チャウシェスク独裁政権下のルーマニアを舞台に主人公が愛を貫くために親友との友情を失うというストーリー。
密告がまかり通り、秘密警察が公然と人々の行動を監視下におく不健康な社会を感じることが出来る本。
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狙われたキツネ 新装版 ハードカバー – 2009/11/14
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購入オプションとあわせ買い
2009年ノーベル文学賞受賞作家ヘルタ・ミュラー氏 唯一の邦訳
チャウシェスク独裁政権下のルーマニア。家宅侵入、尾行、盗聴。恋愛感情さえスパイ活動に利用され、誰かを好きになることが、親友を傷つける。若い女性教師アディーナの見た独裁制の恐怖。秘密警察に追いつめられ田舎に身を隠す。再び街に帰った彼女が見たものは・・・・・。
----------
すでにジャーナリズムの世界では、この革命は遠い過去のできごとであるだろう。映像メディア全盛の時代に、速報性に欠ける文学はこうした世界史的な事件に対しては無力なのだろうか、それとも文学は、それ独自の表現を与えることができるだろうか。その答えを本書は与えてくれている。
(「訳者あとがき」より)
チャウシェスク独裁政権下のルーマニア。家宅侵入、尾行、盗聴。恋愛感情さえスパイ活動に利用され、誰かを好きになることが、親友を傷つける。若い女性教師アディーナの見た独裁制の恐怖。秘密警察に追いつめられ田舎に身を隠す。再び街に帰った彼女が見たものは・・・・・。
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すでにジャーナリズムの世界では、この革命は遠い過去のできごとであるだろう。映像メディア全盛の時代に、速報性に欠ける文学はこうした世界史的な事件に対しては無力なのだろうか、それとも文学は、それ独自の表現を与えることができるだろうか。その答えを本書は与えてくれている。
(「訳者あとがき」より)
- 本の長さ370ページ
- 言語日本語
- 出版社三修社
- 発売日2009/11/14
- 寸法13.72 x 2.79 x 18.8 cm
- ISBN-104384042760
- ISBN-13978-4384042764
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商品の説明
著者について
ヘルタ・ミュラー
1953年ルーマニア・ニツキードルフ生まれ。ドイツ系少数民族の出。母語はドイツ語。1987年にドイツに出国、現在はベルリン在住。
クライスト賞(1994年)、ヴュルト=ヨーロッパ文学賞(2006年)など多数の文学賞のほか、2009年にはノーベル文学賞を受賞。
1953年ルーマニア・ニツキードルフ生まれ。ドイツ系少数民族の出。母語はドイツ語。1987年にドイツに出国、現在はベルリン在住。
クライスト賞(1994年)、ヴュルト=ヨーロッパ文学賞(2006年)など多数の文学賞のほか、2009年にはノーベル文学賞を受賞。
登録情報
- 出版社 : 三修社; 新装版 (2009/11/14)
- 発売日 : 2009/11/14
- 言語 : 日本語
- ハードカバー : 370ページ
- ISBN-10 : 4384042760
- ISBN-13 : 978-4384042764
- 寸法 : 13.72 x 2.79 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 844,511位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年12月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2011年5月2日に日本でレビュー済み
があるから、読まれないのだとおもう。
※ 本書のストーリは、ある女性がある男と精神的なつながりと日常のつながりを断続的に重ねながらくっつく話です。
ルーマニアの下層労働階級の出身の女性教師が中心にいます。
周囲の日常がじつに感覚的に書かれており、カフカを想起させる精神の断裂を思わせる独白部分もあります。
