東大教養学部の、正統的後継者は、誰だったのか?著者は、それは自分だったのだ、とは決して言わない。しかし、この学部の大学院比較文学研究室に往来した人々について、著者以外にこのような書物を著すことは不可能であろう。
この本は、芳賀徹、平川'弘、小堀桂一郎を中心として、東大教養学部に集まった俊秀達の活躍とその周辺を描いたものである。それらの多くは、部外者にもある程度漏れ伝えられてきたものであるが、こうして一本にまとめられるとそれなりの「歴史」であったことが分かる。
ところで、このような、「ゴシップ本」と揶揄されかねない、しかし、一面正直で面白いとも言える書物を書く情熱は、人間のいかなる部分から出てくるのであろうか。
著者のようなやり方でこの学部を愛し続けた人間はいないだろう。それだけに、ここで教壇に立つ機会を失った著者の無念も理解できる。しかし、人によっては「武士は食わねど高楊枝」と独自のダンディズムで本心を韜晦するものだが、著者はあまりに正直で率直である。
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東大駒場学派物語 単行本 – 2009/3/25
小谷野 敦
(著)
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ゴシップこそ面白い! 東大比較文化研究室を舞台に繰り広げられてきた学者たちの半世紀にわたる愛憎劇を描き出す長篇評論。
- 本の長さ294ページ
- 言語日本語
- 出版社新書館
- 発売日2009/3/25
- ISBN-104403231136
- ISBN-13978-4403231131
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登録情報
- 出版社 : 新書館 (2009/3/25)
- 発売日 : 2009/3/25
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 294ページ
- ISBN-10 : 4403231136
- ISBN-13 : 978-4403231131
- Amazon 売れ筋ランキング: - 722,265位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 46,765位歴史・地理 (本)
- - 112,808位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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作家、比較文学者。1962年茨城県生まれ、埼玉県育ち。海城高校卒、東大文学部英文科卒、同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了、学術博士。大阪大学言語文化部講師、助教授(英語)、国際日本文化研究センター客員助教授、現在は文筆家。博士論文は『<男の恋>の文学史』、1999年『もてない男』がベストセラーに。2002年『聖母のいない国』でサントリー学芸賞。2011年『母子寮前』で芥川賞候補、2014年「ヌエのいた家」で同。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年5月2日に日本でレビュー済み
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「駒場学派」とは東大教養学部を拠点とした、比較文学比較文化の研究室と東大比較文学会の集まりを指すとのこと。そこの「御三家」とは芳賀徹氏、平川祐弘氏、小堀桂一郎氏で、亀井俊介氏を加えると「四天王」とのこと。大学院での人間関係や修論・博論事情、就職事情が垣間見られ、興味深かった。
2014年5月23日に日本でレビュー済み
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小谷野敦氏の著作は、かなり読んでいるつもりです。「私小説のすすめ」には感銘を受けました。「文学部の光と影」・「文学研究という不幸」・その他売春・美人論等の風俗的な著作も、面白く拝読しました。(「もてない男」シリーズと小説はあまり好みではありません。)
それ等評論の分野に属する作物を読んでいつも感じるのは、そこで取り上げた人物が「どこの大学を出て、どの大学に就職したか」ということを氏が執拗に書き込んでいるのは何故なのかという疑問です。実によく調べていらっしゃいますし、場合によっては誰と結婚したか、どの紀要や研究誌に論文を発表したかまで、綿密に探索しています。氏のその執念は一体何なのでしょうか? 特に出身大学と就職先にはこだわるようです。そして時としては、それが一流大学か三流大学かということを、氏は平気で書き込みます。この書物は総てがその羅列と言ってよいでしょう。他の著作では物足りなかったものを、この書物では存分に書きならべています。それに終始している妙な作物です。読んでいて一体何を目的に、この書物を書かれたのかが、小生にはまったく不明です。
