著者がチャーチルの真の姿を見事なまでに暴き出している。作家でもない歴史家でもない大サダトンが恐縮であるが、本書について補足させていただく。チャーチルとそのグルの国家の悪事である。
〇ドイツ海軍と対独飢餓封鎖
第1次大戦開戦時、ドイツは英国に対し交戦海域について英国に申し入れたがチャーチルはこれを拒否し、一般市民の飢餓を目的とする全面海上封鎖を行った。ドイツの無制限潜水艦作戦が非難されるが、不公平である。ドイツの無制限潜水艦作戦はチャーチルの飢餓封鎖に対する反撃である。U-BOOTの脅威を逃れるため、英国船は中立国である米国の旗を掲げていた。立派な国際法違反である。1936年、日中戦争中南京から逃れる中国人(便衣兵)は揚子江の船に米国旗を掲げていた。このため、海軍航空隊が米海軍パネーを便衣船を誤解し撃沈する事件が生起した。蒋介石たちは前大戦の英国を真似たのだろうか。英国はドイツの海軍増強を戦争の原因としているが、ドイツ海軍のドクトリンは①英国漁船のドイツ海域での海賊行為の防止。英国はこれまで戦争が生起した場合、敵・中立国関係なく海上封鎖を行うことから、これに対抗するための②英国海軍の海上封鎖の突破、③ドイツ商戦の海上護衛及び英国は自らの同様の戦力を有さない国家に対しては対等の関係を許さないないことから④英国に匹敵する海軍戦力の保持である。
〇英国の対独開戦の目的
英国にとって目障りなのは、ドイツが1871年に統一国家となって以降、経済力の発展が著しく、20世紀の初頭には鉄鋼、造船、石炭生産の主要な分野でドイツは英国を凌駕していた。made in Germanyが英国市場を支配していた。英国は戦争でドイツを叩き潰す機会を伺っていた。第1次世界大戦終了直後英国タイム誌の記事で「今後50年以内にドイツが再び復活することがあるようなら、この戦争は無意味となる」
英国の本音が表れている。フランスはドイツに不利な両面戦争を強要するため、ロシアに鉄道借款供与しドイツ国境にロシア軍が迅速に軍を動員できるように鉄道網を整備させた。大戦で最初に国境を侵犯したのはシュリーフェン計画(改)を発動したドイツではなく、騎兵隊を東プロイセンに侵入させたロシアである。
〇枢軸国の和平提案の拒否と米国の参戦
ドイツを始めとする中央同盟国は1916年ソンム会戦で英仏軍を完膚なきまで粉砕し東部戦線でルーマニアの制圧後、連合国に和平提案を行っているが、連合国はこれを同盟側の弱さの表れとして拒否した。和平提案を拒否しても戦況は好転せず、1917年ロシアは敗北し革命で帝国は崩壊した。しかし連合国は強運だった。ロシアの脱落が米国の参戦を呼び込んだ。米国ではやってもいない残虐行為をねつ造した反ドイツキャンペーンが繰り返されていた。米国はドイツの無制限潜水艦作戦を参戦の口実としているが、実際はロシアに貸し付けた戦争債権は紙くずになり、もし英仏もドイツに敗れた場合すべての貸し付けが焦げ付くことを恐れたためである。
〇ヒトラー政権誕生とドイツ再軍備
なぜドイツでナチスが政権を獲得したのか、答えは簡単である。ヒトラーの経済政策に成果があったからである。ワイマール共和国時代ドイツ人はインフレ、大量失業の他、外国からの脅威におびえていた。①は周辺国の軍隊や民兵組織の侵攻であり、フランス、ベルギー軍は2度ルール地帯を軍事占領し、ポーランドはオーバーシュレージェンを占領し同地に住むポーランド系住民もドイツへの帰属を望んだにもかかわらず、強引に併合した。②は敗戦後外国に住むこととなった800万ドイツ人に対する迫害行為である。チェコに住む300万人のドイツ人には公民権は与えられず、公用語はチェコ語とされた。オーストリア帝国統治時代、帝国はポーランド人やチェコ人に民族語の使用を許し、宗教や言語を強要することはなかったが、新興独立国家に帝国のような少数民族を尊重し保護しようという考えはなかった。国際連盟で最も提訴された人権侵害はポーランドにおける非ポーランド人(ユダヤ人、ドイツ人、ウクライナ人)に対する迫害である。人口3000万のうち1100万が非ポーランド人である。ウクライナ人はカトリックを供与されウクライナ語での教育は禁止された。迫害を逃れ多くのウクライナ人が20~30年代英領カナダへ移住した。新興国家ポーランドは東欧で最も嫌われた残虐な独裁国家である。ヒトラーは政権獲得直後、再軍備にはすぐには乗り出さず、諸外国に軍縮を提案した。ベルサイユ条約では同盟国のみならず、連合国も適切な規模にまで軍備を縮小することをうたっていたが、どの国もこれにしたがわなかった。数度にわたり英仏に軍縮を呼び掛けていたが、フランスはドイツの敵性国家ソ連を相互援助条約を締結し、ヒトラーはこれをロカルノ条約に対する違反と判断し再軍備に踏み切った。
〇ユダヤ人迫害
