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ももクロ論 水着と棘のコントラディクション 単行本(ソフトカバー) – 2013/9/19
ももいろクローバーZの魅力を読み解く評論集。カバーイラストは漫画界の鬼才・カネコアツシ。
3.11後の社会と激しくシンクロし、世代を超えた熱狂的なファン(モノノフ)を生み出したももいろクローバーZ。
念願の紅白出場後に、彼女たちは棘のマスクをかぶり禍々しい姿で変革への意思を表明した。
一方のアイドル界の覇者AKB48は、お約束の水着姿を披露し愛らしい笑顔を振りまく。
この好対照の二つのグループは、どんな社会的想像力に対応しているのであろうか。
本書第1部の「アイドル消費における鎮魂とカーニヴァル」は、ディストピア化が進む現代日本の
社会状況を検証し、ももクロとAKB48が慰撫するわれわれの「呪われた部分」に光を当てる。
そしてこの二つの人気グループが、大衆の欲望の処理については、全く正反対のベクトルを持つことを明らかにする。
第2部の「まばゆい笑いの発作」では、これまで言及されてこなかったパフォーマンスの特性を分析し、
ファンを魅了してやまないももクロの「全力」について徹底的に解明を図る。
エリントンにおける“スゥイング"やキース・リチャーズにとっての“ロール"同様、
記述化を拒むももクロの偶発的なノリの正体に鋭く迫る。
ももクロを語ることはすなわち、「遊びと笑い」「祝祭と運命」「死と再生」について、
現在を生きる者が何を求めようとしているのかを語ることにつながった。
【本書より抜粋】
「ももクロの『5TH DIMENSION』は、ディストピア化した現実のなかで
もがき苦しむわれわれの“未成熟な意識からの脱出"を主題にしている。
〈妹の力〉に優れたももクロの言霊は、容易に変わらない社会的閉塞状況を何とか突破しようとしている。」(清家)
「ライブの終盤、高い負荷に耐えることで現前してくるリアルとしての
――荒い息遣いとともに浮かぶ――笑いのまばゆい発作を、私たちは全力の証左として、
一生懸命の証拠として認めるのではないか。」(桐原)
3.11後の社会と激しくシンクロし、世代を超えた熱狂的なファン(モノノフ)を生み出したももいろクローバーZ。
念願の紅白出場後に、彼女たちは棘のマスクをかぶり禍々しい姿で変革への意思を表明した。
一方のアイドル界の覇者AKB48は、お約束の水着姿を披露し愛らしい笑顔を振りまく。
この好対照の二つのグループは、どんな社会的想像力に対応しているのであろうか。
本書第1部の「アイドル消費における鎮魂とカーニヴァル」は、ディストピア化が進む現代日本の
社会状況を検証し、ももクロとAKB48が慰撫するわれわれの「呪われた部分」に光を当てる。
そしてこの二つの人気グループが、大衆の欲望の処理については、全く正反対のベクトルを持つことを明らかにする。
第2部の「まばゆい笑いの発作」では、これまで言及されてこなかったパフォーマンスの特性を分析し、
ファンを魅了してやまないももクロの「全力」について徹底的に解明を図る。
エリントンにおける“スゥイング"やキース・リチャーズにとっての“ロール"同様、
記述化を拒むももクロの偶発的なノリの正体に鋭く迫る。
ももクロを語ることはすなわち、「遊びと笑い」「祝祭と運命」「死と再生」について、
現在を生きる者が何を求めようとしているのかを語ることにつながった。
【本書より抜粋】
「ももクロの『5TH DIMENSION』は、ディストピア化した現実のなかで
もがき苦しむわれわれの“未成熟な意識からの脱出"を主題にしている。
〈妹の力〉に優れたももクロの言霊は、容易に変わらない社会的閉塞状況を何とか突破しようとしている。」(清家)
「ライブの終盤、高い負荷に耐えることで現前してくるリアルとしての
――荒い息遣いとともに浮かぶ――笑いのまばゆい発作を、私たちは全力の証左として、
一生懸命の証拠として認めるのではないか。」(桐原)
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社有楽出版社
- 発売日2013/9/19
- ISBN-104408593990
- ISBN-13978-4408593999
登録情報
- 出版社 : 有楽出版社 (2013/9/19)
- 発売日 : 2013/9/19
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 304ページ
- ISBN-10 : 4408593990
- ISBN-13 : 978-4408593999
