づいた強い記憶が形成されていない。
鏡の中の物に手を出しても、鏡に触れた経験しかない。そこには鏡の存在感しかない。
鏡の中の物の経験は、それに触れようとした時の鏡にぶつかった経験しかないからだ。
鏡の前のりんごと鏡の中のりんごは光学的に見かけは同じです。しかし鏡の外のあらゆる日常的な物が存在感を持っているのに、鏡の中の物には存在感がない。
りんごを見ながら、それに触れ、かじることで、りんごの見かけにりんごについての経験が記憶として結び付きを形成する。この記憶の結びつきにより、りんごを見た時、りんごの様々な記憶が一度に再生される。この記憶の束が、存在感をつくっている。
目の前のりんごが存在感を持っているのは、その見かけがそのりんごに関するいきいきとした記憶を再生しているということなのです。
鏡の視覚映像について言えることが、そのまま3Dテレビの映像についても言える。
初めて、電気店で3Dメガネを付けたとき、立体映像に迫力を感じた。そして宣伝文句の「まるでその場に居るかのような臨場感と、手にとれそうなリアリティ」なんて文句を読んで、3D機能付きのテレビを買ってしまった人もいるだろう。
でもやがて、3Dテレビのこの宣伝文句の「まるでその場に居るかのような臨場感と、手にとれそうなリアリティ」は誇大広告であることに気づいてしまう。3Dテレビの映像には「臨場感」も「リアリティ」もない。日常的な事物にある存在感がそこにはない。
もともと鏡の映像は、3D映像で、裸眼で見れる自然な3D映像です。3Dテレビの映像には鏡の中の映像以上の「臨場感」も「リアリティ」もない。
鏡の中の映像に、人はそれが鏡であると気づくともう見向きもしない。同じように3D映像に慣れてくると初めて電気店で見た迫力は薄れてします。
確かに、3D映像は2D映像に比べてすぐれています。メガネを掛ける等の煩わしさがなければ、だれもが3D映像を見るでしょう。たとえば鏡に写った自分を片目(=2D)で見たいか、両目で見たいか(=3D)と問えば、だれでも両目で見たいのです。
しかし我々が日常的に目にする周囲の事物の存在感は、鏡の映像に無いように、3D映像にもつくれません。鏡の前に立っている時、鏡の中の自分の映像の存在感は、鏡の前にあります。鏡の中には、鏡の存在感以外何もない。その原因は、鏡には鏡に触れた経験しかないことです。
同じように、3Dテレビを見ている時、目の前にはテレビの存在感しかなく、その映像に存在感はない。目の前には、テレビに触れる経験しかないからです。
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視覚新論 単行本 – 1990/11/1
- 本の長さ341ページ
- 言語日本語
- 出版社勁草書房
- 発売日1990/11/1
- ISBN-104326152427
- ISBN-13978-4326152421
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登録情報
- 出版社 : 勁草書房 (1990/11/1)
- 発売日 : 1990/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 341ページ
- ISBN-10 : 4326152427
- ISBN-13 : 978-4326152421
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いまあなたはこともなくパソコンの画面を「視て」いることでしょう。しかし「視る」ということがどれほど不思議なことか考えたことがあるでしょうか。
たとえば理科の時間に「眼には倒立に像が写っている」とならったと思います。しかし我々の眼には正しく写っています。なぜでしょう。
バークリは『視覚新論』の中でこういった問題をあつかっています。そしてこの問題は未だに明確な解答が出ていないのです。
バークリは『人知原理論』が有名になり、認知心理学での業績である本作は半ば無視される傾向にありました。心理学者でもある彼の業績に触れてみてください。
そこに大きな発見があることを見出すはずです。
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