何なんでしょう。この展開は!なんでこうなるの!
どの短編も,所謂普通の小説ではありません。
例えば,レイモンド・カーヴァー的な雰囲気が漂う夫婦の何気ない会話で始まる「真夜中の客」では,ページをめくるや,突然,小説はとんでもなくスプラッターな展開となっている。
森の夜,中学のサークル仲間が引率の中学教師と共にたき火を囲みながら,将来の不安や満天の夜空にきらめく星座の名前を当てっこし,ああ,何だかいい感じだな,と思いながら読み進めていくと,突然仰け反ってしまうようなスカトロジーな展開となる「セルゲイ・アンドレーエヴィチ」。
閉ざされた雪山の山小屋で,採取した珍しい鉱物を捨ててまで雪崩の危険がある地域にいる仲間たちを助けに行くべきか話し合っている「地質学者たち」では,最終的にある解決法が提示されるが,その解決法たるや,一瞬あっけにとられ,その後大爆笑である。
このような小説の手法に慣れてくると,次の短編に移ると,さあそろそろ来るぞ,来るぞ,そら来た!と,日常的な場面の描写や会話が崩壊する瞬間が今か今かと楽しみになって読んでいる自分に気づく。
ところが,作者はそれに飽きたらず,読者の期待さえも裏切ってしまうかのように,文体自らを破壊させてしまう短編がいくつか含まれる。
この文体が崩壊していく短編は,ちょっとこれはやり過ぎじゃないのと思ってしまうほどのラディカルさ(はっきり言っていくつも読むのは辛い)である。
確かにそういった短編も含まれるが,上記に例示した作品以外にも「シーズンの始まり」「弔辞」「樫の実渓谷」といった読みやすい(それでも当然呆気にとられるような展開)の作品がいくつも含まれているので,一度読んでみてはいかがでしょうか。
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愛 (文学の冒険シリーズ) 単行本 – 1999/1/1
ウラジーミル ソローキン
(著),
亀山 郁夫
(翻訳)
- 本の長さ297ページ
- 言語日本語
- 出版社国書刊行会
- 発売日1999/1/1
- ISBN-104336039607
- ISBN-13978-4336039606
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
愛の物語を一切省き突然の狂気へと読者を引きずりこむ表題作のほか、「真夜中の客」「競争」など、日常の風景のなかに無造作に悪意を投げ込んで練りあげられた文学的オブジェたち。グロテスクかつアンチ・モラルな短篇集。
登録情報
- 出版社 : 国書刊行会 (1999/1/1)
- 発売日 : 1999/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 297ページ
- ISBN-10 : 4336039607
- ISBN-13 : 978-4336039606
- Amazon 売れ筋ランキング: - 703,476位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 476位ロシア・ソビエト文学 (本)
- カスタマーレビュー:
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2010年11月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2017年7月30日に日本でレビュー済み
ロシアの異形小説家ウラジーミル・ソローキンの短編集。
297ページで17本の小説が入っている。1本がけっこう短い。表題作の「愛」はたった6ページしかない。
だから「この本ってどんな感じかな?」「ソローキンってどんな小説書くんだろ?」と思われている方には”「愛」を読んでみてよ”と言いたい。とにかく一目瞭然なのだ。
小説の筋書はほとんど無いに等しい。ので率直な感想など書いてみる。
「愛」
ナンジャコリャ〜!と松田優作ばりに叫びたくなった。この恋人達の姿形を想像するところから始めてズンズン深みにハマり、ドンドン気分が悪くなりそうになった。
「別れ」
………………ってオイコラ。と語り手の後頭部をハリセンしたくなるラスト。
本書のなかでは珍しい一人称。
「自習」
入り口からすでに欲望が透けてみえる気がするけど、読者によるのか。社会主義国版プライベートレッスン(?)
「競争」
アカン!ソローキンに刃物はアカン!
