現代の科学者が、何世紀も昔の科学の古典を研究する、というのは一見奇妙なことだ。
いかに偉人とはいえ、理系の学生が今更ニュートンやガウス、リーマンやアインシュタインの古典をわざわざ原典で読むであろうか。
そんなことは彼らにとって必要ない。教科書や専門書でもっと現代的な形で整理されているものを勉強すればいいだけである。
しかし、彼らはどんな媒体を利用するにしてもニュートンやアインシュタインが論じたものを正確に理解するよう強いられている。
話をこの著に向けると、これはまさに分析哲学の系譜における偉大な古典であって、その後の分析哲学の方向性を大きく転回させた名著である。
これは、仮にも現代的な哲学の専門書を理解しようと欲するならば、読まねばならない種類のものの一つである。
というのは、彼らは自分たちのやっている哲学が経験科学の方法論に則っていると思っているのであり、その結果、哲学史上初めて「発展」をもたらした、
と信じているからであり、それは概ね正しい。
「現代哲学」という響きに惹かれたサブカル系の若者が、安易に現代のネオプラグマティズムだの様相論理だのにいきなり飛びつくのは、端的に言って時間の無駄である。もちろん、それらは説得力を持った形で書かれているから、読んでいるうちは議論に巻き込まれはするだろうが、結局は何が語られているかを理解できないのである。ドゥルーズやらデリダやら、その系譜(バディウ、ラリュエル、リオタール・・・)のような華麗なエクリチュールに魅せられる詩的体験をしたいならともかく(最も私は彼らの非厳密性を論難しているのでない、彼らの議論の厳密さを真に理解するにはアリストテレスの「形而上学」から時代を追って読まねばならない)、現代の分析哲学を理解するには、読むべきマイルストーン、古典的名著が時代順にある程度定まっている。
そのうちいくつかは、「意味」と「意義」の偉大なる区別を論じたフレーゲの論文で始まる2巻の「現代哲学基本論文集」に収められている。そしてカルナップ(『意味論序説』は必読である)、ポパー、の論争を経て、この著は登場する。この著を中心に、以後デイヴィド・ルイスやクリプキの様相論理学を学んでもいいし、次なるマイルストーンであるローティの『哲学と自然の鏡』を読むのはなおさら良いことであろう。デイヴィッドソンやダメット、グッドマン、パトナム等、心脳問題から意味論まで議論は錯綜していて、どの説にしろ安易に与するのは危険である。だからこそ、こうした古典を順序を追って読んでいき、自分なりの立場を固めるのが、結局は一番の近道なのだ。
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論理的観点から: 論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ 2-7) 単行本 – 1992/11/1
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- 言語日本語
- 出版社勁草書房
- 発売日1992/11/1
- ISBN-104326198877
- ISBN-13978-4326198870
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登録情報
- 出版社 : 勁草書房 (1992/11/1)
- 発売日 : 1992/11/1
- 言語 : 日本語
- ISBN-10 : 4326198877
- ISBN-13 : 978-4326198870
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2017年10月28日に日本でレビュー済み
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2021年3月9日に日本でレビュー済み
極めて影響力のあった「経験主義のふたつのドグマ」を含みます。
「経験主義のふたつのドグマ」は、科学の発展に於ける"全体論性"を指摘しています。
※個人的には、クワインよりもグッドマンを経験論哲学者として評価しています。グッドマンの『事実・虚構・予言』と併せて読まれることをおすすめします。
「経験主義のふたつのドグマ」は、科学の発展に於ける"全体論性"を指摘しています。
※個人的には、クワインよりもグッドマンを経験論哲学者として評価しています。グッドマンの『事実・虚構・予言』と併せて読まれることをおすすめします。
2022年5月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
分析的言明と綜合的言明が区別できない旨を主張した論文として有名な「経験主義のふたつのドグマ」が収録されているので買った。しかし、同論文の真意を確認したいだけの目的なら、図書館から借りて読むのでも十分かと思う。自分が買ったのは、『哲学事典―AからZの定義集』のようなエッセイが好きだったから。
●分析的言明と綜合的言明についての自分の認識
「分析」という言葉の日本語の語感と哲学界隈での使われ方には開きがある。哲学で使われる「分析」は、
・論理学的に妥当な演繹によって別の命題を導くことが「分析」
・それ以外の判断が「綜合」
だと自分は理解している。
ユークリッド幾何学的の体系において
・円と同じ面積の正方形は作図できない
は分析的言明だが、なんとなくそう信じたい気持ちに駆られて
・そんなことはない。自分なら円と同じ面積の正方形を作図できる!
