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暴走する脳科学 (光文社新書 377) 新書 – 2008/11/14
- 本の長さ216ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2008/11/14
- ISBN-104334034802
- ISBN-13978-4334034801
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商品の説明
出版社からのコメント
"脳の時代"を生きる現代人必読の
"脳科学リテラシー"入門書!
●脳研究によって、心の動きがわかるようになるのか。
●そもそも脳イコール心と言えるのか。
●脳を調べることで心の状態を読むことは可能か。
●人間の行動は脳によって決定され、自由などは幻想に過ぎないのか。
●脳研究が医療や教育、犯罪捜査、裁判などに応用されることは、どのような社会的インパクトを持ち、どのような倫理的問題が生じるだろうか。
----"脳の時代"を生きる我々誰しもが持つ疑問に、気鋭の哲学者が明快に答える。現代人必読の書。
脳科学の知見に基づいているかのような誤解を与える「脳科学商品」や「脳トレーニング法」がすでに商品化されているが、こうした安易というだけでなく、道徳的・倫理的に問題のある「応用」は、この分野への不信感を不必要に増大させてしまうだろう。(中略)
科学者は、疑似科学や似非科学への注意の喚起を行う社会的義務があるはずである。(本文より)
【著者紹介】
河野哲也(こうのてつや)
一九六三年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(哲学)。現在、立教大学文学部教育学科教授。専攻は哲学・倫理学。著書に『エコロジカルな心の哲学』『環境に拡がる心』(ともに勁草書房)、『メルロ=ポンティの意味論』(創文社)、『<心>はからだの外にある』(NHKブックス)、『善悪は実在するか』(講談社選書メチエ)などがある。
登録情報
- 出版社 : 光文社 (2008/11/14)
- 発売日 : 2008/11/14
- 言語 : 日本語
- 新書 : 216ページ
- ISBN-10 : 4334034802
- ISBN-13 : 978-4334034801
- Amazon 売れ筋ランキング: - 552,028位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
立教大学文学部教育学科教授。1963年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程哲学専攻修了。博士(哲学)。国立特殊 教育総合研究所(旧称、現在は国立特別支援教育総合研究所)特別研究員、防衛大学校、玉川大学を経て、2008年より現職(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(ISBN-10:4766417194)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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そして、著者が哲学研究者である事に注意が必要。
科学的に脳研究を検討していく、というよりも、
思考をこねくり回して、ああでもない、こうでもない、
と言って個人的な考えを表明している印象を受ける本です。
帯には「“脳トレ”は本当に効くのか?」という興味をそそる
文言が書かれていますが、それに類するような箇所を
本書のなかに見つることはできませんでした。
本自体が悪いわけではなく、これはこれとして、哲学研究者
が書いた脳科学についてのエッセイとしてなら許せる内容です。
特に心は環境に広がっているという「拡張する心」と自由意志に関する記述が興味深い。ニューロエシックスという倫理的な問題もまた大きい。ただ、脳の可塑性が自由意志の基盤というのは、自由意思とは「成長することと」としているからで、言語ゲームからは出られない。拡張する心も、心が環境との相互作用を持つということと脳だけに局在しないこととは別だと思うが、著者は哲学者であり曖昧に考えているとは思えない。本書はあくまで入門書ということだろう。
最新の脳科学事情が意外なほど分かりやすく書かれていた。
中心として取り上げられていることは心についてで、心とはどこにあるのか、
脳にあるのか、それとも周りの全てを含めて心言うべきか、など今まで考えたこともない一面も知れた。
また脳はアニメやファンタジーで見られるように溶液に浮かべておけば、本当に機能することが
可能かという話もあり非常に楽しめ、手軽に読める一冊でした。
ただ、深く考えるということについてのヒントは得られた。
そもそも、人が普段考えないようなことを深く考える。それが哲学というところに通ずるのかもしれない。
我々は「なぜ歯を磨いているのですか」と問われれば、「磨かないと虫歯になるし、口が臭くて人に嫌がられるから」といった回答をするだろう。
だが、「なぜ、あなたの心臓は動いているのですか」と問われても困惑する。
その運動には物理的な原因はあっても、私自身はその運動に関する理由も目的ももっていないからである。
つまり、意図的であるということは認識が関連しているというのが著者の解説だ。
確かに考えたこともないけれども、なぜそうなのだろうと突き詰めて考えると、なるほどと思うこともあるなと改めて感じた。
普段何気なく生活する上での問の建て方の参考にしたい方におすすめ。
サブタイトル:哲学・倫理学からの批判的検討
帯:“脳トレ”は本当に効くのか?