断崖と川と釣りの三点セットに既視感。
「可能性」
これはイイ!目から入り脳を通過する日常が言葉のリボンになってゾロゾロと排出されてゆく。それが徐々に、日常の行為の可能性へとはみ出して行くのだが、こういう事って自分にもある。実行しないまでも、コレをああすると…なんて妄想が実際の行為と並行して展開していく時がある。
そういうのが秒単位で畳み掛けられていくうち、言葉のリボンに打ち出されるのは文字から模様になっている。お〜これも既視感。
「地質学者たち」「樫の実峡谷」
唐突に始まり唐突に終わる。お話の切れ端を見て、またすぐに何処かへ連れ去られるような気分。そうする理由が語られなかった部分にあるのかもしれないが、それが何かは皆目見当もつかない。
わけ知り顔でうなずいたり、したり顔でニヤついたりさせて貰えない突き放された感触。
モダンアート、奇妙なインスタレーションが設置された空間に誘い込まれて、キツネにつままれた気分でさまよい出る。そんな感じ。
「物語」を読ませ思考を誘引するのでなく、いま感じる「感覚」を狙っているのでは。感覚を直接攻撃してくる作者の、悪戯っぽい瞳を見たような気がした。
「セルゲイ・アンドレーエヴィチ」
神聖なもの、もっとも敬愛するものが糞便とこき混ぜられ、己の中へと回収されていく。『ロマン』の衝動と通底するのか?これは作者の衝動がにじみ出たものなのか?
「真夜中の客」「シーズンの始まり」「弔辞」
ショートフィルムみたい。振り返ってみると「可能性」以外は、どれも第三の視点から書かれていて (誰かの心情)みたいな物が出てこない。目の前で起こっている事を傍観しているしかない。
文章はあくまで端正で時に美しいが、その雪崩れ込む先は汚辱と暴力という構造。そしてなんだかロシア的気風が充満している。カーニバル的な狂気でなく、偏執的な的確さをチラつかせて寒気がする。
「巾着」
継ぎはぎのフィルムを見ているみたい。人生の断章が断片的に映し出される。合間にはラディゲ「肉体の悪魔」のあの雨の夜、暖炉の前ですべてを知ったあの少年が得たもの。それが繰り返し現れる。
パターンとしては、はじめは至極まともにはじまったのが途中から逸脱するというもの。フッと「尼僧ヨアンナ」のイヴァシュキェヴィッチを思い出す。ポーランドの作家。始まりの恍惚とした自然描写から、ラストの不条理で酸鼻を極めるシーンの対比がなんとなく似通っている。
「しごとの話」
ステキですね。純粋に好きな感じのゲイの話です。
BL作品に仕立てたら、喜ぶ人もいるでしょう。
「はじめての土曜労働」「寄り道」
社会主義国の仕事場での一コマ。ユーモラス。
この本も終盤にさしかかった。オッさんの排便シーンをこんなに数多く丹念に見せられたことが、かつてあっただろうか?(いや無い)
「出来事」「記念像」
丸尾末広の初期作を思い出した。「夢のQ-SAKU」とか「DDT」とか。はじめのシチュエーションと何のつながりもない言葉やイメージの羅列。人生の走馬灯っぽい。
遊園地のコーヒーカップに乗って全速力でグルグル回して、景色が色の帯になってすっ飛んでいって、思考力もサラダドライヤーの水滴みたいに飛ばされて、さいごは単純化してシンプルな言葉に落ちていく。そんな感じ。
ソローキンインタビュー「麻薬としてのテクスト」
驚き。パフォーマンスをしている意識ナシ、自分にとってあるべきものをあるべきように並べ、壊し、綴っているだけ。
「毎朝、私は目を開くたびに、この体に押し込まれたものに非常な驚きを感じ、ふたたびこの世界で目を覚ますと、その驚きはしだいに重くうちひしがれた状態に転化していきます。」
その感覚に共鳴する部分、ある。そしてある種の小説への「吐き気」。やっぱり!
単純に「面白かった」とは言えないのだが、自分が読みたかったのはコレだ!と思った。
とあるベストセラー小説にガッカリして小説を読むのが面倒になった気分だったところに効いた。
翻訳者・亀山郁夫氏の解説も、一般読者にアピールする仕様で読みやすい。ソローキンが好んだ西側の映画、なんてのも紹介されていて。「罪と罰」に「デスノート」を対比させたあの切り口さながらにオッと膝打つ。メチャわかりやすい!