ドイツやオーストリアはユダヤ人にとり比較的に住みやすい国家だった。シオニズム運動もここから始まった。8000のユダヤ系ドイツ人が帝国のために命をささげた。しかし敗戦後、ドイツ人はある事実に衝撃を受けた。ユダヤ人の銀行達が、ドイツ婦女子を情け容赦なく飢餓に追いやる英国にパレスチナでの建国との見返りに資金援助を提供していた。おかげで英国何とかドイツに勝てたが、この事実はドイツ人のユダヤ人に対する感情を悪化させた。ヒトラーがユダヤ人追放に乗り出す前、パレスチナのシオニストがヒトラーと接触した。双方はユダヤ人迫害に同意した。ユダヤ人はパレスチナでは少数派であり、多数派のアラブ人との紛争が激化していた。シオニストは紛争に勝ち抜くため人手を必要としたが、ユダヤ人で気候が過酷で悪疫が猖獗するパレスチナに行きたがる者はいなかった。ドイツで迫害が始まると多くのユダヤ人が米国に逃れようとしたが、米国は金持ちを除き入国を認めなかった。欧州で迫害が拡大し逃げ場を求めるユダヤ人はやむを得ず、
いやいやパレスチナに向かった。シオニストと英国「民なき土地を土地なき民にあたえる」「パレスチナはミルクと蜜が流れる大地」と宣伝した。「北朝鮮を地上の楽園」と宣伝し、「文化大革命で躍進を遂げる中国」などと宣伝した日本の低劣マスコミ顔負けの虚構である。
〇第2次世界大戦
ダンチッヒ問題でポーランドとドイツの関係が悪化し、英国と同盟を結んだポーランドはますますドイツに強圧的となり、国内でドイツ人に対する虐待が増大した。ポーランドの高射部隊は3度にわたりドイツ航空ルフトハンザ機に射撃を加え、部分的に東プロイセンの国境侵犯しドイツ国内に侵入した。ドイツ・ポーランド紛争の仲裁を求めた元ドイツ首相ブリューニングに対しチャーチルは「私が希望するのはドイツの経済の徹底的な破壊である」。同じころベルリン駐在フランス大使フランソワ・ポンセは「スペイン人がアラブ人を欧州から追放したように、ドイツ人を扱いたい」と述べてる。
著書に書かれているように、英国が無差別爆撃の口火を切った。ドイツの街を爆撃する英空軍機は中立国であるオランダ、ベルギー上空を通過していた。明らかな中立違反、戦争犯罪である。ポーランド平定後ヒトラーは2度にわたり英国に和平を求めたが、チャーチルは中立国ノルウェー海域での機雷設置でこれに答えた。40年5月10日は独軍の西方戦役開始の日とされているが、同日英軍はデンマーク領グリーンランドとアイスランドに軍事侵攻してこれを占領した。日本の仏印進駐を非難した米国は英国の侵略行為やソ連のバルト3国やフィンランドに対する侵略には口をつむった。
〇チャーチルの戦争指導
英軍は先に手を出したノルウェーで独軍に大敗した。ダンケルクの奇跡はヒトラーの装甲部隊に対する停止命令のおかげで英軍が脱出できたというのが真相である。英軍はエルアラマインまで負け続けた。チュニジアのドイツ軍のため英軍の陸軍戦力の大半が同地にくぎ付けとなった。イタリアに上陸しても進撃は捗捗しくなかった。このため英米軍は独軍の後方かく乱のため、ムッソリーニ時代完全に抑え込まれていたマフィアを利用し、その見返りに米国はイタリアンマフィアに戦後米国への麻薬輸出と販売を許可した。
日ごろから戦争好きを自認するチャーチルが英軍司令官に任命したモントゴメリーは指揮官としての資質に大いに疑問を呈される軍人だった。イタリアでドイツ軍の補足に失敗し、上陸からローマ入場まっで1年近くを要した。ノルマンディー(44年6月)では上陸その日に占領を予定していたカーンの制圧に1か月以上を要し、8月ようやく米軍の突破が成功しファレーズでドイツ軍約10万を包囲し壊滅に至る寸前に詰めを誤り、約4~5万の独兵が脱出に成功した。モントゴメリーの失敗にアイゼンハワー、パットン、ブラッドレーら米軍首脳部を激怒させた大失敗である。ファレーズを脱出した独兵が戦線を立て直し連合軍に苦戦を強いることとなる。9月オランダで実施した空挺作戦は大失敗に終わり、アルンヘムに降下した英第1空挺師団の壊滅を招いた。カーン、ファレーズ、アルンヘムの失敗で西部戦線膠着した。ノルマンディーだけで英軍はベルリンを占領するまでに要する損耗見積もりを超える結果となった。チャーチルの好む英元帥は連合国にとり疫病神であった。ノルマンディーでは作戦が停滞すると一方的に成功したと称して作戦を中止して勝利を宣言したり、空挺作戦は概ね成功だったと称して亡命オランダ軍を激怒させた。モントゴメリーは戦後「大戦は私の予測どうりに進展した」と豪語しただでさえ悪化していた米軍の英国に対する感情を激昂に変え、大英帝国の没落に拍車をかけた。第1級の外交上の失敗である。アイゼンハワーは戦後モントゴメリーはエゴイストでサイコパスだと怒気を荒げ非難した。モントゴメリーが失敗して連合軍がドイツ国境付近んでもたもたしている間、ソ連軍はバルカンを制圧し東部ドイツ奥深くにまで侵攻した。チャーチルがモスクワ会談で東欧をソ連に売り渡した理由は西部戦線での苦戦があると推測される。実はモスクワ前、スターリンの頭の中では甚大な人的被害と国土の再建をどうするかで頭がいっぱいだった。そこにチャーチルが鴨のようにやってきてスターリンに東欧をプレゼントした。チャーチルの失態は続く。44年12月独軍の戦略奇襲を受け、連合軍は一時苦境に陥ったことにチャーチルは狼狽した。独軍のアルデンヌ攻勢は早々に失敗が明らかになり、連合軍は戦線を安定させつつあった1月、チャーチルはスターリンに西部戦線の苦戦を回復させるためスターリンに攻勢要望する電報を送った。スターリンはすでに攻勢を計画していたにもかかわらず、あえてこれに恩を着せることにした。全くチャーチルの不必要かつ愚かな電報である。ソ連軍の攻勢により独軍は大きく後退したが、スターリンはこの恩着せ攻勢を口実に、戦後英米に返済する借款をすべて反故にした。
