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智天使の不思議 (光文社文庫 に 18-8) 文庫 – 2012/3/13
二階堂 黎人
(著)
- 本の長さ495ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2012/3/13
- ISBN-104334763839
- ISBN-13978-4334763831
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登録情報
- 出版社 : 光文社 (2012/3/13)
- 発売日 : 2012/3/13
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 495ページ
- ISBN-10 : 4334763839
- ISBN-13 : 978-4334763831
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,488,609位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 8,021位光文社文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2009年8月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
名探偵水乃サトルシリーズ初の倒叙推理で楽しみにしていたのですが、犯人の時代設定の背景はかなりのページを割いて説明しているのですが、対して、水乃サトルとの対決場面はあっけないと思うほど少なく、展開も犯行を正確に読者に提供している訳でもなければ水乃サトルと手に汗握る頭脳攻防をしているわけでもなく淡々とラストが訪れたような勿体なく感じた作品。水乃サトルも魅力あるキャラクターだけにかつての「刑事コロンボ」シリーズのような名犯人との知能戦を期待したのですが、それからすればいまいちの感が強い作品。次作に期待したいです。
2012年4月6日に日本でレビュー済み
ちょっと理解しがたいミステリである。
まずこれを言わないと以下の議論がすすまないので、最初にこの小説は叙述モノであることをばらしてしまうが、どうもこの作者は叙述トリックというものが理解できていないように思える。
具体的に言うと、一応はアリバイ崩しものといえるかもしれないこの小説において、作者は読者に対してこそ明確なアリバイの根拠を提示しているが、実際の小説の舞台においてそのアリバイは何ら意味のないものであって、警察の捜査陣が拘泥するべきものではまったくない、というようなことである。
と言ってもわかりにくいので、もう少し興味を削がぬ程度に、よくあるわかり易い例におきかえて説明すると、犯人が女性であることが明白な事件で、犯人である女性をあたかも男性であるように表記している叙述モノを想定して欲しい。この場合、その登場人物を男性だと思っているのは通常読者だけのはずなのに、警察もよくよく調べればその人物が女性であることはすぐに明白となるにもかかわらず、取るに足らない根拠からその人物を男性と確信して容疑の対象から外してしまっていた、という小説があったら読者はどう思うだろうか?この小説で用いられているトリックは、まさにそんなトリックなのである。
要するに、「作者として読者に対して仕掛けたトリック」と、「作中の犯人が警察側に対して仕掛けたトリック」が作者の中でごっちゃになってしまい、収拾がつかなくなっているといえば理解しやすいだろう。
ご興味のある向きにはぜひとも一読をおすすめしたい。
(2012/10/12追記)
我ながらよくわからない下手くそな説明だったのでもう少し実例に即してわかりやすく説明したいと思う。
冒頭の地の文で実際の犯行シーンが描かれる。そこに記載された背景表記から、読者は極めて限定された形で犯行時刻を推測できるようになっている。
ところが実際の犯行現場に残されているのは、「えっ?こんなことだけで犯行時刻決められるの?」というものだけ、そもそも発見された状況を考えれば科学的な犯行時刻の特定はどうやっても無理というもので、いかに「読者が推測した犯行時刻」に鉄壁のアリバイがあろうが、アリバイ自体がほとんど意味をなさないのではないか、という事態が展開されることになる。
