やっぱりフロイトさんは面白い。
「幻想の未来」は、なんとも大胆な内容。
人間について考えるのであれば、やはりその背景にある思想の基となる宗教のありかたや文化が重要になるけれど、実際、それらはある種の「方向づけ」と捉えることもできる。
当時は、この考えを発表するだけでどのくらい非難を受けただろう。
その様な「脅し」とも取れる社会的な幻想や制限を取り除く事で知性が萎縮しなくて済む状況になり、人間の可能性を広げる。
ユダヤ人であるフロイトは、多角的な視点からの考察を妨げてしまう可能性がある、社会的な幻想にアラートを出した。
フロイトは「幻想」よりも、人間が持つ理性を最も信用ができるものとしたかったと思う。
中身が細かいタイトルに分けられているので読みやすい構成になっている。
巻末に詳しい解説や年譜がついているところも嬉しい。
それから、エロス(生の欲動)の効用について語られているところが、この中では一番興味深かったです。
愛はすべての原動力。
かなりお薦め☆
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幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1) 文庫 – 2007/9/6
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- ISBN-104334751407
- ISBN-13978-4334751401
- 出版社光文社
- 発売日2007/9/6
- 言語日本語
- 本の長さ439ページ
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登録情報
- 出版社 : 光文社 (2007/9/6)
- 発売日 : 2007/9/6
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 439ページ
- ISBN-10 : 4334751407
- ISBN-13 : 978-4334751401
- Amazon 売れ筋ランキング: - 74,591位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2022年8月10日に日本でレビュー済み
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人生で立ち往生しているときに読むと不思議と心に響く。
2007年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
晩年のフロイトが、西洋文化とりわけその中心にあるキリスト教を、精神分析の視点から批判した書。「文化」とは、人間が自分の動物的で盲目的な欲望をコントロールするための、自己調教装置の総称である。その中心は道徳や宗教であり、幼時から人間に欲望の断念と社会規範を脅迫的な形で刷り込んでゆく。神経症とは、このような規範が動物的欲望を抑圧するところに生み出されるきわめて人間的な現象なのだ。フロイトは、文化、芸術、宗教のすべての現象の中に、この神経症的症状を読み解いてゆく。中山氏の新訳は、論旨の骨格を浮かび上がらせて、切れがよい。旧訳と比べよう。「芸術は、文化の要求に応じて我々が行ってはいるものの、魂のもっとも深い部分では今なお未練を残している最古の願望断念に対する代用満足であり、したがって、この願望断念のために捧げられた犠牲から生まれる不満をなだめるには、一番適している」(人文書院版著作集3)。「芸術とは、ごく原初的で、今なお人間のもっとも深いところで感じられる文化による放棄の命令の代償としてもたらされる満足であり、文化のために捧げられた犠牲との和解をもたらすものに他ならない」(中山訳、p28)。
2015年3月26日に日本でレビュー済み
フロイトの「幻想の未来(1927)」、「文化への不満(1930)」、「人間モーセと一神教(1939)」の3つの論文をまとめた本である。中山元さんの翻訳は読みやすいし解説もクリアである。
曰く・・・
人間の魂の発展の歴史は、外的な強制が次第に内面化されてきた歴史である。魂の特別な審級である超自我は、外的な強制をみずからの命令に転換し、これを引き受けるようになった。
