大量の引用などのため、<奇書>扱いされることのある本書のモチーフは、つぎの一文に集約されるといってよい。
《近代主義的な歴史観では、近代主義的な視野の外に出てしまう未来と、近代主義的な視野の外に出てしまう大過去とは、おなじように、不明の領域として歴史の圏外におかれてしまう》(5ページ)
マルクスは、<原始共同体→アジア的段階→古典古代→資本制>という発展段階を唱えたが、吉本は、この流れの<初め>と<終わり>に、さらにもう一段階を付け加えようと考えたのである。
つまり――<アフリカ的段階→原始共同体→アジア的段階→古典古代→資本制→ハイ・イメージ段階>といったぐあいに。
なぜか。
「未来」へのイメージ(ハイ・イメージ)をつかむためには――「大過去」(アフリカ的段階)のイメージも把握して<史観>を拡張しなければならない、と考えたからにちがいない。
いわば、『ハイ・イメージ論』全3巻の対極にあるのが本書なのである。
ならば、本書において<アフリカ的段階>は、どのように捉えられているか。
大きくいって、ふたつのことが目につく。
(1)人間と森や虫や鳥や風……は区別されず、人びとは《自然にまみれて》(21ページ)生きている。
(2)土地も財産も人びとの生命(生殺与奪権)も……一手に握る王がいるが、疫病がはやったり、不都合な出来事がつづいたりすれば、王は人びとに殺されてしまう。
そうした段階にある社会が、アメリカの小説やアフリカの民俗誌、あるいは『古事記』などを援用して記される。
「発展段階」であるから、場所もアフリカとはかぎらないし、時間もはるか昔とはかぎらない。
こうした《人類史の母型概念》(5ページ)から、吉本はなにを引き出そうとしたのか。
上の(1)と(2)を未来へ投影して、『ハイ・イメージ論』全3巻を補強しようとしたと思われる。
<未来>のイメージを<アフリカ的段階>から、汲み取ろうとした、といってもいい。
(1)自然との交流を復活させ、生命力を回復してゆく道。
(2)絶対的権力を手中に収める王も殺される。《この意味では王は裏返された絶対奴隷だともいえた》(22ページ)という文章から読み取れる、新たな国家像(非国家像)の構築。
吉本の意図はそんなところにあった、と考えていいのではあるまいか。
そういえば、『言葉からの触手』(河出文庫)で、吉本はこんな言葉を記している(読みやすいように改行してあります)。
《風の囁きから森のなかの樹々の病態がわかるという木樵りの察知力、穂の垂れ具あいや葉鞘の色あいで、その稲になにが不足かわかるという農夫の察知力のたぐいは、たんなる経験知ではない。
人間やほかの動物とちがって、生命がまったく内在的で、そのためそとからわかる行動をとらない植物みたいな感受性の型を、つまり察知や気づきの型を、これら木樵りや農夫たちは内部に呼びさまされているのだ。
こんなことはもちろん生活知や社会知としては、ちっとも重要なことではない。
だが人間の生命にまつわる知は、否定性を反復=媒介にして現在の存在感にまで到達した。それを体認している意味ではたいせつな識知なのだ》
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アフリカ的段階について 新装版: 史観の拡張 単行本 – 2006/9/1
吉本 隆明
(著)
- 本の長さ173ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2006/9/1
- ISBN-104393332636
- ISBN-13978-4393332634
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登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2006/9/1)
- 発売日 : 2006/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 173ページ
- ISBN-10 : 4393332636
- ISBN-13 : 978-4393332634
- Amazon 売れ筋ランキング: - 515,469位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 670位東洋哲学入門
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上位レビュー、対象国: 日本
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2018年11月7日に日本でレビュー済み
大澤眞幸らに現代の奇書といわれた本書。その根幹はヘーゲルだ。ヘーゲルからインスパイアされてこういうコンセプトを見出した著者のユニーク?さに脱帽する人もいるかもしれない。ネイティヴな世界へ、ヘーゲルに依拠しながらもヘーゲルを超えていく思索が展開される。