原著はまことに三面記事的叙述であふれかえっていますが、その雑多な中の描写はほんとうに初出の驚きがあります。
一ページごとに切れてしまう逸話が日常的に組み合わされて大きな一つになるという構成で、これは彼女の創始による新しい書き方だといわれているようです。
なお本書は、彼女のドイツ亡命中期ごろの作品です。なんというか未完成の状態で最後の頁が終わっています。カフカと同じ。別の登場人物と別の設定でまた続編が別の本として書かれる。そういうつながりを持っています。
いずれにせよ代表作と目される数点の作品は、この作品と連続性があると思われます。ただしまだ日本語には翻訳されていないようですが。
原著者ヘルタ・ミューラーは、ルーマニア国内のドイツ語圏(バナトというところ)に育った人で、父親はナチドイツに協力していたトラック運転手。ルーマニア語は母語ではなく、文法を知っている程度で、ドイツ語を普段使うルーマニア国内の少数民族として成長。
実物はたしかにルーマニア人ではないです。肌の色が違う。美人ではないです。
彼女は地元の大学の文学部を卒業して政府のための文書作成などやっていた(下級公務員のようなもの)が、政府に都合のいい翻訳をしなかったのでソッコーで首。女性としての身体生命への危険があり、ドイツ移住(亡命)。その後ずっとドイツで、ブラブラ。社会保障で暮らして小説を書いていたらしいですね。ハリポの作者と同じかな。
底辺から這い上がり、作家としてキャリアを積むことができる地位に上がるとその後はどんどん書いて、そして大きな文学賞をほとんど全部もらっている人です。十二分の才能ありだと思います。
ただし、他の長編も含めて決して読んでおもしろいとはいえません。一章読んでまた数日後に一章。そんな読み方が最適かも。
ノーベル賞以後も読者は少ないと思います。
複数の登場人物を複雑に組み合わせるのが得意で、彼ら彼女らは、たとえば学生寮に住む大学生などとして、じつに多面的に語ります。
したがって早く読めない。
こういうところが、なんでもインスタントか代替物で済ましてしまう今の世相からみると、不人気の原因かもしれません。
ノーベル文学賞は必ずしも優れた作家に与えられるとは言えないですが、この作者は本物ではないかと考えます。
ドイツ語の原文は、短文主体です。しかも造語(二つの単語を組み合わせるとか職業的スラングなどから作る)が多く、音・色彩・視覚に切り込むのでインパクトがあると思います。ノーベル賞受賞以前から、批評も含めるとかなりの関連書籍が出版されています。多作の人。才能はもういうまでもありません。原著は平易。BILDみたいな俗向けする文章で、上品には書いてない。理系出身のわたしでもすぐ読めます。
とはいえ、野卑な体裁を意図的に構成している口語体です。辞書ではわかりにくい言葉をわざと使う。ゆっくり読むと香気溢れる名文で、韻を踏んだところもあります。リリカルなところがある。もともとドイツ語そのものが読んでも聴いても美しいですけどね。
小説の形を借りた「散文詩」であるという評価が多数の批評家によって与えられている理由がわかります。
ハノーバー出張中にたまたま彼女の読書会があり、すぐ近くで著者を見ました。偉そうに語らない。ふつうの書店でしたが対面で語っていて、質問も受けていました。(このあたりは日本の作家はどうなんでしょうかね? 日本でノーベル文学賞を受賞した作家もいますが、講演に来てもらおうとしても講演料がチョオ高額。親しく話したなんて聞いたこともない)
原著者の印象が非常に深く、わたしはゴリゴリの理系人間ですが宿舎でドイツ人に造語の意味を教えてもらいながら、読書会で即売されていた本を買って読みました。
ノーベル賞受賞により、インテリだけの著者ではなくなったといえます。
反面、もうひとつのレビューが表面的に語るような、通俗政治ものとしてのみ語られるのは残念です。
仏訳と英訳がすぐ出てその後スペイン語訳等も出ています。おそらく世界中で書店に並んでいる(しかし読者は少ないと思う)。
最初の数ページは実に違和感がありますが、筆者のストーリの奇抜な設定に驚きながら読み進むと、多次元空間の登場人物が出現しては
消えていくので、その後は飽きないとおもう。
翻訳をした人はどういう人なのか知らないですが。
ミューラー女史がさりげなくしかし意図的に取り入れている、いらいらさせる、読み手の感情をさかなでする文体が示されていないのでは?