宗教的教えを信じる根拠は、祖先が信じてきたから、先祖代々それを信じるべき証明が与えられてきたから、根拠を問うことはそもそも禁じられているから、というものであり驚くほど一貫性に欠けている。
宗教的教義は幻想である。だとすれば、生を支配する文化の別の財産も同じようなものなのではないか。たとえば、国家的機構を規制しているさまざまな前提も幻想なのではないか。科学的な研究活動における観察と思考によって外的な現実を認識することができるという確信もまた幻想よりも確実な根拠があるものなのだろうか。
精神分析は、神を否定し、道徳的な理想を否定するものである。
理神論は、理性によって神の啓示の基盤を明かすことができるという考え方であり、ロックに始まるイギリス経験論がその代表である。フロイトは、神の存在を否定せずに、理性を神の位置につけようとする(このような)試みはまやかしだと批判する立場(中山元)。
幸福の希求とは、強い快感を得たいと願い、苦痛と不快を避けたいと願うことである。苦痛は身体的感覚にすぎないから、器官に働きかける方法がそのひとつで代表が薬物中毒。欲動の満足は幸福をもたらすが、外界の状況によって欲動が妨げられると強い苦悩が生じるので、ヨガなどにより欲動を滅却させるというのもひとつの方法。あるいは、リビドーの目標をずらす方法もあり、たとえば、芸術や研究などの知的な仕事から生まれる快感によって欲動を満足させる(欲動の昇華)。あるいはいっそ外界の対象にしがみつきこの対象との感情的な結びつきから幸福を手に入れようとする、いわば、愛し愛されることで満足を得ようとする。美の享受による幸福追求もある。文化において美は不可欠であるが、美にどのような効用があるかはまだあまり解明されていない。
宗教は、人間が幸福を手にするための最善の方法をみずから選び調整するというゲームに干渉してくる。すべての人に同じ道を強制する。宗教は、人生の価値を貶め、現実世界のイメージを妄想によって歪めるが、これは人間の知性を脅しによって怯えさせることを前提としている。
人間以外の動物では、環境世界の影響とその動物のうちに働いていて克服する必要のある欲動とのあいだに、一時的に均衡が成立し、そこで発展が止まってしまったのかもしれない。一方、原初的な人間においては、リビドーの新たな刺激のために破壊欲動がふたたび作動し始めたのかもしれない。
文化は、攻撃欲を内側に向け、内面化し、自我に向けさせる。自我に向けられた攻撃欲は超自我として取り込まれ、これが「良心」となる。良心は、本来なら他の見知らぬ人に発揮したかったはずの強い攻撃性を自我に対して行使する。厳格な超自我と、超自我に支配された自我のあいだに緊張関係が発生し、これが「罪の意識」であり、自己懲罰欲求として表現される。こうして文化は個人の危険な攻撃欲求を弱め、武装解除する。
個人の発達プロセスは、自分の幸福を実現しようとする営み(利己的)と他人と結びついて共同体を作りだそうとする試み(利他的)という二つの努力が相互に干渉することによって生まれる。個人の発達において重視されるのは利己的な営みであり、文化的とよばれる別の営みは原則としてそれを制約する役割しか果たさない。一方、文化的プロセスでは、多数の個人からひとつのまとまった共同体を作りだすという目的が主要な役割を果たしている。幸福の実現という目的は背景に押しやられる。
ユダヤ人は、指導者モーセに反逆して、モーセを殺害し、彼によって強制されたアトン宗教を廃絶している(E・ゼリン)。エジプトから帰還したユダヤ人は、民族的に近い部族と合流し、カディシュにおいて、アラブ系ミディアン族の影響のもとで新しい宗教を受け容れ、火の神ヤハウェを崇拝するようになる。
ヤハウェの神はモーセの神とは似ても似つかない神だったと考えられる。アトン神はイクナトンと同じく平和を好む神であったが、新たな居住地を求めてカナンの地を暴力的に征服しようとする民にはヤハウェ神のほうがふさわしかった。ヤハウェ神はやがて本来の性格を失って、モーセの神アトンと似た性格の神になっていく。
ユダヤの民は、イエス殺害というモーセの教えを思い出させるような刺激を与えられて、自分たちのかつての行為(モーセ殺害)を否定するという反応を示した。そして、偉大なる父の存在を承認し続けるにとどまる。ユダヤの民は、モーセを殺害したことに後悔の念を抱いたために、モーセが救世主となってふたたび訪れ、ユダヤの民を救済し、約束していた世界征服を実現してくれるのではないかという願望空想が生まれることになったのではないか。
