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なにもない旅なにもしない旅 (知恵の森文庫 t あ 4-2) 文庫 – 2010/9/9
雨宮 処凛
(著)
- 本の長さ222ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2010/9/9
- ISBN-104334785646
- ISBN-13978-4334785642
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商品の説明
出版社からのコメント
◎観光地も訪ねず、心温まる交流もなく、ひたすら「なにもなさ」に打ちのめされる旅......。現代版『貧困旅行記』。
◎知らない町に迷い込み、貧乏臭い宿に泊まり、温泉に入ってビールを飲めばあとはすることもなく、うら淋しい気持ちになる。そんな旅を私は愛してやまない----寸又峡温泉、高知、韓国、立石、亀戸、川崎、鶴見、草加、御徒町、湯西川温泉、三浦半島、苫小牧、木更津、網代鉱泉、阿字ヶ浦など、「つげ度」の高い場所を求めてのしみじみ脱力紀行。
【著者紹介】
雨宮処凛(あまみやかりん)
1975年、北海道生まれ。作家、プレカリアート活動家。『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)で日本ジャーナリスト会議賞受賞。他に『生き地獄天国』(ちくま文庫)、『「生きづらさ」について』(共著、光文社新書)、『アトピーの女王』(光文社知恵の森文庫)など著書多数。
登録情報
- 出版社 : 光文社 (2010/9/9)
- 発売日 : 2010/9/9
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 222ページ
- ISBN-10 : 4334785646
- ISBN-13 : 978-4334785642
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,214,368位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年10月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
そうか〜旅行の新しい見方やな〜ツアーではくめないな〜僕の街にも来てほしい。
2010年9月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
プレカリアート活動家の雨宮氏が小説宝石で連載した
脱力系旅日記を収載したもの。
「昔から寂れた場所が好きだった。」
「私、なにやっているんだろ?
としみじみ後悔することが目的の旅」
と語る著者。
こんな世界が本当にあるの?と思える旅行記。
抱腹絶倒とはならないが、なかなかシュールで
この世の中の成り立ちに関して考察するのには
なかなかいい線をついているかもしれない。
苫小牧編で出たラーメン屋「なかよし」には
苫小牧で勤務していた時に、仕事帰りや
飲んだ帰りによく行ったと記憶していて、
懐かしかったです。
貧乏旅行と銘打っていますが、
このどうしようも無い旅にかけたお金を考えると
確かに贅沢な旅行ではありませんが、
必ずしも貧乏旅行とは言えないと思います。
本著を読めば、失敗した旅行も見方によっては
味わい深いものになるかと思います。
脱力系旅日記を収載したもの。
「昔から寂れた場所が好きだった。」
「私、なにやっているんだろ?
としみじみ後悔することが目的の旅」
と語る著者。
こんな世界が本当にあるの?と思える旅行記。
抱腹絶倒とはならないが、なかなかシュールで
この世の中の成り立ちに関して考察するのには
なかなかいい線をついているかもしれない。
苫小牧編で出たラーメン屋「なかよし」には
苫小牧で勤務していた時に、仕事帰りや
飲んだ帰りによく行ったと記憶していて、
懐かしかったです。
貧乏旅行と銘打っていますが、
このどうしようも無い旅にかけたお金を考えると
確かに贅沢な旅行ではありませんが、