そのうえ翻訳にえらばれた日本語の語彙リストが乏しいのでは?
今風のやわな独和辞典ではなく木村相良的な語彙とか近世以後のやまとことばを意識的に翻訳に使ってみたらどうなんでしょう?
この翻訳には、あきらかに意味不明のままに変換した語句文章があるのでは?
ミューラー女史の原文も多義的にとれるところがあるのは事実ですが、ご本人は文章の推敲には時間をかけていると語っていましたので
それなりの深い配慮があるとみるべきでしょう(なお新聞の切り抜きなど雑多な資料を山のように持っているそうです)。
仏訳と英訳をもよく参照して増刷のときには翻訳のごまかし部分を修正すべきです。
かつてヘミングウエイの作品が本邦初の翻訳で紹介されたとき、ヘミングウエイ的言語活動に対する翻訳者の注があった。
いまでも日本の古典が出版されるときは注釈がつく。
この翻訳者は注釈なしでヘルタミューラーのドイツ語を日本語に移し替えることができる力量の人なのだろうか?
文学史上きわめて重要な作家であり、少数の人にだけでも長く読まれるべきだと思うので、あえて疑問として書き記します。
もうひとつ述べます。
ルーマニアの独裁政のもとでひそやかに私生活を営む市民を書いたものだという「帯」(先入観ともいうべき愚かな思い込み)が
なければ、この著作は不平不満をもちながらも体制に柔軟に生きる無知でけちくさい庶民の日常生活性生活食生活住生活etcを
書いた断章だなとフツウに受け取られて終わりなのではないでしょうか。
たまねぎなどの野菜類、ネグリジェを着た不感症の太った妻、など非常にカラフルに展開するが、中身はほんとうはモノトーン。
それほどに背後に隠れた政府監視の網の目が描かれている−といえばまあいえるでしょうが、日本風にいえば、一種の私小説ともいえる。
「権力の静かな午後」といういい方などでわずかにわかる仕組みは、われわれの社会生活も想起させる深い洞察力があるとおもう。
ネットを監視し、マスコミに対する情報統制をきびしく行い、追従する大学教授や評論家だけの状況を作り出し、
その一方で、マスコミに過度に露出してパフォーマンスを繰り返す首相や閣僚たち。
官房機密費を大量に支出する現在の菅直人政権下の日本は、平和に見えて実は全く違うものだった
当時のルーマニアとあまり変わらないのではないでしょうか。
そしてかつての保守政権の腐敗はだれが追求するのか? 腐敗を継承しただけではないのか?
この創作はそういう思いを抱かせます。
新装版というのは、活字を組み変えて新しい版を起こすということなのでしょうか?
英訳のようにもっともっと定価をやすくして、もっとたくさんの読者を獲得すべきでは?