と述べたとすれば、それが綜合的言明。
カントが幾何学の演繹を綜合的判断の例として挙げたのは謬見だし、アンセルムスの存在論的証明はその意に反して綜合的推論。自然科学の帰納は論理学と関係が無いので綜合的判断。
●クワインの意図は計りかねる
論文中の記述
p50
> 人工言語と意味論的規則については、カルナップの著作にあたるのが当然である。かれの意味論的規則にはさまざまな形があり、私の論点のためには、そのうちのある形を他から区別して取り出す必要がある。まず、L0という人工言語を考えよう。その意味論的規則は、L0のすべての分析的言明を、再帰やその他の手段で、明示的に特定するという形をもっている。この規則は、これこれの言明が、そしてそれだけが、L0における分析的言明であることを教える。
が「分析」の分析哲学での表現なのだろう。分析的判断の内包的定義。このような言明とそれ以外の言明に区別がつかないと納得できるような説明を期待した。
しかし、続く記述
p50
> ここでの困難は、まさに、この規則が、われわれが理解していない「分析的」という語を含んでいるということである。
へっ?!含んでますかね?
C言語の文法も同様に定義されているけど、その定義の中に「C言語」という語は含まれていない。しかし、ある文字列がC言語で書かれているかどうかをC言語処理系は判定する。「意味論的規則」に基づいて生成される意味を「分析的言明」だと言うならば、「分析的言明」だって判定可能だと思うのだけど。
哲学者の使う「分析的」が多義的で、実際には「分析的」ではない言明が多く「分析的」として扱われていることを、クワインは批判したかったのか?とも思った。個人的には、
「分析的言明と綜合的言明に明確な区別はなく、分析的言明であっても綜合的言明と同じような怪しさがあり、綜合的言明であっても分析的言明と同じ妥当さを主張できる。」
みたいな結論でなければ満足だった。
しかし、以降の記述
p63
> 地理や歴史についてのごくありふれた事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や論理に属するきわめて深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周縁に沿ってのみ経験と接する人口の構築物である。
> 論理法則は、それ自身、同じ体系のなかのもうひとつの言明、同じ場のなかのもうひとつの要素にすぎない。
を読むと、本当に
・「純粋数学や論理に属するきわめて深遠な法則」
・「論理法則」
と
・「地理や歴史についてのごくありふれた事柄から、原子物理学」
を区別していない。
論文の初出は'51年。高校数学に「集合と論理」が取り入れられたりパーソナルコンピューターが普及したりする前。カントやアンセルムスと同じ勘違いをクワインもしたのかも知れない。
(ちなみに、new math提唱のケメニーとBASIC言語開発のケメニーは同一人物。)
●綜合的言明と法解釈
所詮哲学はポエムの一種、クワインと言えども、気に食わなければ気にしなくて良い……
で済ませられないのは、この世に法解釈という領域が存在するから。法とその適用はその妥当さを経験によって判定できるものではないが、その結論は個人の生命、自由、財産の得失に影響する。ポエムではない。
例えば、人種差別撤廃条約の次の条文がある。条文は一つの言明。他の言明から論理学的推論によって導かれるものでもないから、綜合的言明。
> 第1条
> 1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
> 第2条
> 1 締約国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する。このため、
> (d)各締約国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む。)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる。
この条約が実際に適用される裁判所の判決文も言明。
街頭宣伝差止め等請求事件( 平成25年10月7日京都地裁平成22年(ワ)第2655号)
> 以上でみたように,本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は,いずれも,在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下,在日朝鮮人に対する差別的発言を織り交ぜてされたものであり,在日朝鮮人という民族的出身に基づく排除であって,在日朝鮮人の平等の立場での人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するものといえるから,全体として人種差別撤廃条約1条1項所定の人種差別に該当するものというほかない。