この状況で「読者」が頭を悩ますのはまだわかるが、警察は地の文を読んでいないのだから、犯行時刻にこだわる理由があろうはずがない。
こんなものをアリバイトリック(または叙述トリック)と思っている作者の資質が疑われる、ということである。
なんとかお分かりいただけたろうか。
是非現物に当たって、この驚異を体現して欲しい。
まずこれを言わないと以下の議論がすすまないので、最初にこの小説は叙述モノであることをばらしてしまうが、どうもこの作者は叙述トリックというものが理解できていないように思える。
具体的に言うと、一応はアリバイ崩しものといえるかもしれないこの小説において、作者は読者に対してこそ明確なアリバイの根拠を提示しているが、実際の小説の舞台においてそのアリバイは何ら意味のないものであって、警察の捜査陣が拘泥するべきものではまったくない、というようなことである。
と言ってもわかりにくいので、もう少し興味を削がぬ程度に、よくあるわかり易い例におきかえて説明すると、犯人が女性であることが明白な事件で、犯人である女性をあたかも男性であるように表記している叙述モノを想定して欲しい。この場合、その登場人物を男性だと思っているのは通常読者だけのはずなのに、警察もよくよく調べればその人物が女性であることはすぐに明白となるにもかかわらず、取るに足らない根拠からその人物を男性と確信して容疑の対象から外してしまっていた、という小説があったら読者はどう思うだろうか?この小説で用いられているトリックは、まさにそんなトリックなのである。
要するに、「作者として読者に対して仕掛けたトリック」と、「作中の犯人が警察側に対して仕掛けたトリック」が作者の中でごっちゃになってしまい、収拾がつかなくなっているといえば理解しやすいだろう。
ご興味のある向きにはぜひとも一読をおすすめしたい。
(2012/10/12追記)
我ながらよくわからない下手くそな説明だったのでもう少し実例に即してわかりやすく説明したいと思う。
冒頭の地の文で実際の犯行シーンが描かれる。そこに記載された背景表記から、読者は極めて限定された形で犯行時刻を推測できるようになっている。
ところが実際の犯行現場に残されているのは、「えっ?こんなことだけで犯行時刻決められるの?」というものだけ、そもそも発見された状況を考えれば科学的な犯行時刻の特定はどうやっても無理というもので、いかに「読者が推測した犯行時刻」に鉄壁のアリバイがあろうが、アリバイ自体がほとんど意味をなさないのではないか、という事態が展開されることになる。
この状況で「読者」が頭を悩ますのはまだわかるが、警察は地の文を読んでいないのだから、犯行時刻にこだわる理由があろうはずがない。
こんなものをアリバイトリック(または叙述トリック)と思っている作者の資質が疑われる、ということである。
なんとかお分かりいただけたろうか。
是非現物に当たって、この驚異を体現して欲しい。
2013年4月11日に日本でレビュー済み
2009年に出た単行本の文庫化。
水乃サトルの学生時代シリーズの一冊。
第二次大戦期から現代までという非常に長い時間をかけて行われた犯罪を、サトルが解き明かしていく。しかし、サトルはむしろ付け足しといった感じで、犯罪を行った2人が主役となっている。
その二人の犯罪の見事さと周到さには感心させられる。倒叙トリックなのだが、そこにそもそも罠が仕掛けられており、奥の深いミステリであった。ただ、トリックのためのトリックといった印象もあり、あまり高く評価する気にはなれなかった。
水乃サトルの学生時代シリーズの一冊。
第二次大戦期から現代までという非常に長い時間をかけて行われた犯罪を、サトルが解き明かしていく。しかし、サトルはむしろ付け足しといった感じで、犯罪を行った2人が主役となっている。
その二人の犯罪の見事さと周到さには感心させられる。倒叙トリックなのだが、そこにそもそも罠が仕掛けられており、奥の深いミステリであった。ただ、トリックのためのトリックといった印象もあり、あまり高く評価する気にはなれなかった。
2012年3月25日に日本でレビュー済み
