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昭和天皇の研究: その実像を探る (ノン・ポシェット や 4-2) 文庫 – 1995/7/1
山本 七平
(著)
昭和天皇の研究―その実像を探る (ノン・ポシェット) [Jul 01, 1995] 山本 七平
- 本の長さ408ページ
- 言語日本語
- 出版社祥伝社
- 発売日1995/7/1
- ISBN-104396310641
- ISBN-13978-4396310646
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登録情報
- 出版社 : 祥伝社 (1995/7/1)
- 発売日 : 1995/7/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 408ページ
- ISBN-10 : 4396310641
- ISBN-13 : 978-4396310646
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,512,451位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年7月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「さくら舎」から山本七平さんの著作の復刻版のようなものがたくさん出ていたので、ほとんど読んでみたが、それらの中で断片的に語られていた昭和天皇と戦争責任に対する考察をまとめた集大成が本書だ。昭和生まれの私としては、スペースが少ない本棚に置いておきたい1冊になる。
山本七平さんの昭和天皇と戦争責任に対するアプローチは、「昭和天皇の自己規定」を深堀することで、どのような思考でどのような判断あったかを考察するという方法だ。昭和天皇の自己規定は、ひと言でいうと「立憲君主制」だ。つまり、憲法上の責任者が審議を尽くし、裁可を請われた場合、あるときは裁可し、あるときは裁可しないとはできない。昭和天皇の心持ちで判断する専制政治(神権的独裁君主)でなく、明治天皇が定めた明治憲法に絶対遵守という自己規定が明確にあったという。
しかし、元侍従長は戦後まもなく昭和天皇の「二・二六の時と、終戦のときのニ回だけ、自分は立憲君主としての道を踏み間違えた」という発言を紹介している。昭和天皇が寄って立つ立憲は明治憲法だが、それは「五箇条の御誓文」をその基礎として意識しているものだ。昭和天皇の「憲法の命ずるところにより・・・」という言葉に表れているように、天皇がトップではなく、その上に憲法があると考えているのだろう。
これらの立憲君主制を第一と考える昭和天皇の自己規定は、昭和天皇の教師であった白鳥庫吉博士と杉浦重剛の影響が大きい。このことを、教科書である「倫理御進講草案」から立証しつつ、英国王であるジョージ五世への強い親近感と第二外国語がフランス語からの親英仏米、反独伊の心情などを教師の経歴からまとめている。
日本は国体護持を条件に、ポツダム宣言の受諾の意志を連合軍に通達、その後の連合軍からの「日本政府の形態は、日本国民の自由意志により決定すべき」という返事に対し、国体護持につながらないと軍部は大反対。昭和天皇は、そのときの以下の発言を「終戦のとき立憲君主としての道を踏み間違えた」と位置づけている。
「それで少しも差し支えないではないか。たとい連合軍が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意志によって決めてもらっても少しも差し支えないと思う」
つまり、五箇条の御誓文の通り「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とし、議会からの結論でポツダム条約受諾、あるいは却下という裁可が上がり、昭和天皇が判断したのではなく、天皇という神権的独裁君主として、自らの判断を意見として述べたことが、立憲君主制ではないということだ。また、マッカーサー会談についても、ドイツ皇帝のウィルヘルム二世が、第一次大戦の敗戦後、すべてを投げ出しオランダに亡命したことを反面教師とし、「私に全責任がある」と発言したのだろうとしている。(昭和天皇は反独伊)