このうち、内容を表しているのは、サブタイトル。帯に惹かれて
買った僕としては、読み始めてびっくりです。著者は、哲学・
倫理学を専門とする大学の先生。現代の脳科学が提起する諸問題
を哲学的・倫理学的観点から考えていきます。
著者も言います、「理工学系の簡潔で明快な論述に慣れた人の目に
は、重苦しく思えるかもしれない」と。確かにめんどくさく感じる
議論もありますが、多面的に問題を捉える著者の視点には、いろ
いろと気付かされる点が多いです。
著者も(そして読者も)タイトルや帯のつけ方には不満があるかも
しれませんが、面白い本です。
むしろ,著者がこれまでも述べている「拡張した心」と,近年の脳科学で次第にわかってきた「脳の可塑性」との関係を述べるために,脳科学における幾つかの議論をたたき台として利用している印象である.心は内に閉じておらず,脳も内に閉じていない.それが中心となる主張であり,現代の心身一元論として大変面白い.批判は二の次であろう.
著者の基本的な立場は、いろんなものが社会的に構成されているということです。いろんなものの一つは、たとえば心理学の概念としての知能です。しかし著者が根拠として挙げているのは、知能概念が心理学に定着するまでに歴史的な紆余曲折があったことを示しているだけでしょう。紆余曲折があったことは、その概念が現実に対応物を持たないという強い意味において社会構成物だと示したことにはならないでしょう(弱い構成主義を論じるなら、例えば情念と情動の間は曖昧なのに無理やり線引して科学概念として一方だけを使うことの妥当性などを論じるのであれば、もっと丁寧な検討が必要でしょう)。
記憶について述べているところを見てみます(pp129-130)。要約すると「記憶は正確でなけらばならない、という私たちの記憶観は、正確な記録を求める社会のあり方や要請を反映しているのではないか。記録という社会的、文化的行為があったからこそ、その代替物として正確に記憶するという能力が要求されるようになったのだ。個人的な記憶という能力は社会的な実践から派生したもののはずだ」と主張されています。慎重に読むと、<私達の記憶観>が社会構成物だという話から始まり、つぎには<正確な記憶という能力>の話になり、そして<記憶能力全般>が社会構成物だという驚くべき結論が導かれています。語感が似ている別の概念に巧妙にすり替えています。いくらなんでもあんまりなトリックではないでしょうか?付け加えれば、記憶は正確でなければならないという私たちの記憶観自体が本物かどうかわかりません。なぜなら本節の冒頭で著者が何の根拠もなしにそう宣言しているだけだからです。根拠なしの宣言は本書の悪い特徴でもあります。
感情が社会的なものであるという考えについても見てみます。心は社会性を帯びている。なぜなら電車の中で足を踏まれたあと、相手が謝るか知らんぷりをするかで怒りが収まったり増大したりするから。ここまではもっともですが、つぎのように続きます。「これらのことからわかることは」、何が記憶で、何が愛で、何が怒りであるかは、言葉の意味と同様に「社会的にコード化されている」。もちろんそんなことはないでしょう。感情が社会的に置かれた状況次第で変化することは、感情が強い意味で社会構成物であることを意味しません。ここでもやはり、心が社会性を帯びているという無難な主張が、心は社会構成物であるという強い主張とさらっと置き換えられています。このような議論の仕方は、本書だけでなく、著者自身の信頼性を疑わせるに十分なものです。
ところで私たちは、心はコンピュータのようなものだと聞くと、子供をコンピュータのように育てるようになるのでしょうか。著者の意見ではそうです(p135 全く根拠は示されていませんが)。イアン・ハッキングはこれをループ効果と呼んだらしいです。実際にハッキングの looping effect of human kinds を読んでみるとだいぶ印象が異なります。彼が用いているのは自閉症のような、近代になってから精神疾患とみなされるようになったもっと微妙な事例です。
この辺りでもう読む気が完全に失せましたがもう一点だけ。
神経可塑性を遺伝的要因と排他的な関係にあるとみなしているけど単純に間違いでしょう。
考え方に対して、批判を行う本だと
思って読みましたが、
内容は違っていました。
実際は、著者が設定した問いに
対して、自答を行うという
哲学的な内容です。
タイトルに裏切られた感じです。