およそ2000年代後半までの思想状況が解りやすく書かれている便利な一冊。
が、若干、フランスびいきなところが、少しなじめなかった。
アラブ世界の或いは中東の精神分析って、或いは社会学って、可能なのか?
今の状況下で、求められている知はそれだろう。
また、今のフランスの状況を踏まえて、
或いは世界の状況を踏まえたうえで、
どういう世界の分析がなされるのか?
どういう処方箋があるのかを
知りたくなった。
今後に期待。
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ネオリベラリズムの精神分析: なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書 314) 新書 – 2007/8/1
樫村 愛子
(著)
市場至上主義、雇用の流動化、社会保障の縮小、ワーキングプア、格差、貧困、自己責任社会----。
グローバル化経済のもと、多くの人々の生活が不安定化(プレカリテ)していくなかで、どのように個人のアイデンティティを保ち、社会を維持していけばいいのか?
自分探し、心理学、お笑い、オタク文化、メディア・スピリチュアリズム、リアリティ・ショーの隆盛はいったい何を意味するのか?
ラカン派社会学の立場から、現代社会、あるいは現代の人々がぶつかっている難問を記述し、処方箋の一端を示す。
グローバル化経済のもと、多くの人々の生活が不安定化(プレカリテ)していくなかで、どのように個人のアイデンティティを保ち、社会を維持していけばいいのか?
自分探し、心理学、お笑い、オタク文化、メディア・スピリチュアリズム、リアリティ・ショーの隆盛はいったい何を意味するのか?
ラカン派社会学の立場から、現代社会、あるいは現代の人々がぶつかっている難問を記述し、処方箋の一端を示す。
- 本の長さ328ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2007/8/1
- ISBN-104334034152
- ISBN-13978-4334034153
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商品の説明
著者について
樫村愛子(かしむらあいこ)/
1958年京都生まれ。東京大学大学院人文社会学系研究科社会学専攻博士課程満期退学。現在、愛知大学文学部社会学科准教授。専門はラカン派精神分析の枠組みによる現代社会・文化分析。著書に『ラカン派社会学入門』、『「心理学化する社会」の臨床社会学』(以上、世織書房)。共著に『ネオリベ現代生活批判序説』(新評論)、『ジェンダーと社会理論』(有斐閣)、『フロイト&ラカン事典』(共訳・弘文堂)、『フェミニズムと精神分析事典』(共訳・多賀出版)ほか多数。
1958年京都生まれ。東京大学大学院人文社会学系研究科社会学専攻博士課程満期退学。現在、愛知大学文学部社会学科准教授。専門はラカン派精神分析の枠組みによる現代社会・文化分析。著書に『ラカン派社会学入門』、『「心理学化する社会」の臨床社会学』(以上、世織書房)。共著に『ネオリベ現代生活批判序説』(新評論)、『ジェンダーと社会理論』(有斐閣)、『フロイト&ラカン事典』(共訳・弘文堂)、『フェミニズムと精神分析事典』(共訳・多賀出版)ほか多数。
登録情報
- 出版社 : 光文社 (2007/8/1)
- 発売日 : 2007/8/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 328ページ
- ISBN-10 : 4334034152
- ISBN-13 : 978-4334034153
- Amazon 売れ筋ランキング: - 631,461位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年1月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2007年11月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者自身があとがきで指摘しているように、新書用に書かれた、最新の思想を寄せ集めたエッセイ。
いろんな思想家が列挙されているので、本全体の趣旨よりも、そちらの方に興味が行ってしまう。
そうした意味では、よい入門書である。しかし、新書向けに書いたという割には本書に対する筆者の
思い入れは深いようだ。だとしたら、著者は本書の主題を、得意の「ラカン」を一本の軸にして書くべきだったのではないか。著者はラカン派を名乗っているが、著者は厳密なラカンのテキストクリティークを
いまだに行っていない。そればかりか著者は定義のないまま「臨床社会学」という用語を用いている。