モーセが最初の救世主であったとすると、キリストがその代理として後継の救世主になったことになる。キリストは太古の群れにおける原父が復活した存在だったのであり、変容して父の地位についた息子である。
フロイトは、カントの啓蒙の理念に強い影響を受けているが、カントが願うように人間の完全な啓蒙が可能であるとは信じていない。啓蒙されるには人間はあまりにも破壊的である。人間を動物的な原始状態から訣別させたときに禁じられたインセスト、カニバリズム、殺人という根源的欲動がまだ生き延びている。幼児は成長の過程において超自我を形成することでこうした欲望を抑圧することを学ぶ。社会の中で欲動の充足を放棄して生きている人々にとって人生は辛いものであり、こうして文明人のうちにひそかに文化に対する敵意が生まれる。文化の側では人間の抵抗を抑えるためにいくつかの仕掛けを施すがそのうちの一つが宗教である。
人間は、最初に自然の害から防衛するために自然を擬人化する。アニミズムによって自然にも意志があると考える。寄る辺なき幼児が父親に感じる感覚に近い。そこから原初的信仰が生まれ、多神教にすすむ。科学が発達するにつれて神々の力は疑問視され、神々の果たす役割は自然から社会へと移行する。神々は自然の猛威から人間を守ってくれるのではなく、共同体において人間に道徳的に行動させるものだと考えられる。人間は死の恐怖から守られるために神に頼り、父親としての唯一神が登場する。このような神的な特性を凝縮させることに成功した民はその進歩に大いに誇りを持つ。西洋社会は、ユダヤの宗教を引き継ぐことで成立できた。キリスト教は文化のもっとも貴重な財産とみなされるようになる。
宗教は文化の貴重な財産であり、これは人間が自然と文化のもたらす苦しみから防衛するために採用した仕掛けである。しかし、宗教にはどうしても証明できないことや科学的視点からは信じがたいことがいくつもある、という難点がある。フロイトは、人間の最高の判断基準は理性であるとし、理性に背くことを人は信じることはできず、ゆえに宗教は、幼児の寄る辺なさが生んだ幻想であり、否定されるべきものである、とする。
みたいな話。
曰く・・・
人間の魂の発展の歴史は、外的な強制が次第に内面化されてきた歴史である。魂の特別な審級である超自我は、外的な強制をみずからの命令に転換し、これを引き受けるようになった。
宗教的教えを信じる根拠は、祖先が信じてきたから、先祖代々それを信じるべき証明が与えられてきたから、根拠を問うことはそもそも禁じられているから、というものであり驚くほど一貫性に欠けている。
宗教的教義は幻想である。だとすれば、生を支配する文化の別の財産も同じようなものなのではないか。たとえば、国家的機構を規制しているさまざまな前提も幻想なのではないか。科学的な研究活動における観察と思考によって外的な現実を認識することができるという確信もまた幻想よりも確実な根拠があるものなのだろうか。
精神分析は、神を否定し、道徳的な理想を否定するものである。
理神論は、理性によって神の啓示の基盤を明かすことができるという考え方であり、ロックに始まるイギリス経験論がその代表である。フロイトは、神の存在を否定せずに、理性を神の位置につけようとする(このような)試みはまやかしだと批判する立場(中山元)。
幸福の希求とは、強い快感を得たいと願い、苦痛と不快を避けたいと願うことである。苦痛は身体的感覚にすぎないから、器官に働きかける方法がそのひとつで代表が薬物中毒。欲動の満足は幸福をもたらすが、外界の状況によって欲動が妨げられると強い苦悩が生じるので、ヨガなどにより欲動を滅却させるというのもひとつの方法。あるいは、リビドーの目標をずらす方法もあり、たとえば、芸術や研究などの知的な仕事から生まれる快感によって欲動を満足させる(欲動の昇華)。あるいはいっそ外界の対象にしがみつきこの対象との感情的な結びつきから幸福を手に入れようとする、いわば、愛し愛されることで満足を得ようとする。美の享受による幸福追求もある。文化において美は不可欠であるが、美にどのような効用があるかはまだあまり解明されていない。