解剖学の三木成夫の影響を受けた著者のモチーフでいえば、個体発生は系統発生を繰り返す…というセオリーを逆転させたものが本書のモチーフかもしれない。つまり世界の歴史(系統発生)というものは人間=個体の発生をなぞるものだ…人間の胎児期に相当するものを歴史に探しだそうとする試みが本書であり、それは<アフリカ的段階>として抽出される。
マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいる。しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。現代も残る生贄はその形式的な継承だといえるだろう。生贄が小さくなった分だけ世界は進歩したワケだ。生贄の扱いと社会の進歩はシーソーのように反比例しながら歴史が進んでいることの証明になる。不均衡累積過程といえるかもしれない。
この<生命の等価交換>は観念的には<対幻想>の観念と同致するものであり、吉本の膨大な思索をたどるとそのことがわかる。
個人の心が<対幻想>を基点に遠隔対称化し、共同幻想=公的観念を自己生成する段階において、最初の政治性あるいは権力のあり方としてアフリカ的段階は考察される。
アフリカ、アメリカ、日本のそれぞれのネイティヴの伝承などが長く引用され、ヘーゲルにとっては歴史外であるそれらの社会状態や人間の営みが紹介される。吉本的な思索の醍醐味であるかもしれない。
『心的現象論序説』で<原生的疎外>と<純粋疎外>の差異として心=観念を抽出する一方、『共同幻想論』では<対幻想>を動因そのものとする共同観念=共同性の生成を示した。『言語にとって美とはなにか』では言語を心の表出と、その共同化による規範化などとしてクローズアップした。その後、これら初期三部作の理論の統合を目指して『ハイ・イメージ論』が展開されたが、個別の批評としての先鋭的な進化はあるものの、統一された理論というには散開しすぎた感が読者にはあるだろう。むしろ、この『アフリカ的段階について』こそ初期三部作の統合を用意するものとして読まれるべきではないかという気がする。すくなくとも新たなる共同幻想論としてその普遍性はいよいよ世界レベルに達したといえるのではないだろうか。ある意味でヘーゲルを補えるフーコー的な考古学があるとしたらこういうものかも知れないと思える。
解剖学の三木成夫の影響を受けた著者のモチーフでいえば、個体発生は系統発生を繰り返す…というセオリーを逆転させたものが本書のモチーフかもしれない。つまり世界の歴史(系統発生)というものは人間=個体の発生をなぞるものだ…人間の胎児期に相当するものを歴史に探しだそうとする試みが本書であり、それは<アフリカ的段階>として抽出される。
マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいる。しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。現代も残る生贄はその形式的な継承だといえるだろう。生贄が小さくなった分だけ世界は進歩したワケだ。生贄の扱いと社会の進歩はシーソーのように反比例しながら歴史が進んでいることの証明になる。不均衡累積過程といえるかもしれない。
この<生命の等価交換>は観念的には<対幻想>の観念と同致するものであり、吉本の膨大な思索をたどるとそのことがわかる。
個人の心が<対幻想>を基点に遠隔対称化し、共同幻想=公的観念を自己生成する段階において、最初の政治性あるいは権力のあり方としてアフリカ的段階は考察される。
アフリカ、アメリカ、日本のそれぞれのネイティヴの伝承などが長く引用され、ヘーゲルにとっては歴史外であるそれらの社会状態や人間の営みが紹介される。吉本的な思索の醍醐味であるかもしれない。
『心的現象論序説』で<原生的疎外>と<純粋疎外>の差異として心=観念を抽出する一方、『共同幻想論』では<対幻想>を動因そのものとする共同観念=共同性の生成を示した。『言語にとって美とはなにか』では言語を心の表出と、その共同化による規範化などとしてクローズアップした。その後、これら初期三部作の理論の統合を目指して『ハイ・イメージ論』が展開されたが、個別の批評としての先鋭的な進化はあるものの、統一された理論というには散開しすぎた感が読者にはあるだろう。むしろ、この『アフリカ的段階について』こそ初期三部作の統合を用意するものとして読まれるべきではないかという気がする。すくなくとも新たなる共同幻想論としてその普遍性はいよいよ世界レベルに達したといえるのではないだろうか。ある意味でヘーゲルを補えるフーコー的な考古学があるとしたらこういうものかも知れないと思える。
2009年9月22日に日本でレビュー済み
ヘーゲルやモルガンなど、当時の「先進国」としての近代ヨーロッパの視点からアジアやアフリカの後進性を蔑視し、進歩発展史観を構築した思想家の歴史認識を批判的に引用しながら、それらの乗り越えを図るべく「アフリカ的段階」という概念を吉本氏は提出しています。もちろんマルクスの「アジア的段階」を踏まえた造語です。