最後に山本七平さんは、昭和天皇の自己規定としての立憲君主のあり方は、憲法を維持するために必要だとし、しかし「閣議決定」が上奏され、それを裁可したら戦争になる場合、憲法遵守は「罪」なのか、そうでないのか、それは人々の判断に任せるとして本書を締めくくっている。
昭和天皇がマッカーサー会談で守ろうとした人民は、開戦裁可時に、例え彼が憲法を逸脱したとしても、それを「罪」としたであろうか、という問題については、本書のテーマを超えてしまうため、言及はない。
山本七平さんの昭和天皇と戦争責任に対するアプローチは、「昭和天皇の自己規定」を深堀することで、どのような思考でどのような判断あったかを考察するという方法だ。昭和天皇の自己規定は、ひと言でいうと「立憲君主制」だ。つまり、憲法上の責任者が審議を尽くし、裁可を請われた場合、あるときは裁可し、あるときは裁可しないとはできない。昭和天皇の心持ちで判断する専制政治(神権的独裁君主)でなく、明治天皇が定めた明治憲法に絶対遵守という自己規定が明確にあったという。
しかし、元侍従長は戦後まもなく昭和天皇の「二・二六の時と、終戦のときのニ回だけ、自分は立憲君主としての道を踏み間違えた」という発言を紹介している。昭和天皇が寄って立つ立憲は明治憲法だが、それは「五箇条の御誓文」をその基礎として意識しているものだ。昭和天皇の「憲法の命ずるところにより・・・」という言葉に表れているように、天皇がトップではなく、その上に憲法があると考えているのだろう。
これらの立憲君主制を第一と考える昭和天皇の自己規定は、昭和天皇の教師であった白鳥庫吉博士と杉浦重剛の影響が大きい。このことを、教科書である「倫理御進講草案」から立証しつつ、英国王であるジョージ五世への強い親近感と第二外国語がフランス語からの親英仏米、反独伊の心情などを教師の経歴からまとめている。
日本は国体護持を条件に、ポツダム宣言の受諾の意志を連合軍に通達、その後の連合軍からの「日本政府の形態は、日本国民の自由意志により決定すべき」という返事に対し、国体護持につながらないと軍部は大反対。昭和天皇は、そのときの以下の発言を「終戦のとき立憲君主としての道を踏み間違えた」と位置づけている。
「それで少しも差し支えないではないか。たとい連合軍が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意志によって決めてもらっても少しも差し支えないと思う」
つまり、五箇条の御誓文の通り「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とし、議会からの結論でポツダム条約受諾、あるいは却下という裁可が上がり、昭和天皇が判断したのではなく、天皇という神権的独裁君主として、自らの判断を意見として述べたことが、立憲君主制ではないということだ。また、マッカーサー会談についても、ドイツ皇帝のウィルヘルム二世が、第一次大戦の敗戦後、すべてを投げ出しオランダに亡命したことを反面教師とし、「私に全責任がある」と発言したのだろうとしている。(昭和天皇は反独伊)
最後に山本七平さんは、昭和天皇の自己規定としての立憲君主のあり方は、憲法を維持するために必要だとし、しかし「閣議決定」が上奏され、それを裁可したら戦争になる場合、憲法遵守は「罪」なのか、そうでないのか、それは人々の判断に任せるとして本書を締めくくっている。
昭和天皇がマッカーサー会談で守ろうとした人民は、開戦裁可時に、例え彼が憲法を逸脱したとしても、それを「罪」としたであろうか、という問題については、本書のテーマを超えてしまうため、言及はない。
2024年2月27日に日本でレビュー済み
・内容について、諸氏のレビューに付け加えるもの、ありません。
それにしても著者山本氏の、深謀の語には弊が付いてしまうが、それに近き深慮、更にその周到さには、全く恐れ入りました。
先ずは表題です。ズバリ「昭和天皇の」と置いて、下に「研究」と添えています。これで政治性を排し、寄せ付けずです。誠に見事。そして副題に「その実態を探る」まで、添えています。