必ずしも貧乏旅行とは言えないと思います。
本著を読めば、失敗した旅行も見方によっては
味わい深いものになるかと思います。
2010年12月20日に日本でレビュー済み
食べ放題ツアーに群がるおばさんを哀れむのは簡単だし、
田舎の間が抜けた宿や商店に呆れて見せるのも簡単。
確かに、その手の知恵の足りない、どこかずれた人たちというのは
日本全国にいるもので、突っ込み所は満載だし、「ネタ」にも困らないだろう。
そう。
著者の言う「なにもない旅」には、私にはどこか、
「ネタ探し」のビジネスのにおいがして、
(著者の「ビジネス」とはもちろん「一篇の読み物を書くこと」である)
少し不純に思えた。
嫌で嫌で仕方ないんだけど、なぜかどうしようもなく惹かれて
「やるせない境遇」に追い込まれてしまう…わけではなく、
自分から進んで、ネタ拾いのために、「おいしい境遇」に自分を持って行く。
そういう感じが。
著者がたびたび言及しているつげ義春との決定的な違いがそこにあると思う。
つげは不遇に巻き込まれたときは、境遇に責めを帰すよりも先にまず、
自分の内面と向き合っていたように思う。「あー、何やっちゃってんだろ、俺」と。
それに比べると、雨宮の批評や冷笑の眼差しは、いたって常識的な「客人」の
それであって、結局のところ彼女は、いい思い出は南欧のビーチリゾートにあるわけだし、
温泉は風情のあるちゃんとした設備のところで入りたいわけだし、
港町に行けば美味しい魚が食べたいわけだ。
本当はいたって「普通の」旅の趣味の持ち主だと思う。
同行者が常にいるのも邪道。
惨めさに直面しても話し相手と共有しちゃえば紛れちゃうわけだから。
「なにもない、なにもしない」と言うからには、もっと突き抜けた自虐性が必要だと思う。
そこから生まれるペーソスとユーモアこそを読みたかった。
田舎の間が抜けた宿や商店に呆れて見せるのも簡単。
確かに、その手の知恵の足りない、どこかずれた人たちというのは
日本全国にいるもので、突っ込み所は満載だし、「ネタ」にも困らないだろう。
そう。
著者の言う「なにもない旅」には、私にはどこか、
「ネタ探し」のビジネスのにおいがして、
(著者の「ビジネス」とはもちろん「一篇の読み物を書くこと」である)
少し不純に思えた。
嫌で嫌で仕方ないんだけど、なぜかどうしようもなく惹かれて
「やるせない境遇」に追い込まれてしまう…わけではなく、
自分から進んで、ネタ拾いのために、「おいしい境遇」に自分を持って行く。
そういう感じが。
著者がたびたび言及しているつげ義春との決定的な違いがそこにあると思う。
つげは不遇に巻き込まれたときは、境遇に責めを帰すよりも先にまず、
自分の内面と向き合っていたように思う。「あー、何やっちゃってんだろ、俺」と。
それに比べると、雨宮の批評や冷笑の眼差しは、いたって常識的な「客人」の
それであって、結局のところ彼女は、いい思い出は南欧のビーチリゾートにあるわけだし、
温泉は風情のあるちゃんとした設備のところで入りたいわけだし、
港町に行けば美味しい魚が食べたいわけだ。
本当はいたって「普通の」旅の趣味の持ち主だと思う。
同行者が常にいるのも邪道。
惨めさに直面しても話し相手と共有しちゃえば紛れちゃうわけだから。
「なにもない、なにもしない」と言うからには、もっと突き抜けた自虐性が必要だと思う。
そこから生まれるペーソスとユーモアこそを読みたかった。
2013年5月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
文章が読みやすい。抑揚があるってゆうか、リズム感があるっていうか。
内容もなにもないってわけではないけど、目の付け所がよくて色々ツッコミを入れているところが笑えた。
ただ、中身の軽い本なので何度も読んで味わうような本ではない、と思う。
つげ義春の貧困旅行記を意識しているらしいが、こっちの方が読みやすいし面白いと思う。
内容もなにもないってわけではないけど、目の付け所がよくて色々ツッコミを入れているところが笑えた。
ただ、中身の軽い本なので何度も読んで味わうような本ではない、と思う。
つげ義春の貧困旅行記を意識しているらしいが、こっちの方が読みやすいし面白いと思う。