解説でも指摘されているように、本作は東野圭吾の某作に対する実作での回答といった体のものだ。
したがって、主役はサトルではなく天馬ルリ子である。
そしてこの天馬ルリ子の造形は、これも解説で指摘されているように、まさしくダークサイド蘭子だ。
そういう意味ではこのラストは当然の流れだといえるだろう。
ただし、人によって評価が極端に分かれる原因のひとつもまた、このラストと、さらには作品全体の何ともいえない熱にある。
そう、本作は妙な熱を帯びているのだ。
さて、私は本作を某作を読む以前と某作を読んだ後の都合二回読んだ。
そして気づいたことは、あの論争で二階堂氏が主張したかった「無償の愛」に対する考えである。
確かに本作のような設定なら、自然な流れであり、理解するのも無理ではない。
ただし無理ではないため、逆に少々安易な設定だと感じられてしまうことが、評価が低い原因のひとつかもしれない。
私は、某作を読む以前に本作を読んだときには、著者にしては情が入りすぎたミステリだと感じた。
しかし、その「情」こそが、著者が実作で主張したかったことだ、というのが、今回改めて読み直して分かった。
だからこその本作の設定であり、それを可能にするための主人公の造形なのだ。
確かに、ダークサイド蘭子でなければいけないし、そしてこの主人公は実に魅力的でもある。
本作が妙な熱を帯びている理由も、おそらくはそこにある。
今後、著者が本作のような熱を帯びたミステリを書くことは、おそらくはないだろう。
そういう意味では、本作は著者としては異色作といって良いのかもしれない。
しかし、こういうミステリを書けるということを実証して見せたことは、著者の今後の創作に何らかの良い影響を及ぼすかもしれない。
それは期待したい。
分からないひとの評価は低くても良い。
本作は熱い作品であり、分かる者にとっては、まちがいなく傑作である。
したがって、主役はサトルではなく天馬ルリ子である。
そしてこの天馬ルリ子の造形は、これも解説で指摘されているように、まさしくダークサイド蘭子だ。
そういう意味ではこのラストは当然の流れだといえるだろう。
ただし、人によって評価が極端に分かれる原因のひとつもまた、このラストと、さらには作品全体の何ともいえない熱にある。
そう、本作は妙な熱を帯びているのだ。
さて、私は本作を某作を読む以前と某作を読んだ後の都合二回読んだ。
そして気づいたことは、あの論争で二階堂氏が主張したかった「無償の愛」に対する考えである。
確かに本作のような設定なら、自然な流れであり、理解するのも無理ではない。
ただし無理ではないため、逆に少々安易な設定だと感じられてしまうことが、評価が低い原因のひとつかもしれない。
私は、某作を読む以前に本作を読んだときには、著者にしては情が入りすぎたミステリだと感じた。
しかし、その「情」こそが、著者が実作で主張したかったことだ、というのが、今回改めて読み直して分かった。
だからこその本作の設定であり、それを可能にするための主人公の造形なのだ。
確かに、ダークサイド蘭子でなければいけないし、そしてこの主人公は実に魅力的でもある。
本作が妙な熱を帯びている理由も、おそらくはそこにある。
今後、著者が本作のような熱を帯びたミステリを書くことは、おそらくはないだろう。
そういう意味では、本作は著者としては異色作といって良いのかもしれない。
しかし、こういうミステリを書けるということを実証して見せたことは、著者の今後の創作に何らかの良い影響を及ぼすかもしれない。
それは期待したい。
分からないひとの評価は低くても良い。
本作は熱い作品であり、分かる者にとっては、まちがいなく傑作である。
2009年10月11日に日本でレビュー済み
作家としての評価よりも、その言動が各方面に物議を醸しだしてしまう氏の新作。某直木賞受賞作に対するアンサーとして、書かれた作品だと聞いて、初めてこの作家の本を手に取った。で、一読しての感想は……酷いの一言。
と、〜した。という言い回しの多用。あの女の正体は、吸血鬼、悪魔の化身、冷血非道の魔女などという現代作家とは思えない表現の頻出。天馬ルミ子に代表される、脱力するしかないネーミングセンス。あくまで、謎を解く役回りでしかない探偵。浅はかな歴史観と、引き合いにだされた『春琴抄』などの文学に対する偏見に満ちた解釈など、数え上げればきりがない。あとに残るのは、ミステリマニアだけが喜びそうなトリックだけというていたらくだ。担当編集者はノーチェックなのだろうか。それとも、このクオリティで出版可能だと判断したのか。