ネタバレ>>
その映画とはクエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」!町山智浩の解説で、タランティーノは無類の映画マニアで彼の作品は、彼を魅了した多くの映画へのオマージュを繋ぎ合わせて出来ている、という意味の話を聞いた事がある。その手法はソローキンと近いものがある。(ソローキンの場合は「好き」かどうかは重要ではないようだが)
そしてまた唐突で容赦のない暴力やエロスのイメージがつきまとい、それがあまりに無意味で馬鹿馬鹿しくて、思わず笑いが漏れ出てしまうような所も、似通っている。
「パルプフィクション」で意味ありげに「復讐するは我にあり」という聖書の言葉を唱えて銃をぶっ放すジュールス(サミュエル・エル・ジャクソン)は、その言葉の意味を知らないのだが、この道徳的・論理的な必然性のなさなど意味的に似ていると思う。
これを聞いてなぜ自分はソローキンの小説を読んで満足だったのか分かった気がした。
むごい出来事をなにかの意味づけに利用していない。惨劇に意味はない。突然おとずれる暴力の前にひとは皆平等である。我ながら虚無主義みたいだなと思うが「悲劇のヒロインを求める嗜好」というのに近頃ひどく反発をおぼえてしまうせいかもしれない。(前述のベストセラーにはそういう匂いを感じてゲンナリしたのだ)
翻訳中、無意味な暴力とスカトロジーの連続に疲れた亀山氏が、救いだったと書いていた「セルゲイ・アンドレーエヴィチ」。崇高な熱狂とでもいうか、あの透明度の高い時間もソローキンの魅力のひとつだ。本書に寄せてアーティスト仲間のプリゴフが書いていたチェーホフとの例え。あの熱に浮かされたような陶酔感、アレは快感だ。
聖なる時間とウンコが同居する小説。それがソローキンだと思った。
297ページで17本の小説が入っている。1本がけっこう短い。表題作の「愛」はたった6ページしかない。
だから「この本ってどんな感じかな?」「ソローキンってどんな小説書くんだろ?」と思われている方には”「愛」を読んでみてよ”と言いたい。とにかく一目瞭然なのだ。
小説の筋書はほとんど無いに等しい。ので率直な感想など書いてみる。
「愛」
ナンジャコリャ〜!と松田優作ばりに叫びたくなった。この恋人達の姿形を想像するところから始めてズンズン深みにハマり、ドンドン気分が悪くなりそうになった。
「別れ」
………………ってオイコラ。と語り手の後頭部をハリセンしたくなるラスト。
本書のなかでは珍しい一人称。
「自習」
入り口からすでに欲望が透けてみえる気がするけど、読者によるのか。社会主義国版プライベートレッスン(?)
「競争」
アカン!ソローキンに刃物はアカン!
断崖と川と釣りの三点セットに既視感。
「可能性」
これはイイ!目から入り脳を通過する日常が言葉のリボンになってゾロゾロと排出されてゆく。それが徐々に、日常の行為の可能性へとはみ出して行くのだが、こういう事って自分にもある。実行しないまでも、コレをああすると…なんて妄想が実際の行為と並行して展開していく時がある。
そういうのが秒単位で畳み掛けられていくうち、言葉のリボンに打ち出されるのは文字から模様になっている。お〜これも既視感。
「地質学者たち」「樫の実峡谷」
唐突に始まり唐突に終わる。お話の切れ端を見て、またすぐに何処かへ連れ去られるような気分。そうする理由が語られなかった部分にあるのかもしれないが、それが何かは皆目見当もつかない。
わけ知り顔でうなずいたり、したり顔でニヤついたりさせて貰えない突き放された感触。
モダンアート、奇妙なインスタレーションが設置された空間に誘い込まれて、キツネにつままれた気分でさまよい出る。そんな感じ。
「物語」を読ませ思考を誘引するのでなく、いま感じる「感覚」を狙っているのでは。感覚を直接攻撃してくる作者の、悪戯っぽい瞳を見たような気がした。
「セルゲイ・アンドレーエヴィチ」
神聖なもの、もっとも敬愛するものが糞便とこき混ぜられ、己の中へと回収されていく。『ロマン』の衝動と通底するのか?これは作者の衝動がにじみ出たものなのか?