実戦の指導はでたらめだったが、民間人の殺傷には卓越していた。チャーチルは空軍に地上にある動くものはすべて撃てと命令していた。ドゴールもアイゼンハワーもなぜチャーチルがあそこまで爆撃して破壊するのかが理解できなかった。ドレスデン壊滅はさすがに連合国内にも非難を呼び、チャーチルはソ連軍支援のためと称したりか空軍に責任を押し付けるようなことをやり顰蹙を買った。
〇大英帝国の死刑執行人
戦争に勝った英国に残されたものは借金だけだった。英軍40万人世界で5500万人が死亡した。第1次世界大戦の勃発にも海軍を国王の許可なしに動員し、ドイツを刺激したことを考えると、両大戦の全戦死者に対しチャーチルは責任があるといえる。この男の虚栄心と誤った戦争指導でで数千万人が亡くなった。東欧、中国、北朝鮮は共産化し人民は呻吟することになる。チャーチルは自由の騎士どころか共産主義の拡大に貢献した不屈の英雄というのが正しい。生涯を戦争と共産主義のためにささげた男だ。英国は破産しパレスチナ問題もほったらかしにした英国は世界から逃げ出した。ナチスによる犠牲者は今日はいない。共産主義者の殺人被害者も現在はかなり減った。しかし英国が残した中東の負の遺産ではまだ争いと悲劇が繰り返されている。チャーチルは大英帝国を破産させたどころか、人類を滅亡に追い込みかねない負の遺産を残した。人類が地球に存在するかぎり、苦悩しなければならない禍根である。
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不必要だった二つの大戦―チャーチルとヒトラー 単行本 – 2013/2/1
- 本の長さ536ページ
- 言語日本語
- 出版社国書刊行会
- 発売日2013/2/1
- 寸法15.8 x 3.5 x 21.7 cm
- ISBN-104336056412
- ISBN-13978-4336056412
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登録情報
- 出版社 : 国書刊行会 (2013/2/1)
- 発売日 : 2013/2/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 536ページ
- ISBN-10 : 4336056412
- ISBN-13 : 978-4336056412
- 寸法 : 15.8 x 3.5 x 21.7 cm
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2017年10月6日に日本でレビュー済み
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パトリック・ブキャナンは、二十世紀に起きた二つの大戦における英独の抗争を中心に、この時期にヨーロッパに起きた様々な歴史的事件の意味を説き明かそうとする。そして、「この二つの大戦は本当に必要な大戦だったのか?」と問いかけ、実は不必要な戦いではなかったか? と問題を投げかける。
二つの大戦の戦死者数と傷病者数、破壊された文化遺産、余りにも多くの犠牲。戦いは、避けられなかったのか?
第一次大戦は、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家、ロマノフ王朝を滅ぼし、代わりに、ヒトラー(ナチズム)、ムッソリーニ(ファシズム)とスターリン(スターリニズム)という三つの全体主義を生んだ。
第二次大戦は、「ドイツ第三帝国」を壊滅させ、その代わり、「スターリンの支配する東欧世界」を生んだ。アジアでは、「大日本帝国」を崩壊させ、代わりに「毛沢東の中国」を生んだ。二つの大戦で主導的役割を果たし、特に、第二次大戦では「大英帝国」の威信を賭けて、戦いを「欧州動乱」から「世界大戦」に発展させたチャーチルは、アメリカの援助による勝利と引き替えに、世界の四分の三を支配していた「大英帝国」を「ユナイテッド・キングダム」という北海上の一島嶼に落としやった。
大まかに言って第一次大戦が五千万人の死傷者をもたらしたとすれば、第二次大戦は一億人の死傷者をもたらした。その中の多くの物語は、生き残った者の手記や証言、書物、記録フィルム、後になって作られた映画等によって知られている。それらは余りに多くの悲劇に満ち満ちたものだ。
第一次大戦の「ベルサイユ講和条約」が第二次大戦の悲劇を産み落としたものであるとすれば、なぜ、間違ったのか?
「ミュンヘン会談」でチェンバレンがとった「宥和政策」が、本当に大戦の引き金を引いたのか?
イギリスとの全面戦争を望んではいなかったと思われるヒトラーを、追い詰めたのはチャーチルではなかったのか?
