平安時代、空海と最澄という二人の秀才がほぼ同じ時期に登場したのは歴史の不思議である。
日本における仏教の哲学的思惟はこの二人に極まる。
延暦二十三年(804)同じ遣唐使船団に,最澄は「還学生」空海は「留学生」という仏教修学の徒として中国へ渡っている。
二人の青年のこころざしもよく似ている。
最澄は二十歳のとき「願文」を書いている。「無所得を以って方便となし、無上第一義のために金剛不壊不退の心願を発す」
いっぽう空海は二十四歳で有名な「三教指帰」を著している。
帰国後の二人の活躍は、最澄が「天台宗」を開き、空海が「真言宗」を開いたのは周知のとおりである。
あえて二人を分ければ、最澄は稀代の秀才、空海は空前絶後の天才ということになろう。
最澄は秀才の名にたがわず比叡山を仏教の総本山とするべく「円蜜一致」のシステム化に取り組んだのであるが、繊細さゆえ晩年は徳一との教義論争にノイローゼ気味となっている。現代でいえば株主総会で総会屋にすごまれてあわてるまじめすぎる社長の姿を連想するといい。
いっぽう空海はいわば新進気鋭の天才実業家といういでたちである。
平安時代のスティーブジョブスというところ、プレゼンの天才であった。ときのインテリ嵯峨天皇をとりこにしてしまう。
ふたりは立場の違いから一見けんか別れしたようにみえるが、同じ志を持つ秀才と天才同士、こころの奥ではおそらく通じ合っていたはずである。
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空海の夢 単行本 – 2005/12/30
松岡 正剛
(著)
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万能の天才・空海に秘められたメッセージを曼荼羅を描くように縦横無尽に語り尽くす。新たに「母なる空海、父なる宗教」という新しい視点の空海論を所収。
- 本の長さ411ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2005/12/30
- 寸法19.5 x 13.8 x 2.7 cm
- ISBN-104393136365
- ISBN-13978-4393136362
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商品の説明
著者について
1944年京都生まれ。父方のルーツは湖北・長浜。早稲田大学文学部卒。オブジェマガジン「遊」編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、編集工学研究所所長、角川武蔵野ミュージアム館長。情報文化と情報技術をつなぐ方法論を体系化した「編集工学」を確立し、様々なプロジェクトに応用。2000年より「千夜千冊」の連載を開始。同年、eラーニングの先駆けともなるイシス編集学校を創立。近年は、編集的世界観にもとづく書店空間「松丸本舗」、図書空間「エディットタウン」など、本をもちいた数々の世界観を提示する。
登録情報
- 出版社 : 春秋社; 新版 (2005/12/30)
- 発売日 : 2005/12/30
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 411ページ
- ISBN-10 : 4393136365
- ISBN-13 : 978-4393136362
- 寸法 : 19.5 x 13.8 x 2.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 38,471位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 5位空海
- - 8位密教(一般)関連書籍
- - 135位仏教入門
- カスタマーレビュー:
著者について
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1944年、京都市生まれ。早稲田大学仏文科出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。1971年に 伝説の雑誌『遊』を創刊。日本文化、経済文化、デザイン、文字文化、生命科学など多方面の研究成果を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。日本文化 研究の第一人者として「日本という方法」を提唱し、私塾「連塾」を中心に独自の日本論を展開。一方、2000年にはウェブ上でイシス編集学校と壮大なブッ クナビゲーション「千夜千冊」をスタート(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 松岡正剛の書棚―松丸本舗の挑戦 (ISBN-13: 978-4120041327 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2014年6月4日に日本でレビュー済み