アフリカ的段階とは、外面的には総体的専制(唯一王と奴隷のみの体制)で、精神面から見るとアニミズム+トーテミズム(動植物・自然と人間の厳密な境界がない)であるようなステータスを意味し、それらはアフリカだけでなく、インディアンの世界観や古代日本の神話にも表れているように、世界中どこにでもあるものだと指摘されています。
私は本書を2回通読しましたが、「なぜ今さらヘーゲルの歴史哲学批判なのか?」「なぜ吉本氏はこの仕事に特別な達成感と自負を持っているのか?」「引用が多い割には自身の思想の展開が不十分では?」「そもそもアフリカ的段階の定義が曖昧」…等々、突っ込みどころ満載の本です。というか、「どうやって扱えばいいのかわからない」といった類の本です。刊行されて随分時間が経ちますが、まともな書評が出ていないことも、そのことを裏付けているように思います。
でも、そうした戸惑いと同時に、不思議と愛着を感じさせる本なのです。不器用な手つきで吉本氏が語ろうとして、うまく語り得ていないものがどこかにあるのではないか…という期待と探究心を呼び起こす本です。
よくよく考えてみると、私たちがとっくに乗り越えたと思っている西欧近代の世界観・歴史観も、単にパッケージを変えただけで根強く私たちの認識を規定していますし、そうした近代進歩史観をベースにした経済援助政策やエリート層の育成といった手法ではアフリカの困窮と混沌を救い得ないという認識が吉本氏にあるようです。ちなみに中沢新一氏は、自身の著作の中で「アフリカ的段階」という概念をたびたび引用して、吉本氏のこの考えを擁護し、継承しようとしています。吉本氏自身も、その後のインタビューなどで「資本主義のアフリカ的段階」などといった表現を使っています。ただし、この仕事自体は「序論」の域を出ていないように思います。
ということで、特に結論もないのですが(笑)、今後「アフリカ的段階」の基礎概念を発展させた著作が登場することを祈るばかりです。長生きしてください、吉本さん。
アフリカ的段階とは、外面的には総体的専制(唯一王と奴隷のみの体制)で、精神面から見るとアニミズム+トーテミズム(動植物・自然と人間の厳密な境界がない)であるようなステータスを意味し、それらはアフリカだけでなく、インディアンの世界観や古代日本の神話にも表れているように、世界中どこにでもあるものだと指摘されています。
私は本書を2回通読しましたが、「なぜ今さらヘーゲルの歴史哲学批判なのか?」「なぜ吉本氏はこの仕事に特別な達成感と自負を持っているのか?」「引用が多い割には自身の思想の展開が不十分では?」「そもそもアフリカ的段階の定義が曖昧」…等々、突っ込みどころ満載の本です。というか、「どうやって扱えばいいのかわからない」といった類の本です。刊行されて随分時間が経ちますが、まともな書評が出ていないことも、そのことを裏付けているように思います。
でも、そうした戸惑いと同時に、不思議と愛着を感じさせる本なのです。不器用な手つきで吉本氏が語ろうとして、うまく語り得ていないものがどこかにあるのではないか…という期待と探究心を呼び起こす本です。
よくよく考えてみると、私たちがとっくに乗り越えたと思っている西欧近代の世界観・歴史観も、単にパッケージを変えただけで根強く私たちの認識を規定していますし、そうした近代進歩史観をベースにした経済援助政策やエリート層の育成といった手法ではアフリカの困窮と混沌を救い得ないという認識が吉本氏にあるようです。ちなみに中沢新一氏は、自身の著作の中で「アフリカ的段階」という概念をたびたび引用して、吉本氏のこの考えを擁護し、継承しようとしています。吉本氏自身も、その後のインタビューなどで「資本主義のアフリカ的段階」などといった表現を使っています。ただし、この仕事自体は「序論」の域を出ていないように思います。
ということで、特に結論もないのですが(笑)、今後「アフリカ的段階」の基礎概念を発展させた著作が登場することを祈るばかりです。長生きしてください、吉本さん。
2003年5月27日に日本でレビュー済み
まず「記紀」にある独特の感性に概念を当て嵌めようとした。それがアフリカ的段階である。
封建主義的専制と近代的官僚主義の否定としてのアフリカ的原型。西欧近代とアジア的中国の外在的文明史に対して日本の内在的な精神史をナショナリズムを解体する戦略として提出したものとも言える。それには当然著者の戦争体験が色濃く残っている。
