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間違いだらけの教育論 (光文社新書 416) 新書 – 2009/8/18
◎本書内容
ニセ教育論ばかりが、なぜもてはやされるのか?
理想に燃える教育論は、どこでつまずいてしまうのか?
本書は齋藤孝、陰山英男、「ヤンキー先生」、「文部省のスポークスマン」、ワタミ社長の各氏をはじめとする"カリスマ教育者"たちの議論を検証しながら、教育問題の正しい考え方を示していく。
著者は教員歴40年のベテランで、「プロ教師の会」代表。メディアで活躍する教育論者の中では、現場を熟知する貴重な存在である。
◎本書目次
序論 人間は教育から逃れられない
第一部 子ども論の大間違い!
1章 齋藤孝さんは教育を論じていない
2章 齋藤孝さんが書けない"教育の本当"
3章 苅谷剛彦さんと西研さんに学ぶ
第二部 教師論の大間違い!
4章 陰山英男さんはパーフェクトティーチャーか
5章 内田樹さんは師と先生をごっちゃにしている
6章 義家弘介さんは典型的な自己チュウ教師だ
第三部 教育理念の大間違い!
7章 寺脇研さんの教育理念はいつも正しい!?
8章 渡邉美樹さんは教育を経済で捉えている
おわりに
◎著者プロフィール
諏訪哲二(すわてつじ)
一九四一年千葉県生まれ。「プロ教師の会」代表。日本教育大学院大学客員教授。東京教育大学文学部卒業。埼玉県立川越女子高校教諭を二〇〇一年三月に定年退職。「プロ教師の会」は、八〇年代後半に反響を呼んだ『ザ・中学教師』シリーズ(宝島社)をはじめとして、長年にわたり教育分野で問題提起を続けている。単著に『「平等主義」が学校を殺した』『学校に金八先生はいらない』(以上、洋泉社)、『学校はなぜ壊れたか』『プロ教師の見た教育改革』(以上、ちくま新書)、『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)、『なぜ勉強させるのか?』(光文社)など。
- 本の長さ232ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2009/8/18
- ISBN-104334035205
- ISBN-13978-4334035204
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登録情報
- 出版社 : 光文社 (2009/8/18)
- 発売日 : 2009/8/18
- 言語 : 日本語
- 新書 : 232ページ
- ISBN-10 : 4334035205
- ISBN-13 : 978-4334035204
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,142,973位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,324位光文社新書
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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一応筆者の立場は冒頭のヘレン・ケラーの例などを通じて断片的に述べられているのだが、どうもいま一つ本書だけからではその体系だった考えや具体的な提案が見えてこない。それで、とにかくこれらの論者の主張をいささかしつこいまで批判、論難し、こき下ろしていく。
念のために言っておくが、これらの論者と諏訪氏のどちらかが正しいとか間違っているという以前の問題である。どちらも優れた点や課題があって、突き合わせ、議論して全体としてよりよい方向を目指せばよいのだが、どうも揚げ足取りばかりの一冊という印象はぬぐえない。
結局何が問題で、我々はどんな教育をすればよいというのだろうか。
そのあたりの批判をされている本として読みました。
俎上には、斉藤孝、陰山英男、義家弘介、寺脇研、渡邊美樹などの人物。
うん、たしかに諏訪哲二さんの問題意識はわかるような気がする。
東大VS非東大系という価値観は、社会に出るとけっこう体験しますよね。エリートVS雑民党っていうか。
教育にある問題が、いい大学に入るかどうかという問題(もしくは、いい大学なんて行かなくともいいんだという問題)とすり替わっちゃうんですよね。
諏訪さんがいう教育を根っこの部分を僕なりに意訳すると、
まだ動物である子供の蒙(くら)きを啓(ひら)くという啓蒙があり、人間として形作る。
という人間形成があり、
日本という文化を踏み台にした教育で、
人間普遍の真理をつかむ。ということだと思います。
なので単に、三色ボールペンで声に出してみたかったり、百ます計算をしたり、ヤンキーであったり、ゆとり教育だったり、お金を儲けたりするのが悪いと批判していません。でも、もっと大切なモノがあるだろうというわけです。
一人ひとりのもっと大切なモノを気づかせる力をつけるのが、教育なのかも知れません。
学校教育は、我が国だけに限っても提供者が百万単位、教育を受ける側は全国民という壮大な事業であり、ひとたび間違った施策が定着するとその悪影響は計り知れない。提供者がこれだけ大人数に及べば、そこに流派、派閥が生じることはある程度やむを得ないが、初等中等教育の実務者でない文系学者や、教師としては相当に異例のキャリア形成をしてきた政治家の言説は、時として実践家として受け入れ難いという叫びとして、本書はきちんと消化されるべきである。ところで義家さんは、かつて大迷惑をかけてきた皆様方へのお詫び行脚は済まされたのでしょうか。
しかしながら、それは著者の物差しでの批判です。立場が違えば、いろいろな考えがあるというのは当然です。批判されている人たちが間違っているとは思えません。
しかし、現実の子供は、なぜ学ぶのか、なぜ文化や社会ルールを守る必要があるのかなど、生まれながらに理解していることはありえない。そこで学校教育は、ある種の強制が必要になる。これを前提とするためには、教師は「えらい」存在である必要があり、またその権力を与えられる必然性がでてくる。
著者はこれを「啓蒙」と表現する。すなわち知識の無いものに知識を受け入れる人間的変容を求めるのが教育であると。
この視点が欠けているのが近年のゆとり教育であり、本書に登場する論者であると批判する。そして、教育とは非合理的で人間的営みそのものであり、本来しんどくて、曲がり道をゆくようなものであると論説している。
そのとおりだと思う。教育に効率化、市場原理の導入を求めるのは間違いだと思う。
著者は教員歴40年の「プロ教師」とのことであり、定年まで高等学校の教員を勤め上げ、「教育」の現状と改革について、一家言を持っている(ことは本書から明らかである)。
著者の教育に対する思い入れの深さは、本書を読めばイヤでもわかる。しかし、取り上げた各氏について、一方ではこき下ろし、他方では(手放しではないが)持ち上げている、その温度差が激しく、最初は付いていくのに苦労するほどだ。
この温度差の元は何なのか?たとえば、第1章では「教育」についての「そもそもの認識」が齋藤孝氏と著者で全く異なる(したがって相容れない)のではないか。序章で著者はヘレンケラーとサリヴァン先生の例を出し、これが教育だと言う。その観点と、齋藤氏が著作で言う教育とが違うこと(全く異質であること)は、火をみるより明らかである。両者を比較し、いわんや一方が決定的に間違っているような論評を加える著者のロジックが理解できなかった。
「教育」というモノをより理解しようと思い本書を求めたのであるが、その期待はかなわなかった。結局、本書に書かれているのは、長年、中等教育のまっただ中にいた人物が、その目で見えていた範囲の理解で書かれたものなのではないか。悪い言い方であるが、現場の教員の立場での「教育」しか書かれていないのではないか。まあ、それが本書での「教育」の定義らしいので、それが良いとも悪いとも言えないのだが。