> したがって,本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は,民法709条所定の不法行為に該当すると同時に,人種差別に該当する違法性を帯びているということになる。
裁判官が行った推論は定言的三段論法であり、この言明は分析的と言って差し支えないと思う。しかし、この推論は控訴審の判決文で訂正されている。曰く、
> 人種差別撤廃条約は,国法の一形式として国内法的効力を有するとしても,その規定内容に照らしてみれば,国家の国際責任を規定するとともに,憲法13条,14条1項と同様,公権力と個人との関係を規律するものである。すなわち,本件における被控訴人と控訴人らとの間のような私人相互の関係を直接規律するものではなく,私人相互の関係に適用又は類推適用されるものでもないから,その趣旨は,民法709条等の個別の規定の解釈適用を通じて,他の憲法原理や私的自治の原則との調和を図りながら実現されるべきものであると解される。
> 私人間において一定の集団に属する者の全体に対する人種差別的な発言が行われた場合には,上記発言が,憲法13条,14条1項や人種差別撤廃条約の趣旨に照らし,合理的理由を欠き,社会的に許容し得る範囲を超えて,他人の法的利益を侵害すると認められるときは,民法709条にいう「他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した」との要件を満たすと解すべきであり,
・「私人相互の関係を直接規律するものではなく,私人相互の関係に適用又は類推適用されるものでもない」
・「他の憲法原理や私的自治の原則との調和を図りながら実現されるべき」
・「合理的理由を欠き,社会的に許容し得る範囲を超えて,他人の法的利益を侵害すると認められるときは」
条約中に無い言明が多数挿入されている。論理学的に説明が付かないので、これらは「綜合的言明」。
問題としたいのは、
・ある「個人、集団又は団体」の行為が条約で定義された「人種差別」の要件を満たすが、
・その行為に「合理的理由」があるか、または行為が「社会的に許容し得る範囲」内である
場合のこと。
この条文に関して先立つ裁判例がある。
小樽公衆浴場入浴拒否事件(平成14年11月11日札幌地裁平成13年(ワ)第206号、この部分は控訴審判決でも維持)
> また,国際人権B規約及び人種差別撤廃条約は,国内法としての効力を有するとしても,その規定内容からして,憲法と同様に,公権力と個人との間の関係を規律し,又は,国家の国際責任を規定するものであって,私人相互の間の関係を直接規律するものではない。
仮に人種差別撤廃条約第2条第1項(d)が「国家の国際責任を規定」したものだと言ったとしても、その「国際責任」を国家の機関である裁判所が果たすならば、条約が「私人相互の間の関係を直接規律」するのと同じことになる。結局、この判決文中の「私人相互の間の関係を直接規律するものではない。」も「綜合的言明」。
この現象について以下のような見解はあるかと思う。つまり、法律は数学や論理学と違い現実に適用される以上、法律の適用や解釈は綜合的判断にならざるを得ないのではないか?「合理的な行為」や「社会的に許容された行為」に制裁が科されるならば、法律のほうが間違っている。裁判所が綜合判断を用いるのも、法的推論がそのようなものであることの証左ではないか?
そのような見解に対して、法実証主義という法哲学の学説がある。客観的な正義や価値判断の存在を否定する立場で、その成立には分析哲学の影響もある。圧倒的有力説。もし、法実証主義を裁判で援用するとすれば、
「条約で定義された行為を国家が禁止すると約束したならば国家はそれを禁止しなければならないのであり、締約国の裁判官が該当行為を合理的であると評価しているとか、締約国の国民が該当行為を社会的に許容しているなどいう価値判断で法の適用を左右してはならない。」
となる。
法実証主義の反対の主張は自然法論。ロックやルソーの唱えた自然法そのもの。自分にはただの価値観だと見える。ジョン・ロールズもこの論文の影響を受けているとのこと。分析的言明と価値判断に区別が無いという見解が、自然法論者に都合が良かったのだろうか?
●「合理的」「社会的に許容し得る範囲」の法源?
