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ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書) 新書 – 2011/8/17
- ISBN-104334036384
- ISBN-13978-4334036386
- 出版社光文社
- 発売日2011/8/17
- 言語日本語
- 寸法10.7 x 1.5 x 17.2 cm
- 本の長さ372ページ
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商品の説明
出版社からのコメント
◎テレビゲームから、テレビヒーローもの、アニメ、マンガ、児童文学まで、「子どもの物語」を串刺しにして読み解く試み。
◎「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」「ペルソナ」などのテレビゲームから、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズなどのテレビヒーローもの、「ガンダム」「エヴァンゲリオン」「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」「美少女戦士セーラームーン」「プリキュア」「ムーミン」「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」などのアニメ、「ベルサイユのばら」「綿の国星」「ホットロード」「ドラゴンボール」「ONE PIECE」などのマンガ、そして著者が専門の児童文学まで、あらゆるジャンルの「子どもの物語」を串刺しにして読み解く試み。そこから見えてきた、「子どもの物語」の大きな変化とは?
【目次】
1章 テレビゲーム
変わる、テレビへの感覚/実は、喜んでいたのはお父さん?/自分で自分を採点できる/印象に残る物語性の高いゲーム/元祖は「テーブルトークRPG」/自由に名前を付けられる/主人公を自由に操れる/ドラクエとFF/主人公が一言もしゃべらない物語/RPGの経済学/「経験値」という概念/子どもから大人へ/「結婚」「家族」、そして「自由」/『DQ』と『FF』、スタンスの違い/サブタイトルの不在/チラつく『DQ』の影/「中世ヨーロッパ騎士物語風」からの脱却/罪と罰/リセットをリセット/RPGのパロディ
2章 テレビヒーロー
まねしやすい実写版/「おじさん」ヒーロー考/少年が主人公の作品/子どもという消費者の不在/ウルトラシリーズ/ウルトラQ/ウルトラマン/怪獣=悪ではない/「正義」のあいまいさ/ウルトラセブン/物語の軸は怪獣/幼児層に広がっていった怪獣ブーム/後から作られた兄弟という設定/兄弟化のリセット/主人公とウルトラマンは別/いまだ変わっていない一つのこと/仮面ライダーシリーズ/スト破りの撮影/マンガ原作ものの隆盛/ターゲットは原作の年齢層よりも下に/戦時下体験の影/饒舌なナレーションやセリフと、その場しのぎの展開/「変身!」ポーズの誕生/チープな匂い/ライダーは仕事
3章 アニメ(男の子編)
三人のロボット/手塚のせいでアニメーターの待遇は悪くなった?/チープさ故に子どもの心をつかんだ?/アニメでこそ活かされる素材/なぜロボットだったのか?/自我のコントロール/エイトマン/機動準備 137/キャラとキャラクター/ガンダムにはない「キャラの安定性」/マジンガーZ/宇宙戦艦ヤマト/岡田斗司夫たちの違和感/高年齢の子どもたちが発見したガンダム/大人への不信感・子ども同士の疑似家族/一九歳が一五歳をぶつ/共感・尊敬できない親/卒業しない「子ども」たち/死んでいく大人たち/ランバ・ラル/ククルス・ドアン/存在しない成長モデル/シャアの存在/ピーター・パンとしてのガンダム/『ファースト』のネガとしての『Z』/黒歴史/「愚民」は『ファースト』の影響で生まれたわけではない/時代の物語----新世紀エヴァンゲリオン/出口のない子どもたち
4章 アニメ(女の子編)----魔法少女
ストライクウィッチーズ/初の少女向けアニメ----魔法使いサリー/性的役割分担/サリーとピッピ/女の子ものはなぜ後回しにされるのか/性的存在としてのサファイア/ひみつのアッコちゃん/魔法のマコちゃん/魔法使いチャッピー/ミラクル少女リミットちゃん/魔女っ子メグちゃん/思春期の女の子の幼児化/魔法少女の正統な子孫たち/少しも新しくないところが新しい----美少女戦士セーラームーン/時代の物語----プリキュア
5章 世界名作劇場
「大人」にとって危険ではない内容/アルプスの少女 ハイジ/アニメ版『フランダースの犬』のストーリー/英国でもベルギーでも知られていない物語/アニメ版の世界から一歩も外に出ない人々/無垢な子ども?/「世界名作劇場」の終わり/親の欲望を敏感に察知する子どもたち/怪獣・変身ものの否定と「世界----」の肯定/孤児、もしくは孤児的な子どもが主人公/歓迎していたのは親
6章 マンガ
六〇年代の少年マンガ/少女マンガの「偽装」/少年ジャンプな時代/終われない、終わらない物語/消えた?「成長の物語」/「等価交換」の世界/取り替え可能なキャラ
7章 児童文学
