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自然農法わら一本の革命 ペーパーバック – 1983/5/1
福岡 正信
(著)
- 本の長さ276ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日1983/5/1
- ISBN-10439374103X
- ISBN-13978-4393741030
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登録情報
- 出版社 : 春秋社 (1983/5/1)
- 発売日 : 1983/5/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 276ページ
- ISBN-10 : 439374103X
- ISBN-13 : 978-4393741030
- Amazon 売れ筋ランキング: - 173,969位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 686位農学 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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イメージ付きのレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2024年3月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
技術や具体的な農法の記載もあるが、なぜそうするのかを突き詰めた結果、哲学にまで踏み込んだ思想書
2024年3月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
知らなかった事ばかりで何度も
そうだったのー?!という発見があった
最近家庭菜園を始めたばかりの農業のことは全く知らないど素人だがこれが究極の農法な感じがした
分からないなりにも実践してみます
そうだったのー?!という発見があった
最近家庭菜園を始めたばかりの農業のことは全く知らないど素人だがこれが究極の農法な感じがした
分からないなりにも実践してみます
2024年2月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自然農を成功させた偉人。砂漠にも緑を取り戻す指導をして成功させた偉人。
口だけの人間ではなくて、確かな結果を残した偉人。ぜひ多くの人に読んでほしいです。
口だけの人間ではなくて、確かな結果を残した偉人。ぜひ多くの人に読んでほしいです。
2023年11月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
不耕起栽培から興味があって購入しました。家庭菜園の出来るところから取り入れたいですね。
2022年7月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
考え方や思いはわかります。
が、思想がマニアック過ぎて途中から分からないところがある。
が、思想がマニアック過ぎて途中から分からないところがある。
2023年7月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は良かった。最近添加物や農薬など色々問題になってたりしますがこのように大分前から警鐘を鳴らされたりしている方がいたのは驚きでした。色々やり方はあるのだろうけど行政の方や、農業や畑をされてる方は一読オススメです。
2022年10月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まさに現代の老子と言おうか、ソクラテスと言おうか、農業にとどまらず、自身と世界の根本を捉える手がかりがここにある。
著者は、人が「よかれ」と思って為す全てのことを否定する。
「よかれ」と思って為すことは、すべて無価値であり、自然に害をなすことばかりである。
人は「為さなくてよいこと」を探さなければならないと著者は言う。
ことに情報過多の近代においては、やれ仕組みはこうであるからこれが役立つだの、これこれの栄養素を摂取したら体にどうだの、小賢しい話ばかりである。
著者は、自然と放任は断じて異なると述べている。
自然は、すべての調和がとれた完全な状態であり、そこには何の過不足もない。
放任は、人がその調和を乱したあとで、乱れるままに放置することであると言う。
人が普段現実と思っているものは、すべて人が作り上げた幻想であり、自然は何一つ見えていない。著者は、大病から回復した際に目にした光景から、突如そのことに気付いたそうである。
その時の心証を著者はこう語る。
「私は、まさに狂喜乱舞というか、非常に晴れ晴れとした気持ちになって、その瞬間から生き返ったような感じがしました。とたんに森で鳴いている小鳥の声が聞こえるし、朝露が上った太陽にキラキラと光っている。木々の緑がきらめきながらふるえている。森羅万象に歓喜の生命が宿るというか、ここが地上の天国だったということを感じた」
「私はもう何を学び知る必要も、思い考えることも、またなさねばならぬ何事もないと思った」
これは単に目の前の景色に感動したという話ではない。
人界は虚妄だ!すべてはありのままで、何も変わらない!ということに気付いたのである。
人の生も同じこと、生きる目的などありはしない、どういうわけか生まれてしまったので、死ぬまで生きるだけなのである。これを虚無や諦念ととらえる人は、何もわかっていない。あるがままにあること、ただそれでよいのである。それだけですべては美しい調和が取れているのである。
人が価値があると思っているものは、それが価値があると思える条件を先に作り出しているから、価値があると思っているだけである。このことに気付いた時、自然のありのままの美しさを感じることができるし、本当の自由を手にすることができる。
人は、知識を増やし分析を続ける限り、何も知り得ない。そもそも知るとは何かを考えもせずに、知識と分析をあてにしたところで、何を知ったことにもならないのである。