通常の分析的推論の範囲で上記の「合理的理由」「社会的に許容し得る範囲」という言明が説明できないかを考えるのは、通常の法解釈の領域(「哲学」はつかない)。
学習用の憲法判例集に必ず掲載される有名な判例がある。
三菱樹脂事件の判決文
> しかしながら憲法の右各規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。このことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。
「右規定」は憲法第14条第1項(法の下の平等)。判決文を読んだ人が、もしこの「明らかである」ことに納得してないと、続きの
> のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、侵されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。
の記述から、「私人相互の関係を直接規律することを予定」した個別の法律についても、「侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超え」ない場合は、「私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用」されない……それが最高裁の判断だと考えるだろう。
裁判官が上記のような勘違いをしていたとするなら、条約の条文についての「私人相互の関係を直接規律することを予定するもの」か否かの判定は、「当てずっぽう」だったことになる。
実際、「綜合的言明」に基づく私人間への法令の適用拒絶は、国内法分野にも散見される。派遣法、障害者雇用促進法、雇用対策法の年齢差別禁止法制。その理由付けは、
・条文が抽象的である、漠然として具体的でない。
・取締法規(民法91条?)である、行政取締法規である。
・公法上の義務である、私法上の効果が条文で特定されていない、私人間に直接適用されることを意図した条文ではない。
・罰則が無い。
など論理学ではとうてい説明のつかない言明が突然飛び出して、条文をそのまま読んだときと正反対の結論が導き出される。『ベニスの商人』の血肉論法さながらである。
このような判決を避けるためにできるのは、裁判所に対して以下のように主張すること。
・三菱樹脂樹脂の判例が「私人相互の関係を直接規律することを予定」しない条文についての判例であること。
(フランス人権宣言と合衆国憲法を示して、「基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革」を示すのも有効と思われる。)
・自分の援用する法律が「私人相互の関係を直接規律することを予定」したものであること
(人種差別禁止の「成立および発展の歴史的沿革」は、アメリカ公民権法やヨーロッパの差別禁止法制。)
・成文法源の非成文法源に対する効果の優越(憲法第41条、法適用通則第3条、民法第91条、同法第92条)
三菱樹脂の判例中の
・「企業者において、その雇傭する労働者が当該企業の中でその円滑な運営の妨げとなるような行動、態度に出るおそれのある者でないかどうかに大きな関心を抱」く
・「企業活動としての合理性」
の権利(憲法22条第1項)には、
・「公共の福祉」(憲法第12条、第13条)による制限がある
ことを主張する。(裁判所は違憲立法審査権を持つので、逆に、条約について「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重」を欠くとして違憲判断を行うこともできる。)
というわけで、いわゆる「法の支配」にとって、分析判断と綜合判断の峻別は非常に重要だと思う。「綜合的言明」には、自然科学の帰納、何となくそう思う、政治的決断、単なる価値判断から明白な虚偽でっち上げに至るまでの全てが含まれる。「分析的言明」と「綜合的言明」の混同は有害で、クワインの主張はプラグマティズムのテストすら通らないのじゃないかと言いたくなる。
プラグマティズムには、事実と有用性を混同したウィリアム・ジェイムズの有名な主張もある。ジェイムズの主張は、日本の法学に影響を与えた可能性がある。20世紀前半の日本の民法学者・労働法学者に末弘厳太郎という人がいるのだが、「嘘の効用」というエッセイがある。彼はその中で、裁判官が価値判断を行って虚偽を事実認定すべき旨を述べている。ジェイムズの本を真に受けたのかもしれない。この人にはアメリカ留学経験がある。
日本の文物はアメリカに多くを負っているのだが、プラグマティズムは一笑に付すべき主張だったと思う。
(「プラグマティズムの格率」だけは、集合の外延の例示が内包の把握に役立つことを言っているのだと思うので、救いたい気がする。)
21世紀に入ってからの日本の司法制度改革が「要件事実」(定言的三段論法の法学での呼称)を法曹教育の中心に据えているのは、裁判官の行う価値判断が許容される限界を越えつつあるという危惧を抱いた人がいたからかもしれない。
●分析的言明と綜合的言明についての自分の認識
「分析」という言葉の日本語の語感と哲学界隈での使われ方には開きがある。哲学で使われる「分析」は、
・論理学的に妥当な演繹によって別の命題を導くことが「分析」
・それ以外の判断が「綜合」
だと自分は理解している。
ユークリッド幾何学的の体系において
・円と同じ面積の正方形は作図できない
は分析的言明だが、なんとなくそう信じたい気持ちに駆られて
・そんなことはない。自分なら円と同じ面積の正方形を作図できる!