チャーチルは勝つために、本来「ヨーロッパの危機の根源」と見なしていたスターリンと組み、戦後、中央ヨーロッパを失った。そして、アメリカの援助によって勝利したために、戦後、「ポンド体制」も「国際政治支配システム」も、ことごとくアメリカの手に移ることを認めざるを得なかった。
「偽りの戦勝国・フランス」は、ドゴールが失われたプライドを粉飾したが、やがて失意のうちにベトナムとアルジェリアから撤退せざるを得なかった。
ドイツは、東西に分割され、早々と戦線離脱したイタリアは小国にとどまった。
「ヨーロッパの栄光」は、二つの大戦で打ち砕かれた。著者は、失われた栄光の日々を追慕しながら、その原因がどこにあったのか?誰が、責任を担うべきなのか?と、問い続けるのである。
「ベルサイユ講和会議の悲劇」を招いたのは、対ドイツ復讐心に燃えるクレマンソーだったのか?それとも日和見を決め込みながら、イギリスの既得権益をしっかりと抑えようとするロイド・ジョージだったのか?著者は、それ以上にアメリカ大統領ウィルソンの責任を追及する。
ドイツは、ウィルソンが呼びかけた「十四箇条の和平提案」に乗った。ドイツは、東部戦線では勝利をおさめていたが、西部戦線ではアメリカの参戦によって勝利の見通しはなくなっていた。「ベルサイユ講和会議」は、戦いを弁論の場に移したが、ウィーン会議のタレーランと異なり、ドイツ代表は会議に参加を許されなかった。しかも、その間もドイツに対する経済封鎖は継続された。このイギリスの経済封鎖はドイツに深刻な飢餓地獄をもたらし、76万人の餓死者がでた。ドイツ人は、餓死よりも、どれほど不当であろうとも、戦争の全責任をドイツに押しつける講和条約を受け入れる以外になかったのだ。ドイツがウィルソンの見かけ倒しだけの偽善を憎んだことは言うまでもない。
著者は、ある歴史家の言葉として、「ラファイエットの『平等』の観念と、ウィルソンの『民族自決』の理念が結びついたとき、(それを実現するほど成熟していない)世界は、致命的な混乱に陥らざるを得なかった」という言葉を紹介する。
このことが、端的に現れたのが、「オーストリア・ハンガリー帝国」を解体するサンジェルマン条約とトリアノン条約である。中央ヨーロッパに「チェコスロバキア」を作り出すことは、オーストリアを弱小国に落とし込むと同時に、ドイツ、ソビエト、ポーランドを牽制し、彼らの力をそのためにそぎ取ることができると英仏は考えたからである。
「民族自決」という原理を恣意的に用いて、例えば、1918年、トマス・マサリクの下に新国家として生まれた「チェコスロバキア」は、国民の47%を占めるチェコ人の支配下に、350万人の在外ドイツ人、300万人のスロバキア人、100万人のハンガリー人、50万人のルテニア人(ウクライナ人)、15万人のポーランドを抱え込んだ。新国家は、オーストリアとハンガリーから70〜80%の産業を奪い、一躍世界十位の工業国になった。なぜ、このような手品のようなことができたのか?チェコの独立運動家、マサリクもベネシュも人間的魅力と狡猾な政治的知性に長けていた。彼らに足りなかったものがあるとすれば、必ずしも国際的に信頼も尊敬も受けていないチェコ人の英仏のドイツ牽制の思惑によるできすぎた成功は、後々の失敗の原因になるという経験則を忘れたことである。「ズデーテン」「シレジア」。住民投票でドイツ帰属が明らかな国境地帯を抱え込んだことが、チェコスロバニアには、後々、致命的な運命をもたらすことになる。
(ルテニア人とは、一般の日本人にはほとんど耳慣れない言葉である。19世紀にウクライナ人が独立運動を夢見たときに、彼らはそれぞれのいきさつに従って、ポーランド、ロシア、オーストリア三カ国のうちの一つを援助国として選んだ。オーストリアを頼みとした人々は数的には一番少なかったが、第一次対戦終了までこの名称はオーストリアには残った。言葉の起源は、キエフを創った「ルーシ」に由来する)
第二次大戦は、ネビル・チェンバレンの名前とミュンヘンにおける「宥和政策」の失敗抜きには語れない。多くの論者が、この「ミュンヘンでの妥協」がチェコスロバキアを解体させ、ナチスを勢いづかせ、とどめようもない「悪鬼羅刹」と化させたのだと信じている。しかし、著者は、反論する。チェンバレンは、ミュンヘンで突然宥和主義者になったわけではない。
チェンバレンは、元々、「ズデーテン」も「シレジア」もドイツに帰属すべきだと考えていた。国際管理下に置かれていた自由都市「ダンチッヒ」も住民の95%はドイツ人であり、ドイツに帰属すべきである。そのために、ポーランドは、「ポーランド回廊」の一部を譲るべきであろうし、当然そうすべきものとして、1939年の8月末まで、つまり開戦直前までポーランド政府を説得していたのである。
著者は、チェンバレンに責任があるとすれば、「ポーランドに対する攻撃に対してイギリスは無条件で宣戦布告する」という、イギリスの開戦責任をポーランドに白紙委任してしまったことにある、と追及する。
チェンバレンにしてみれば、イギリスがついているなら、ドイツもそうそう軽率に軍事行動はとれないだろうと考えた。しかし、ポーランド政府は、「それなら」とドイツとの外交交渉を数ヶ月間サボタージュし、「絶対ダンチッヒもポーランド回廊も譲らない」と決め込んだのである。(このポーランドの頑なさに支持を与えていたのはアメリカである)
この事態は、一日で動いた。1939年8月23日、リッベントロップとモロトフは、一日で「ポーランド分割」に合意して「独ソ不可侵条約」を締結したからである。一ヶ月後、ポーランドは独ソに分割され、軍事占領される運命にあった。
9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻が始まり、9月3日には、イギリス、フランスはドイツに宣戦布告した。こうして「欧州の動乱」は始まった。9月17日には、ソビエト軍のポーランド侵攻も始まり、27日、独ソ両軍は予め設定された境界を挟んで、分割協定にサインした。
(日本の高校世界史の教科書は、「反ファシズム戦線」の一翼をソビエトが担っていたとする余り、「独ソのポーランド分割協定」を避けて記述したから、「独ソ軍がそれぞれポーランドに進駐した」と書くだけで理解不能だった。今は、どうなったことか。もっとも、これは、日本人だけではなく、ホブズボームのような左翼史家は慎重に記述を避けて知らんぷりをする。