著者の書く物は面白いだけに、今後この二点をアカデミックな世界の作法でで明確にしてほしい。
また著者は「処方箋」というが、事後性を特徴とする精神分析に処方箋がかけるのか。この点がクリアにされれば本書にオリジナリティが出ただろう。
いろんな思想家が列挙されているので、本全体の趣旨よりも、そちらの方に興味が行ってしまう。
そうした意味では、よい入門書である。しかし、新書向けに書いたという割には本書に対する筆者の
思い入れは深いようだ。だとしたら、著者は本書の主題を、得意の「ラカン」を一本の軸にして書くべきだったのではないか。著者はラカン派を名乗っているが、著者は厳密なラカンのテキストクリティークを
いまだに行っていない。そればかりか著者は定義のないまま「臨床社会学」という用語を用いている。
著者の書く物は面白いだけに、今後この二点をアカデミックな世界の作法でで明確にしてほしい。
また著者は「処方箋」というが、事後性を特徴とする精神分析に処方箋がかけるのか。この点がクリアにされれば本書にオリジナリティが出ただろう。
2018年9月3日に日本でレビュー済み
Amazon購入ではなく、著者から直接いただきました。ともかく一通り目を通してみましたが、専門が違いすぎるせいか私のアタマが悪いせいか、議論が抽象的すぎて中身がほとんど頭に入って来ず、当然ながら著者の言いたいこともよくわかりませんでした。「処方箋」と言われても、はてさて何をどうすればいいのやら。途方にくれるばかりです。これをちゃんと理解できて書評が書ける人ソンケーします。何しろゲンダイ思想などまったくの門外漢でして、「ラカン」といえばジャック・ラカンより羅漢仁王拳(らかんにおうけん)という人間なので。。。グフフ、何とわしのアタマの悪いことよ。
そんなわけで、もはや祈る言葉もない私ですが、それにしてもこれってイマドキの新書にしちゃむずかしすぎやしませんか? 確か光文社新書って「さおだけ屋はなぜ……」とか「高学歴ワーキングプア」とか「就活のバカヤロー」とか出してる所ですよね? できることなら、そんな感じのノリで書いてほしかったですね。マジメなりに多少の娯楽性がほしかったというか。別にマンガイラストをつけろとは言いませんけどね。イマドキの新書なんて、と言ったら失礼かも知れないけれど、言ってみれば「知的なスナック菓子」みたいなもんでしょ? 本格的な学術書だと思って手に取る人はあまりいないんじゃないでしょうか? もしそれなりの専門家や識者に本気で読んでもらいたいというなら、もっと本格的な学術書の形で世に問えばいいわけですし。どうもこの本は「帯に短したすきに長し」という感じがします。くどいようですが、一般の読者を意識して書くなら、「わかりやすさ」や「ほどのよさ」はとても大切な要素だと思います。この点、著者のみならず編集の側にも責任があるかと思われますが。
ついでにもう一つ。門外漢なれど、タイトルに違和感を覚えます。普通「精神分析」というのは具体的な人間に対して行われるもので、思想(イズム)という抽象的なものを「精神分析」することはできないんじゃないでしょうか? 何もネオリベに限らず、どんな「イズム」だって同じことです。「……イズムの構造分析」ならまだわかります。あるいは「……イズムの分析」「……イズムの研究」「……イズム批判」など。どうしても「精神分析」という言葉を使いたい、というなら、「……イスト(たち)の精神分析」でしょうね。この本のタイトルを決めたのが著者なのか編集者なのかわかりませんが、考えてほしかった所です。もっともこれは日本語表現の問題ですけど。ま、門外漢に指摘できるのはこの程度です。あまり追及しても気の毒なので、このくらいにしておきましょう。
ふと気がつくと、思ったより長々と書いてしまいました。もしかするとこれはこれで一応「書評」なのかも? グフフ、何とわしのアタマのいいことよ(笑)
そんなわけで、もはや祈る言葉もない私ですが、それにしてもこれってイマドキの新書にしちゃむずかしすぎやしませんか? 確か光文社新書って「さおだけ屋はなぜ……」とか「高学歴ワーキングプア」とか「就活のバカヤロー」とか出してる所ですよね? できることなら、そんな感じのノリで書いてほしかったですね。マジメなりに多少の娯楽性がほしかったというか。別にマンガイラストをつけろとは言いませんけどね。イマドキの新書なんて、と言ったら失礼かも知れないけれど、言ってみれば「知的なスナック菓子」みたいなもんでしょ? 本格的な学術書だと思って手に取る人はあまりいないんじゃないでしょうか? もしそれなりの専門家や識者に本気で読んでもらいたいというなら、もっと本格的な学術書の形で世に問えばいいわけですし。どうもこの本は「帯に短したすきに長し」という感じがします。くどいようですが、一般の読者を意識して書くなら、「わかりやすさ」や「ほどのよさ」はとても大切な要素だと思います。この点、著者のみならず編集の側にも責任があるかと思われますが。