次に本題の記述。要点とする「昭和天皇の自己規定」が、如何様にして形成され、揺るぎ無く実践されたか、御振り返えを含めて、己れを完全に解き放ち、資料を駆使して、余すところなく自在に説いています。二・二六磯部浅一の遺産「天皇への呪詛」まで触れ尽くして、です。完璧です。
昭和政治史を語るに欠かせぬ解析、この本はその域に。そう確信します。
それにしても著者山本氏の、深謀の語には弊が付いてしまうが、それに近き深慮、更にその周到さには、全く恐れ入りました。
先ずは表題です。ズバリ「昭和天皇の」と置いて、下に「研究」と添えています。これで政治性を排し、寄せ付けずです。誠に見事。そして副題に「その実態を探る」まで、添えています。
次に本題の記述。要点とする「昭和天皇の自己規定」が、如何様にして形成され、揺るぎ無く実践されたか、御振り返えを含めて、己れを完全に解き放ち、資料を駆使して、余すところなく自在に説いています。二・二六磯部浅一の遺産「天皇への呪詛」まで触れ尽くして、です。完璧です。
昭和政治史を語るに欠かせぬ解析、この本はその域に。そう確信します。
2017年6月17日に日本でレビュー済み
以下、山本七平氏著「昭和天皇の研究」より。
(以下、「天皇」とは昭和天皇を表す。)
「天皇は立憲君主として振る舞い、この点では実に自己規定が明確であったが、
問題はむしろこの点にあったのではないか。
天皇自身も戦後にそう感じられたのではないか、と思われる節がないでもない。
これについては結果論としてさまざまなことが言えよう。
したがって「あまりに几帳面に憲法どおりではなく、多少逸脱されても…」
といった批評は、その批評の当否は別として、あり得て当然と思われていたらしい。
だがそうでなく、ヒトラー、ムッソリーニ、ヒロヒトと並べられ、
神権的絶対君主のファシストとして見られること、
こういう見方は当然に欧米、特にアメリカに出てきたが、
これは天皇にとって堪えられぬ苦痛であったらしい。
終戦後から1か月余りの20年9月29日の「木戸日記」には、
次のような天皇の言葉が記されている。
「自分があたかもファシズムを信奉するがごとく思わるることが、最も堪え難きところなり、
実際あまりに立憲的に処置し来りしためにかくのごとき事態となりたりともいうべく、
戦争の途中において今少し陛下は進んでご命令ありたしとの希望を聞かざるにはあらざりしも、
努めて立憲的に運用したるつもりなり…」
この「あまりに立憲的に処置し来りしため…」という言葉には、
一種、自己批判的なニュアンスが感じられないでもない。
だが後代から見れば、きわめて適切な処置と思える終戦のときの「聖断」も、
天皇ご自身にとっては、
立憲君主としては逸脱した行為であった。
入江・元侍従長は戦後まもなくの天皇の言葉として、次のように記している
「天皇さまの還暦」朝日新聞社刊)。
「2・26の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた…」
2・26事件のときは、総理大臣が生きているのか死んでいるのか分からない。
同時に軍の首脳は反乱軍に同調的で、態度がはっきりしない。
このままいけば立憲政治は崩壊する。
その崩壊を食い止めるため、立憲君主として逸脱せざるを得なかった、
という実に奇妙な状態に天皇は置かれる。
終戦の時も同じような状態である。
こういう時の行動でさえ、天皇は「立憲君主としての道を踏みまちがえ」たと考える。
こういう点、天皇はまことに憲法絶対であったといえる。
明治憲法では「輔弼の臣」が責任を負う。
ということは
大臣から所管事項について奏請があって、はじめて天皇が裁可するのであって、
天皇が一方的に何かを命令することはあり得ない。
明治憲法と新憲法ではルールが違うが、これは明治憲法にルールがないということではない。
新憲法では国会の議決があって、それに基づいて天皇が総理を任命するのであって、
国会の議決がないのに天皇が総理を任命することはあり得ない。
たとえば、2・26事件のときは、川島陸相が反乱の勃発を天皇に上奏し、
これの鎮定を奏請して裁可を受けるというのがルールである。
また総理の生死も不明な場合、内大臣がその実情を奏請し、
臨時首相代理の任命を奏請して同じように裁可を受ける。