と述べたとすれば、それが綜合的言明。
カントが幾何学の演繹を綜合的判断の例として挙げたのは謬見だし、アンセルムスの存在論的証明はその意に反して綜合的推論。自然科学の帰納は論理学と関係が無いので綜合的判断。
●クワインの意図は計りかねる
論文中の記述
p50
> 人工言語と意味論的規則については、カルナップの著作にあたるのが当然である。かれの意味論的規則にはさまざまな形があり、私の論点のためには、そのうちのある形を他から区別して取り出す必要がある。まず、L0という人工言語を考えよう。その意味論的規則は、L0のすべての分析的言明を、再帰やその他の手段で、明示的に特定するという形をもっている。この規則は、これこれの言明が、そしてそれだけが、L0における分析的言明であることを教える。
が「分析」の分析哲学での表現なのだろう。分析的判断の内包的定義。このような言明とそれ以外の言明に区別がつかないと納得できるような説明を期待した。
しかし、続く記述
p50
> ここでの困難は、まさに、この規則が、われわれが理解していない「分析的」という語を含んでいるということである。
へっ?!含んでますかね?
C言語の文法も同様に定義されているけど、その定義の中に「C言語」という語は含まれていない。しかし、ある文字列がC言語で書かれているかどうかをC言語処理系は判定する。「意味論的規則」に基づいて生成される意味を「分析的言明」だと言うならば、「分析的言明」だって判定可能だと思うのだけど。
哲学者の使う「分析的」が多義的で、実際には「分析的」ではない言明が多く「分析的」として扱われていることを、クワインは批判したかったのか?とも思った。個人的には、
「分析的言明と綜合的言明に明確な区別はなく、分析的言明であっても綜合的言明と同じような怪しさがあり、綜合的言明であっても分析的言明と同じ妥当さを主張できる。」
みたいな結論でなければ満足だった。
しかし、以降の記述
p63
> 地理や歴史についてのごくありふれた事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や論理に属するきわめて深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周縁に沿ってのみ経験と接する人口の構築物である。
> 論理法則は、それ自身、同じ体系のなかのもうひとつの言明、同じ場のなかのもうひとつの要素にすぎない。
を読むと、本当に
・「純粋数学や論理に属するきわめて深遠な法則」
・「論理法則」
と
・「地理や歴史についてのごくありふれた事柄から、原子物理学」
を区別していない。
論文の初出は'51年。高校数学に「集合と論理」が取り入れられたりパーソナルコンピューターが普及したりする前。カントやアンセルムスと同じ勘違いをクワインもしたのかも知れない。
(ちなみに、new math提唱のケメニーとBASIC言語開発のケメニーは同一人物。)
●綜合的言明と法解釈
所詮哲学はポエムの一種、クワインと言えども、気に食わなければ気にしなくて良い……
で済ませられないのは、この世に法解釈という領域が存在するから。法とその適用はその妥当さを経験によって判定できるものではないが、その結論は個人の生命、自由、財産の得失に影響する。ポエムではない。
例えば、人種差別撤廃条約の次の条文がある。条文は一つの言明。他の言明から論理学的推論によって導かれるものでもないから、綜合的言明。
> 第1条
> 1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
> 第2条
> 1 締約国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する。このため、
> (d)各締約国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む。)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる。
この条約が実際に適用される裁判所の判決文も言明。
街頭宣伝差止め等請求事件( 平成25年10月7日京都地裁平成22年(ワ)第2655号)
> 以上でみたように,本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は,いずれも,在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下,在日朝鮮人に対する差別的発言を織り交ぜてされたものであり,在日朝鮮人という民族的出身に基づく排除であって,在日朝鮮人の平等の立場での人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するものといえるから,全体として人種差別撤廃条約1条1項所定の人種差別に該当するものというほかない。
> したがって,本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は,民法709条所定の不法行為に該当すると同時に,人種差別に該当する違法性を帯びているということになる。