何よりも、問題なのはこの作品が、前述の某作品へのある種の批評として書かれた節が強いということだ。作者はあの作品が、広範に渡って受け入れられた理由を、もういちど見直す必要がある。決してミステリ読者だけでなく、一般の読者層にも支持された理由を。推理小説と名がつく以上、「小説」部分があまりにもずさんであれば、どんな秀逸なトリックも活きてこない。そのことを作者にはどうしても伝えておきたい。
と、〜した。という言い回しの多用。あの女の正体は、吸血鬼、悪魔の化身、冷血非道の魔女などという現代作家とは思えない表現の頻出。天馬ルミ子に代表される、脱力するしかないネーミングセンス。あくまで、謎を解く役回りでしかない探偵。浅はかな歴史観と、引き合いにだされた『春琴抄』などの文学に対する偏見に満ちた解釈など、数え上げればきりがない。あとに残るのは、ミステリマニアだけが喜びそうなトリックだけというていたらくだ。担当編集者はノーチェックなのだろうか。それとも、このクオリティで出版可能だと判断したのか。
何よりも、問題なのはこの作品が、前述の某作品へのある種の批評として書かれた節が強いということだ。作者はあの作品が、広範に渡って受け入れられた理由を、もういちど見直す必要がある。決してミステリ読者だけでなく、一般の読者層にも支持された理由を。推理小説と名がつく以上、「小説」部分があまりにもずさんであれば、どんな秀逸なトリックも活きてこない。そのことを作者にはどうしても伝えておきたい。
2009年8月3日に日本でレビュー済み
大傑作です。
冒頭に「倒叙もの」の定義が掲げられていて、前半は犯人(従犯)の克明な犯行告白と警察の捜査が交互に描かれています。しかし、この作者がただの「倒叙もの」を書くはずがなく、その前半部に大きな欺瞞と仕掛けが施されていました。
後半は、名探偵水乃サトルと犯人(主犯)の対決となるわけで、構成も凝っており、謎解きの興味とスリルが同時に味わえます。壮大かつ鉄壁なアリバイ・トリックは、犯人たちの半生によって完成されるという凄まじい内容であり、心底驚かされました。なにしろ、犯人がトリックを構築していく過程がすっかり書かれているにもかかわらず、警察にも読者にも、それを解き明かすことができないという(絶対ありえないような)趣向になっているのですから。
結末で証される事件の真相は衝撃的で、その奥深い秘密はたった一言で暴かれます。再読すると、そのための証拠や伏線があちこちに鏤められていて、しかも、読者を誤導するための多くのダブル・ミーニングが、巧妙に用いられていることが発見できます。そういう意味では、作者の腕前を二重に楽しめる作品なのです。
悪魔的な犯罪者はこの作者の作品によく登場しますが、本作の主人公たる悪女ほど狡智に長けた人物はいなかったように思います。
冒頭に「倒叙もの」の定義が掲げられていて、前半は犯人(従犯)の克明な犯行告白と警察の捜査が交互に描かれています。しかし、この作者がただの「倒叙もの」を書くはずがなく、その前半部に大きな欺瞞と仕掛けが施されていました。
後半は、名探偵水乃サトルと犯人(主犯)の対決となるわけで、構成も凝っており、謎解きの興味とスリルが同時に味わえます。壮大かつ鉄壁なアリバイ・トリックは、犯人たちの半生によって完成されるという凄まじい内容であり、心底驚かされました。なにしろ、犯人がトリックを構築していく過程がすっかり書かれているにもかかわらず、警察にも読者にも、それを解き明かすことができないという(絶対ありえないような)趣向になっているのですから。
結末で証される事件の真相は衝撃的で、その奥深い秘密はたった一言で暴かれます。再読すると、そのための証拠や伏線があちこちに鏤められていて、しかも、読者を誤導するための多くのダブル・ミーニングが、巧妙に用いられていることが発見できます。そういう意味では、作者の腕前を二重に楽しめる作品なのです。
悪魔的な犯罪者はこの作者の作品によく登場しますが、本作の主人公たる悪女ほど狡智に長けた人物はいなかったように思います。