ところが川島陸相は反乱側に同情的であり、内大臣も生死不明、
そこで天皇はルールを飛び越えて、臨時首相代理を任命し、直ちに「暴徒の鎮圧」を命じ、
これを自ら反乱と規定し、自ら討伐すると言わざるを得なかった。
政治的に見ればきわめて適切だが、
天皇はこれを制限君主の「道を踏みまちがえた」「その枠を逸脱した」と考えておられる。」
(以下、「天皇」とは昭和天皇を表す。)
「天皇は立憲君主として振る舞い、この点では実に自己規定が明確であったが、
問題はむしろこの点にあったのではないか。
天皇自身も戦後にそう感じられたのではないか、と思われる節がないでもない。
これについては結果論としてさまざまなことが言えよう。
したがって「あまりに几帳面に憲法どおりではなく、多少逸脱されても…」
といった批評は、その批評の当否は別として、あり得て当然と思われていたらしい。
だがそうでなく、ヒトラー、ムッソリーニ、ヒロヒトと並べられ、
神権的絶対君主のファシストとして見られること、
こういう見方は当然に欧米、特にアメリカに出てきたが、
これは天皇にとって堪えられぬ苦痛であったらしい。
終戦後から1か月余りの20年9月29日の「木戸日記」には、
次のような天皇の言葉が記されている。
「自分があたかもファシズムを信奉するがごとく思わるることが、最も堪え難きところなり、
実際あまりに立憲的に処置し来りしためにかくのごとき事態となりたりともいうべく、
戦争の途中において今少し陛下は進んでご命令ありたしとの希望を聞かざるにはあらざりしも、
努めて立憲的に運用したるつもりなり…」
この「あまりに立憲的に処置し来りしため…」という言葉には、
一種、自己批判的なニュアンスが感じられないでもない。
だが後代から見れば、きわめて適切な処置と思える終戦のときの「聖断」も、
天皇ご自身にとっては、
立憲君主としては逸脱した行為であった。
入江・元侍従長は戦後まもなくの天皇の言葉として、次のように記している
「天皇さまの還暦」朝日新聞社刊)。
「2・26の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた…」
2・26事件のときは、総理大臣が生きているのか死んでいるのか分からない。
同時に軍の首脳は反乱軍に同調的で、態度がはっきりしない。
このままいけば立憲政治は崩壊する。
その崩壊を食い止めるため、立憲君主として逸脱せざるを得なかった、
という実に奇妙な状態に天皇は置かれる。
終戦の時も同じような状態である。
こういう時の行動でさえ、天皇は「立憲君主としての道を踏みまちがえ」たと考える。
こういう点、天皇はまことに憲法絶対であったといえる。
明治憲法では「輔弼の臣」が責任を負う。
ということは
大臣から所管事項について奏請があって、はじめて天皇が裁可するのであって、
天皇が一方的に何かを命令することはあり得ない。
明治憲法と新憲法ではルールが違うが、これは明治憲法にルールがないということではない。
新憲法では国会の議決があって、それに基づいて天皇が総理を任命するのであって、
国会の議決がないのに天皇が総理を任命することはあり得ない。
たとえば、2・26事件のときは、川島陸相が反乱の勃発を天皇に上奏し、
これの鎮定を奏請して裁可を受けるというのがルールである。
また総理の生死も不明な場合、内大臣がその実情を奏請し、
臨時首相代理の任命を奏請して同じように裁可を受ける。
ところが川島陸相は反乱側に同情的であり、内大臣も生死不明、
そこで天皇はルールを飛び越えて、臨時首相代理を任命し、直ちに「暴徒の鎮圧」を命じ、
これを自ら反乱と規定し、自ら討伐すると言わざるを得なかった。
政治的に見ればきわめて適切だが、
天皇はこれを制限君主の「道を踏みまちがえた」「その枠を逸脱した」と考えておられる。」
2021年5月9日に日本でレビュー済み
これは昭和天皇の「自己規定」の研究である。重要なのは、大日本帝国憲法の「憲法発布勅語」に「朕及び朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循(したが)ヒ之ヲ行(おこな)フコトヲ愆(アヤマ)ラサルヘシ」と書かれていて、昭和天皇はそれを愚直なまでに守ったということだ。近衛文麿は「日本憲法は天皇親政が建前」と唱えていたようだが、昭和天皇からすれば「どうも近衛は自分にだけ都合の良いことを言ってるね」となる。著者晩年の名著。