ついでにもう一つ。門外漢なれど、タイトルに違和感を覚えます。普通「精神分析」というのは具体的な人間に対して行われるもので、思想(イズム)という抽象的なものを「精神分析」することはできないんじゃないでしょうか? 何もネオリベに限らず、どんな「イズム」だって同じことです。「……イズムの構造分析」ならまだわかります。あるいは「……イズムの分析」「……イズムの研究」「……イズム批判」など。どうしても「精神分析」という言葉を使いたい、というなら、「……イスト(たち)の精神分析」でしょうね。この本のタイトルを決めたのが著者なのか編集者なのかわかりませんが、考えてほしかった所です。もっともこれは日本語表現の問題ですけど。ま、門外漢に指摘できるのはこの程度です。あまり追及しても気の毒なので、このくらいにしておきましょう。
ふと気がつくと、思ったより長々と書いてしまいました。もしかするとこれはこれで一応「書評」なのかも? グフフ、何とわしのアタマのいいことよ(笑)
2014年6月7日に日本でレビュー済み
客 「……おや、君。今日は少し古い本を読んでいるようだけれども」
主 「うん。七年ほど前に出た、樫村愛子というラカン派社会・文化分析学者の書いた『ネオリベラリズムの精神分析』という本。普通、古い本をホメるときは、今読んでも面白い、とか、今こそ読むべき、という文句が定番だが、当時も今も批判されている状況が変わっていないからこそ古びていない、という感想を持たれる著作は、稀だよね。この本がそう」
客 「あれ、七年前といえば、第一次安倍政権のときじゃない。当時は第一次なんて枕が付くとは思わなかったけれども(笑)」
主 「正確にいえば、この本が出た一月後に、安倍が総理を辞めたんだな。この本の批判の射程には、著者が「安倍原理主義」と呼んだ政治的風潮がとらえられているから、安倍の自壊で、この本のアクチュアリティがやや毀損されることになった……が、どっこい、過去の亡霊がまた復活してきた(笑)。著者が、あとがきで、政権が変わっても日本社会をめぐる問題は解決しない、と言っているが、安倍の復活は、この指摘の真実性を、見事に裏書きした。再び「安倍原理主義」批判が要請されるってわけさ」
客 「しかし、「安倍原理主義」って、そんなにたいそうなものかなあ。カリスマ性があるとは、到底思えないけれども」
主 「いや、「原理主義」そのものがチープなのさ。著者の見立てをざっと説明すると、ネオリベラリズム的な経済環境・政策が推進されると、社会における再帰性の度合いが高まって、その社会の「恒常性」が弱まっていく。この「恒常性」を取り戻すために、「原理主義」という「伝統」を儀礼的・形式的に擁護する運動が台頭するが、それは社会や個々人の多様性・複雑性を、排除するものでしかない。ということだ」
客 「再帰性、というのは、自分の行動の意味や正当性を、その都度問い直す傾向のことだよね。何で問い直すのかっていうと、不断に新しい情報や状況が、社会に蓄積されていくからだ。昨日正義だった行動が、明日不正義になるかもしれない。というふうに考えていくと、「恒常性」が弱まっていくというメカニズムは、把握できるよね。しかし、著者は「原理主義」を批判しているから、一体どういう経路で「恒常性」を維持していくって言ってるの?」
主 「いや、著者が「恒常性」ということに賭けているのは、他者とのコミュニケーションの可能性なんだ。社会が、異質な者同士が出会う場所で、ゆえに多様性を包括する機能を有している以上、社会が同質化するのは、劣化・崩壊の予兆でしかない」
客 「なるほどね。でも、他者との交流なんて、いかにもタテマエ臭くないか。「原理主義」なんて、タテマエを突き破ることに、カタルシスがあるんじゃないか」
主 「うん。著者が、ラカン理論を援用して指摘しているけれども、今のコミュニケーションの主流は、「解離的人格」型で、要はその場のノリと空気を読んでパーソナリティを変化・交代させる、ということ。この状況に対処するために、主体が取りうる戦略は、「解離的」スキルを洗練させていくか、それを統合させる内省的な意識を向上させていくか、の二つしかないんだが、そのどちらも耐えられないという者たちが、「原理主義」に没入するわけだ。切ないハナシだが」
客 「社会の多様性・複雑性を拒否して、「伝統」の儀礼性・形式性に回帰する、と。ただ、形式に拘泥すると、フェティシズムへの道が待っている(笑)」
主 「そうだね。それが端的に露わになったのが、靖国参拝だよ。アメリカをはじめとする連合国が戦争犯罪人として裁いた者を英霊として祀っている宗教施設に、公的に参拝した総理大臣が、アメリカとの集団的自衛権を目論むなんて、支離滅裂だよ(笑)」