推測するに、「東京大学学部出身の大学院生」ということが、就職面では恵まれなかった氏にとって、心理面での「最後の防波堤」なのだと考えてしまうのです。誠に滑稽です。しかし、氏は今となってはその滑稽を意識して演じていらっしゃるのでしょう。こちらの勝手ながら、そこには哀れさを感じます。真の学歴コンプレックスというのは、こういうことなのでしょうか? そのせいか、氏の文章にはどことなく週刊誌の低俗さ漂っています。氏が知識に対して貪欲であり、教養というものを追い求めていらっしゃることは認めますが、どうしてもカーテンの蔭から他人を窺うような視線を止めることは出来ないようです。
繰り返しますが、氏の文芸評論は誠に鋭く、独特の切り込みがあります。「私小説のすすめ」での中村光夫論は見事でした。「川端康成」・「久米正雄」等の伝記を読むのが楽しみです。そろそろ、参考文献等で登場させる研究者の学歴と就職先に拘るのはやめてもよいのではないのでしょうか? 読んでいて眼ざわりに感じることがあるのです。余計なお世話でしょうが、氏の才能を惜しむ者としての苦言です。
それ等評論の分野に属する作物を読んでいつも感じるのは、そこで取り上げた人物が「どこの大学を出て、どの大学に就職したか」ということを氏が執拗に書き込んでいるのは何故なのかという疑問です。実によく調べていらっしゃいますし、場合によっては誰と結婚したか、どの紀要や研究誌に論文を発表したかまで、綿密に探索しています。氏のその執念は一体何なのでしょうか? 特に出身大学と就職先にはこだわるようです。そして時としては、それが一流大学か三流大学かということを、氏は平気で書き込みます。この書物は総てがその羅列と言ってよいでしょう。他の著作では物足りなかったものを、この書物では存分に書きならべています。それに終始している妙な作物です。読んでいて一体何を目的に、この書物を書かれたのかが、小生にはまったく不明です。
推測するに、「東京大学学部出身の大学院生」ということが、就職面では恵まれなかった氏にとって、心理面での「最後の防波堤」なのだと考えてしまうのです。誠に滑稽です。しかし、氏は今となってはその滑稽を意識して演じていらっしゃるのでしょう。こちらの勝手ながら、そこには哀れさを感じます。真の学歴コンプレックスというのは、こういうことなのでしょうか? そのせいか、氏の文章にはどことなく週刊誌の低俗さ漂っています。氏が知識に対して貪欲であり、教養というものを追い求めていらっしゃることは認めますが、どうしてもカーテンの蔭から他人を窺うような視線を止めることは出来ないようです。
繰り返しますが、氏の文芸評論は誠に鋭く、独特の切り込みがあります。「私小説のすすめ」での中村光夫論は見事でした。「川端康成」・「久米正雄」等の伝記を読むのが楽しみです。そろそろ、参考文献等で登場させる研究者の学歴と就職先に拘るのはやめてもよいのではないのでしょうか? 読んでいて眼ざわりに感じることがあるのです。余計なお世話でしょうが、氏の才能を惜しむ者としての苦言です。
2012年1月16日に日本でレビュー済み
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「駒場学派」とは東京大学の教養学部を拠点とした「比較文学比較文化という研究室と、東大比較文学会という集まりのこと」を指します(8頁)。
この研究室は、俳人夏石番矢、ロシア文学者川端香男里、科学史家村上陽一郎、映画批評家四方田犬彦などの、著名な研究者、文化人を輩出しています。
この本は、その「駒場学派の歴史」なのですが、筆者の小谷野さん自身が認めているように、これは「『東京大学百年史』のような公式の歴史とは異なり、ゴシップに満ち満ちており、「駒場学派」の真実の歴史として、読んでもらいたい」という本です(13頁)。
ですから、『ロシアにおける広瀬武夫』などの著書で知られる島田謹二が女癖が悪く、「家族にとって、それは地獄だった」(32頁)とか、平川祐弘の修士論文は、「どう見ても論文ではなく、ロンサールやデュ=ベレーの詩の翻訳をふんだんに挟んだ紀行文」(53頁)であったとか、小谷野さんの大学院入試受験の経緯やエピソード(137頁からの「間奏曲」)など、学者のゴシップやエピソードに興味がある人は面白く読めると思います。平川、芳賀の大御所がいたころは、院生は日本に関わるテーマを強制されたという悲劇も興味深いものがあります。
なお、この「間奏曲」に「中沢事件(中沢新一採用が教授会で否決された事件、採用を進めた西部邁らが抗議のため辞職した)」のことが出てきますが、西部邁さんは、事前に、今度、宗教学者を採用する予定だ、という人事に関わる話を大学院生だった小谷野さんに漏らしていたことが書かれています。人事に関することは秘密裡のうちに進めるもので、院生に話してはまずいですよね。