戦前、日本は1939年9月の事態を「欧州の動乱」と呼んだ。昭和で言えば、14年9月。この時点で戦争はまだ局地戦争だった。同年10月号の中央公論「巻頭子」は「この動乱がいつ世界大戦ともならないとは限らないのである」と書いた。つまり、「世界大戦」などこの時点で存在しないのである。二年後、1941年末、「世界大戦」と呼ぶべき状態になったとき、初めて、「世界大戦」という状態が認識され、1914年の「世界大戦」と区別するために「第一次」と「第二次」という区分が冠されたものである。)
ビクトリア女王の孫でもあったヴィルヘルム二世にとって、イギリスとの戦いが本意でなかったように、ヒトラーにとっても、同じテュートン民族が戦うことに抵抗があった。このヒトラーの真意は、チャーチルも承知していたことだろう。
「バトル・オブ・ブリテン」の直後、1940年のフランス占領の直後、ヒトラーは、二度、丁重な和平の提案をチャーチルに対して行っている。
恐らく、ヒトラーの構想は、海はイギリスに任せ、陸の、中央ヨーロッパの覇者としてドイツが君臨することを思い描いていたものだったろう。放っておけば、ドイツは、その中世以来の本能として東方植民に向かい、スラブ民族と熾烈な争いを展開したとしても、フランスに対しては、「アルザス・ロレーヌ」以上の野心は見せなかったことだろう。
だが、チャーチルは、ヒトラーの提案を黙殺した。ナチスのやり方は余りに野蛮であり、まともな交渉相手として認めたくない感情が働いたとしても無理はない。死者と破壊の規模が少なくて済むことだけを考えるなら、なぜ、このとき、妥協しなかったのか、と批判できなくはない。人口三千万のポーランドは、650万人の死者(50万人はユダヤ人)を出し、国土は西に大きく動かされ、その後45年間ソビエトの支配に苦しんだ。だが、チャーチルがポーランドに対して、「色男のベック(当時のポーランド指導者)のバカ野郎!チェコ解体のときはナチスと組んで嬉々としてテッシェンの鉱山地帯を併合した奴だ。チェンバレンの説得を聞かず、イギリスを開戦に持っていった奴じゃないか。ポーランドなんてナチスのユダヤ人殺しの片棒ばかり担いで、力もないくせに大言壮語して、結局、独ソに分割された奴だ。同情などできるか」と答えたことは、事実である。(日本人はポーランド贔屓だが、ナチスのユダヤ人迫害はポーランドの協力があってのものだった。野村真理「ガリツィアのユダヤ人」参照)
1941年6月22日。ドイツ軍のソビエトに対する「バルバロッサ作戦」が始まった。破竹の勢いでドイツ軍は、モスクワ近辺に迫った。
ブキャナンの仮説は、「ヒトラーの真意は、ソビエト軍を殲滅すれば、イギリスのソビエトとの連携作戦は消滅する。チャーチルは否応なしにドイツとの和平交渉の場に立たなくてはならなくなる」というものだ。
「定説」は、ヒトラーは本来東方政策として「レーベンスラオム(生存圏)」の確保のために、ポーランド、ウクライナへの野心を隠していなかった。フランスを制圧し、イギリスに反攻の能力がないと見て、粛清によって軍が弱体化していると見られていたソビエトの攻略に向かった、というものである。著者の「仮説」の妥当性は、今後の検討課題である。
著者は、言う。この二つの大戦に、チャーチルほど深く関わった者はいない。若き議員チャーチルは、第一次大戦でイギリスを開戦へ導いた立役者の一人だった。ボルシェビキ革命の危険性にいち早く気づき、最も激しく、レーニンとスターリンに対する戦争を主張した男だった。ナチスの台頭については、その危険性に一貫して警鐘を鳴らし続けた。チェンバレンに反対し、ドイツとの戦いを恐れず、むしろ望んだ。ヒトラーの和平提案を無視して、あくまで最後まで戦うことを望み、フランクリン・ルーズベルトを戦線に引き込んだ。そして何より、あれほど、憎み嫌ったスターリンにお愛想を振りまき、最後には、スターリンに「過去の私を許してくれますか」とまで言った。
イギリスは、戦争に勝ったが、植民地も、海も、ポンドも、国際関係を仕切るシステムもパワーも全て失った。一体、チャーチルとは、何者だったのか?
著者にとって許し難いことは、このチャーチルの胸像をホワイトハウスの一角に飾り、ネオコンに吹き込まれた「一国覇権主義」に凝り固まった外交問題に素人の大統領である。共和党の大統領選にも出馬経験のある著者は、チャーチルを崇拝することの危険性を強く説く。
評者のレビューは、少し長過ぎる。アジア情勢、日本や中国について論じたいことはまだまだあるが、いい加減、この辺でやめなければいけない。500ページ余りの本を読むために、二日間、睡眠不足になったが、それだけの価値は十分にある著作である。
二つの大戦の戦死者数と傷病者数、破壊された文化遺産、余りにも多くの犠牲。戦いは、避けられなかったのか?
第一次大戦は、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家、ロマノフ王朝を滅ぼし、代わりに、ヒトラー(ナチズム)、ムッソリーニ(ファシズム)とスターリン(スターリニズム)という三つの全体主義を生んだ。
第二次大戦は、「ドイツ第三帝国」を壊滅させ、その代わり、「スターリンの支配する東欧世界」を生んだ。アジアでは、「大日本帝国」を崩壊させ、代わりに「毛沢東の中国」を生んだ。二つの大戦で主導的役割を果たし、特に、第二次大戦では「大英帝国」の威信を賭けて、戦いを「欧州動乱」から「世界大戦」に発展させたチャーチルは、アメリカの援助による勝利と引き替えに、世界の四分の三を支配していた「大英帝国」を「ユナイテッド・キングダム」という北海上の一島嶼に落としやった。
大まかに言って第一次大戦が五千万人の死傷者をもたらしたとすれば、第二次大戦は一億人の死傷者をもたらした。その中の多くの物語は、生き残った者の手記や証言、書物、記録フィルム、後になって作られた映画等によって知られている。それらは余りに多くの悲劇に満ち満ちたものだ。
第一次大戦の「ベルサイユ講和条約」が第二次大戦の悲劇を産み落としたものであるとすれば、なぜ、間違ったのか?
「ミュンヘン会談」でチェンバレンがとった「宥和政策」が、本当に大戦の引き金を引いたのか?