「真夜中の客」「シーズンの始まり」「弔辞」
ショートフィルムみたい。振り返ってみると「可能性」以外は、どれも第三の視点から書かれていて (誰かの心情)みたいな物が出てこない。目の前で起こっている事を傍観しているしかない。
文章はあくまで端正で時に美しいが、その雪崩れ込む先は汚辱と暴力という構造。そしてなんだかロシア的気風が充満している。カーニバル的な狂気でなく、偏執的な的確さをチラつかせて寒気がする。
「巾着」
継ぎはぎのフィルムを見ているみたい。人生の断章が断片的に映し出される。合間にはラディゲ「肉体の悪魔」のあの雨の夜、暖炉の前ですべてを知ったあの少年が得たもの。それが繰り返し現れる。
パターンとしては、はじめは至極まともにはじまったのが途中から逸脱するというもの。フッと「尼僧ヨアンナ」のイヴァシュキェヴィッチを思い出す。ポーランドの作家。始まりの恍惚とした自然描写から、ラストの不条理で酸鼻を極めるシーンの対比がなんとなく似通っている。
「しごとの話」
ステキですね。純粋に好きな感じのゲイの話です。
BL作品に仕立てたら、喜ぶ人もいるでしょう。
「はじめての土曜労働」「寄り道」
社会主義国の仕事場での一コマ。ユーモラス。
この本も終盤にさしかかった。オッさんの排便シーンをこんなに数多く丹念に見せられたことが、かつてあっただろうか?(いや無い)
「出来事」「記念像」
丸尾末広の初期作を思い出した。「夢のQ-SAKU」とか「DDT」とか。はじめのシチュエーションと何のつながりもない言葉やイメージの羅列。人生の走馬灯っぽい。
遊園地のコーヒーカップに乗って全速力でグルグル回して、景色が色の帯になってすっ飛んでいって、思考力もサラダドライヤーの水滴みたいに飛ばされて、さいごは単純化してシンプルな言葉に落ちていく。そんな感じ。
ソローキンインタビュー「麻薬としてのテクスト」
驚き。パフォーマンスをしている意識ナシ、自分にとってあるべきものをあるべきように並べ、壊し、綴っているだけ。
「毎朝、私は目を開くたびに、この体に押し込まれたものに非常な驚きを感じ、ふたたびこの世界で目を覚ますと、その驚きはしだいに重くうちひしがれた状態に転化していきます。」
その感覚に共鳴する部分、ある。そしてある種の小説への「吐き気」。やっぱり!
単純に「面白かった」とは言えないのだが、自分が読みたかったのはコレだ!と思った。
とあるベストセラー小説にガッカリして小説を読むのが面倒になった気分だったところに効いた。
翻訳者・亀山郁夫氏の解説も、一般読者にアピールする仕様で読みやすい。ソローキンが好んだ西側の映画、なんてのも紹介されていて。「罪と罰」に「デスノート」を対比させたあの切り口さながらにオッと膝打つ。メチャわかりやすい!