「学部から生え抜きの東大で、博士号までとって、私大の教授さえなれない」(291頁)小谷野さんの、「東大とおさらばしたいという」気持ち、あえていえばルサンチマンのこもった本です。
なお、18頁に「海軍幼年学校」という語が出てきますが、海軍には幼年学校はなく、「海軍兵学校」か「陸軍幼年学校」の間違いだと思います(たぶん後者)。
この研究室は、俳人夏石番矢、ロシア文学者川端香男里、科学史家村上陽一郎、映画批評家四方田犬彦などの、著名な研究者、文化人を輩出しています。
この本は、その「駒場学派の歴史」なのですが、筆者の小谷野さん自身が認めているように、これは「『東京大学百年史』のような公式の歴史とは異なり、ゴシップに満ち満ちており、「駒場学派」の真実の歴史として、読んでもらいたい」という本です(13頁)。
ですから、『ロシアにおける広瀬武夫』などの著書で知られる島田謹二が女癖が悪く、「家族にとって、それは地獄だった」(32頁)とか、平川祐弘の修士論文は、「どう見ても論文ではなく、ロンサールやデュ=ベレーの詩の翻訳をふんだんに挟んだ紀行文」(53頁)であったとか、小谷野さんの大学院入試受験の経緯やエピソード(137頁からの「間奏曲」)など、学者のゴシップやエピソードに興味がある人は面白く読めると思います。平川、芳賀の大御所がいたころは、院生は日本に関わるテーマを強制されたという悲劇も興味深いものがあります。
なお、この「間奏曲」に「中沢事件(中沢新一採用が教授会で否決された事件、採用を進めた西部邁らが抗議のため辞職した)」のことが出てきますが、西部邁さんは、事前に、今度、宗教学者を採用する予定だ、という人事に関わる話を大学院生だった小谷野さんに漏らしていたことが書かれています。人事に関することは秘密裡のうちに進めるもので、院生に話してはまずいですよね。
「学部から生え抜きの東大で、博士号までとって、私大の教授さえなれない」(291頁)小谷野さんの、「東大とおさらばしたいという」気持ち、あえていえばルサンチマンのこもった本です。
なお、18頁に「海軍幼年学校」という語が出てきますが、海軍には幼年学校はなく、「海軍兵学校」か「陸軍幼年学校」の間違いだと思います(たぶん後者)。
2010年3月16日に日本でレビュー済み
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この小谷野敦著『東大駒場学派物語』(新書館, 2009)は真摯な学者による真摯な学問集団の歴史の紹介の書である。真摯といっても、官製の事実を並べただけの白書ではなく、著者の、駒場に対するほのかな愛情に裏打ちされた、紹介・批評・激励の混じった、そして少し物悲しい、学者哀話である。タイトルの駒場学派というのは、東大駒場を「拠点とした、比較文学比較文化という研究室と、東大比較文学会という集まりのこと」をさし、このきら星のごとく優れた学者を輩出した学問集団は、「駒場を拠点として唯一、五十四年の歴史を持つ大学院」である(8ページ)。内容は、「前奏曲」に始まり、「第一幕 四天王の誕生」(四天王とは芳賀、平川、小堀、亀井氏)と続く。この比較における人脈をたどりながら、その歴史の紹介があるが、比較の黄金時代は1981年に平川、芳賀両氏がサントリー学藝賞を受賞した時から始まるとされる。「間奏曲 英文科の落ちこぼれ、比較へ行く」、そして、「第二幕 シンデレラ・ガールたち」と続き、最後の章は「第三幕 神々の黄昏」とあり、一時期の隆盛を欠いているとの少し物悲しいトーンで終る。対比と異なり、比較とは実証的な研究方法と理解しているが、その方法論的な面が少しゆるやかになっているのが、原因のひとつかもしれない。一度だけ、比較の共同研究室でコーヒーとクッキーをご馳走になったことのある私としては、その暖かい学問的雰囲気を思い出しながら、読ませていただいた。
2023年6月27日に日本でレビュー済み
本書タイトルにある東大駒場派というのは、おおまかにいえば、東大駒場キャンパスに学部課程のない独立大学院として設置された比較文学比較文化専門課程に所属した教員とその課程出身の研究者たちを指しているようです。
最近評者は、四方田犬彦(1953年生)が、東大での学部4年間とその後この比較文学比較文化専門課程に進学しての大学院時代の回想をつづった自伝的エッセー『歳月の鉛』を読んだのですが、ほぼ10年後に同じ課程に入った小谷野敦(1962年生)も駒場のその大学院をテーマに本書を書いていることをすでに知っていたので、両者の記述を合わせ読むことでより多くのことがわかるかと思い、あらためて本書も手に入れ読んでみたしだい。
本書は、比較文学比較文化専門課程の、その創設からの歴史を時系列に沿ってたどることがまずは主要テーマになっています。そのさい、島田謹二にはじまる研究室所属の教授らの肖像や在籍した学生たちの当時およびその後の様子がゴシップ的な話題とあわせて書かれていて、興味深く読んでいけます。
そしてそんな本筋の記述のあいだに、「間奏曲」というセクションを設けて、著者が当該専門課程に在籍していた当時の自分のことを回想して私小説ふう(?)に描いた40ページほどの文章(「英文科の落ちこぼれ、比較へ行く」)がさしはさまれています。
