世俗化した日本の仏教にただ批判するわけでなく、そうなってしまった歴史的な事情に理解を示している姿勢に心の広さを感じます。
私にとって三国連太郎さんは、釣りバカのスーさんじゃなくて、子供のころ見た「はだしのゲン」実写版でお父さん役を演じていた俳優さん、という印象が強いです。国中が愛国と戦争拡大肯定の空気のなか、そんな日本の向かう方向に疑問を投げかけることを恐れないお父さん、近所からの嫌がらせから家族を守る強いお父さんを演じてました。
単なる当時の大人気な美男俳優というだけでなく、彼の戦争体験や俳優としてのキャリアが書かれた本にはついつい手が伸びてしまいます。私にとっての仏教は葬式とお盆のときだけ接する程度なので、この本に書かれている彼の考えを理解するのは簡単じゃないです。すんなり頭に入っていかない文が多いですね。じっくり読み返そうと思います。
教養の深さと波瀾な生き様には考えさせられます。稀有な俳優さんです。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
親鸞に至る道 (知恵の森文庫) 文庫 – 2010/3/20
三國 連太郎
(著)
自らの歩み来たった道をお伝えしながら、
親鸞や仏教のこと、
「差別」のことなどをお話しいたします----
(はしがきより抜粋)
親鸞や仏教のこと、
「差別」のことなどをお話しいたします----
(はしがきより抜粋)
「なによりも迷惑なことは、多くの人が親鸞聖人を、ただありがたい雲の上の人だと思っていることです。
これは親鸞をバカにして、らくな信心に安住するようなものではないでしょうか」
貧困と差別に翻弄された生い立ち、戦争体験、アフガニスタンへの放浪......。
日本を代表する名優が、自らの苦悩の人生と、
そのなかで打ち立てた独自の親鸞像を語る。
※本書は、光文社カッパ・ブックス1984年刊『わが煩脳の火はもえて 親鸞にいたる道』(のち光文社文庫1987年刊『親鸞に至る道』)を、
加筆修正して文庫化したものです。
- 本の長さ273ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2010/3/20
- ISBN-104334785514
- ISBN-13978-4334785512
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 光文社 (2010/3/20)
- 発売日 : 2010/3/20
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 273ページ
- ISBN-10 : 4334785514
- ISBN-13 : 978-4334785512
- Amazon 売れ筋ランキング: - 663,286位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.3つ
5つのうち4.3つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
4グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2020年4月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者の高潔さ、気高さ、峻烈さは、アニメ映画「もののけ姫」の登場人物であるアシタカにたとえられると感じました。アニメ「もののけ姫」のタイトルはプロデューサーが名付けたもので、宮崎駿監督が当初想定していたタイトルは「アシタカせっ記」でした。「せつ(旧字体くさかんむりの下に耳が2つ並ぶ)」は宮崎駿が造った漢字で、アシタカせっ記とはアシタカ英雄譚くらいの意味合いです。本書は、俳優とキャストとが重なり合う三國連太郎=アシタカの、魂の放浪記です。
映画もののけ姫の冒頭、アシタカはとある事件に巻き込まれ呪いを己が身に受け村を追放されます。追放の際に村の相談役から「くもりなきまなこ」で事の次第を見定めるよう告げられます。アシタカ=三國連太郎の持つ「くもりなきまなこ」とはどのような視線でしょうか。それは、感情を除して理性により自分自身をもって是非を吟味し続ける視線であり、これは仏教開祖ゴータマ・ブッダが仏教徒に求める視線でもあります。
著者が「くもりなきまなこ」で見据えるのは「差別」であり「戦争」であり「日本仏教」であり「政治権力」であり、そして「自分自身」です。「自己の意思を持って欲するところ何事もこれをはばむことはできない」人間の自由が蹂躙されている有様を見出し、これを決して許しません。昔からこのようであったから、というなあなあの空気すらはねのけるのです。世間体やら場の空気という宗教の信者にあふれた我が国で、さぞかし生きづらかったであろうと察します。
著者の「くもりなきまなこ」は「自分自身」をも容赦なく見つめます。その視線があまりにストイックであるがゆえに自分を認められず欺瞞への度し難さが限界に達した時に、著者は映画の撮影にかこつけて9人のスタッフとともにアフガニスタンに向かいます。出発前に離婚して妻子に財産を分与したとありますから、「奥の細道」の序文のような、おそらく自殺を念頭に置いた旅路であったと思われます。しかし結局自殺することなく、その後の人生のヒントとなる仏教との邂逅を経て著者は帰国します。
このエピソードは回心とは全く別物です。超自然的な物語でいきなり自分が変わるのではなく、帰国後に仏教、特に鎌倉仏教について理性的合理的な文献の検討を積み重ね、自分が納得できる生き方を探し続け、ついに浄土真宗開祖である親鸞聖人を見出します。