2013年10月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
空海がありとあらゆる視点から縦横無尽に論じられていますが、あとがきで述べているように
・・・「結局、真言宗にはふれえなかったことになる。」
「いろは歌」は弘法大師の作だと固く信じられていました。
真言宗中興の祖である覚鑁が「いりは歌」を「大般涅槃経」の偈に見立てました。
色は匂へど散りぬるを (諸行無常)
わが世誰そ常ならむ (是生滅法)
有為の奥山今日越えて (生滅滅已)
浅き夢見じ酔ひもせず (寂滅為楽)
これを真仮名で表すと
以呂波耳本へ止千利奴流乎
和加餘多連曽津祢那良牟
有為能於久耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之恵比毛勢須
となります。
竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」は、四十七人の義士をいろは四十七文字に見立てていたものでした。
まさに縦横無尽です。
・・・「結局、真言宗にはふれえなかったことになる。」
「いろは歌」は弘法大師の作だと固く信じられていました。
真言宗中興の祖である覚鑁が「いりは歌」を「大般涅槃経」の偈に見立てました。
色は匂へど散りぬるを (諸行無常)
わが世誰そ常ならむ (是生滅法)
有為の奥山今日越えて (生滅滅已)
浅き夢見じ酔ひもせず (寂滅為楽)
これを真仮名で表すと
以呂波耳本へ止千利奴流乎
和加餘多連曽津祢那良牟
有為能於久耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之恵比毛勢須
となります。
竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」は、四十七人の義士をいろは四十七文字に見立てていたものでした。
まさに縦横無尽です。
2010年8月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自分は先祖の代からの真言宗で、いわゆる「お大師さん」信仰が身近にあるような環境で育った人間なのだが、
それだけに真言宗への親近感や尊敬とともに、「どうもついていけんなあ」「それはうさん臭すぎはしないか」
というような鼻につく独特の「臭気」についても色々と考える所があったように思う。
(司馬遼太郎の「空海の風景」が優れているのは、真言密教に不可欠なこの「うさん臭さ」について目を背けず、
密教の本質にかかわる重要な構成要素として見ている点だと思う)
本書は、久々に現れた空海についての良書という事で読ませていただいたのだが、上に述べたような観点から見ると、
本書は学術的な体裁は取っていても、あまりにもお大師さん「信仰」的な枠の中に嵌りきっており、色々と新しい
観点を入れているようではあっても、結局は「お大師さんは凄い」「凄い凄い、どう凄い」「結局、お大師さんの凄さには
追いつけない、理解しきれない」というだけの結論に収まっていて、読者として新しい収穫はなかったように思う。
お大師さんに対する賛美追従の類には、もうお大師さんご自身がいい加減ウンザリしておられるだろうし、「自分を踏台にして
自分を超えるくらいの学者や僧の類は出てこないのか」と期待し続けておられるように思う。
結局、今日真の意味でお大師さんを捉えなおすには、お大師さんが設定した真言密教至上主義の論理の枠から脱出して、あるいは
真言密教を凌駕した体系であろう(真言密教の後世に成立しているので蓄積上、当然だが)チベット密教などの観点から評価を
再構築する、あるいは他宗の真言密教批判、お大師さん批判を徹底的に祖述し、批判的観点を極めつくしたのちに初めて真言密教の
本質、優位点を再確認する、といった他者からの視点を取り入れなければ駄目だと思う。
そうでなければ、単なる「内輪ぼめ」「個人崇拝」の類から一歩も出られず、真言密教という財産を活用することもできないように
思うのだが・・・。
それだけに真言宗への親近感や尊敬とともに、「どうもついていけんなあ」「それはうさん臭すぎはしないか」
というような鼻につく独特の「臭気」についても色々と考える所があったように思う。
(司馬遼太郎の「空海の風景」が優れているのは、真言密教に不可欠なこの「うさん臭さ」について目を背けず、