ネタバレ>>
その映画とはクエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」!町山智浩の解説で、タランティーノは無類の映画マニアで彼の作品は、彼を魅了した多くの映画へのオマージュを繋ぎ合わせて出来ている、という意味の話を聞いた事がある。その手法はソローキンと近いものがある。(ソローキンの場合は「好き」かどうかは重要ではないようだが)
そしてまた唐突で容赦のない暴力やエロスのイメージがつきまとい、それがあまりに無意味で馬鹿馬鹿しくて、思わず笑いが漏れ出てしまうような所も、似通っている。
「パルプフィクション」で意味ありげに「復讐するは我にあり」という聖書の言葉を唱えて銃をぶっ放すジュールス(サミュエル・エル・ジャクソン)は、その言葉の意味を知らないのだが、この道徳的・論理的な必然性のなさなど意味的に似ていると思う。
これを聞いてなぜ自分はソローキンの小説を読んで満足だったのか分かった気がした。
むごい出来事をなにかの意味づけに利用していない。惨劇に意味はない。突然おとずれる暴力の前にひとは皆平等である。我ながら虚無主義みたいだなと思うが「悲劇のヒロインを求める嗜好」というのに近頃ひどく反発をおぼえてしまうせいかもしれない。(前述のベストセラーにはそういう匂いを感じてゲンナリしたのだ)
翻訳中、無意味な暴力とスカトロジーの連続に疲れた亀山氏が、救いだったと書いていた「セルゲイ・アンドレーエヴィチ」。崇高な熱狂とでもいうか、あの透明度の高い時間もソローキンの魅力のひとつだ。本書に寄せてアーティスト仲間のプリゴフが書いていたチェーホフとの例え。あの熱に浮かされたような陶酔感、アレは快感だ。
聖なる時間とウンコが同居する小説。それがソローキンだと思った。
2011年8月20日に日本でレビュー済み
寡聞にして未読であったのですが、亀山郁夫さんの名に惹かれて手に取りました。概ね三十頁に満たない短編が収められており、会話や語りが多用されるので、一つ一つを読み終わるのにさほどの時間は要しません。しかし、その破壊力たるや強烈で、読み終わったあとの「なんだったんだ、いまのは」というところから立ち直って次の作品に向かうのに、逆に時間を要しました。おそらく、「テクスト」として分解してしまえば、作品の背後にあって、作者の手によって巧妙に切り捨てられているものも、案外容易に復元できるように思うのですが、これらの作品群は素材を丸のみして、そのあとに起こる自分の心身の変化を楽しむ、そんな一冊であるように思います。人や年齢を選ぶとは思いますが、かなりお勧めです。
2014年10月9日に日本でレビュー済み
散文としては完成されているので文章は上手い。そりゃそうか。しかしね……。
本作は、従来の、小説には何か意味がある、そう思って読む人を完全に否定する短篇であふれている。全ての話にはオチもなけりゃ結末もない。内容なんてもちろんない。いや、あるように見せかけて、やっぱりない。「起承」で起こる事象を「転結」で完全無視して放置というパターンの繰り返し。従来の意味を持たせる小説の形式だけを壊しているだけで、その他は本当に何もない。小説なんか意味無いよw という、具体的方法論のわびしい結末。アンチテーゼとしてしか存在しえない陳腐な小説だと思った。「破壊者」などと大げさに呼ばれたりしているみたいだが、これは本当の破壊なんかではない。いわゆる「ダダっ子」が暴れるレベル。
本作は、従来の、小説には何か意味がある、そう思って読む人を完全に否定する短篇であふれている。全ての話にはオチもなけりゃ結末もない。内容なんてもちろんない。いや、あるように見せかけて、やっぱりない。「起承」で起こる事象を「転結」で完全無視して放置というパターンの繰り返し。従来の意味を持たせる小説の形式だけを壊しているだけで、その他は本当に何もない。小説なんか意味無いよw という、具体的方法論のわびしい結末。アンチテーゼとしてしか存在しえない陳腐な小説だと思った。「破壊者」などと大げさに呼ばれたりしているみたいだが、これは本当の破壊なんかではない。いわゆる「ダダっ子」が暴れるレベル。
2016年8月21日に日本でレビュー済み
破壊的である。普通の人は読んじゃいけない本。