ノーベル賞で儲けようとしても構わないですが、過度のコマーシャリズムで拙劣なものをほんものと勘違いさせるやり方は
よくないのではないかとおもう。
出版サイドの先入観だけの眼力を疑う。
ノーベル文学賞というブランド物を輸入すればいいんだというのでは、日本では文学は衰退するだけ(もう衰退しているのかも)だと思います。
※ 本書のストーリは、ある女性がある男と精神的なつながりと日常のつながりを断続的に重ねながらくっつく話です。
ルーマニアの下層労働階級の出身の女性教師が中心にいます。
周囲の日常がじつに感覚的に書かれており、カフカを想起させる精神の断裂を思わせる独白部分もあります。
原著はまことに三面記事的叙述であふれかえっていますが、その雑多な中の描写はほんとうに初出の驚きがあります。
一ページごとに切れてしまう逸話が日常的に組み合わされて大きな一つになるという構成で、これは彼女の創始による新しい書き方だといわれているようです。
なお本書は、彼女のドイツ亡命中期ごろの作品です。なんというか未完成の状態で最後の頁が終わっています。カフカと同じ。別の登場人物と別の設定でまた続編が別の本として書かれる。そういうつながりを持っています。
いずれにせよ代表作と目される数点の作品は、この作品と連続性があると思われます。ただしまだ日本語には翻訳されていないようですが。
原著者ヘルタ・ミューラーは、ルーマニア国内のドイツ語圏(バナトというところ)に育った人で、父親はナチドイツに協力していたトラック運転手。ルーマニア語は母語ではなく、文法を知っている程度で、ドイツ語を普段使うルーマニア国内の少数民族として成長。
実物はたしかにルーマニア人ではないです。肌の色が違う。美人ではないです。
彼女は地元の大学の文学部を卒業して政府のための文書作成などやっていた(下級公務員のようなもの)が、政府に都合のいい翻訳をしなかったのでソッコーで首。女性としての身体生命への危険があり、ドイツ移住(亡命)。その後ずっとドイツで、ブラブラ。社会保障で暮らして小説を書いていたらしいですね。ハリポの作者と同じかな。
底辺から這い上がり、作家としてキャリアを積むことができる地位に上がるとその後はどんどん書いて、そして大きな文学賞をほとんど全部もらっている人です。十二分の才能ありだと思います。
ただし、他の長編も含めて決して読んでおもしろいとはいえません。一章読んでまた数日後に一章。そんな読み方が最適かも。
ノーベル賞以後も読者は少ないと思います。
複数の登場人物を複雑に組み合わせるのが得意で、彼ら彼女らは、たとえば学生寮に住む大学生などとして、じつに多面的に語ります。
したがって早く読めない。
こういうところが、なんでもインスタントか代替物で済ましてしまう今の世相からみると、不人気の原因かもしれません。
ノーベル文学賞は必ずしも優れた作家に与えられるとは言えないですが、この作者は本物ではないかと考えます。
ドイツ語の原文は、短文主体です。しかも造語(二つの単語を組み合わせるとか職業的スラングなどから作る)が多く、音・色彩・視覚に切り込むのでインパクトがあると思います。ノーベル賞受賞以前から、批評も含めるとかなりの関連書籍が出版されています。多作の人。才能はもういうまでもありません。原著は平易。BILDみたいな俗向けする文章で、上品には書いてない。理系出身のわたしでもすぐ読めます。
とはいえ、野卑な体裁を意図的に構成している口語体です。辞書ではわかりにくい言葉をわざと使う。ゆっくり読むと香気溢れる名文で、韻を踏んだところもあります。リリカルなところがある。もともとドイツ語そのものが読んでも聴いても美しいですけどね。
小説の形を借りた「散文詩」であるという評価が多数の批評家によって与えられている理由がわかります。
ハノーバー出張中にたまたま彼女の読書会があり、すぐ近くで著者を見ました。偉そうに語らない。ふつうの書店でしたが対面で語っていて、質問も受けていました。(このあたりは日本の作家はどうなんでしょうかね? 日本でノーベル文学賞を受賞した作家もいますが、講演に来てもらおうとしても講演料がチョオ高額。親しく話したなんて聞いたこともない)
原著者の印象が非常に深く、わたしはゴリゴリの理系人間ですが宿舎でドイツ人に造語の意味を教えてもらいながら、読書会で即売されていた本を買って読みました。
ノーベル賞受賞により、インテリだけの著者ではなくなったといえます。
反面、もうひとつのレビューが表面的に語るような、通俗政治ものとしてのみ語られるのは残念です。
仏訳と英訳がすぐ出てその後スペイン語訳等も出ています。おそらく世界中で書店に並んでいる(しかし読者は少ないと思う)。
最初の数ページは実に違和感がありますが、筆者のストーリの奇抜な設定に驚きながら読み進むと、多次元空間の登場人物が出現しては
消えていくので、その後は飽きないとおもう。
翻訳をした人はどういう人なのか知らないですが。
ミューラー女史がさりげなくしかし意図的に取り入れている、いらいらさせる、読み手の感情をさかなでする文体が示されていないのでは?