密教の本質にかかわる重要な構成要素として見ている点だと思う)
本書は、久々に現れた空海についての良書という事で読ませていただいたのだが、上に述べたような観点から見ると、
本書は学術的な体裁は取っていても、あまりにもお大師さん「信仰」的な枠の中に嵌りきっており、色々と新しい
観点を入れているようではあっても、結局は「お大師さんは凄い」「凄い凄い、どう凄い」「結局、お大師さんの凄さには
追いつけない、理解しきれない」というだけの結論に収まっていて、読者として新しい収穫はなかったように思う。
お大師さんに対する賛美追従の類には、もうお大師さんご自身がいい加減ウンザリしておられるだろうし、「自分を踏台にして
自分を超えるくらいの学者や僧の類は出てこないのか」と期待し続けておられるように思う。
結局、今日真の意味でお大師さんを捉えなおすには、お大師さんが設定した真言密教至上主義の論理の枠から脱出して、あるいは
真言密教を凌駕した体系であろう(真言密教の後世に成立しているので蓄積上、当然だが)チベット密教などの観点から評価を
再構築する、あるいは他宗の真言密教批判、お大師さん批判を徹底的に祖述し、批判的観点を極めつくしたのちに初めて真言密教の
本質、優位点を再確認する、といった他者からの視点を取り入れなければ駄目だと思う。
そうでなければ、単なる「内輪ぼめ」「個人崇拝」の類から一歩も出られず、真言密教という財産を活用することもできないように
思うのだが・・・。
2012年10月6日に日本でレビュー済み
タイトルから「空海の見た夢について」の書籍だと勘違いしそうだが、つまりは空海と密教についての一冊。
冒頭には「空海の夢をみた明恵上人」が登場する。長押を枕に眠っている大師、その両眼が水晶の珠のように枕許にふたつ置かれている。あまりの美しさに、それを手にとり袖に包み持って帰ろうとしたところで目が醒めた、という『夢記』のくだり。
「明恵が袖に入れた空海の濡れた眼球を私もわしづかみにして、しばらく渉猟の旅に出たい」・・・と結ばれる。
こうして正剛氏、様々な角度から、空海を、密教を、語るのだが、個人的に印象深かったのは「カリグラファー空海」という章。
「密教では文字にふたつの表情を読む。字相と字義を言う。字相は表面的なイメージを、字義はその奥にひそんでいるイメージをさしている。空海はそのどちらにも眼をくばり、どちらもほうっておかなかった」
正剛氏は大和国高市郡益田池の記念碑銘文を見て、予想以上のエネルギーに驚いた、という。
一字ずつ書体を変えた象形は、写真で見るよりずっと生き生きしていた。
「私」というアイデンティティを超え、相手に入ってしまう。エゴイズムを脱している。
本書は改訂版で、ちょうどオウム事件に世が騒然としていた頃のもの。
なので序文にはそうした文章があって時代を感じさせるが、内容は時代を超越している。
ただし、学術書というよりエッセイの風味が強いので、松岡正剛氏に苦手意識がなければ、面白く読めると思う。
冒頭には「空海の夢をみた明恵上人」が登場する。長押を枕に眠っている大師、その両眼が水晶の珠のように枕許にふたつ置かれている。あまりの美しさに、それを手にとり袖に包み持って帰ろうとしたところで目が醒めた、という『夢記』のくだり。
「明恵が袖に入れた空海の濡れた眼球を私もわしづかみにして、しばらく渉猟の旅に出たい」・・・と結ばれる。
こうして正剛氏、様々な角度から、空海を、密教を、語るのだが、個人的に印象深かったのは「カリグラファー空海」という章。
「密教では文字にふたつの表情を読む。字相と字義を言う。字相は表面的なイメージを、字義はその奥にひそんでいるイメージをさしている。空海はそのどちらにも眼をくばり、どちらもほうっておかなかった」
正剛氏は大和国高市郡益田池の記念碑銘文を見て、予想以上のエネルギーに驚いた、という。
一字ずつ書体を変えた象形は、写真で見るよりずっと生き生きしていた。
「私」というアイデンティティを超え、相手に入ってしまう。エゴイズムを脱している。
本書は改訂版で、ちょうどオウム事件に世が騒然としていた頃のもの。
なので序文にはそうした文章があって時代を感じさせるが、内容は時代を超越している。
ただし、学術書というよりエッセイの風味が強いので、松岡正剛氏に苦手意識がなければ、面白く読めると思う。
2006年6月21日に日本でレビュー済み
まず、本書の章立てと、各章の絶妙な長さに感心した。さすが編集工学を唱える人はツボを心得ている!明快な切り口で始められた章の語り口が次第に饒舌になってきてちょっと困りかけたところでちゃんと終わるので、ついつい先へ先へと読み進んでしまう。