- Amazon 売れ筋ランキング: - 37,487位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 230位タレント本 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年1月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読みごたえがあり、ももクロさんの活動を考察するに際して新しい視点を与えられました。
2014年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
学者さんは、すべて自分の学問に置き換えてこじつけがましく理解不能でした。単純にすき、応援したいが読み手に伝わればと思います。
2013年9月29日に日本でレビュー済み
「ももクロ」にはまったオヤジである社会学者と編集者が、それぞれ「ももクロ」という熱狂的な社会現象を解読しようとした一冊。
社会哲学とロック批評がその土台となっている。
鮮やかな批評論に触れると、目の前の霧が一瞬にして晴れて、今までと違う視界が広がることがある。
私も「ももクロ」にまんまと絡め取られたオヤジの一人だが、周囲からの怪訝な視線は、すでに諦めに変わっている(笑)。
周囲の目は気にならないが、自分なりに解読したい。
ライブ会場では「考えるな、感じろ」でいいが、素に戻ったらやはり考えるよなぁ、と手に取った。
さて、1部の清家氏は、折口信夫や、ベンヤミンに代表される識者の言説、理論、AKB48との比較などを切り口に、
「ももクロ(現象)」を読み解こうと試みている。
さらに、その解読フレームを駆使して、ディストピア化が進むという現代日本の課題を浮かび上がらせようとした、と読めた。
が、「ももクロ(現象)」とディストピア日本を結ぶ補助線の引き方が雑すぎる。
3.11、先の衆院選、若者の離退職、TPPとディストピア日本を示そうとするが、偏った短絡が多いから、説得力に乏しい。
いっこうに霧が晴れない。
「ももクロ(現象)」と「日本人の未成熟」に焦点を当てて論を結んでいるが、清家氏のいう「成熟・未成熟」って何だろう?
深掘りできる論点だと思うが、説得力を持ったとは言い難い。
拍手の準備はできていたのに「えっ!?そういうことなの?」で終わった。
2部の桐原氏はロックとの比較を軸に据え、無謀な試みと断った上で、パフォーマンス論を展開した。
この視点は新鮮だった。とりわけロラン・バルトを引いての「声」論には発見があった。
百田夏菜子の言うように「私たちって、結局ライブなんですよ」である。
そして「グルーヴこそ複製技術を超越する「アウラ」(ベンヤミン)であり、現在の音楽産業の支配する領域を逸脱する契機になるものだ」
という一文に至って、ひざを打った。
きっと「ももクロ」は、崩壊したアウラ(一回性)を復活させつつあるのだろう。
しかも、そのパフォーマンスには、多種多様なコンテキストが流し込まれており、幅広い世代に刺さっていく。
かくて、「ももクロ」の作り出すカーニバルは強力な磁場を作り、老若男女を引きつけるということか。
「うん、なるほど!」。でも論じて欲しいのはその先だ。
ベンヤミンの予見しようのなかった複製技術時代の向こう側にすでにたどり着いてしまっている。
著者は「IT批評」という雑誌の編集長だ。「ももクロ(現象)」で、ぜひネットコミュニケーション社会のアウラを論じて欲しい。
社会哲学とロック批評がその土台となっている。
鮮やかな批評論に触れると、目の前の霧が一瞬にして晴れて、今までと違う視界が広がることがある。
私も「ももクロ」にまんまと絡め取られたオヤジの一人だが、周囲からの怪訝な視線は、すでに諦めに変わっている(笑)。
周囲の目は気にならないが、自分なりに解読したい。
ライブ会場では「考えるな、感じろ」でいいが、素に戻ったらやはり考えるよなぁ、と手に取った。
さて、1部の清家氏は、折口信夫や、ベンヤミンに代表される識者の言説、理論、AKB48との比較などを切り口に、
「ももクロ(現象)」を読み解こうと試みている。
さらに、その解読フレームを駆使して、ディストピア化が進むという現代日本の課題を浮かび上がらせようとした、と読めた。
が、「ももクロ(現象)」とディストピア日本を結ぶ補助線の引き方が雑すぎる。
3.11、先の衆院選、若者の離退職、TPPとディストピア日本を示そうとするが、偏った短絡が多いから、説得力に乏しい。
いっこうに霧が晴れない。
「ももクロ(現象)」と「日本人の未成熟」に焦点を当てて論を結んでいるが、清家氏のいう「成熟・未成熟」って何だろう?