ヘーゲルの進歩史観、マルクスの唯物史観に加えて、普遍的な一つの世界としてアジア的段階を一つの違和として付け加えた(思想読本ヘーゲルでの対長谷川宏対談参照)吉本は、貢納制として階級格差を抱え込んだアジア的段階以前をアフリカ的段階として設定して、人類の共同体の関係の原型としてとりだそうというモチーフであるように思われる。ただハイ・イメージ論から母型論へと引き継がれた「原言語」の考察と繋がっているので、これらの書物と合わせ読まねばならないし、もちろんこの考察は更にその背景に「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論」を背負っていてそれらを一まとめに取り扱おうとするモチーフとともに、読者には広大な世界が待ち受けていることになる専門書。能力主義に対する反規定も進歩史観に対するものとしてこの書では扱われている。「段階論」の応用は超「戦争論」上下に詳しい。要するにこれ一冊では何を言っていいかわからない、マニフェストとしての書。
ヘーゲルの実証主義的ではない歴史学と分析的ではない論理学、それを受け継いだマルクスの古典経済学的でない経済論、それらを肯定的に受け継ぎ、更にフーコーの進歩史観的でない考古学的な層という考え方に接合して段階論としてあつかおうというモチーフは、国家以前を取り出すことで超国家的構想と接合させようとする視点にも見える。
封建主義的専制と近代的官僚主義の否定としてのアフリカ的原型。西欧近代とアジア的中国の外在的文明史に対して日本の内在的な精神史をナショナリズムを解体する戦略として提出したものとも言える。それには当然著者の戦争体験が色濃く残っている。
ヘーゲルの進歩史観、マルクスの唯物史観に加えて、普遍的な一つの世界としてアジア的段階を一つの違和として付け加えた(思想読本ヘーゲルでの対長谷川宏対談参照)吉本は、貢納制として階級格差を抱え込んだアジア的段階以前をアフリカ的段階として設定して、人類の共同体の関係の原型としてとりだそうというモチーフであるように思われる。ただハイ・イメージ論から母型論へと引き継がれた「原言語」の考察と繋がっているので、これらの書物と合わせ読まねばならないし、もちろんこの考察は更にその背景に「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論」を背負っていてそれらを一まとめに取り扱おうとするモチーフとともに、読者には広大な世界が待ち受けていることになる専門書。能力主義に対する反規定も進歩史観に対するものとしてこの書では扱われている。「段階論」の応用は超「戦争論」上下に詳しい。要するにこれ一冊では何を言っていいかわからない、マニフェストとしての書。
ヘーゲルの実証主義的ではない歴史学と分析的ではない論理学、それを受け継いだマルクスの古典経済学的でない経済論、それらを肯定的に受け継ぎ、更にフーコーの進歩史観的でない考古学的な層という考え方に接合して段階論としてあつかおうというモチーフは、国家以前を取り出すことで超国家的構想と接合させようとする視点にも見える。
2020年9月8日に日本でレビュー済み
今の人に通じないアジア的生産様式を前提にアフリカ的とかいっても、地理的概念かと取られるのがオチでしょう。
資本主義から社会主義へという図式を信奉する者は(未だいたとしても)絶滅危惧種でしょう。
マルクスのアジア的は歴史の発展から外れたものであり、近代に到達しないよう運命づけられている(ロシア革命は市民社会の未発達なところに超市民社会を築くこころみだから失敗するに決まっていた、というのは後講釈だが)。
アフリカ的とはアジア的以前の発展段階ということである。ヘーゲルは近代市民社会に至らないアジアを歴史の傍流
として片付けたが、吉本はアジア的社会が普遍的なものとし、その前段階として同じく人類に普遍的なアフリカ的段階を設定する(一方マルクスはアジア的共同体でなくゲルマン的共同体に市民社会の源流を見出した)。
有益な先行レビューが紹介する諸解説書(批判的、好意的、中立的)が示すように読者の思いを様々に誘発する挑発的な本ではある(しかも短い)。
西欧中心主義としてさんざん批判されたヘーゲルの歴史観を救抜しようという吉本の情熱は何なのか。発展段階説に取り付かれたか(吉本もマルクスに劣らないヘーゲルフリーク?)。
資本主義から社会主義へという図式を信奉する者は(未だいたとしても)絶滅危惧種でしょう。
マルクスのアジア的は歴史の発展から外れたものであり、近代に到達しないよう運命づけられている(ロシア革命は市民社会の未発達なところに超市民社会を築くこころみだから失敗するに決まっていた、というのは後講釈だが)。
アフリカ的とはアジア的以前の発展段階ということである。ヘーゲルは近代市民社会に至らないアジアを歴史の傍流
として片付けたが、吉本はアジア的社会が普遍的なものとし、その前段階として同じく人類に普遍的なアフリカ的段階を設定する(一方マルクスはアジア的共同体でなくゲルマン的共同体に市民社会の源流を見出した)。
有益な先行レビューが紹介する諸解説書(批判的、好意的、中立的)が示すように読者の思いを様々に誘発する挑発的な本ではある(しかも短い)。
西欧中心主義としてさんざん批判されたヘーゲルの歴史観を救抜しようという吉本の情熱は何なのか。発展段階説に取り付かれたか(吉本もマルクスに劣らないヘーゲルフリーク?)。