2013年11月11日に日本でレビュー済み
わざわざつまらない旅をセレクトして、つまらなさを味わう旅。
自分は逆と言ったらなんだが、歳を取れば取るほど、どんな場所に行ってもおもしろさを感じるようになった。
雨宮さんの年齢になる10歳以上前から、街を見るとなんでも面白さを見いだせるようになった。
例えば、原宿駅を降りて裏通りを歩いて、築30年以上のボロビルを見て、たまらなくおもしろい。
街歩きや旅行は、つまるところ自分と向き合ってしまうのである。
悲壮感に浸かりたい人生を送っていると、足元の面白さをを見いだせずに、
つまなさばかりがどんどん湧き出てくるものなんだろう。
自分も20歳ごろはそんな感じだった。
私は雨宮さんと大して歳が変わらないんだけど、どうしてこんなに差が出てくるんだろうって思う。
国会議事堂には自分も行ったことがある。ほんとにおもしろかった。
ちなみに若手は私たちだけだった。雨宮さんと同じように天皇陛下がらみの説明を受け、
施設の説明を受け、どれもおもしろかった。おもしろいから記憶も外さない。
ちなみに国会議事堂を見学できるのは『参議院』である。
雨宮さんも案内人から、議場の奥が天皇陛下が座る場所の説明を聞いていて、その写真まで載せている。
その場所、天皇陛下が来るのは『参議院』
雨宮さんは『衆議院』と何度も何度も書いているけど、興味がないとこういうことになるというのかな。
じつはこの本でおもしろかったのはこういう部分で、雨宮さんって、社会に異議を申すみたいなポジションの人に見えるけど、
その場合、異議を立てる先って具体的には政府機構とかになる。
そうするとケンカを売る相手の組織の手の内は必須知識なんじゃないかと思ったりする。
湯浅さんのように、内閣府の参与に誘われたとき、そのシステムのなかで何が可能なのか、いったいどういう組織になっているのか、組織の弱点はどこか、そういうことを知らないとケンカ売れないじゃん、門前払いになっちゃうよって思う。
でもそれを変えた方がいいとかそういうことは自分は思わなくて、その永遠に地団駄を踏みつづける姿がまた熱くていいなと思わせるところがある。
熱い人って、えてして世の中の複雑な部分には手を突っ込まないことで熱さを維持しているということもあるから。
本じたいがつまらなくはなかったんだよ。これは『文学としてアリだ』と思うから。
暗い文学って定番中の定番で、雨宮キャラをノベル風に仕立てて、どんな町を見ても同じに見えてしまう『目を失った少女』っていう感じで共感できるから。
河の上流(行政)と下流(庶民)があるとすると、上流ばかりを直せっていうのがよくある思考で、
実は、下流はそのまま上流へとつながっている『流れるプール構造』だとすると、
下流の庶民で衆愚になっていれば、当然、上流も衆愚に合わせた対応になっていく(福沢諭吉が似たようなことを言ってるんだけど)。
下流にいる、つまらなさに浸っている人間をなんとか面白さを感じる人間に育て直せれば、それに上流が対応していく。
ちなみに自分は建築土木屋なのだが、日本のどんなつまらない場所に行っても、
つまらない電柱やつまらない舗装道路やつまらない建物を見ても、
どんな技術者や職人が関わって出来たのかを想像してしまう。
ドブを見てもそう思う。一切のものが血の通ってない無機物には見えない。
世の中が暖かく見えるか冷たく見えるかは、そういった想像の産物で、
自分の想像力を育てようとしないと、なんでもつまらなく感じてしまうんじゃないだろうか。
鉄道ファンの人が見る列車は、鉄の無機物ではないと思うんだな。
鉄道技術者の汗の結晶のように見えて生き物同然に愛せるモノなんだろう。
自分は逆と言ったらなんだが、歳を取れば取るほど、どんな場所に行ってもおもしろさを感じるようになった。
雨宮さんの年齢になる10歳以上前から、街を見るとなんでも面白さを見いだせるようになった。
例えば、原宿駅を降りて裏通りを歩いて、築30年以上のボロビルを見て、たまらなくおもしろい。
街歩きや旅行は、つまるところ自分と向き合ってしまうのである。
悲壮感に浸かりたい人生を送っていると、足元の面白さをを見いだせずに、
つまなさばかりがどんどん湧き出てくるものなんだろう。