イギリスとの全面戦争を望んではいなかったと思われるヒトラーを、追い詰めたのはチャーチルではなかったのか?
チャーチルは勝つために、本来「ヨーロッパの危機の根源」と見なしていたスターリンと組み、戦後、中央ヨーロッパを失った。そして、アメリカの援助によって勝利したために、戦後、「ポンド体制」も「国際政治支配システム」も、ことごとくアメリカの手に移ることを認めざるを得なかった。
「偽りの戦勝国・フランス」は、ドゴールが失われたプライドを粉飾したが、やがて失意のうちにベトナムとアルジェリアから撤退せざるを得なかった。
ドイツは、東西に分割され、早々と戦線離脱したイタリアは小国にとどまった。
「ヨーロッパの栄光」は、二つの大戦で打ち砕かれた。著者は、失われた栄光の日々を追慕しながら、その原因がどこにあったのか?誰が、責任を担うべきなのか?と、問い続けるのである。
「ベルサイユ講和会議の悲劇」を招いたのは、対ドイツ復讐心に燃えるクレマンソーだったのか?それとも日和見を決め込みながら、イギリスの既得権益をしっかりと抑えようとするロイド・ジョージだったのか?著者は、それ以上にアメリカ大統領ウィルソンの責任を追及する。
ドイツは、ウィルソンが呼びかけた「十四箇条の和平提案」に乗った。ドイツは、東部戦線では勝利をおさめていたが、西部戦線ではアメリカの参戦によって勝利の見通しはなくなっていた。「ベルサイユ講和会議」は、戦いを弁論の場に移したが、ウィーン会議のタレーランと異なり、ドイツ代表は会議に参加を許されなかった。しかも、その間もドイツに対する経済封鎖は継続された。このイギリスの経済封鎖はドイツに深刻な飢餓地獄をもたらし、76万人の餓死者がでた。ドイツ人は、餓死よりも、どれほど不当であろうとも、戦争の全責任をドイツに押しつける講和条約を受け入れる以外になかったのだ。ドイツがウィルソンの見かけ倒しだけの偽善を憎んだことは言うまでもない。
著者は、ある歴史家の言葉として、「ラファイエットの『平等』の観念と、ウィルソンの『民族自決』の理念が結びついたとき、(それを実現するほど成熟していない)世界は、致命的な混乱に陥らざるを得なかった」という言葉を紹介する。
このことが、端的に現れたのが、「オーストリア・ハンガリー帝国」を解体するサンジェルマン条約とトリアノン条約である。中央ヨーロッパに「チェコスロバキア」を作り出すことは、オーストリアを弱小国に落とし込むと同時に、ドイツ、ソビエト、ポーランドを牽制し、彼らの力をそのためにそぎ取ることができると英仏は考えたからである。
「民族自決」という原理を恣意的に用いて、例えば、1918年、トマス・マサリクの下に新国家として生まれた「チェコスロバキア」は、国民の47%を占めるチェコ人の支配下に、350万人の在外ドイツ人、300万人のスロバキア人、100万人のハンガリー人、50万人のルテニア人(ウクライナ人)、15万人のポーランドを抱え込んだ。新国家は、オーストリアとハンガリーから70〜80%の産業を奪い、一躍世界十位の工業国になった。なぜ、このような手品のようなことができたのか?チェコの独立運動家、マサリクもベネシュも人間的魅力と狡猾な政治的知性に長けていた。彼らに足りなかったものがあるとすれば、必ずしも国際的に信頼も尊敬も受けていないチェコ人の英仏のドイツ牽制の思惑によるできすぎた成功は、後々の失敗の原因になるという経験則を忘れたことである。「ズデーテン」「シレジア」。住民投票でドイツ帰属が明らかな国境地帯を抱え込んだことが、チェコスロバニアには、後々、致命的な運命をもたらすことになる。
(ルテニア人とは、一般の日本人にはほとんど耳慣れない言葉である。19世紀にウクライナ人が独立運動を夢見たときに、彼らはそれぞれのいきさつに従って、ポーランド、ロシア、オーストリア三カ国のうちの一つを援助国として選んだ。オーストリアを頼みとした人々は数的には一番少なかったが、第一次対戦終了までこの名称はオーストリアには残った。言葉の起源は、キエフを創った「ルーシ」に由来する)
第二次大戦は、ネビル・チェンバレンの名前とミュンヘンにおける「宥和政策」の失敗抜きには語れない。多くの論者が、この「ミュンヘンでの妥協」がチェコスロバキアを解体させ、ナチスを勢いづかせ、とどめようもない「悪鬼羅刹」と化させたのだと信じている。しかし、著者は、反論する。チェンバレンは、ミュンヘンで突然宥和主義者になったわけではない。
チェンバレンは、元々、「ズデーテン」も「シレジア」もドイツに帰属すべきだと考えていた。国際管理下に置かれていた自由都市「ダンチッヒ」も住民の95%はドイツ人であり、ドイツに帰属すべきである。そのために、ポーランドは、「ポーランド回廊」の一部を譲るべきであろうし、当然そうすべきものとして、1939年の8月末まで、つまり開戦直前までポーランド政府を説得していたのである。
著者は、チェンバレンに責任があるとすれば、「ポーランドに対する攻撃に対してイギリスは無条件で宣戦布告する」という、イギリスの開戦責任をポーランドに白紙委任してしまったことにある、と追及する。
チェンバレンにしてみれば、イギリスがついているなら、ドイツもそうそう軽率に軍事行動はとれないだろうと考えた。しかし、ポーランド政府は、「それなら」とドイツとの外交交渉を数ヶ月間サボタージュし、「絶対ダンチッヒもポーランド回廊も譲らない」と決め込んだのである。(このポーランドの頑なさに支持を与えていたのはアメリカである)