そのうえ翻訳にえらばれた日本語の語彙リストが乏しいのでは?
今風のやわな独和辞典ではなく木村相良的な語彙とか近世以後のやまとことばを意識的に翻訳に使ってみたらどうなんでしょう?
この翻訳には、あきらかに意味不明のままに変換した語句文章があるのでは?
ミューラー女史の原文も多義的にとれるところがあるのは事実ですが、ご本人は文章の推敲には時間をかけていると語っていましたので
それなりの深い配慮があるとみるべきでしょう(なお新聞の切り抜きなど雑多な資料を山のように持っているそうです)。
仏訳と英訳をもよく参照して増刷のときには翻訳のごまかし部分を修正すべきです。
かつてヘミングウエイの作品が本邦初の翻訳で紹介されたとき、ヘミングウエイ的言語活動に対する翻訳者の注があった。
いまでも日本の古典が出版されるときは注釈がつく。
この翻訳者は注釈なしでヘルタミューラーのドイツ語を日本語に移し替えることができる力量の人なのだろうか?
文学史上きわめて重要な作家であり、少数の人にだけでも長く読まれるべきだと思うので、あえて疑問として書き記します。
もうひとつ述べます。
ルーマニアの独裁政のもとでひそやかに私生活を営む市民を書いたものだという「帯」(先入観ともいうべき愚かな思い込み)が
なければ、この著作は不平不満をもちながらも体制に柔軟に生きる無知でけちくさい庶民の日常生活性生活食生活住生活etcを
書いた断章だなとフツウに受け取られて終わりなのではないでしょうか。
たまねぎなどの野菜類、ネグリジェを着た不感症の太った妻、など非常にカラフルに展開するが、中身はほんとうはモノトーン。
それほどに背後に隠れた政府監視の網の目が描かれている−といえばまあいえるでしょうが、日本風にいえば、一種の私小説ともいえる。
「権力の静かな午後」といういい方などでわずかにわかる仕組みは、われわれの社会生活も想起させる深い洞察力があるとおもう。
ネットを監視し、マスコミに対する情報統制をきびしく行い、追従する大学教授や評論家だけの状況を作り出し、
その一方で、マスコミに過度に露出してパフォーマンスを繰り返す首相や閣僚たち。
官房機密費を大量に支出する現在の菅直人政権下の日本は、平和に見えて実は全く違うものだった
当時のルーマニアとあまり変わらないのではないでしょうか。
そしてかつての保守政権の腐敗はだれが追求するのか? 腐敗を継承しただけではないのか?
この創作はそういう思いを抱かせます。
新装版というのは、活字を組み変えて新しい版を起こすということなのでしょうか?
英訳のようにもっともっと定価をやすくして、もっとたくさんの読者を獲得すべきでは?