新しい消費者としての子ども/ペローとグリムの違い/アイデンティティを描く近代文学/子どもは親の庇護の下でしか生きていけない、という問題/アイデンティティは自由を保障しない/親の離婚と児童文学/始まった離婚の情報開示/児童文学という枠組みそのものへの疑問/枠の外側に出た子どもたち/「子どもから大人への成長過程」そのものの切断
8章 子どもの物語たちが示すもの
なぜ大人にならねばならないのか?/子どもの物語と成長/大人と子どもの差異の減少
【著者紹介】
ひこ・田中(ひこたなか)
一九五三年大阪府生まれ。同志社大学文学部卒業。児童文学作家。「児童文学書評」主宰。一九九〇年『お引越し』(講談社文庫)で第1回椋鳩十児童文学賞受賞。一九九七年『ごめん』(偕成社)で第四四回産経児童出版文化賞JR賞受賞。他の著書に『大人のための児童文学講座』(徳間書店)、『レッツのネコさん』『レッツのふみだい』『レッツがおつかい』(以上、そうえん社)がある。
登録情報
- 出版社 : 光文社 (2011/8/17)
- 発売日 : 2011/8/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 372ページ
- ISBN-10 : 4334036384
- ISBN-13 : 978-4334036386
- 寸法 : 10.7 x 1.5 x 17.2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 939,259位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,242位光文社新書
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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ゲーム、携帯電話。……物語が届けられるのなら、どんなメディアでもかまわないと私は
思います。他のメディアが非難されたために、子どもが物語嫌いになることの方を私は
恐れます。何故なら人間には物語が必要だからです。……本書は、様々なメディアの
子どもの物語に起こっている変化を眺め、新しい動向を探る、ささやかな試みです」。
本書の主役は「子ども」というよりもむしろ、その対義語としての成長の果てに辿り着く
べきものとしての「大人」、「子ども」の物語表象における「大人」。
まとめにおいて繰り出される「もし×年前(お好きな時代でかまいません)の大人が
大人らしく見えていたとしても、それは単に情報量の差によって、そう振る舞って見せる
ことがまだできた時代だった、というだけのこと」との指摘はまさに慧眼。
物語における保護者機能の担い手としての、ロールプレイとしての「大人」はあり得ても、
成長の帰結を担保する存在としての「大人」はもはやあり得ない。そもそも何をもって
「成長」とするのか、を規定する価値判断すらその自明性を喪失してしまった以上、
その宙吊り状態を佇む他ない存在という以外の仕方で、もはや「大人」は描かれ得ない。
オイルショック等によって果てなき経済の成長というモデルが失効した1970年代の
作品に多くのページが割かれていることは決して偶然ではない。
むしろ本書の示唆の中で真に恐るべきは、成長神話の破綻どころか、ひたすらに退行化を
目指す自称「大人」たちの姿。
「『 フランダースの犬 』を観て感動した子どもたちが数年後、その舞台となった土地を訪れる
ことによって、この物語の存在を知ったアントワープの観光局が日本人をターゲットに
『フランダースの犬』観光コースや土産を作り、それ以降、『フランダースの犬』ファンの
日本人がそこを聖地のように訪れる……。
このスパイラルは、『フランダースの犬』の世界から一歩も外に出ないのです。外から
眺めないのです。ベルギーやフランドル地方に、さほど関心がないのです」。
己が醜き姿を直視することを敢然と拒絶しつつも、あくまで「大人」としての幼稚な
自我に固執するこの図式は、「どこにもないどこか」としての哀れで惨めな昭和ノスタルジー
a.k.a.バカのマスターベーションと完全に等しい。
こんな無様を晒すくらいなら、「大人へと成長しなければならないわけでもない。
そう認めてしまった方がいいと思います」。
他のレビューが「偏見」との指摘を与えているように、何らの図式も論拠も示されない
私見が至る所に散見される。個々の物語を取り上げるのはいいのだが、その分析から最終的に
何を語ろうとしているのか、そもそもいかなる仮説に基づく分析なのか、といった点に
不明瞭な点も数多観察される。種々の作品をひたすら参照するアプローチもそれはそれで
立派な手法ではあるのだが、正直冗長の感は否めず、サンプル対象を絞り込んで、そこから
引き出された一般則(もどき)に従って、150ページ程度に議論をまとめてしまった方が、
論旨ははるかに明快に伝わっただろうに、という気がしないではない。事実、年代別の
『ガンダム』や『仮面ライダー』の展開だけでも、本書における「大人」論、「子ども」論は
十分にその用をなし得たように思われる。
上記の他にも、個別作品への評価など苦言の余地はいくらでもあろうが、いずれにせよ、
「子ども」の物語に仮託された「大人」という神話の終わりを跡づける、というその根幹部分を
めぐる論説としては一定の達成は認められるだろう一冊。