2003年9月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
よくある昭和天皇研究書の中で分析の視点が
独特な点が良かった。
独特な点が良かった。
2005年6月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書で述べられているのはあくまで「昭和天皇の研究」であり、「天皇制の研究」ではない。しかし、昭和天皇個人を研究することにより、敗戦にまで至る日本の様々な問題点を浮かび上がらせる好著となっている。
戦前の天皇像は、一部の軍人や政治家や学者によって歪められてしまったのであるが、天皇が自分が神であると言ったことが無く、自らが神に対しての儀式を行っていたのに、人間でなく現人神と奉ってしまった日本人の国民性自体にも大きな問題があるだろう。
また、天皇個人は国際平和を希求し反ファッショであったにもかかわらず、厳格すぎるくらい立憲君主に徹していたため、逆の結果を招いてしまったのは皮肉としか言いようがない。本書を読み終えた後、昭和天皇が抱えていた苦悩に改めて思いを至らせた次第である。
戦前の天皇像は、一部の軍人や政治家や学者によって歪められてしまったのであるが、天皇が自分が神であると言ったことが無く、自らが神に対しての儀式を行っていたのに、人間でなく現人神と奉ってしまった日本人の国民性自体にも大きな問題があるだろう。
また、天皇個人は国際平和を希求し反ファッショであったにもかかわらず、厳格すぎるくらい立憲君主に徹していたため、逆の結果を招いてしまったのは皮肉としか言いようがない。本書を読み終えた後、昭和天皇が抱えていた苦悩に改めて思いを至らせた次第である。
2014年10月20日に日本でレビュー済み
本書は「天皇論と激突した(昭和)天皇の自己規定」の研究である。証拠文献を積み上げていく書き方で、杉浦重剛、白鳥庫吉、美濃部達吉、磯部浅一、北一輝、尾崎行雄、津田左右吉といった人物を通して天皇像を映し出している。氏の著作の中でも屈指の名著であるのみならず、昭和天皇について書かれた書籍の中でも間違いなく名著である。
明治創成を経て若き裕仁親王に期待されたのは「憲政の王道を歩む守成の名君」であり、杉浦重剛をはじめとする教育者たちはそのように教育し、天皇は「頑固とさえ感じられる持続力」によって明治憲法を順守した。本来ならこれで上手くゆくはずであったが、「憲法に描かれている社会システムとしての日本の青写真と、歴史的実態としての日本の現実との乖離」はそれを許さなかった。自由民権運動は有司専制を打倒して憲法と国会とを勝ち獲ったはずなのに、政党政治が実現するや「議員の汚職のニュースは、戦前も絶えることがなかった」という有様で、立憲君主制に忠実な天皇と憲政を解しない軍人や政治家との溝は埋まらなかった。挙句の果てが大政翼賛会である。
チャーチルの言の如く「戦争責任は戦費を支出した者にある」。「その予算は、内閣と帝国議会が握って」おり天皇に拒否権はない。確かにテロは恐ろしかろう。しかし天皇は死ぬまでその職から逃れることはできないのである。
明治創成を経て若き裕仁親王に期待されたのは「憲政の王道を歩む守成の名君」であり、杉浦重剛をはじめとする教育者たちはそのように教育し、天皇は「頑固とさえ感じられる持続力」によって明治憲法を順守した。本来ならこれで上手くゆくはずであったが、「憲法に描かれている社会システムとしての日本の青写真と、歴史的実態としての日本の現実との乖離」はそれを許さなかった。自由民権運動は有司専制を打倒して憲法と国会とを勝ち獲ったはずなのに、政党政治が実現するや「議員の汚職のニュースは、戦前も絶えることがなかった」という有様で、立憲君主制に忠実な天皇と憲政を解しない軍人や政治家との溝は埋まらなかった。挙句の果てが大政翼賛会である。
チャーチルの言の如く「戦争責任は戦費を支出した者にある」。「その予算は、内閣と帝国議会が握って」おり天皇に拒否権はない。確かにテロは恐ろしかろう。しかし天皇は死ぬまでその職から逃れることはできないのである。