裁判官が行った推論は定言的三段論法であり、この言明は分析的と言って差し支えないと思う。しかし、この推論は控訴審の判決文で訂正されている。曰く、
> 人種差別撤廃条約は,国法の一形式として国内法的効力を有するとしても,その規定内容に照らしてみれば,国家の国際責任を規定するとともに,憲法13条,14条1項と同様,公権力と個人との関係を規律するものである。すなわち,本件における被控訴人と控訴人らとの間のような私人相互の関係を直接規律するものではなく,私人相互の関係に適用又は類推適用されるものでもないから,その趣旨は,民法709条等の個別の規定の解釈適用を通じて,他の憲法原理や私的自治の原則との調和を図りながら実現されるべきものであると解される。
> 私人間において一定の集団に属する者の全体に対する人種差別的な発言が行われた場合には,上記発言が,憲法13条,14条1項や人種差別撤廃条約の趣旨に照らし,合理的理由を欠き,社会的に許容し得る範囲を超えて,他人の法的利益を侵害すると認められるときは,民法709条にいう「他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した」との要件を満たすと解すべきであり,
・「私人相互の関係を直接規律するものではなく,私人相互の関係に適用又は類推適用されるものでもない」
・「他の憲法原理や私的自治の原則との調和を図りながら実現されるべき」
・「合理的理由を欠き,社会的に許容し得る範囲を超えて,他人の法的利益を侵害すると認められるときは」
条約中に無い言明が多数挿入されている。論理学的に説明が付かないので、これらは「綜合的言明」。
問題としたいのは、
・ある「個人、集団又は団体」の行為が条約で定義された「人種差別」の要件を満たすが、
・その行為に「合理的理由」があるか、または行為が「社会的に許容し得る範囲」内である
場合のこと。
この条文に関して先立つ裁判例がある。
小樽公衆浴場入浴拒否事件(平成14年11月11日札幌地裁平成13年(ワ)第206号、この部分は控訴審判決でも維持)
> また,国際人権B規約及び人種差別撤廃条約は,国内法としての効力を有するとしても,その規定内容からして,憲法と同様に,公権力と個人との間の関係を規律し,又は,国家の国際責任を規定するものであって,私人相互の間の関係を直接規律するものではない。
仮に人種差別撤廃条約第2条第1項(d)が「国家の国際責任を規定」したものだと言ったとしても、その「国際責任」を国家の機関である裁判所が果たすならば、条約が「私人相互の間の関係を直接規律」するのと同じことになる。結局、この判決文中の「私人相互の間の関係を直接規律するものではない。」も「綜合的言明」。
この現象について以下のような見解はあるかと思う。つまり、法律は数学や論理学と違い現実に適用される以上、法律の適用や解釈は綜合的判断にならざるを得ないのではないか?「合理的な行為」や「社会的に許容された行為」に制裁が科されるならば、法律のほうが間違っている。裁判所が綜合判断を用いるのも、法的推論がそのようなものであることの証左ではないか?
そのような見解に対して、法実証主義という法哲学の学説がある。客観的な正義や価値判断の存在を否定する立場で、その成立には分析哲学の影響もある。圧倒的有力説。もし、法実証主義を裁判で援用するとすれば、
「条約で定義された行為を国家が禁止すると約束したならば国家はそれを禁止しなければならないのであり、締約国の裁判官が該当行為を合理的であると評価しているとか、締約国の国民が該当行為を社会的に許容しているなどいう価値判断で法の適用を左右してはならない。」
となる。
法実証主義の反対の主張は自然法論。ロックやルソーの唱えた自然法そのもの。自分にはただの価値観だと見える。ジョン・ロールズもこの論文の影響を受けているとのこと。分析的言明と価値判断に区別が無いという見解が、自然法論者に都合が良かったのだろうか?
●「合理的」「社会的に許容し得る範囲」の法源?
通常の分析的推論の範囲で上記の「合理的理由」「社会的に許容し得る範囲」という言明が説明できないかを考えるのは、通常の法解釈の領域(「哲学」はつかない)。
学習用の憲法判例集に必ず掲載される有名な判例がある。
三菱樹脂事件の判決文
> しかしながら憲法の右各規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。このことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。
「右規定」は憲法第14条第1項(法の下の平等)。判決文を読んだ人が、もしこの「明らかである」ことに納得してないと、続きの
> のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、侵されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。
