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アウシュヴィッツの〈回教徒〉—現代社会とナチズムの反復 単行本 – 2005/10/1
フランスのある哲学者がそう評したのは、人間を「有用な者」と「無用な者」に分け、後者を排除するナチズムの思考を飽くことなく繰り返し、むしろそれを徹底する方向へと舵を切っているかに見える現代社会の有り様を指してのことです。「脳死」や「出生前診断」をめぐる現在の論議に、あるいは日々、新聞やテレビに踊っている「余剰人員のリストラ」という文字に、そういった事情を容易に見て取ることができるでしょう。
本書、『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』は、ナチ強制収容所において用いられた「回教徒」(Muselmann)という語彙が一体、何を意味していたのかを、上述のような意味でナチズムを「反復」し続ける現代社会の問題として、徹底的に検証します。
「回教徒」とは「死にかけの抑留者」を指して用いられた「隠語」であり、その名付けの理由は、「毛布にくるまった死にかけの抑留者の姿が、祈りの際に地面にひれ伏すムスリムの姿に似ているから」とされています。「毛布にくるまれた骸骨」。これが「回教徒」の一つの表象/イメージです。
しかし、「回教徒」はもう一つの、それとは全く相反し、矛盾するイメージによって挟み撃ちにされてもいるのです。そのイメージとは、「身体が砕け散っても指令を貫徹しようとする戦闘機械」という表象です。「『生きようとする意志』を欠き、『自己意識』がなく、『精神が死んでいる者』であるために、『動物の生存と結びつく事象』にのみ反応する『回教徒』」――。こうした記述に、我々は本書の中で、繰り返し出くわすことになります。
「生ける屍」がこのような含意のもとに「回教徒」と呼ばれたことは、どんな結果を生み出したでしょうか? 現在にまで及び続けているその結果を、私たちは日々、目にしているのではないでしょうか? つまり、「ムスリム」は一方では原理主義を奉じる無意志のテロリストとされ、もう一方では、「生存しない人間」、「生きている価値のない人間」、「人間ならざる人間」の側へと「整理」されてきたのではないでしょうか? ユーゴスラヴィアのスレブレニッツァでは、セルビア勢力による「民族浄化」を怖れて避難してきたムスリムの保護に当たっていたはずの国連平和維持軍がムスリム虐殺の傍観者となり、ついには暗黙の共犯者となってしまったことを、我々は知っています。そして特に、2001年の「9・11事件」以後、ムスリムは、「この世の悪/人間外の人間」を体現するものとして、偏向した眼差しのもとに語られてきたのではないでしょうか?
「二度とアウシュヴィッツを起こしてはならない」と言い続けながら、しかし同時に、「人間と非人間の識別/非人間の殲滅」というナチの思考を温存し、反復し続けている現代社会とは一体、何なのか? ムスリムをめぐる課題は、こうして、ナチズムを反復し続ける現代社会の問題に他ならず、その問題の核心にあるのは、「思考のナチズム」を根底からどう打ち倒すことができるのか、という課題であることを、本書『アウシュヴィッツの〈回教徒〉――現代社会とナチズムの反復』は、膨大な文献精査を通じて訴えます。
- 本の長さ534ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2005/10/1
- ISBN-104393332415
- ISBN-13978-4393332412
商品の説明
著者からのコメント
事実、ナチによる大量殺戮への糾弾と反省を口にしながら、「生きるに値しない命」の産出とその「絶滅」の妥当性を主張して止まない、もっともらしい「歴史」の「暗い道行き」は、依然として終わっていません。「思考のナチズム」を打倒しえないままでいる現代社会は、ナチと同じ「泉」から水をくみ出し、別の場所でも同じ足音を響かせながら、傍若無人に《人間》を踏みつけ、「生きるに値しない命」の所有者とされる人間を産み出し続けているのではないでしょうか。
複数の「可能性」をそこに見いだすような仕方で、「歴史の肌理」を記述すること。事柄の「あらすじ」ではなく、「感触」こそが、誰かと別の誰かが分かり合うための重要な「通路」だろうと思っています。国家の歴史でもなく、民族の歴史でもなく、感受性の歴史、です。「歴史の肌理」というのは、そのことです。一つの映画、あるいは一枚の絵画の圧倒的な、そして様々な力について語り合うような仕方で、歴史について丁寧に語り合うこと。その作業を通じて、我々は、複数の局所間、個人間での、抑制と緊張、そして友誼に満ちた新しい交感の関係を創り上げることができるようになるのだろうと思います。そしてその時に初めて、我々は「ホロコーストの唯一性」を言う者たちに抗い、諸々の出来事が渦巻く歴史の中にありながら、それを普遍化する思考の、その第一歩を踏み出せるのではないか。そう考えています。
出版社からのコメント
ナチ強制収容所において、生きるべき価値を持たない者として「焼却処分」にふされた人々がいる。
それら「死すべき」抑留者に与えられた名――「回教徒」(Muselmann)。
なぜ「回教徒」なのか?