この事態は、一日で動いた。1939年8月23日、リッベントロップとモロトフは、一日で「ポーランド分割」に合意して「独ソ不可侵条約」を締結したからである。一ヶ月後、ポーランドは独ソに分割され、軍事占領される運命にあった。
9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻が始まり、9月3日には、イギリス、フランスはドイツに宣戦布告した。こうして「欧州の動乱」は始まった。9月17日には、ソビエト軍のポーランド侵攻も始まり、27日、独ソ両軍は予め設定された境界を挟んで、分割協定にサインした。
(日本の高校世界史の教科書は、「反ファシズム戦線」の一翼をソビエトが担っていたとする余り、「独ソのポーランド分割協定」を避けて記述したから、「独ソ軍がそれぞれポーランドに進駐した」と書くだけで理解不能だった。今は、どうなったことか。もっとも、これは、日本人だけではなく、ホブズボームのような左翼史家は慎重に記述を避けて知らんぷりをする。
戦前、日本は1939年9月の事態を「欧州の動乱」と呼んだ。昭和で言えば、14年9月。この時点で戦争はまだ局地戦争だった。同年10月号の中央公論「巻頭子」は「この動乱がいつ世界大戦ともならないとは限らないのである」と書いた。つまり、「世界大戦」などこの時点で存在しないのである。二年後、1941年末、「世界大戦」と呼ぶべき状態になったとき、初めて、「世界大戦」という状態が認識され、1914年の「世界大戦」と区別するために「第一次」と「第二次」という区分が冠されたものである。)
ビクトリア女王の孫でもあったヴィルヘルム二世にとって、イギリスとの戦いが本意でなかったように、ヒトラーにとっても、同じテュートン民族が戦うことに抵抗があった。このヒトラーの真意は、チャーチルも承知していたことだろう。
「バトル・オブ・ブリテン」の直後、1940年のフランス占領の直後、ヒトラーは、二度、丁重な和平の提案をチャーチルに対して行っている。
恐らく、ヒトラーの構想は、海はイギリスに任せ、陸の、中央ヨーロッパの覇者としてドイツが君臨することを思い描いていたものだったろう。放っておけば、ドイツは、その中世以来の本能として東方植民に向かい、スラブ民族と熾烈な争いを展開したとしても、フランスに対しては、「アルザス・ロレーヌ」以上の野心は見せなかったことだろう。
だが、チャーチルは、ヒトラーの提案を黙殺した。ナチスのやり方は余りに野蛮であり、まともな交渉相手として認めたくない感情が働いたとしても無理はない。死者と破壊の規模が少なくて済むことだけを考えるなら、なぜ、このとき、妥協しなかったのか、と批判できなくはない。人口三千万のポーランドは、650万人の死者(50万人はユダヤ人)を出し、国土は西に大きく動かされ、その後45年間ソビエトの支配に苦しんだ。だが、チャーチルがポーランドに対して、「色男のベック(当時のポーランド指導者)のバカ野郎!チェコ解体のときはナチスと組んで嬉々としてテッシェンの鉱山地帯を併合した奴だ。チェンバレンの説得を聞かず、イギリスを開戦に持っていった奴じゃないか。ポーランドなんてナチスのユダヤ人殺しの片棒ばかり担いで、力もないくせに大言壮語して、結局、独ソに分割された奴だ。同情などできるか」と答えたことは、事実である。(日本人はポーランド贔屓だが、ナチスのユダヤ人迫害はポーランドの協力があってのものだった。野村真理「ガリツィアのユダヤ人」参照)
1941年6月22日。ドイツ軍のソビエトに対する「バルバロッサ作戦」が始まった。破竹の勢いでドイツ軍は、モスクワ近辺に迫った。
ブキャナンの仮説は、「ヒトラーの真意は、ソビエト軍を殲滅すれば、イギリスのソビエトとの連携作戦は消滅する。チャーチルは否応なしにドイツとの和平交渉の場に立たなくてはならなくなる」というものだ。
「定説」は、ヒトラーは本来東方政策として「レーベンスラオム(生存圏)」の確保のために、ポーランド、ウクライナへの野心を隠していなかった。フランスを制圧し、イギリスに反攻の能力がないと見て、粛清によって軍が弱体化していると見られていたソビエトの攻略に向かった、というものである。著者の「仮説」の妥当性は、今後の検討課題である。
著者は、言う。この二つの大戦に、チャーチルほど深く関わった者はいない。若き議員チャーチルは、第一次大戦でイギリスを開戦へ導いた立役者の一人だった。ボルシェビキ革命の危険性にいち早く気づき、最も激しく、レーニンとスターリンに対する戦争を主張した男だった。ナチスの台頭については、その危険性に一貫して警鐘を鳴らし続けた。チェンバレンに反対し、ドイツとの戦いを恐れず、むしろ望んだ。ヒトラーの和平提案を無視して、あくまで最後まで戦うことを望み、フランクリン・ルーズベルトを戦線に引き込んだ。そして何より、あれほど、憎み嫌ったスターリンにお愛想を振りまき、最後には、スターリンに「過去の私を許してくれますか」とまで言った。
イギリスは、戦争に勝ったが、植民地も、海も、ポンドも、国際関係を仕切るシステムもパワーも全て失った。一体、チャーチルとは、何者だったのか?