客 「まともなアメリカ軍人だったら、怒るよね。東京裁判なんて、連合国の血で贖われたものだぜ」
主 「それをアメリカが許してくれる、と思っているフシがあるようなのが、病理が深い、というかね。アベノミクスにしても改憲問題にしても、同じような支離滅裂ぶりが露わになっているし、まあ、「安倍原理主義」者たちの程度がそんなもの、といえば、そうでしかないことなんだが」
主 「うん。七年ほど前に出た、樫村愛子というラカン派社会・文化分析学者の書いた『ネオリベラリズムの精神分析』という本。普通、古い本をホメるときは、今読んでも面白い、とか、今こそ読むべき、という文句が定番だが、当時も今も批判されている状況が変わっていないからこそ古びていない、という感想を持たれる著作は、稀だよね。この本がそう」
客 「あれ、七年前といえば、第一次安倍政権のときじゃない。当時は第一次なんて枕が付くとは思わなかったけれども(笑)」
主 「正確にいえば、この本が出た一月後に、安倍が総理を辞めたんだな。この本の批判の射程には、著者が「安倍原理主義」と呼んだ政治的風潮がとらえられているから、安倍の自壊で、この本のアクチュアリティがやや毀損されることになった……が、どっこい、過去の亡霊がまた復活してきた(笑)。著者が、あとがきで、政権が変わっても日本社会をめぐる問題は解決しない、と言っているが、安倍の復活は、この指摘の真実性を、見事に裏書きした。再び「安倍原理主義」批判が要請されるってわけさ」
客 「しかし、「安倍原理主義」って、そんなにたいそうなものかなあ。カリスマ性があるとは、到底思えないけれども」
主 「いや、「原理主義」そのものがチープなのさ。著者の見立てをざっと説明すると、ネオリベラリズム的な経済環境・政策が推進されると、社会における再帰性の度合いが高まって、その社会の「恒常性」が弱まっていく。この「恒常性」を取り戻すために、「原理主義」という「伝統」を儀礼的・形式的に擁護する運動が台頭するが、それは社会や個々人の多様性・複雑性を、排除するものでしかない。ということだ」
客 「再帰性、というのは、自分の行動の意味や正当性を、その都度問い直す傾向のことだよね。何で問い直すのかっていうと、不断に新しい情報や状況が、社会に蓄積されていくからだ。昨日正義だった行動が、明日不正義になるかもしれない。というふうに考えていくと、「恒常性」が弱まっていくというメカニズムは、把握できるよね。しかし、著者は「原理主義」を批判しているから、一体どういう経路で「恒常性」を維持していくって言ってるの?」
主 「いや、著者が「恒常性」ということに賭けているのは、他者とのコミュニケーションの可能性なんだ。社会が、異質な者同士が出会う場所で、ゆえに多様性を包括する機能を有している以上、社会が同質化するのは、劣化・崩壊の予兆でしかない」
客 「なるほどね。でも、他者との交流なんて、いかにもタテマエ臭くないか。「原理主義」なんて、タテマエを突き破ることに、カタルシスがあるんじゃないか」
主 「うん。著者が、ラカン理論を援用して指摘しているけれども、今のコミュニケーションの主流は、「解離的人格」型で、要はその場のノリと空気を読んでパーソナリティを変化・交代させる、ということ。この状況に対処するために、主体が取りうる戦略は、「解離的」スキルを洗練させていくか、それを統合させる内省的な意識を向上させていくか、の二つしかないんだが、そのどちらも耐えられないという者たちが、「原理主義」に没入するわけだ。切ないハナシだが」
客 「社会の多様性・複雑性を拒否して、「伝統」の儀礼性・形式性に回帰する、と。ただ、形式に拘泥すると、フェティシズムへの道が待っている(笑)」
主 「そうだね。それが端的に露わになったのが、靖国参拝だよ。アメリカをはじめとする連合国が戦争犯罪人として裁いた者を英霊として祀っている宗教施設に、公的に参拝した総理大臣が、アメリカとの集団的自衛権を目論むなんて、支離滅裂だよ(笑)」
客 「まともなアメリカ軍人だったら、怒るよね。東京裁判なんて、連合国の血で贖われたものだぜ」
主 「それをアメリカが許してくれる、と思っているフシがあるようなのが、病理が深い、というかね。アベノミクスにしても改憲問題にしても、同じような支離滅裂ぶりが露わになっているし、まあ、「安倍原理主義」者たちの程度がそんなもの、といえば、そうでしかないことなんだが」
2010年9月11日に日本でレビュー済み
自民党政権から民主党政権に代わっても、日本の政治は混乱するばかり。冷戦が崩壊しグローバリゼーションが世界に広がり、日本は少子高齢化、財政赤字、大学生の就職難と暗い話が続くばかり。日本国民は戦後の成功体験を失って、右往左往しています。