その生と死を、我々はどう語ってきたのか?
戦後60年を迎えた現代社会を規定し続ける「思考としてのナチズム」、その核心への問い!
著者について
登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2005/10/1)
- 発売日 : 2005/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 534ページ
- ISBN-10 : 4393332415
- ISBN-13 : 978-4393332412
- Amazon 売れ筋ランキング: - 510,623位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 169位ドイツ・オーストリア史
- - 1,353位ヨーロッパ史一般の本
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個人的には、プリーモについての記述は非常にショックだった。
ナチズムが勝利するか否かは、結局は個人が負うべき問題であって、その責任を政治や社会に委ねることはできない。
自分の中にも培われている醜怪さと無神経な愚かさを暴かれ、人間というものに対して絶望を抱く人もあるかもしれない。
一度で読み通すのは辛くて出来なかった。
イスラム教徒の方が読むと、どんな感想を持たれるのか知りたい。
本書は、それらの中で、特に「回教徒」と名付けられた人たちにフォーカスしている。
そこまでは良いのだが、その解釈があまりにひどい。
曰く、収容されたユダヤ人も、ナチズムと同じ論理で
生きるに値しない生命=回教徒を作ってきたではないか、と
問題視し、告発までするのである。
だが、著者は何の権限でもって抑留者を告発しているのか。
レーヴィは「誰も、収容所内で起こったことを告発できない」
と言っていたではないか。
その部分を無視し、抑留されたユダヤ人に
さも非があるかのように淡々と告発するだけの本。
買う価値も、読む価値もないと感じた。
フランスのある哲学者がそう評したとの事だ。
アウシュビッツなどのナチスの強制収容所で、
不当な差別で強制的に収容されて、虐待され、乏しい食料で
強制労働をさせられていたユダヤ系の人たちは、
ある程度、健康状態がよく働けるひとは、
栄養不足と重労働で消耗しつくして、毛布をかぶって
体をゆすっている人たちを、「回教徒」と言って、
人間以下と見做して見下して差別していたとのことだ。
そして、戦後に強制収容所から開放されてから何十年経っても、その様な見方を持ち続けているとの事だ。
自分たちは生きる価値があったから、生き延びたのであって、「回教徒」となった方々は生きる価値が無かったから
生き延びれなかったとの見方を持ち続けているとのことだ。
働ける人間は人間として価値があり、そうでない人間は人間としての価値が無いという、
産業化、近代化で生じたものの見方自体を、何らかの形で超えることが、
現代の課題との事だ。
現代の日本でも、知的能力があり生産性、創造性が高い、技能を持つなどの人は
収入が高くて当然で、そうでない人間は、低所得で当然だとか、
お情けで、福祉で養ってやっているなどの見方は、広く蔓延している。
その様な物の見方を越える、何らかの価値観が、必要なのではないのだろうか?