ノーベル賞で儲けようとしても構わないですが、過度のコマーシャリズムで拙劣なものをほんものと勘違いさせるやり方は
よくないのではないかとおもう。
出版サイドの先入観だけの眼力を疑う。
ノーベル文学賞というブランド物を輸入すればいいんだというのでは、日本では文学は衰退するだけ(もう衰退しているのかも)だと思います。
2009年10月17日に日本でレビュー済み
舞台は1980年代末のルーマニア。反体制的とみなされた小学校教師のアディーナは秘密警察による家宅侵入や盗聴の影に脅かされるようになる。彼女につきまとう秘密警察の男パヴェルは彼女の親友クララとつきあい始めた人物だった…。
今年のノーベル文学賞受賞者に決まったヘルタ・ミュラーの、今のところ唯一日本語で読める作品と聞き、図書館で借りて読んでみました。
350頁強のこの小説は大半の文章が現在形で書かれた、日常の断片のモザイク画のようです。秘密警察による監視国家の苛烈な現実を描くように見えて、どこか現実味を欠いた幻想的な色彩も帯びており、ともすると物語がどこへ向かうのか焦点の定まらないような気がして、読んでいて退屈に感じることも一度ならずありました。
秘密警察による監視国家といえば近年は東ドイツのシュタージを軸とする映画や小説が発表されていますが、そうしたもののほうがサスペンスフルで、少なからずエンターテインメント色も持ちながら独裁国家の恐怖を描いて興味深い作品に仕上がっているのが一般的な気がします。
それに比べるとこのミュラーの作品は純文学に過ぎるのでしょうか、必ずしも楽しい読書体験を与えてくれたとはいえません。
終章ちかくになり、89年のチャウシェスク大統領夫妻処刑という一大事件が起こるあたりから、物語を読む私の眼前に歴史の現実がまざまざと蘇る思いがして、あの激動の時代を思い返しながら読みました。当時テレビで盛んに映し出され、今も目に焼きつく独裁者夫妻の屍(しかばね)の映像と、この物語の終幕が重なり、なんとも重苦しい思いがしました。
*「ロシアのキール文字」(47頁)とありますが、「キリル文字」というのが正しい呼称です。
今年のノーベル文学賞受賞者に決まったヘルタ・ミュラーの、今のところ唯一日本語で読める作品と聞き、図書館で借りて読んでみました。
350頁強のこの小説は大半の文章が現在形で書かれた、日常の断片のモザイク画のようです。秘密警察による監視国家の苛烈な現実を描くように見えて、どこか現実味を欠いた幻想的な色彩も帯びており、ともすると物語がどこへ向かうのか焦点の定まらないような気がして、読んでいて退屈に感じることも一度ならずありました。
秘密警察による監視国家といえば近年は東ドイツのシュタージを軸とする映画や小説が発表されていますが、そうしたもののほうがサスペンスフルで、少なからずエンターテインメント色も持ちながら独裁国家の恐怖を描いて興味深い作品に仕上がっているのが一般的な気がします。
それに比べるとこのミュラーの作品は純文学に過ぎるのでしょうか、必ずしも楽しい読書体験を与えてくれたとはいえません。
終章ちかくになり、89年のチャウシェスク大統領夫妻処刑という一大事件が起こるあたりから、物語を読む私の眼前に歴史の現実がまざまざと蘇る思いがして、あの激動の時代を思い返しながら読みました。当時テレビで盛んに映し出され、今も目に焼きつく独裁者夫妻の屍(しかばね)の映像と、この物語の終幕が重なり、なんとも重苦しい思いがしました。
*「ロシアのキール文字」(47頁)とありますが、「キリル文字」というのが正しい呼称です。
2010年1月12日に日本でレビュー済み
本書は、チャウシェスク政権下のルーマニアの生活を描いた物語。
チャウシェスク政権といえば、独裁国家。
経済的困窮のために、市民同士が相互に監視し合い、密告し合い、いくらかでも自分の生活をよくしようという気持ちにさせられる時代と社会。現代に生きる私たちには、とても想像だにできない世界。
それだけに、本書は貴重な歴史小説だともいえるのではないか。
本書を読んでいて思ったのは、どうしてこれほど学校での生活、工場での労働の描写、労働者たちの会話が、これだけリアルさを感じさせるのかということだった。
作家というものは想像の世界から創造するのが仕事だとはいえ、どうしてここまで読み手を納得させるストーリーが描けるのか、というのが私の疑問のひとつだった。
それは訳者あとがきで種明かしがなされる。
著者自身の体験それじたいが下敷きになっているとのこと。