「生きていくということも一つの生まれてきた結果にしか過ぎないんです。何を食って生きているんだとか、何を食わなければ生きられないなんぞと思うことが、一つの、人間の思い上がりなんだ。(略)自然の力にすがってさえおれば、自然に随った生活さえしておれば、人間は生きられるようになっているんだという確信を作ることが先決である」
「どんな動物も働かなくて食っているのに、人間は働いて食わなきゃいけないように思いこんで働いて、しかも、その働きが大きければ大きいほど、それがすばらしいことだと思っている。(略)額に汗をして勤労するなんてことは、一番愚劣なことであって、そんなものはやめてしまって、悠々自適の、余裕ある生活を送ればいい。」
「哲学的な知恵で把握された自然というのも、人間が心で組み立てた自然という名の理論」に過ぎないと著者は言う。
「一茎の白百合の美を愛で楽しむのに、科学的に百合の花を合成したり、哲学的に解釈する必要は何もなかった」
「人間は美味しいものを食べて美味しいのではない。美味しいと思う条件がその人に揃ったとき、はじめて美味しくなる。」
「人生にはこういう目標がある、どういうのが生きがいであるなんて言うけれど、人間には目標なんかもとからありはしない。何をしなければいけないということも一つもありはしなかったんだ(略)人間が勝手に設定しただけにしか過ぎない。」
「何もしなかったら、いちばんつまらん、生きがいのない生活かというと、どっこいそうじゃない。反対だ、と。何もしない。何も目標がない。のんびり昼寝しておって、いちばん愉快な世界はそこに展開されてくるんだ。」
著者の言葉はどれも真理である。人の理想はすぐそばにあるのに、なぜ気付かないのだろう。
人は、いつの間にこんなに遠くへ来てしまったのか。
著者は、あとがきに、どんな生活を送る人も等しく心がけることのできる姿勢を示してくれている。
このように人生を送りたいものである。
「何も約束ごとをせず、昨日を忘れ、明日を思わず、日々の仕事に徹して、我が足跡を少しでも残さない」
著者は、人が「よかれ」と思って為す全てのことを否定する。
「よかれ」と思って為すことは、すべて無価値であり、自然に害をなすことばかりである。
人は「為さなくてよいこと」を探さなければならないと著者は言う。
ことに情報過多の近代においては、やれ仕組みはこうであるからこれが役立つだの、これこれの栄養素を摂取したら体にどうだの、小賢しい話ばかりである。
著者は、自然と放任は断じて異なると述べている。
自然は、すべての調和がとれた完全な状態であり、そこには何の過不足もない。
放任は、人がその調和を乱したあとで、乱れるままに放置することであると言う。
人が普段現実と思っているものは、すべて人が作り上げた幻想であり、自然は何一つ見えていない。著者は、大病から回復した際に目にした光景から、突如そのことに気付いたそうである。
その時の心証を著者はこう語る。
「私は、まさに狂喜乱舞というか、非常に晴れ晴れとした気持ちになって、その瞬間から生き返ったような感じがしました。とたんに森で鳴いている小鳥の声が聞こえるし、朝露が上った太陽にキラキラと光っている。木々の緑がきらめきながらふるえている。森羅万象に歓喜の生命が宿るというか、ここが地上の天国だったということを感じた」
「私はもう何を学び知る必要も、思い考えることも、またなさねばならぬ何事もないと思った」
これは単に目の前の景色に感動したという話ではない。
人界は虚妄だ!すべてはありのままで、何も変わらない!ということに気付いたのである。
人の生も同じこと、生きる目的などありはしない、どういうわけか生まれてしまったので、死ぬまで生きるだけなのである。これを虚無や諦念ととらえる人は、何もわかっていない。あるがままにあること、ただそれでよいのである。それだけですべては美しい調和が取れているのである。
人が価値があると思っているものは、それが価値があると思える条件を先に作り出しているから、価値があると思っているだけである。このことに気付いた時、自然のありのままの美しさを感じることができるし、本当の自由を手にすることができる。
人は、知識を増やし分析を続ける限り、何も知り得ない。そもそも知るとは何かを考えもせずに、知識と分析をあてにしたところで、何を知ったことにもならないのである。
「生きていくということも一つの生まれてきた結果にしか過ぎないんです。何を食って生きているんだとか、何を食わなければ生きられないなんぞと思うことが、一つの、人間の思い上がりなんだ。(略)自然の力にすがってさえおれば、自然に随った生活さえしておれば、人間は生きられるようになっているんだという確信を作ることが先決である」
「どんな動物も働かなくて食っているのに、人間は働いて食わなきゃいけないように思いこんで働いて、しかも、その働きが大きければ大きいほど、それがすばらしいことだと思っている。(略)額に汗をして勤労するなんてことは、一番愚劣なことであって、そんなものはやめてしまって、悠々自適の、余裕ある生活を送ればいい。」
「哲学的な知恵で把握された自然というのも、人間が心で組み立てた自然という名の理論」に過ぎないと著者は言う。
「一茎の白百合の美を愛で楽しむのに、科学的に百合の花を合成したり、哲学的に解釈する必要は何もなかった」
「人間は美味しいものを食べて美味しいのではない。美味しいと思う条件がその人に揃ったとき、はじめて美味しくなる。」
「人生にはこういう目標がある、どういうのが生きがいであるなんて言うけれど、人間には目標なんかもとからありはしない。何をしなければいけないということも一つもありはしなかったんだ(略)人間が勝手に設定しただけにしか過ぎない。」
「何もしなかったら、いちばんつまらん、生きがいのない生活かというと、どっこいそうじゃない。反対だ、と。何もしない。何も目標がない。のんびり昼寝しておって、いちばん愉快な世界はそこに展開されてくるんだ。」
著者の言葉はどれも真理である。人の理想はすぐそばにあるのに、なぜ気付かないのだろう。
人は、いつの間にこんなに遠くへ来てしまったのか。
著者は、あとがきに、どんな生活を送る人も等しく心がけることのできる姿勢を示してくれている。
このように人生を送りたいものである。
「何も約束ごとをせず、昨日を忘れ、明日を思わず、日々の仕事に徹して、我が足跡を少しでも残さない」