いわば、「価値の漂流」が21世紀の日本の現状でしょう。
それを即座に解決する即効薬はありませんが、この本は、現在日本社会、政治が直面している問題を、精神分析の観点から、非常にするどい切れ味で分析しています。
もやもやとしてうっ屈している今の日本の社会の中で、この本を読むと、すくなくとも、なぜ我々が今こんなにフラストレートしているか、ということが、かなりはっきりとわかるのではないかと思います。
もっとも、現在の日本社会・政治が抱える問題は大きく複雑です。何人かの書評子が書いているとおり、この本は分析はしているものの、はっきりとした解決策は書いていません。
しかし、それは非難されるべきではなく、それだけ我々の抱えている問題が複雑であるということなのでしょう。一冊の本で、「日本の問題はこれで解決できる」などと言っているとしたら、そんなのはインチキに決まっているのですから。
読みごたえ、噛みごたえのある本です。ただし一回で読破できるようなタマではありません。私は何回も読みなおしましたが、最初の一回目は数カ月かかりました。
いわば、「価値の漂流」が21世紀の日本の現状でしょう。
それを即座に解決する即効薬はありませんが、この本は、現在日本社会、政治が直面している問題を、精神分析の観点から、非常にするどい切れ味で分析しています。
もやもやとしてうっ屈している今の日本の社会の中で、この本を読むと、すくなくとも、なぜ我々が今こんなにフラストレートしているか、ということが、かなりはっきりとわかるのではないかと思います。
もっとも、現在の日本社会・政治が抱える問題は大きく複雑です。何人かの書評子が書いているとおり、この本は分析はしているものの、はっきりとした解決策は書いていません。
しかし、それは非難されるべきではなく、それだけ我々の抱えている問題が複雑であるということなのでしょう。一冊の本で、「日本の問題はこれで解決できる」などと言っているとしたら、そんなのはインチキに決まっているのですから。
読みごたえ、噛みごたえのある本です。ただし一回で読破できるようなタマではありません。私は何回も読みなおしましたが、最初の一回目は数カ月かかりました。
2007年11月7日に日本でレビュー済み
最近はやりの格差社会モノと思って手に取ると
期待した内容ではないのかもしれない。
哲学史・思想史の最低限の知識がないと
読みこなすのはなかなか困難である。
後半から具体例が出て面白くはなってくるが
トーンは淡々としており、センセーショナルなものを
求めている人も飽きてしまうだろう。
しかしながら、大げさな特殊例や感情論で構成される
昨今の言説と比較すれば、良心的な分析を行っている。
著者も書いている通り、スペースの問題により
具体的な処方箋にまでは踏み込めていないが
ぜひともそこに触れた続編を書いてもらいたいものだ。
期待した内容ではないのかもしれない。
哲学史・思想史の最低限の知識がないと
読みこなすのはなかなか困難である。
後半から具体例が出て面白くはなってくるが
トーンは淡々としており、センセーショナルなものを
求めている人も飽きてしまうだろう。
しかしながら、大げさな特殊例や感情論で構成される
昨今の言説と比較すれば、良心的な分析を行っている。
著者も書いている通り、スペースの問題により
具体的な処方箋にまでは踏み込めていないが
ぜひともそこに触れた続編を書いてもらいたいものだ。
2008年3月8日に日本でレビュー済み
はやりを意識して、「ネオリベラリズム」ということばを入れなくてはならなくなったようで、ちょっと気の毒です。
全体として、現代思想を幅広くそして手際よくまとめながら、ポストモダン社会、近代成熟社会を論じています。いいブックガイドになります。
難点は、著者も認めているように、著者が理論、整理に終始し、具体的な処方箋をまったく書けなかった点です。
全体として、現代思想を幅広くそして手際よくまとめながら、ポストモダン社会、近代成熟社会を論じています。いいブックガイドになります。
難点は、著者も認めているように、著者が理論、整理に終始し、具体的な処方箋をまったく書けなかった点です。
2007年9月26日に日本でレビュー済み
ラカンの精神分析をネオリベラズム分析に当てはめようと頑張った本だけど、ラカンの精神分析自体の理解が不十分なので、ネオリベラリズムの分析にも切れがない。ジジェクがネオリベラズムを分析した事例を徹底活用すればもっとおもしろい本になったはず。といっても東大にはラカンを理解している人が昔も今もいないので、著者に対して「ラカンを理解してから社会学に適用せよ」と言っても環境が悪かったとしか言いようがなく、著者を責めることはできない。例えば、雑誌『Becoming』の新堂粧子氏の論考群を読んで勉強することを著者には勧めたい。