まず著者の咀嚼力には独自なものがあり、たとえば伊藤剛の「キャラ」「キャラクター」の定義を、「キャラとは、成長すると気持ち悪い存在」「キャラクターとは、成長しないと気持ち悪い存在」とまとめてしまったところは,一瞬違和感を感じたのちに、なるほど「成長」の観点から見ればそうも言えるかなとうなずかざるを得ませんでした。いろいろなところで著者の個性の濃さを感じます。
そして成長すなわち「大人と子ども」という視点は、「作り手と受け手(子ども)」という構図をも導くわけで、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」の制作現場の狙いと子どもの年齢層とのズレなどにも多くのページが割かれるのも興味深いところです。その中では、ガンダム以前と以降では、ヴィデオ録画ができるようになったために、まったく違う受け止め方がされている、という指摘が面白いものでした。以前の世代は、自分の成長の思い出としてアニメや漫画を語るのに対し、以後の世代はそれを、何度も繰り返し見られるがゆえに、アイデンティティとしてずっと抱えてゆく、というのです(そのあたりも成長しない子どもという見方につながっていきます)。
また驚いたのは、少女向けTVアニメ(魔法少女もの)が、ずっと遅れて始まり、しかも少年の欲望に消費される種子を最初から内包していたのは、現場の作り手が男性ばかりだったからだ、という指摘でした。確かにその通りかもしれず、目から鱗が落ちた論点でした。
「世界名作劇場」という大人から承認される「ほのぼの」名作に対する辛口の突っ込み方も面白く、けっきょくヒーローもの、怪獣もののほうが延命してゆく経緯も読み応えがありました。孤児という物語が、子どもを自由にし、想像力を解放させるが、その子が家族形態に吸収されることで、等価交換としてその想像力を失ってゆく、など、児童文学らしい読み解きもありました。
副題である「子どもの物語がなぜ、成長を描かなくなったのか」については、事実の経緯を追っているのにとどまり、これという指摘はなされませんでした。それは本書が「大人と子ども」の関係性という角度を中心に、時代を読み解こうとしているからで、これは仕方がないと思います。納得のゆく回答を出そうとするには、むしろ情報環境のめまぐるしい進化、それに伴う世界観(リアルとは何か)の変化というもっと大きなパースペクティブが必要で、それはとうてい新書の厚さで語りつくせるものではないでしょう。
しいていえば、ゼロ年代以降の「仮面ライダー」や「ウルトラマン」、そして「ガンダム」を扱う部分はもう少し明確な総括視点がほしかった、という感は残りますが、このサイズの本で、これだけの内容をふところに入れて語りきった筆力と粘りはなみたいていのものではありません。子どもの文化に関心を持つ人は必読です。
最後に。コストの関係なのかもしれませんが、一枚の図版も入っていないことが残念でなりません。
我慢して最後まで読んだら面白くなったのかしら。
補足:平成ライダーシリーズ等における成長論は「ゼロ年代の想像力」に面白い論考が載っています。作者の思想的スタンスに前面賛成ではないが、こう言う本を読みたい人にはこちらのほうが面白いんじゃない?
しかし副題が「なぜ成長を描かなくなったのか?」なのだが、筆者にとって成長とはどういうことなのか。類推すると、大人への憧れを持ってああなりたいと思い描きそれへのステップを踏んでいく、ということなのだろうか、例えば昔の少年たちがカッコいい大人である月光仮面に憧れたように?
しかし昔ならいざ知らず、現代のネット社会ではカッコいい大人なんてすぐに化けの皮が剥がれてしまう。子供は弱い存在だから強い大人を怖がるけど、憧れの大人なんて恋愛対象以外にはいないんじゃなかろうか。「成長しなさい、大人になりなさい」と言われても、なった先がアレかよと思ったら説得力がないでしょう。
さすがに子供に夢がないなんてお堅い教育評論家みたいな結論は出してないが、大人の世界が完成してないことが明らかなのに、どんな成長を夢みればいいのだろう?筆者はその辺りをぼかして、夢なんてない世界の絶望をわかっていても書くことを避けていらっしゃるのではないか。それもまた児童文学者らしいところか。
人間にはどうやら、物語が必要らしい。
この著作も、物語の必要性を提示してくれた。
子どもの物語は、今や大人の物語にもなっている。いや、そもそも子どもと大人と分ける必要性が今やなくなったのかもしれない。
わかることは分けることなのだが、明確な線引きがついに意味をなさなくなりつつあるのかもしれない。
混沌に戻され、今まで常識として認められていた『大人』は、実は大人になったつもりでしかないのかもしれない。
そもそも日本人の性質として、大人にはなれないのではないだろうか?
この本は、私の好きな物語を簡単にまとめて、筆者なりの解釈で今の混沌の時代を描きだしてみた。
確かに、答えらしい答えは用意されていないが、この答えは読者一人一人が自ら探すべきことなのだろう。
真面目に悩みはじめると、むき出しの自我で接して自閉してしまうかもしれないので、河合隼雄の日本の昔話の研究と合わせて、じっくり考えてみたい。
…それにしても、私は大人にはなれていないようなので、不惑までに、大人になるかならないか、あるいは、新しい大人像を見出だして、それにむかって努力してみたい。