もちろん内容も素晴らしい。多くの章がそれこそ曼荼羅のように空海を多元的に解析している。その結果、今まで自分が持っていた常識的な空海像が描き変えられ、ある意味、より人間的な姿となった。業績の分析においても、類似した思想との比較などが行われ、かゆいところに手が届くようで、とてもわかりやすかった。
もちろん内容も素晴らしい。多くの章がそれこそ曼荼羅のように空海を多元的に解析している。その結果、今まで自分が持っていた常識的な空海像が描き変えられ、ある意味、より人間的な姿となった。業績の分析においても、類似した思想との比較などが行われ、かゆいところに手が届くようで、とてもわかりやすかった。
2007年9月5日に日本でレビュー済み
胃もたれするほど内容はドッサリです。自分の中で消化するまで、なかなか間が、かかります。私もいまだに消化できません。できる訳ありません。ところで空海は、我々関西人にとって「お大師さん」ですが、非常に身近な存在で、なにかと言えば、すがっています。それは宗教でもなく思想でもなく生活の一部です。お大師さんは確実に生きておられます。あまりにも身近な存在であるが故に、知らなかった事を沢山、この本はあらためて教えてくれます。一般大衆を心から愛し、この世においても、あの世においても、行動し続ける、この偉人の凄さをヒシヒシと感じます。
2008年6月20日に日本でレビュー済み
空海が相手となると、だいたい、これまでどの本も、偉い、凄い、天才だという思い込みからはじまり、最後はやはり賞賛のことばで終わる。つまり信奉者が一方的に礼賛して終わるのである。学者を名乗りながら、こういう批評精神の欠如には困ってしまう(密教学者には実際、仏門出のひとが多い)。空海信仰に皆はまっているのである。空海批判はタブーのようだ。
その点、著者は自由な立場にあるはずだから、と思って期待して読んだ。才気煥発な著者が果敢に空海に挑んでいて興味深い。しかし、旧版刊行当時はやっていたが、いまや既に峠を越しているポスト・モダン?、ニューアカデミズム?? らしき言辞が飛び交うのにはやや閉口した。これでは時間に耐える議論になるとは思えない。
著者なりによく勉強したのはわかるが、事実認識が甘いところが散見され、これをもとに大見えを切られても…、の感あり。
また空海の弱いところに折角近づきながら、著者のどこかに、空海はすごい人なんだからというブレーキが働くのか(?)、突破できずに漂流してしまうのは残念に思った。
しかし、抹香臭くない書きっぷりを評価したいし、またこの本を書いた当時、著者は40歳。その異能ぶりはよくわかった。
その点、著者は自由な立場にあるはずだから、と思って期待して読んだ。才気煥発な著者が果敢に空海に挑んでいて興味深い。しかし、旧版刊行当時はやっていたが、いまや既に峠を越しているポスト・モダン?、ニューアカデミズム?? らしき言辞が飛び交うのにはやや閉口した。これでは時間に耐える議論になるとは思えない。
著者なりによく勉強したのはわかるが、事実認識が甘いところが散見され、これをもとに大見えを切られても…、の感あり。
また空海の弱いところに折角近づきながら、著者のどこかに、空海はすごい人なんだからというブレーキが働くのか(?)、突破できずに漂流してしまうのは残念に思った。
しかし、抹香臭くない書きっぷりを評価したいし、またこの本を書いた当時、著者は40歳。その異能ぶりはよくわかった。
2004年5月8日に日本でレビュー済み
本書の目次を読み終えると黒いページにぶつかり、以下のような白抜き文字が目に飛び込んでくる。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
空海の『秘蔵宝鑰』の序に出てくる章句であることは言うまでもないが、空海の思想を余すことなく伝えている章句であるだけに、改めて受ける衝撃は大きい。そして、この本は単なる仏教論・空海論の範疇を遙かに超えている。人類史、生命史、地質学、分子生物学等の森羅万象を扱った本であり、百科全書派を彷彿させてくれる本である。
併せて、同じ松岡正剛氏の手による「蘇る空海」(上巻・五大に響き有り)(三密に加速する)というビデオを鑑賞することにより、空海の新しい立体像が得られると思う。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
空海の『秘蔵宝鑰』の序に出てくる章句であることは言うまでもないが、空海の思想を余すことなく伝えている章句であるだけに、改めて受ける衝撃は大きい。そして、この本は単なる仏教論・空海論の範疇を遙かに超えている。人類史、生命史、地質学、分子生物学等の森羅万象を扱った本であり、百科全書派を彷彿させてくれる本である。
併せて、同じ松岡正剛氏の手による「蘇る空海」(上巻・五大に響き有り)(三密に加速する)というビデオを鑑賞することにより、空海の新しい立体像が得られると思う。