の記述から、「私人相互の関係を直接規律することを予定」した個別の法律についても、「侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超え」ない場合は、「私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用」されない……それが最高裁の判断だと考えるだろう。
裁判官が上記のような勘違いをしていたとするなら、条約の条文についての「私人相互の関係を直接規律することを予定するもの」か否かの判定は、「当てずっぽう」だったことになる。
実際、「綜合的言明」に基づく私人間への法令の適用拒絶は、国内法分野にも散見される。派遣法、障害者雇用促進法、雇用対策法の年齢差別禁止法制。その理由付けは、
・条文が抽象的である、漠然として具体的でない。
・取締法規(民法91条?)である、行政取締法規である。
・公法上の義務である、私法上の効果が条文で特定されていない、私人間に直接適用されることを意図した条文ではない。
・罰則が無い。
など論理学ではとうてい説明のつかない言明が突然飛び出して、条文をそのまま読んだときと正反対の結論が導き出される。『ベニスの商人』の血肉論法さながらである。
このような判決を避けるためにできるのは、裁判所に対して以下のように主張すること。
・三菱樹脂樹脂の判例が「私人相互の関係を直接規律することを予定」しない条文についての判例であること。
(フランス人権宣言と合衆国憲法を示して、「基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革」を示すのも有効と思われる。)
・自分の援用する法律が「私人相互の関係を直接規律することを予定」したものであること
(人種差別禁止の「成立および発展の歴史的沿革」は、アメリカ公民権法やヨーロッパの差別禁止法制。)
・成文法源の非成文法源に対する効果の優越(憲法第41条、法適用通則第3条、民法第91条、同法第92条)
三菱樹脂の判例中の
・「企業者において、その雇傭する労働者が当該企業の中でその円滑な運営の妨げとなるような行動、態度に出るおそれのある者でないかどうかに大きな関心を抱」く
・「企業活動としての合理性」
の権利(憲法22条第1項)には、
・「公共の福祉」(憲法第12条、第13条)による制限がある
ことを主張する。(裁判所は違憲立法審査権を持つので、逆に、条約について「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重」を欠くとして違憲判断を行うこともできる。)
というわけで、いわゆる「法の支配」にとって、分析判断と綜合判断の峻別は非常に重要だと思う。「綜合的言明」には、自然科学の帰納、何となくそう思う、政治的決断、単なる価値判断から明白な虚偽でっち上げに至るまでの全てが含まれる。「分析的言明」と「綜合的言明」の混同は有害で、クワインの主張はプラグマティズムのテストすら通らないのじゃないかと言いたくなる。
プラグマティズムには、事実と有用性を混同したウィリアム・ジェイムズの有名な主張もある。ジェイムズの主張は、日本の法学に影響を与えた可能性がある。20世紀前半の日本の民法学者・労働法学者に末弘厳太郎という人がいるのだが、「嘘の効用」というエッセイがある。彼はその中で、裁判官が価値判断を行って虚偽を事実認定すべき旨を述べている。ジェイムズの本を真に受けたのかもしれない。この人にはアメリカ留学経験がある。
日本の文物はアメリカに多くを負っているのだが、プラグマティズムは一笑に付すべき主張だったと思う。
(「プラグマティズムの格率」だけは、集合の外延の例示が内包の把握に役立つことを言っているのだと思うので、救いたい気がする。)
21世紀に入ってからの日本の司法制度改革が「要件事実」(定言的三段論法の法学での呼称)を法曹教育の中心に据えているのは、裁判官の行う価値判断が許容される限界を越えつつあるという危惧を抱いた人がいたからかもしれない。
2009年4月29日に日本でレビュー済み
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言語哲学は、正確に定義された言葉と正確に定義された言葉との関係しか論じることができない。言葉と世界、世界と思考、思考と言葉、その三つの関係についてはほとんど触れることができないにもかかわらず、クワインは言葉で世界を、また思考を正確に論じえていると勘違いしている。言葉の分析は世界を分析した代りにはならない、とは彼自身も言っているようだが、思考の分析にもならないということにはあまり注意を払っていないようだ。そのことがこの本を読んでよくわかった。
彼の偉そうな講釈は正直言ってムカつく。彼は我々一般人が「存在する」という言葉をだれ一人正確に使えていないと思っているようだ。しかし誰かがあるものを「存在する」というとき、そんなものは存在しないという理屈を立てることは常に可能である。individualなものはほんとは記述にすぎないとか、性質の束であるとかいえば済むことだから。これは現実にコミットする言葉であって、彼自身何が存在するのかいうことができないというのは、そもそもこの学問が現実にかかわることができていないことの一つの例なのだ。ちなみにラッセルは全く同じ存在理論を述べたが、何が存在するかについての信念は語った。
