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ニッポンには対話がない: 学びとコミュニケーションの再生 単行本 – 2008/4/1
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- ISBN-104385363714
- ISBN-13978-4385363714
- 出版社三省堂
- 発売日2008/4/1
- 言語日本語
- 本の長さ207ページ
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登録情報
- 出版社 : 三省堂 (2008/4/1)
- 発売日 : 2008/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 207ページ
- ISBN-10 : 4385363714
- ISBN-13 : 978-4385363714
- Amazon 売れ筋ランキング: - 348,260位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 371位論文集・講演集・対談集
- - 9,448位教育学一般関連書籍
- - 29,203位教育・学参・受験 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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劇作家、演出家、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。1962年東京都生まれ。国際基督教大学(ICU)教養学部に入学。在学中に劇団「青年団」を結成し、戯曲と演出を担当。卒業後、こまばアゴラ劇場の経営者となる。日本各地の学校において対話劇を実践するなど、演劇の手法を取り入れた教育プログラムの開発にも力を注ぐ。2002年度から採用された国語教科書に掲載されている自身のワークショップの方法論は、多くの子どもたちが教室で演劇をつくるきっかけとなった(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群 (ISBN-10: 4532196701)』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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そんなコンセプトの講座やワークショップを行っておりますが、そもそもわたしが、
対話の発想と実践に出会ったのは2008年のことです。
当時マネジメントしていたビジネスの現場で問題解決のヒント、アプローチの
ひとつとして、対話というものと出会って以来、長い付き合いになりました。
その時代の経験を通して感じたこと、伝えていきたいこと、この書籍には多くの
共感ポイントがぎっしり詰まっています。おススメです!
少子化問題というのは、労働力問題と同じことという視点は、当たり前のようであまり指摘されない。それを考えたときに、現実的には移民受け入れの話が出てきて、その場合に社会はどうしていくのか、というところまで話して、やっとなぜニッポンには対話がない、という話に繋がってくるのかと。
実はこれからは内なる国際化ために、色んな文化的背景を持った人と話すために対話が必要なんだ、ということが最後まで読まないと見えてこないので、なんとなく読んでてモヤモヤしました。
身も蓋もないけどこれを先に言っちゃわないと、単に外国はこうです、でも日本はなんでそれに合わせないといけないの?みたいな受け取られ方しかされないのでは。
最後まで読んで、これからは日本に暮らしている普通の人たちにも対話が必要になってくる、そのための教育はどうあるべきか、という話までやっと自分の中で繋がってスッキリしました。
日本には対話がない。TVや新聞で報道される対話集会というのは、ほとんどの場合、対決や対立の場である。
対話というのは本来「価値観を意図的に衝突させ、それによってお互いに変わっていく作業(p.168)」なのであるが、ニッポンでは対話が成立しにくい。それはなぜか?
『感性や価値観の違う者同士が、徹底的に議論し尽くす。それをいとわない習慣と精神的な体力が、日本人には不足している。』(p.165)
こういう日本人は「外資」を「ハゲタカ」とさげすんで溜飲を下げ、「だめなものはダメ」と言って思考停止に陥る。
かつての日本社会へのノスタルジーを描く、ありがちな日本人論ではなく、これから訪れる「多文化共生」の社会に備えるための提言として読むことができた。
私は在米36年で、アメリカ生まれの二人の子供をこちらで育てました。主人の仕事の上でこちらに永住しています。夫婦二人は日本生まれで25歳まで日本で育った典型的な日本人ですが、子供たちはアメリカ生まれで、幼稚園から大学までずっとアメリカで教育を受けました。
彼らの受けた教育を振り返って見ると、大人になっての対話力はすべからく子供の時にその教育をどれだけ受けるかに尽きる気がします。大雑把にその教育過程を記しますと、先ず幼稚園の時から、皆の前で話す練習があるのです。