本書で著者は、「自己」の体験を描いたのだ。
まさに体験した者でなければ描くことのできないリアリズムが本書に流れている。
故郷を追放されても愛する祖国、郷土を思うという気持ちが、本書を書かせたのだろう。
もうひとつ本書を読んで感じたこと。
秘密警察が暗躍する国家、社会に生きる市民たちの恐怖。
いわば社会全体がチャウシェスクが作った組織に囚われている。
社会全体が「囚われの身」。
生活物資さえ自由にならず、発する言葉でさえ常に監視の目と耳を気にしなければならない生活というのは、いかばかりか。
私たちの生活は、「自由、ときどき不自由」。
しかし警察国家では「不自由、ときに自由」。
明日もまた暗黒の今日と同じ日しかやってこないという生活。
想像しただけで恐ろしい。
しかも、それは、時間を区切られたものであって、それまで我慢すればよいという性質のものでもない。
そんな閉塞状況に生きる人間の心というものを本書は示してくれた。
チャウシェスク政権は、89年に崩壊し、市民に自由が戻った。
しかし私たちの隣国は、いままさに本書の世界の中にいる。
本書を閉じてから、そんなことを思った。
生老病死に選択の自由はない。
どの時代、どの国の、どの社会に生まれるかなど、われわれ自身が決することなどできない。
それでも私たちは、生きていかなければならない。
本書に描かれる恐怖国家に生きる市民たちのことに思いを馳せる。
ノーベル文学賞は当然の受賞だったのかもしれない。
むしろ、遅すぎたのではなかろうか。
そして閉塞感が蔓延する現在の日本。
もしかして、この時代にこそ、本書は読まれるべきなのではなかろうか。
チャウシェスク政権といえば、独裁国家。
経済的困窮のために、市民同士が相互に監視し合い、密告し合い、いくらかでも自分の生活をよくしようという気持ちにさせられる時代と社会。現代に生きる私たちには、とても想像だにできない世界。
それだけに、本書は貴重な歴史小説だともいえるのではないか。
本書を読んでいて思ったのは、どうしてこれほど学校での生活、工場での労働の描写、労働者たちの会話が、これだけリアルさを感じさせるのかということだった。
作家というものは想像の世界から創造するのが仕事だとはいえ、どうしてここまで読み手を納得させるストーリーが描けるのか、というのが私の疑問のひとつだった。
それは訳者あとがきで種明かしがなされる。
著者自身の体験それじたいが下敷きになっているとのこと。
本書で著者は、「自己」の体験を描いたのだ。
まさに体験した者でなければ描くことのできないリアリズムが本書に流れている。
故郷を追放されても愛する祖国、郷土を思うという気持ちが、本書を書かせたのだろう。
もうひとつ本書を読んで感じたこと。
秘密警察が暗躍する国家、社会に生きる市民たちの恐怖。
いわば社会全体がチャウシェスクが作った組織に囚われている。
社会全体が「囚われの身」。
生活物資さえ自由にならず、発する言葉でさえ常に監視の目と耳を気にしなければならない生活というのは、いかばかりか。
私たちの生活は、「自由、ときどき不自由」。
しかし警察国家では「不自由、ときに自由」。
明日もまた暗黒の今日と同じ日しかやってこないという生活。
想像しただけで恐ろしい。
しかも、それは、時間を区切られたものであって、それまで我慢すればよいという性質のものでもない。
そんな閉塞状況に生きる人間の心というものを本書は示してくれた。
チャウシェスク政権は、89年に崩壊し、市民に自由が戻った。
しかし私たちの隣国は、いままさに本書の世界の中にいる。
本書を閉じてから、そんなことを思った。
生老病死に選択の自由はない。
どの時代、どの国の、どの社会に生まれるかなど、われわれ自身が決することなどできない。
それでも私たちは、生きていかなければならない。
本書に描かれる恐怖国家に生きる市民たちのことに思いを馳せる。
ノーベル文学賞は当然の受賞だったのかもしれない。
むしろ、遅すぎたのではなかろうか。
そして閉塞感が蔓延する現在の日本。
もしかして、この時代にこそ、本書は読まれるべきなのではなかろうか。
2014年10月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
以前から読んでみたくて買いました。
以前の共産主義社会について、ストーリーを想像しながら読んでいます。
とても勉強になります。
以前の共産主義社会について、ストーリーを想像しながら読んでいます。
とても勉強になります。