宗教は、人間が幸福を手にするための最善の方法をみずから選び調整するというゲームに干渉してくる。すべての人に同じ道を強制する。宗教は、人生の価値を貶め、現実世界のイメージを妄想によって歪めるが、これは人間の知性を脅しによって怯えさせることを前提としている。
人間以外の動物では、環境世界の影響とその動物のうちに働いていて克服する必要のある欲動とのあいだに、一時的に均衡が成立し、そこで発展が止まってしまったのかもしれない。一方、原初的な人間においては、リビドーの新たな刺激のために破壊欲動がふたたび作動し始めたのかもしれない。
文化は、攻撃欲を内側に向け、内面化し、自我に向けさせる。自我に向けられた攻撃欲は超自我として取り込まれ、これが「良心」となる。良心は、本来なら他の見知らぬ人に発揮したかったはずの強い攻撃性を自我に対して行使する。厳格な超自我と、超自我に支配された自我のあいだに緊張関係が発生し、これが「罪の意識」であり、自己懲罰欲求として表現される。こうして文化は個人の危険な攻撃欲求を弱め、武装解除する。
個人の発達プロセスは、自分の幸福を実現しようとする営み(利己的)と他人と結びついて共同体を作りだそうとする試み(利他的)という二つの努力が相互に干渉することによって生まれる。個人の発達において重視されるのは利己的な営みであり、文化的とよばれる別の営みは原則としてそれを制約する役割しか果たさない。一方、文化的プロセスでは、多数の個人からひとつのまとまった共同体を作りだすという目的が主要な役割を果たしている。幸福の実現という目的は背景に押しやられる。
ユダヤ人は、指導者モーセに反逆して、モーセを殺害し、彼によって強制されたアトン宗教を廃絶している(E・ゼリン)。エジプトから帰還したユダヤ人は、民族的に近い部族と合流し、カディシュにおいて、アラブ系ミディアン族の影響のもとで新しい宗教を受け容れ、火の神ヤハウェを崇拝するようになる。
ヤハウェの神はモーセの神とは似ても似つかない神だったと考えられる。アトン神はイクナトンと同じく平和を好む神であったが、新たな居住地を求めてカナンの地を暴力的に征服しようとする民にはヤハウェ神のほうがふさわしかった。ヤハウェ神はやがて本来の性格を失って、モーセの神アトンと似た性格の神になっていく。
ユダヤの民は、イエス殺害というモーセの教えを思い出させるような刺激を与えられて、自分たちのかつての行為(モーセ殺害)を否定するという反応を示した。そして、偉大なる父の存在を承認し続けるにとどまる。ユダヤの民は、モーセを殺害したことに後悔の念を抱いたために、モーセが救世主となってふたたび訪れ、ユダヤの民を救済し、約束していた世界征服を実現してくれるのではないかという願望空想が生まれることになったのではないか。
モーセが最初の救世主であったとすると、キリストがその代理として後継の救世主になったことになる。キリストは太古の群れにおける原父が復活した存在だったのであり、変容して父の地位についた息子である。
フロイトは、カントの啓蒙の理念に強い影響を受けているが、カントが願うように人間の完全な啓蒙が可能であるとは信じていない。啓蒙されるには人間はあまりにも破壊的である。人間を動物的な原始状態から訣別させたときに禁じられたインセスト、カニバリズム、殺人という根源的欲動がまだ生き延びている。幼児は成長の過程において超自我を形成することでこうした欲望を抑圧することを学ぶ。社会の中で欲動の充足を放棄して生きている人々にとって人生は辛いものであり、こうして文明人のうちにひそかに文化に対する敵意が生まれる。文化の側では人間の抵抗を抑えるためにいくつかの仕掛けを施すがそのうちの一つが宗教である。
人間は、最初に自然の害から防衛するために自然を擬人化する。アニミズムによって自然にも意志があると考える。寄る辺なき幼児が父親に感じる感覚に近い。そこから原初的信仰が生まれ、多神教にすすむ。科学が発達するにつれて神々の力は疑問視され、神々の果たす役割は自然から社会へと移行する。神々は自然の猛威から人間を守ってくれるのではなく、共同体において人間に道徳的に行動させるものだと考えられる。人間は死の恐怖から守られるために神に頼り、父親としての唯一神が登場する。このような神的な特性を凝縮させることに成功した民はその進歩に大いに誇りを持つ。西洋社会は、ユダヤの宗教を引き継ぐことで成立できた。キリスト教は文化のもっとも貴重な財産とみなされるようになる。