それは「Show & Tell」という時間で、毎日誰か一人、何かを持ってきて皆に見せながらその物についてしゃべるというものです。自分が一緒に寝ている縫ぐるみの熊さんでも、買って貰った1ドルのおもちゃの指輪でも、とにかく何でもよし、ただ気に入っているものでなければだめ、というのも皆に生き生きと楽しく話せなくなるからということです。
幼稚園児ですから、前の晩に練習などしなくてよいのです。見せるものさえ決めておけば。
1クラスが25人以下と決められているので、年に結構な回数、自分が当たります。
娘は1年の終わりの頃は手持ちがなくなって、拾った葉っぱを1枚持って行きました。いっぱいお話したよと夕食の席で言っていました。何と質問もいっぱい出たのだそうです。
小学校の低学年は読み書き、慣用句の練習などに明け暮れますが、高学年になるとリーダーを読んで、その解釈をするような勉強に変わります。漢字の練習のような、英語のスペリングの練習を延々とする勉強はありません。代わりに内容の読解を延々としているような感じです。
先生を中心に口頭での意見の述べ合いを随分するようです。どんな意見でも間違いということはないという前提ですから、皆、嬉々としてしゃべります。
この時、すでに日本の子と違うのは、誰も、自分がこう言ったらどう思われるかなどの危惧は一切持っていないということです。
先生は時々、意見が違う同士に皆の前で対話させたり、グループで一つのテーマで対話させたり、とにかく意見を戦わせたり、緩和させたりの場をたくさん設けさせようとします。
週に何度か、ライブラリー・アワーという授業があり、それは名の通り、図書館に行って本を読むことそのものです。45分間、好きな本をじっくり読みます。中には自分で何を読みたいか選べない子もいるので、そんな時は先生が世話を焼いて手伝うのではなく、その子に司書の所へ行って助けてもらうように仕向けます。
本を読めば読むほど、自分の頭で整理して考えられるようになり、言葉に敏感になり、自分の考えや気持ちを相手に分かりやすく話せるようになるということです。その教育目的を持ってこの図書館アワーがカリキュラムに入っているそうです。
中学生になるとこの小学校高学年の教育がもっと強化され、同時に作文の練習に力を入れられます。この頃になると、国語(アメリカではLanguage Artと言うが)の才能のある子には教師がより難しい本や読むといい本などを個人的に紹介してやったり、その読後感を聞いたり、書かせたりと、ちょっぴり個人指導をする例を見られます。
そんな時も他の子が焼餅を焼くとか、親にとやかく言われるなどということは起きません。
個人主義が徹底している良い面だと思います。(悪い面ももちろんあるのです。)
高校になると、成績によって国語のクラスが分かれます。普通クラスと出来るクラスです。
この場合もこれはアメリカでは伝統的なシステムなので誰も文句は言いません。出来るクラスの子が威張ったり、普通クラスの子が僻んだりということもほとんどありません。
普通クラスは文法や語彙を増やす練習などを大分やりますが、出来るクラスは大学の英文科に指摘するような文学書を次々に読んで行きます。例えば、ディッケンズの小説やロバート・フロストの詩、、その他。授業の仕方は教師と生徒の対話形式が多く、授業の処を予め読んでおくことは最低しておかなければなく、それが出来ない子は普通クラスへ行かされます。普通クラスから
出来るクラスへ上がる子もいます。
高校で有名なのがディベイト(討論)の時間です。これは選択科目ですが、ここでは、さまざまなテーマで丁々発止とやり合います。「人は完全な自由を持つことが出来るか?」、「アメリカに女の大統領が出るのは何時、誰、なぜそれが成るか?」など哲学的なことから現実の政治に関することまで、教師はバラエティーに富んだテーマを選び生徒を切磋琢磨させるようです。
「話せる」為には、内容のある話にならなければないので、代表になった生徒は下準備で原稿を作る、そのために史実を調べるなど、結構、きつい授業なのに人気があるクラスで、定員オーバーになる時もあるとか。
と、このように教育システムを見ると、どんなにアメリカ人が話すことに重点を置いて教育されているかが納得されるのではと思います。家の子供たちも、今はもう成人して独立していますが、話すことにかけてはアメリカ人並みになってしまいました。
話さなければ生きていることにならないという定義、これはインタナショナルな人々の中で、日本人に一番当てはまらないですよね。日本文化の和敬清寂は世界一素晴らしいとは思うのですが、それだけではだめな時がある今の時代になってしまいました。
そこで、日本でも対話の出来る大人を増やすためには子供の時から教育の場で鍛えられるのが最も平等で効果的な方法だと思うのですが、、。
オリザさん、文科省に一矢を報いてくださいませんか。
教育の中では時間をかけたコミュニケーションよりも、指示や命令が増えています。伝え合うことの大事さがおろそかにしないで、諦めないで伝え合うことの価値をしっかり考えていると思います。
子どもと関わる立場の人には、しっかりと呼んで欲しい本です。
「善意のアドバイスの落とし穴」「価値観の押し付けに無防備な日本人」「上から目線のもの言い」「脱・経験絶対主義」などには正直ギャフンです。それは私のことです。
知らず知らずのうちに自分自身の思考が、こりかたまって凍結してしまっていることに気づかされました。
最近読んだ本の中では、一番ためになりました。繰り返し読みたい一冊です。