著者にとって許し難いことは、このチャーチルの胸像をホワイトハウスの一角に飾り、ネオコンに吹き込まれた「一国覇権主義」に凝り固まった外交問題に素人の大統領である。共和党の大統領選にも出馬経験のある著者は、チャーチルを崇拝することの危険性を強く説く。
評者のレビューは、少し長過ぎる。アジア情勢、日本や中国について論じたいことはまだまだあるが、いい加減、この辺でやめなければいけない。500ページ余りの本を読むために、二日間、睡眠不足になったが、それだけの価値は十分にある著作である。
2018年4月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
実に面白い貴重な本。馬淵睦夫元大使の「国難の正体」など、と併せて読むのがお勧めです。ユダヤ系を中心とした国際金融資本が、いかに両大戦に関わっていたのか裏を取れる材料があるか気になりしながら読むと、バルークの影響を受けたというチャーチルが実に不自然な動きをして大戦を引き起こしていたり、ヒトラーがユダヤ金融資本とソビエト共産革命を同一視していたり、ホロコーストへの経緯も理解できました。いわゆる「ユダヤ陰謀論」などとレッテル貼りをするのは間違っていると改めて思わされました。
2013年9月6日に日本でレビュー済み
「世紀の偉人」チャーチルがwar-dogといわれるのは戦術的なレベルでの問題だと思っていた。
しかしブキャナンによれば違う。彼は本質的に、戦略的な判断力の弱い病的なwar-dogだった。
言葉の天才だが自分の言葉、権力に酔っている大英帝国至上主義者。
WW1ではイギリスとして傍観することもできたドイツ軍のベルギー侵入を口実に参戦
せしめて、だれも沈鬱だったなかで、ひとり嬉々としていた人物。
ベルサイユ講和の協議中にも不法非情な海上封鎖を維持して、数十万人の餓死をドイツに
強制することで、無体な講和条件を敗者に飲ませWW2の原因を誘ったのもチャーチル。
目先の噛合いに夢中になって戦略的な大事と瑣事、真の敵と一時の敵を区別せず
機会主義で一貫しない。目先の勝利のためには国際法も倫理も宗教もない。無差別
爆撃をはじめダムダム弾さえ忌避しない。
ヒトラーの目標はベルサイユの不正の修正であり、それも概ね抑制的であった。WW2
初めの数カ月は奇妙な戦争といわれたが、それは、ヒトラーにとって不本意な開戦で
あったからだ。ヒトラーの英国空襲は「チャーチル」を引きずり下ろすだけが目的だった。
ヒトラーの戦略目標はソ連共産主義の壊滅と、ウクライナの穀倉、―ヒトラーにこれを許して
おけば、WW2後のソ連東欧のいや毛沢東のシナで今も続く悲劇は避けられた。
WW2をWWにした真のアグレッサーはヒトラーではない。チャーチルと、真の悪としての
スターリン。そしてこれはブキャナンは筆にしていないが、偏見に満ちて虎視眈々と西漸の布石を
うっていたFDRもたぶん元凶なのであろう。
それにしても、世界史の巨人たちに失策や凡プレーのなんと多いことか。物理学における三体問題の
ように、葛藤する主権国家関係の永遠の宿命か、しかも民主主義的大衆の気まぐれにも支配される。
流血と漂泊の数千年を経、かつレイシズム汚染を免れない白人たちの本領なのか。
白人支配をたそがれさせる神のご配慮にしてはあまりにも手荒な、WW1、WW2である。
本書で日本は脇役。日英同盟の廃棄はターニングポイントになった英国の愚行だと痛論はされているが、
日米問題もほとんどふれない。「日米衝突の根源」「日米衝突の萌芽」の二冊の大著をものされた渡辺惣樹さんの
次作を待望することの大なるゆえん。
目からうろこがたくさん落ちました。
しかしブキャナンによれば違う。彼は本質的に、戦略的な判断力の弱い病的なwar-dogだった。
言葉の天才だが自分の言葉、権力に酔っている大英帝国至上主義者。
WW1ではイギリスとして傍観することもできたドイツ軍のベルギー侵入を口実に参戦
せしめて、だれも沈鬱だったなかで、ひとり嬉々としていた人物。
ベルサイユ講和の協議中にも不法非情な海上封鎖を維持して、数十万人の餓死をドイツに
強制することで、無体な講和条件を敗者に飲ませWW2の原因を誘ったのもチャーチル。
目先の噛合いに夢中になって戦略的な大事と瑣事、真の敵と一時の敵を区別せず
機会主義で一貫しない。目先の勝利のためには国際法も倫理も宗教もない。無差別
爆撃をはじめダムダム弾さえ忌避しない。
ヒトラーの目標はベルサイユの不正の修正であり、それも概ね抑制的であった。WW2
初めの数カ月は奇妙な戦争といわれたが、それは、ヒトラーにとって不本意な開戦で
あったからだ。ヒトラーの英国空襲は「チャーチル」を引きずり下ろすだけが目的だった。
ヒトラーの戦略目標はソ連共産主義の壊滅と、ウクライナの穀倉、―ヒトラーにこれを許して
おけば、WW2後のソ連東欧のいや毛沢東のシナで今も続く悲劇は避けられた。
WW2をWWにした真のアグレッサーはヒトラーではない。チャーチルと、真の悪としての
スターリン。そしてこれはブキャナンは筆にしていないが、偏見に満ちて虎視眈々と西漸の布石を
うっていたFDRもたぶん元凶なのであろう。
それにしても、世界史の巨人たちに失策や凡プレーのなんと多いことか。物理学における三体問題の
ように、葛藤する主権国家関係の永遠の宿命か、しかも民主主義的大衆の気まぐれにも支配される。
流血と漂泊の数千年を経、かつレイシズム汚染を免れない白人たちの本領なのか。
白人支配をたそがれさせる神のご配慮にしてはあまりにも手荒な、WW1、WW2である。
本書で日本は脇役。日英同盟の廃棄はターニングポイントになった英国の愚行だと痛論はされているが、
日米問題もほとんどふれない。「日米衝突の根源」「日米衝突の萌芽」の二冊の大著をものされた渡辺惣樹さんの
次作を待望することの大なるゆえん。
目からうろこがたくさん落ちました。