宗教は文化の貴重な財産であり、これは人間が自然と文化のもたらす苦しみから防衛するために採用した仕掛けである。しかし、宗教にはどうしても証明できないことや科学的視点からは信じがたいことがいくつもある、という難点がある。フロイトは、人間の最高の判断基準は理性であるとし、理性に背くことを人は信じることはできず、ゆえに宗教は、幼児の寄る辺なさが生んだ幻想であり、否定されるべきものである、とする。
みたいな話。
2015年7月19日に日本でレビュー済み
ISILは元より、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、互いにあるいは内部で果てしない宗教・宗派戦争を続けてきている。極端になると他は邪教と断罪し排除する。イエス・キリストも異端審問によって見出されたから、後にキリスト教、新約聖書が創られた。
一神教はその定義からいって正邪を切り裂く刃を胚胎している。救済と殺戮の諸刃をもたらす宗教。人類は宗教なしでやっていけないものか? と思った人に本書を勧める。
フロイトは、精神分析で神経症を治癒した経験と知見によって、人類から幻想(集団神経症)である宗教を取り除くことはできないかと考えた。
エロスとタナトス、エディプス・コンプレクス、個体発生と系統発生、モーセと一神教等々を駆使して論を進めるフロイト。
フロイトの著述スタイルは「精神分析学入門」と同じく、あらかじめ想定される反論を論駁していく。それは著述スタイルにととまらず、フロイトが精神分析は科学(当時の)であり、断固として厳密さを追求する思考スタイルを貫いたことの表れと考えられる。
フロイトに同意するかどうかは別として、読み進めれば次から次に意表を突かれる。フロイトはやっぱり面白い。
一神教はその定義からいって正邪を切り裂く刃を胚胎している。救済と殺戮の諸刃をもたらす宗教。人類は宗教なしでやっていけないものか? と思った人に本書を勧める。
フロイトは、精神分析で神経症を治癒した経験と知見によって、人類から幻想(集団神経症)である宗教を取り除くことはできないかと考えた。
エロスとタナトス、エディプス・コンプレクス、個体発生と系統発生、モーセと一神教等々を駆使して論を進めるフロイト。
フロイトの著述スタイルは「精神分析学入門」と同じく、あらかじめ想定される反論を論駁していく。それは著述スタイルにととまらず、フロイトが精神分析は科学(当時の)であり、断固として厳密さを追求する思考スタイルを貫いたことの表れと考えられる。
フロイトに同意するかどうかは別として、読み進めれば次から次に意表を突かれる。フロイトはやっぱり面白い。
2022年8月3日に日本でレビュー済み
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仕事を意義あるものと説明するとき、フロイトがしばしば引用される。「人を支えるのは愛と仕事」だけだと言ったというのだが、引用元が示されておらず疑問であった。やっと今回その引用元を発見した。
私の調べでは、本書に収録された二番目の論文「文化への不満(1930)」のp.196-7にある次の部分が、フロイトが愛と仕事に言及した部分と思われる。
「人類の共同生活を支える基盤は次の二つだったことになる。一つは外的な困窮をのりこえるために、労働を強制する必要が生じたことであり、もう一つは愛の力だった。....だから人類の文化の生みの親となったのは、エロス(愛)とアナンケー(運命/外的な必然性)だったのである。」とある。
フロイトもアリストテレスなどと同じく、仕事は労苦と考えていたようだ。決して愛と同列に扱ってはいないことが分かる。
本書はこの事実を知っただけで、非常に価値のあるものとなった。
私の調べでは、本書に収録された二番目の論文「文化への不満(1930)」のp.196-7にある次の部分が、フロイトが愛と仕事に言及した部分と思われる。
「人類の共同生活を支える基盤は次の二つだったことになる。一つは外的な困窮をのりこえるために、労働を強制する必要が生じたことであり、もう一つは愛の力だった。....だから人類の文化の生みの親となったのは、エロス(愛)とアナンケー(運命/外的な必然性)だったのである。」とある。
フロイトもアリストテレスなどと同じく、仕事は労苦と考えていたようだ。決して愛と同列に扱ってはいないことが分かる。
本書はこの事実を知っただけで、非常に価値のあるものとなった。