実は評者はこれが本書でいちばん面白く読んだところでした。
こういう感じで、著者には駒場教養学部時代、本郷英文科時代などについても私小説ふう回想記を書いていただきたいものです。
最近評者は、四方田犬彦(1953年生)が、東大での学部4年間とその後この比較文学比較文化専門課程に進学しての大学院時代の回想をつづった自伝的エッセー『歳月の鉛』を読んだのですが、ほぼ10年後に同じ課程に入った小谷野敦(1962年生)も駒場のその大学院をテーマに本書を書いていることをすでに知っていたので、両者の記述を合わせ読むことでより多くのことがわかるかと思い、あらためて本書も手に入れ読んでみたしだい。
本書は、比較文学比較文化専門課程の、その創設からの歴史を時系列に沿ってたどることがまずは主要テーマになっています。そのさい、島田謹二にはじまる研究室所属の教授らの肖像や在籍した学生たちの当時およびその後の様子がゴシップ的な話題とあわせて書かれていて、興味深く読んでいけます。
そしてそんな本筋の記述のあいだに、「間奏曲」というセクションを設けて、著者が当該専門課程に在籍していた当時の自分のことを回想して私小説ふう(?)に描いた40ページほどの文章(「英文科の落ちこぼれ、比較へ行く」)がさしはさまれています。
実は評者はこれが本書でいちばん面白く読んだところでした。
こういう感じで、著者には駒場教養学部時代、本郷英文科時代などについても私小説ふう回想記を書いていただきたいものです。
2013年5月27日に日本でレビュー済み
息子に聞くと、文学部は東大の中でも特殊で、何やってもいいところだ。どこの文学部も大体同様なことであろう。法学部、経済学部は、本業以外は異端、相手にされないそうだ。
一橋もそうだ。なんとも、下らんこととを書いているようだが、文学部だから案外このようなことが気になるのでは???
書き手の愚痴と、自慢の下心が丸見え。文学なんて、大学に関係なく才能の勝負だと思うのはわたしだけか?
一橋もそうだ。なんとも、下らんこととを書いているようだが、文学部だから案外このようなことが気になるのでは???
書き手の愚痴と、自慢の下心が丸見え。文学なんて、大学に関係なく才能の勝負だと思うのはわたしだけか?
2009年12月15日に日本でレビュー済み
一気呵成に読んだ。
私は駒場とも東大とも関係ないが、人文系の院を出て大学教師をしているので、小谷野氏の書いている学者世界の悲喜劇はよく理解できる。かねて、その辛辣で寸鉄人を刺すがごとき筆遣いは私の好きな谷沢永一に通じるものがあると思っていたが、今は谷沢以上だと思う。恩師であれ、先輩であれ、おかしいものはおかしいと痛罵する流儀はいっそ清々しい。
理系のことは知らないが、日本の文系の研究室の場合、左傾化した研究室(旧左翼・新左翼・左翼シンパ、朝日・岩波的サヨク)が大半で、駒場比較のように保守・右翼が支配する研究室があるなど全く知らず、この本を読んで始めて知った。私は学生時代から保守派・ナショナリストをもって任じていたので、所属した研究室の表立って共産党や民青の悪口を言えないような雰囲気に馴染めず、息苦しく感じていた。だから、かつての比較が正直ちょっと羨ましい気もしたし、私の体質には合っていそうな気もしたが、それは錯覚だろう。立場は正反対だが、研究室の空気に馴染めず、陰に陽に抑圧を受けた(と感じざるをえなかった)人たちには同情を禁じえない。
著者のアカデミズムの世界を見る目は厳しいが、「愚者の楽園」は厳しい視線を受けずにのうのうと生き抜いてきたことを謙虚に反省すべきだろう。愚者の一人ではあるが、小谷野氏には今後も期待したい。
私は駒場とも東大とも関係ないが、人文系の院を出て大学教師をしているので、小谷野氏の書いている学者世界の悲喜劇はよく理解できる。かねて、その辛辣で寸鉄人を刺すがごとき筆遣いは私の好きな谷沢永一に通じるものがあると思っていたが、今は谷沢以上だと思う。恩師であれ、先輩であれ、おかしいものはおかしいと痛罵する流儀はいっそ清々しい。
理系のことは知らないが、日本の文系の研究室の場合、左傾化した研究室(旧左翼・新左翼・左翼シンパ、朝日・岩波的サヨク)が大半で、駒場比較のように保守・右翼が支配する研究室があるなど全く知らず、この本を読んで始めて知った。私は学生時代から保守派・ナショナリストをもって任じていたので、所属した研究室の表立って共産党や民青の悪口を言えないような雰囲気に馴染めず、息苦しく感じていた。だから、かつての比較が正直ちょっと羨ましい気もしたし、私の体質には合っていそうな気もしたが、それは錯覚だろう。立場は正反対だが、研究室の空気に馴染めず、陰に陽に抑圧を受けた(と感じざるをえなかった)人たちには同情を禁じえない。
著者のアカデミズムの世界を見る目は厳しいが、「愚者の楽園」は厳しい視線を受けずにのうのうと生き抜いてきたことを謙虚に反省すべきだろう。愚者の一人ではあるが、小谷野氏には今後も期待したい。