ただし著者の浄土真宗へのアプローチは独特です。「親鸞さん」という呼び方や本書タイトル「親鸞に至る道」からも明らかなように、自分と同じ苦しみとその解決に人生を費やした兄弟子くらいの距離感で親鸞聖人を認識していると思われます。また、浄土真宗といえば南無阿弥陀仏による救済ですが、ここはかなり距離を置いています。著者自身の苦しみ、すなわちかき抱きたくなるような肉欲、差別からの全ての人間の開放、差別を利用する権力への対峙などについて親鸞聖人に共感しており、聖人を雲の上の存在ではなくひとりの人間としてその生き様を尊敬し自らもそうありたいと努力する著者の姿が浮かんできます。これはゴータマ・ブッダが仏教徒に求めたアプローチとも言えると思います。崇拝でなく1人の先達として開祖を見る姿勢です。
映画「もののけ姫」においてアシタカは最終的に呪いを消すことができました。ある意味で救われたと言えますし「アシタカせっ記」はここで完結します。対して三國連太郎はどうだったのでしょう?本書中に「たとえどのような場に臨んでみましても、私は『南無阿弥陀仏』と口から出たことはないのです。しかしいつか口をついて出るようになりたいと切実に思います」とあります。また、来歴を見ると著者が後年、紫綬褒章と勲四等旭日小綬章を受章したとあります。差別の構造を筆者の目線で考えた時、天皇の存在は切っても切り離せないものです。どのような思いで受章したのでしょうか。
アシタカと著者はここで切り離されます。アシタカはフィクションの住人でありエンディングとともに存在は完結します。だから救われていても別にいいのです。しかし、三國連太郎というリアルを生き続ける仏教者にとっては、救われるだの希望だのはそんなに大ごとではないし、そこに囚われていてはいけないものです。著者は既に故人ですが、結局その生涯が幸せだったかどうかなんて考える必要はないと思います。
宗派は違えど私もまたひとりの仏教者として、著者が本書にて示した姿勢や思索を学ばせていただきました。ゴータマ・ブッダも親鸞聖人も三國連太郎も、みんなすごい先輩です。何とかっこいい背中でしょうか。
映画もののけ姫の冒頭、アシタカはとある事件に巻き込まれ呪いを己が身に受け村を追放されます。追放の際に村の相談役から「くもりなきまなこ」で事の次第を見定めるよう告げられます。アシタカ=三國連太郎の持つ「くもりなきまなこ」とはどのような視線でしょうか。それは、感情を除して理性により自分自身をもって是非を吟味し続ける視線であり、これは仏教開祖ゴータマ・ブッダが仏教徒に求める視線でもあります。
著者が「くもりなきまなこ」で見据えるのは「差別」であり「戦争」であり「日本仏教」であり「政治権力」であり、そして「自分自身」です。「自己の意思を持って欲するところ何事もこれをはばむことはできない」人間の自由が蹂躙されている有様を見出し、これを決して許しません。昔からこのようであったから、というなあなあの空気すらはねのけるのです。世間体やら場の空気という宗教の信者にあふれた我が国で、さぞかし生きづらかったであろうと察します。
著者の「くもりなきまなこ」は「自分自身」をも容赦なく見つめます。その視線があまりにストイックであるがゆえに自分を認められず欺瞞への度し難さが限界に達した時に、著者は映画の撮影にかこつけて9人のスタッフとともにアフガニスタンに向かいます。出発前に離婚して妻子に財産を分与したとありますから、「奥の細道」の序文のような、おそらく自殺を念頭に置いた旅路であったと思われます。しかし結局自殺することなく、その後の人生のヒントとなる仏教との邂逅を経て著者は帰国します。
このエピソードは回心とは全く別物です。超自然的な物語でいきなり自分が変わるのではなく、帰国後に仏教、特に鎌倉仏教について理性的合理的な文献の検討を積み重ね、自分が納得できる生き方を探し続け、ついに浄土真宗開祖である親鸞聖人を見出します。
ただし著者の浄土真宗へのアプローチは独特です。「親鸞さん」という呼び方や本書タイトル「親鸞に至る道」からも明らかなように、自分と同じ苦しみとその解決に人生を費やした兄弟子くらいの距離感で親鸞聖人を認識していると思われます。また、浄土真宗といえば南無阿弥陀仏による救済ですが、ここはかなり距離を置いています。著者自身の苦しみ、すなわちかき抱きたくなるような肉欲、差別からの全ての人間の開放、差別を利用する権力への対峙などについて親鸞聖人に共感しており、聖人を雲の上の存在ではなくひとりの人間としてその生き様を尊敬し自らもそうありたいと努力する著者の姿が浮かんできます。これはゴータマ・ブッダが仏教徒に求めたアプローチとも言えると思います。崇拝でなく1人の先達として開祖を見る姿勢です。
映画「もののけ姫」においてアシタカは最終的に呪いを消すことができました。ある意味で救われたと言えますし「アシタカせっ記」はここで完結します。対して三國連太郎はどうだったのでしょう?本書中に「たとえどのような場に臨んでみましても、私は『南無阿弥陀仏』と口から出たことはないのです。しかしいつか口をついて出るようになりたいと切実に思います」とあります。また、来歴を見ると著者が後年、紫綬褒章と勲四等旭日小綬章を受章したとあります。差別の構造を筆者の目線で考えた時、天皇の存在は切っても切り離せないものです。どのような思いで受章したのでしょうか。
アシタカと著者はここで切り離されます。アシタカはフィクションの住人でありエンディングとともに存在は完結します。だから救われていても別にいいのです。しかし、三國連太郎というリアルを生き続ける仏教者にとっては、救われるだの希望だのはそんなに大ごとではないし、そこに囚われていてはいけないものです。著者は既に故人ですが、結局その生涯が幸せだったかどうかなんて考える必要はないと思います。
宗派は違えど私もまたひとりの仏教者として、著者が本書にて示した姿勢や思索を学ばせていただきました。ゴータマ・ブッダも親鸞聖人も三國連太郎も、みんなすごい先輩です。何とかっこいい背中でしょうか。