自分も20歳ごろはそんな感じだった。
私は雨宮さんと大して歳が変わらないんだけど、どうしてこんなに差が出てくるんだろうって思う。
国会議事堂には自分も行ったことがある。ほんとにおもしろかった。
ちなみに若手は私たちだけだった。雨宮さんと同じように天皇陛下がらみの説明を受け、
施設の説明を受け、どれもおもしろかった。おもしろいから記憶も外さない。
ちなみに国会議事堂を見学できるのは『参議院』である。
雨宮さんも案内人から、議場の奥が天皇陛下が座る場所の説明を聞いていて、その写真まで載せている。
その場所、天皇陛下が来るのは『参議院』
雨宮さんは『衆議院』と何度も何度も書いているけど、興味がないとこういうことになるというのかな。
じつはこの本でおもしろかったのはこういう部分で、雨宮さんって、社会に異議を申すみたいなポジションの人に見えるけど、
その場合、異議を立てる先って具体的には政府機構とかになる。
そうするとケンカを売る相手の組織の手の内は必須知識なんじゃないかと思ったりする。
湯浅さんのように、内閣府の参与に誘われたとき、そのシステムのなかで何が可能なのか、いったいどういう組織になっているのか、組織の弱点はどこか、そういうことを知らないとケンカ売れないじゃん、門前払いになっちゃうよって思う。
でもそれを変えた方がいいとかそういうことは自分は思わなくて、その永遠に地団駄を踏みつづける姿がまた熱くていいなと思わせるところがある。
熱い人って、えてして世の中の複雑な部分には手を突っ込まないことで熱さを維持しているということもあるから。
本じたいがつまらなくはなかったんだよ。これは『文学としてアリだ』と思うから。
暗い文学って定番中の定番で、雨宮キャラをノベル風に仕立てて、どんな町を見ても同じに見えてしまう『目を失った少女』っていう感じで共感できるから。
河の上流(行政)と下流(庶民)があるとすると、上流ばかりを直せっていうのがよくある思考で、
実は、下流はそのまま上流へとつながっている『流れるプール構造』だとすると、
下流の庶民で衆愚になっていれば、当然、上流も衆愚に合わせた対応になっていく(福沢諭吉が似たようなことを言ってるんだけど)。
下流にいる、つまらなさに浸っている人間をなんとか面白さを感じる人間に育て直せれば、それに上流が対応していく。
ちなみに自分は建築土木屋なのだが、日本のどんなつまらない場所に行っても、
つまらない電柱やつまらない舗装道路やつまらない建物を見ても、
どんな技術者や職人が関わって出来たのかを想像してしまう。
ドブを見てもそう思う。一切のものが血の通ってない無機物には見えない。
世の中が暖かく見えるか冷たく見えるかは、そういった想像の産物で、
自分の想像力を育てようとしないと、なんでもつまらなく感じてしまうんじゃないだろうか。
鉄道ファンの人が見る列車は、鉄の無機物ではないと思うんだな。
鉄道技術者の汗の結晶のように見えて生き物同然に愛せるモノなんだろう。
2015年9月14日に日本でレビュー済み
もともと『小説宝石』に2009-10年に連載されたもの。寸又峡温泉、高知、韓国、国会議事堂、木更津、阿字ヶ浦などへの12回の旅が語られている。
しかし、ふつうの旅行記ではない。つまらない旅だったり、ひどい旅館だったり、いやな思い出がよみがえってきたり、食べものが美味しくなかったり。あえてそういうところを選んでいるふしがある。
ところが、最初は読んでいて憂鬱なのだが、次第におもしろくなってくるのだ。ブラックユーモアというか、逆に楽しみになるというか。
こういう旅行もいいな(本で読む分には)。
しかし、ふつうの旅行記ではない。つまらない旅だったり、ひどい旅館だったり、いやな思い出がよみがえってきたり、食べものが美味しくなかったり。あえてそういうところを選んでいるふしがある。
ところが、最初は読んでいて憂鬱なのだが、次第におもしろくなってくるのだ。ブラックユーモアというか、逆に楽しみになるというか。
こういう旅行もいいな(本で読む分には)。
2012年3月29日に日本でレビュー済み
最近、雨宮処凛さんの本を読み始めた中で、手軽に購入した1冊です。
旅、といっても普通の楽しみ方と違い、敢えて