意味やコンテキストや読者の見識など、本から連なるあらゆるものをテキストがぶち壊す。
表題作の「愛」は確かに愛を描いているが説明は一切省かれている。
導入部と結論しか無い。
結論は、愛は破壊されるものであるという結論だ。
このロシア人の狂気は筋金入りだ。
厳しい自然がそうさせるのか、あるいは共産主義から一息にアヴァンギャルドへ移行せざるを得なかったインテリの鬱屈なのか。
小説の設定はソビエト連邦時代のもの - よりフレームが固定された世界観が多く、破壊される時の狂気を増幅する。
アンチモラルという言葉も陳腐に響く。
気持ちがささくれている時に読むと、素敵にささくれをサカムケてくれる。
村上春樹を文学と感じるならば、これは鈍器だ。
重量級の。
愛する者の頭蓋を叩き割り、飛び散る血と膿を哄笑して受け取るのだ。
意味やコンテキストや読者の見識など、本から連なるあらゆるものをテキストがぶち壊す。
表題作の「愛」は確かに愛を描いているが説明は一切省かれている。
導入部と結論しか無い。
結論は、愛は破壊されるものであるという結論だ。
このロシア人の狂気は筋金入りだ。
厳しい自然がそうさせるのか、あるいは共産主義から一息にアヴァンギャルドへ移行せざるを得なかったインテリの鬱屈なのか。
小説の設定はソビエト連邦時代のもの - よりフレームが固定された世界観が多く、破壊される時の狂気を増幅する。
アンチモラルという言葉も陳腐に響く。
気持ちがささくれている時に読むと、素敵にささくれをサカムケてくれる。
村上春樹を文学と感じるならば、これは鈍器だ。
重量級の。
愛する者の頭蓋を叩き割り、飛び散る血と膿を哄笑して受け取るのだ。
2005年4月26日に日本でレビュー済み
荘厳なのに無意味。知的だけど馬鹿。ドストエフスキーの文章とチラシの安っぽい宣伝文句をごっちゃにしたような破壊力ある文章が魅力だ。個人的に感じた難点としては、ソローキン、ちょっと馬鹿をやるには賢すぎるのか、技巧が目立ちすぎるところ。しかし、この面白さを体験しないのは、ちょっと勿体無いよ。
2017年8月25日に日本でレビュー済み
例えば理知的な狂人が物腰柔らかなように、ソローキンはその狂気を最初はまったく垣間見せず、むしろ牧歌的で退屈でさえある表現でロシアの自然を描写などする。冒頭からあまりにクラシカルな、古典的な自然賛美がうたわれ、ある瞬間、突然、勃起した陰茎と精液で世界が埋め尽くされる。時には唐突にハードスプラッタが始まるわ、『おしっこ』や『じゅげむ』の連呼で紙面が埋まるわ・・・やりたい放題です。
そう、やりたい放題なんです。ソローキン本人もなぜ自分の小説がウケているのか意味が分からない、ということを言っていたそうですが、まさにそうなんでしょう。人の為になんか書いていないのでしょう、自らの実験をしているだけ。僕個人は勝手にそう思っていますし、だが実験小説はそのスタンスで書かれるものが抜群に面白い。本書が高評価と低評価で中間が無いというのは妙に清々しい。そういう類である。文学におけるプログレッシブ・カオティックハードコアである。興味があれば一読を勧める次第。興奮か吐き気か、どちらを得るかは本人次第。
そう、やりたい放題なんです。ソローキン本人もなぜ自分の小説がウケているのか意味が分からない、ということを言っていたそうですが、まさにそうなんでしょう。人の為になんか書いていないのでしょう、自らの実験をしているだけ。僕個人は勝手にそう思っていますし、だが実験小説はそのスタンスで書かれるものが抜群に面白い。本書が高評価と低評価で中間が無いというのは妙に清々しい。そういう類である。文学におけるプログレッシブ・カオティックハードコアである。興味があれば一読を勧める次第。興奮か吐き気か、どちらを得るかは本人次第。
2001年12月27日に日本でレビュー済み
短編集ではあるが作家の個性は強烈な一貫性がある。作家というよりは芸術家の小説である。ストーリーにはまったく理屈というものがなく、冷静な凶器で話が進められる。読む者には展開がまったく掴めず、ページをめくるのにも心の準備が必要である。性的倒錯と暴力、あらゆるタブーを用いており読む者に混乱をもたらすが、圧倒的に説得力がある作品集である。