読むべき本ではある。しかしこれは哲学が科学から軽蔑されるときの一つの見本のような気がする。ぜひのりこえられなければならない。
彼の偉そうな講釈は正直言ってムカつく。彼は我々一般人が「存在する」という言葉をだれ一人正確に使えていないと思っているようだ。しかし誰かがあるものを「存在する」というとき、そんなものは存在しないという理屈を立てることは常に可能である。individualなものはほんとは記述にすぎないとか、性質の束であるとかいえば済むことだから。これは現実にコミットする言葉であって、彼自身何が存在するのかいうことができないというのは、そもそもこの学問が現実にかかわることができていないことの一つの例なのだ。ちなみにラッセルは全く同じ存在理論を述べたが、何が存在するかについての信念は語った。
読むべき本ではある。しかしこれは哲学が科学から軽蔑されるときの一つの見本のような気がする。ぜひのりこえられなければならない。
2008年4月8日に日本でレビュー済み
「なにがあるのかについて」「経験主義のふたつのドグマ」など、現代哲学に転換をもたらし、新しい出発点となった論文を9本収めている。
上記2論文は、まとめると以下のようになるだろう。
「なにがあるのかについて」
まず、語の意味と、語の示す存在とは、別のものである。
(例えば、明けの明星と宵の明星は指示対象は同じだが、意味は異なる)
よって、ある語が意味を有するからといって、その語の指示対象が存在することにはならない。
ここで、言語と実在とが切り離される。
そうすることで、現象主義的概念と物理主義的概念の対立を解消する。
どの概念を用いるかは、どの概念を用いると有用であるかという、プラグマティックな問題に帰着するのである。
「経験主義のふたつのドグマ」
経験主義には二つのドグマがある。
一つは、事実とは独立に意味のみで真偽が決まる分析的真理と、事実にもとづく綜合的真理とは、決定的な差があるという信念である。
もう一つは、有意味な言明は、経験から論理的に構成できるとする信念である。
このどちらもが無根拠である。
定義や意味論的規則によって、分析性を擁護するかもしれない。
しかし、そうしたものは、定義や意味論的規則自体の曖昧性によって失敗するか、論点先取りに陥ってしまう。
また、一般的に真理は、事実と事実以外の要素の両方から支えられる。
例えば、「ブルータスはシーザーを殺した」は、その事実関係以外にも、「殺した」の意味にも左右される。
そして、経験依存が起こるのは、単語や言明ではなく、ある言語体系全体である。
なぜなら、言明は言語体系内で相互に絡み合っているからである。
そして、言語体系は概念を引き出す。
さらに概念は、上記したように必要性に応じてプラグマティックに選ばれる。
基本的・常識と言えばそれまでだが、斬新と言えば斬新な議論が展開されている。
上記2論文以外にも、興味深いテーマの論文が多数納められている。
個々の論文は短めなので、少しの時間でも読むことができる。
哲学を志すならば欠かせない本だろう。
上記2論文は、まとめると以下のようになるだろう。
「なにがあるのかについて」
まず、語の意味と、語の示す存在とは、別のものである。
(例えば、明けの明星と宵の明星は指示対象は同じだが、意味は異なる)
よって、ある語が意味を有するからといって、その語の指示対象が存在することにはならない。
ここで、言語と実在とが切り離される。
そうすることで、現象主義的概念と物理主義的概念の対立を解消する。
どの概念を用いるかは、どの概念を用いると有用であるかという、プラグマティックな問題に帰着するのである。
「経験主義のふたつのドグマ」
経験主義には二つのドグマがある。
一つは、事実とは独立に意味のみで真偽が決まる分析的真理と、事実にもとづく綜合的真理とは、決定的な差があるという信念である。
もう一つは、有意味な言明は、経験から論理的に構成できるとする信念である。
このどちらもが無根拠である。
定義や意味論的規則によって、分析性を擁護するかもしれない。
しかし、そうしたものは、定義や意味論的規則自体の曖昧性によって失敗するか、論点先取りに陥ってしまう。
また、一般的に真理は、事実と事実以外の要素の両方から支えられる。
例えば、「ブルータスはシーザーを殺した」は、その事実関係以外にも、「殺した」の意味にも左右される。
そして、経験依存が起こるのは、単語や言明ではなく、ある言語体系全体である。
なぜなら、言明は言語体系内で相互に絡み合っているからである。
そして、言語体系は概念を引き出す。
さらに概念は、上記したように必要性に応じてプラグマティックに選ばれる。
基本的・常識と言えばそれまでだが、斬新と言えば斬新な議論が展開されている。
上記2論文以外にも、興味深いテーマの論文が多数納められている。
個々の論文は短めなので、少しの時間でも読むことができる。
哲学を志すならば欠かせない本だろう。