「普通なら行こうとしない」
ような場所にふらりと立ち寄ります。
韓国のように海外に行くかと思えば、国会議事堂のツアーに参加したり。
その中には、そこそこ楽しめそうなものもありますが…
全般的にはタイトル通り「なにもない」状態。
しかし、その中には
「日本にはまだこんなところが残っていたのか!」
と思うような発見(でも、あまり嬉しくは無い)があり、そして社会風刺のエッセンスも詰まっています。
めちゃくちゃ面白いかというとそうでもありませんが、後でじっくりと読み返すと、違った発見があるかもしれない、そんな一冊です。
旅、といっても普通の楽しみ方と違い、敢えて
「普通なら行こうとしない」
ような場所にふらりと立ち寄ります。
韓国のように海外に行くかと思えば、国会議事堂のツアーに参加したり。
その中には、そこそこ楽しめそうなものもありますが…
全般的にはタイトル通り「なにもない」状態。
しかし、その中には
「日本にはまだこんなところが残っていたのか!」
と思うような発見(でも、あまり嬉しくは無い)があり、そして社会風刺のエッセンスも詰まっています。
めちゃくちゃ面白いかというとそうでもありませんが、後でじっくりと読み返すと、違った発見があるかもしれない、そんな一冊です。
2015年9月26日に日本でレビュー済み
面白く読んだ。
20年ほど前だろうか、仕事の関係で日本の様々なところへ行った。当時の年齢を考えると、本書を書いた著者と同じぐらいの年齢だ。
驚くのは、私が目にした風景と著者が本書で描いた風景に、大きな差異を見つけにくいことである。ディズニーランドやアウトレットなどの大型レジャー施設などは別にして、以前からある温泉街や観光施設、また開発から取り残された街は、お土産屋にしても酒場などの遊興施設にも変化を感じにくい。
「国会議事堂」に出てくるオバサン、「立石・亀戸・川崎・鶴見」に出てくるオッサンたちなども同じである。この「オバサン」たちと同じようなタイプの人たちを、かつて“オバタリアン”と呼び、非難していた人がいたことを1975年生まれの著者が全く知らないとは考えられないので(同名のマンガ作品は1988年から1998年まで連載されている)、深読みかもしれないが、その変わらなさを浮き彫りにしたかったのではと思いたくなる。
こうしたオバサン、オッサンをテレビで見たときに顔をしかめる人は珍しくない。廃れたような観光地に来てしまった時に残念さを抱くことも少なくない。ただ、それを本書のように活字にされると、自分がそうした気持を持つをことを認めたくないと思っている人に、ある種の苦さを突き付けてくるのも狙いではとも思えてくる。
2020年代の半ばぐらいに著者に同じ場所に出向いてもらって、そのことを書いてもらうのも一興かもしれない。
20年ほど前だろうか、仕事の関係で日本の様々なところへ行った。当時の年齢を考えると、本書を書いた著者と同じぐらいの年齢だ。
驚くのは、私が目にした風景と著者が本書で描いた風景に、大きな差異を見つけにくいことである。ディズニーランドやアウトレットなどの大型レジャー施設などは別にして、以前からある温泉街や観光施設、また開発から取り残された街は、お土産屋にしても酒場などの遊興施設にも変化を感じにくい。
「国会議事堂」に出てくるオバサン、「立石・亀戸・川崎・鶴見」に出てくるオッサンたちなども同じである。この「オバサン」たちと同じようなタイプの人たちを、かつて“オバタリアン”と呼び、非難していた人がいたことを1975年生まれの著者が全く知らないとは考えられないので(同名のマンガ作品は1988年から1998年まで連載されている)、深読みかもしれないが、その変わらなさを浮き彫りにしたかったのではと思いたくなる。
こうしたオバサン、オッサンをテレビで見たときに顔をしかめる人は珍しくない。廃れたような観光地に来てしまった時に残念さを抱くことも少なくない。ただ、それを本書のように活字にされると、自分がそうした気持を持つをことを認めたくないと思っている人に、ある種の苦さを突き付けてくるのも狙いではとも思えてくる。
2020年代の半ばぐらいに著者に同じ場所に出向いてもらって、そのことを書いてもらうのも一興かもしれない。