全世界を巻き込んだ奇病、「新型コロナ」に見られる各国政府の「全体主義的対応」を、図らずも根源から解説することにもなった一冊である。
難解なハイエクの社会哲学思想を、前半にたっぷりとこれでもかと解説し、後半のたたみ掛けるような具体的議論が理解できることに快感すら覚えつつ、現代社会のハイエクを無視した展開に戦慄する。
2020年アメリカ合衆国大統領選挙にみられた、開かれた社会推進派と、閉じた世界へ向かうひとたちの攻防は、閉じた世界の道徳をも無視した、破滅的展開となったことの意味も。
「問われるのは企業ではなく、一般市民の側にある」が重い。
一般市民にこそ一読の価値がある。
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ハイエク主義の「企業の社会的責任」論 単行本 – 2010/11/13
楠 茂樹
(著)
「企業は何のためにあるのか」「企業は何をしなければならないのか」「企業はだれのものか」など問い自体が多様な解釈を許すなか、唯一の社会的責任とは利益獲得であるとしたのがフリードマンだった。ハイエクのルール論をそこに加味して、暗黙のルールと社会的責任の議論の相互関係を再検討する。考えるべきこととは一体何なのか。
- 本の長さ202ページ
- 出版社勁草書房
- 発売日2010/11/13
- ISBN-10432640261X
- ISBN-13978-4326402618
登録情報
- 出版社 : 勁草書房 (2010/11/13)
- 発売日 : 2010/11/13
- 単行本 : 202ページ
- ISBN-10 : 432640261X
- ISBN-13 : 978-4326402618
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著者について
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1971年生まれ。京都産業大学法学部専任講師等を経て、上智大学大学院法学研究科教授。専門は経済法、政府調達、法思想等。国土交通大学校講師、東京都消費者生活対策審議会(第20-22次)委員、総務省予算執行監視チーム構成員、総務省参与、京都府参与、京都府入札制度等評価検討委員会委員長、東京都入札監視委員会委員等を歴任。2013年よりロンドン大学SOAS訪問研究員。慶應義塾大学商学部卒。京都大学博士(法学)。
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2021年2月4日に日本でレビュー済み
2011年6月6日に日本でレビュー済み
ハイエクの思想に基づいて企業の社会的責任について論じた本。
「競い合うことはそうでない場合よりも厳格な自己規律が求められる」(p.3)
人は競争の厳しさに耐えられなくなった時、競争から降りたい誘惑に駆られる。同じように、「企業の社会的責任はその利益を獲得し、増大させること」という厳しい原則に耐えられなくなった人々は、企業に公益への奉仕を求める。ハイエクは、企業に公益への奉仕を求める考え方を徹底的に排除する。私益の追求と切り離された公益を会社に要求することは、結果的に国家権力による公益の指図を招くことになり、自由市場を崩壊させるというのがその理由である。一つの電力会社の問題を解決するために、政府が同業の民間企業に出費を求める今の事態は、まさに国家権力による市場への介入である。「再生可能エネルギーの全量買取制度?そんな馬鹿な」とハイエクなら言うだろう。国が価格を決めるのは共産主義じゃなかったのか?
著者は「企業市民」など企業に人的属性を問うことの無意味さを指摘する。「企業は誰のものか」という問い方自体に誤解のもとがあるとの指摘は正しい。企業は従業員を雇うが、従業員は企業の所有物ではない。株主は経営者を選ぶが、経営者は株主の所有物ではない。同じように、企業は誰かの所有物ではないのである。
「競い合うことはそうでない場合よりも厳格な自己規律が求められる」(p.3)
人は競争の厳しさに耐えられなくなった時、競争から降りたい誘惑に駆られる。同じように、「企業の社会的責任はその利益を獲得し、増大させること」という厳しい原則に耐えられなくなった人々は、企業に公益への奉仕を求める。ハイエクは、企業に公益への奉仕を求める考え方を徹底的に排除する。私益の追求と切り離された公益を会社に要求することは、結果的に国家権力による公益の指図を招くことになり、自由市場を崩壊させるというのがその理由である。一つの電力会社の問題を解決するために、政府が同業の民間企業に出費を求める今の事態は、まさに国家権力による市場への介入である。「再生可能エネルギーの全量買取制度?そんな馬鹿な」とハイエクなら言うだろう。国が価格を決めるのは共産主義じゃなかったのか?
著者は「企業市民」など企業に人的属性を問うことの無意味さを指摘する。「企業は誰のものか」という問い方自体に誤解のもとがあるとの指摘は正しい。企業は従業員を雇うが、従業員は企業の所有物ではない。株主は経営者を選ぶが、経営者は株主の所有物ではない。同じように、企業は誰かの所有物ではないのである。