本訳書は、全7篇からなる『失われた時を求めて』の<第6篇>に当たる。
プルースト死後64年目の1986年、彼が最終的に手を入れた<第6篇>「消え去ったアルベルチーヌ」のタイプ原稿が発見された。
そこで翌87年、それがフランスのグラッセ書店から<第6篇の決定版>と銘打って刊行された。
その全訳が本書である。
じっさい、これまでの<第6篇>と較べると、文章に数々の異同があり、そうした個所については、ひとつひとつ、詳細な「註」が付されている。
……と書くと、<第6篇>に関しては、本訳書で読むのがいちばんいいように思われるが、じつは、そうもいかないのである。
1)鈴木道彦訳の集英社文庫版<第6篇>「逃げ去る女」でいえば、なんと151ページから426ページにいたるまでの300ページ近くが、ごっそりカットされているのだ。
2)したがって、恋人アルベルチーヌの突然の<死>の衝撃から主人公が癒えていく<忘却>の過程がすっぽり抜け落ちてしまった。
そのため、話がすんなり<第7篇>「見出された時」につづかない。
3)また集英社文庫版「逃げ去る女」でいえば、427ページ以降に関しても、かなりのカットが見られる。
あの感動的な、サン=マルコ寺院でのエピソードも脱落している。
鈴木道彦訳では、つぎのように記されている場面だ。
《喪服に身をくるんだ彼女は、頬を赤くし、悲しげな目つきで、黒いヴェールを垂らしている。何物も彼女をやわらかな光に照らされたサン=マルコ寺院から外へ連れだすことはできそうにない……今でもサン=マルコ寺院に行きさえすればかならず彼女に再会できるだろう。この婦人こそ私の母である》(集英社文庫版459ページ)
恋人アルベルチーヌの<死>を忘れるため、母とヴェネツィアへ行った主人公は、後にそういって(アルベルチーヌではなく)サン=マルコ寺院の母を想起する……あのシーンもカットされているのである。
以上のように、本訳書はこのままでは『失われた時を求めて』の<第6篇>として置くことはできない。
しかし、死を前にしたプルーストが最終的に手を入れた版である、という<事実>もまた動かせない。
では、本訳書をどう位置づけるべきか?
そもそも、<第5篇>「囚われの女」以降はプルーストの死後出版で、決定稿はないわけだから、異本(ヴァリアント)のひとつとして読めばいいのではないか。
幸い、もっか光文社古典新訳文庫版で『失われた時』の全訳に取り組んでいる高遠弘美氏(男性です)の訳文は、こなれていて読みやすい。
わたしは、本書をとても貴重な<プルースト関連資料>として読んだことを付記しておく。
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消え去ったアルベルチーヌ (光文社古典新訳文庫 Aフ 4-1) 文庫 – 2008/5/13
- 本の長さ388ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2008/5/13
- ISBN-104334751563
- ISBN-13978-4334751562
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登録情報
- 出版社 : 光文社 (2008/5/13)
- 発売日 : 2008/5/13
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 388ページ
- ISBN-10 : 4334751563
- ISBN-13 : 978-4334751562
- Amazon 売れ筋ランキング: - 331,808位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2012年7月11日に日本でレビュー済み
本書の出現はちょっとした事件でした。僕もアマゾンで待つ気にはなれず、発売日の昼休みに買いに走った書店で手にとり、スマッシュヒットだな、と胸の内で小さく喝采を叫んだのを覚えています。さらにそれから2年後に、本書が瓢箪から駒を出すことになったのか、全訳の刊行が始まるという驚きが待っていようとは。しかも岩波文庫の方でもほぼ同時期にやはり新訳による全訳がスタートするという話題性もありました。
怠け者のためどちらも手をつけかねているのですけど、とりあえず本書の「訳者あとがき」を読んで思ったことを。既訳の比較・批判を行っている部分。結果として意外にも一番古い生島遼一訳(新潮社版の分担訳)の文脈理解の的確さが示唆されています。また目を引くのは、生島訳が他と比べ日本語として際立ってこなれていること。辞書臭い書生部屋の中に立ち混じっている京風の女、とでもいった風情で、一人腰からいい匂いを放っているのです。直観的な物言いをするなら生島訳だけが唯一「小説の文体としてゆるされる」と感じられました。ちなみに当訳者の試訳も添えられておりますが、生島訳が鶏群の一鶴であることを一層印象付けるに終わっていると言ってしまっては失礼に当たるでしょうか。そもそも生島が54字で訳している箇所に93字もかかっていては…。もしこの調子ならば一読者としては今後全訳を読み進める際に困るかもしれません。
語学上の正確さと言葉の自然な流れ。前者については僕などでは評する資格が全くありません。が、後者についてなら多少の付言はゆるされるでしょうか。我が国を代表するプルースト学者による二通りの個人全訳がどちらも文庫化されて容易に近づけるようになっている現在では過去に置き忘れられた観のある、あの新潮社版のことです。
その当時の仏文学界において文人に近い器量のあった先生方が総力戦でかかり、初の全訳完成に漕ぎ着けたあの記念すべきヴァージョンを忘れてしまって、はやはりもったいない。底本が古い問題はあるものの、プルーストの書き出しは淀野隆三らのあの「超訳」以外にないだろうと内心思っている人は多いし、仏文畑の某批評家が口にしたように「イヴリン・ウォーが吉田健一でないとどうしようもないようにプルーストの邦訳も伊吹武彦でないと読んだ気になれない」という意見もある。広くはない書架に鎮座する新潮社版を眺めながら、それは所詮鴎外訳ファウストや逍遥訳沙翁ほどの文学遺産ではなかろうと思いながらも、いまだに片づけかねている読者がいる所以です。それは決して古い愛着ばかりではなかったのだろう…と「訳者あとがき」を読みながらひそかに我が意を得たりの気持ちになった次第。
学力もあり感受性も強そうな本訳者による全訳完成もまた強く強く祈念致します。翻訳者にとっても読者にとっても人生の一番大事な部分をあえて割くに値する(子育てや道ならぬ恋のように)文学作品なのですから。
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