深掘りできる論点だと思うが、説得力を持ったとは言い難い。
拍手の準備はできていたのに「えっ!?そういうことなの?」で終わった。
2部の桐原氏はロックとの比較を軸に据え、無謀な試みと断った上で、パフォーマンス論を展開した。
この視点は新鮮だった。とりわけロラン・バルトを引いての「声」論には発見があった。
百田夏菜子の言うように「私たちって、結局ライブなんですよ」である。
そして「グルーヴこそ複製技術を超越する「アウラ」(ベンヤミン)であり、現在の音楽産業の支配する領域を逸脱する契機になるものだ」
という一文に至って、ひざを打った。
きっと「ももクロ」は、崩壊したアウラ(一回性)を復活させつつあるのだろう。
しかも、そのパフォーマンスには、多種多様なコンテキストが流し込まれており、幅広い世代に刺さっていく。
かくて、「ももクロ」の作り出すカーニバルは強力な磁場を作り、老若男女を引きつけるということか。
「うん、なるほど!」。でも論じて欲しいのはその先だ。
ベンヤミンの予見しようのなかった複製技術時代の向こう側にすでにたどり着いてしまっている。
著者は「IT批評」という雑誌の編集長だ。「ももクロ(現象)」で、ぜひネットコミュニケーション社会のアウラを論じて欲しい。
2013年10月4日に日本でレビュー済み
フロイトは最初に欲動二元論(性の欲動と自己保存欲動は対立する)を提示した。また人間の欲動は快感原則と現実原則の二つに従っており、性の欲動は快感原則に自己保存欲動は現実原則に従いやすいとした。
その後ナルシシズムを考慮したうえで性の欲動を自我リビドーと対象リビドーに分けた。次に自我リビドー=自己保存欲動ではないかと考えた。
その後リビドーを欲動そのものとし、自我リビドー(=自己保存欲動)と対象リビドー(=性の欲動)の二つに分けた。
しかし最後には欲動をエロス(生)と タナトス(死)に分類した。
フロイトは第一次世界大戦後、外傷神経症の症例をみるにあたりこの症状が自身の夢理論(夢は願望の充足など)と矛盾することから反復強迫という概念を思いついた。
しかしこの概念は、今度は快感原則と現実原則に矛盾したので、反復強迫は快感原則と現実原則の対立よりももっと奥深い、蒼古なところからきたデモーニッシュなものとし、死の欲動を導き出したようである。
よってフロイトのタナトスは反証できるような概念ではなく、所謂文学的なものなのでラカンはいらないと思うし、この本の清家竜介氏のように面白く使えばよいと思う。
さらに加えればM.クラインの投影同一視と攻撃性の概念から「同一化」と「タナトス」を語ってもらえるとバタイユも含めもっと深く楽しめたかもしれない。
私はPファンクの事はそれなりに知っているので、この本で全く知らなかったももクロ現象への理解が進んだ気がする。
しかしパーラメントのマザーシップコネクションツアー、アースツアーや7thアルバムのことだけでなく、
ファンカデリックの初期におけるブラックロックの混合性とそれに対する純粋ソウル側からの否定的反応などについて具体的に、もっと濃く考察してもらいたかった。
後、せっかくジャップロックサンプラーという珍本、奇書を引用しているのだから、草月のケージショック、シュトックハウゼンのNHKテレムジーク、横尾忠則+一柳慧、イーストバイオニックシンフォニア、
青蝕器(北海道のFaust)などにもふれてもっと濃厚な日本のロック論を展開して欲しかった。
D.ベイリーも引用するのならヨーロッパフリー、高柳から大友良英(あまちゃん)についても語れたのでは。さらにこってりした次回作期待しています。
清家竜介氏が放つ不気味さはマイブームです。はまった方には彼の「交換と主体化」もおすすめします。
その後ナルシシズムを考慮したうえで性の欲動を自我リビドーと対象リビドーに分けた。次に自我リビドー=自己保存欲動ではないかと考えた。
その後リビドーを欲動そのものとし、自我リビドー(=自己保存欲動)と対象リビドー(=性の欲動)の二つに分けた。
しかし最後には欲動をエロス(生)と タナトス(死)に分類した。
フロイトは第一次世界大戦後、外傷神経症の症例をみるにあたりこの症状が自身の夢理論(夢は願望の充足など)と矛盾することから反復強迫という概念を思いついた。
しかしこの概念は、今度は快感原則と現実原則に矛盾したので、反復強迫は快感原則と現実原則の対立よりももっと奥深い、蒼古なところからきたデモーニッシュなものとし、死の欲動を導き出したようである。
よってフロイトのタナトスは反証できるような概念ではなく、所謂文学的なものなのでラカンはいらないと思うし、この本の清家竜介氏のように面白く使えばよいと思う。
さらに加えればM.クラインの投影同一視と攻撃性の概念から「同一化」と「タナトス」を語ってもらえるとバタイユも含めもっと深く楽しめたかもしれない。
私はPファンクの事はそれなりに知っているので、この本で全く知らなかったももクロ現象への理解が進んだ気がする。
しかしパーラメントのマザーシップコネクションツアー、アースツアーや7thアルバムのことだけでなく、
ファンカデリックの初期におけるブラックロックの混合性とそれに対する純粋ソウル側からの否定的反応などについて具体的に、もっと濃く考察してもらいたかった。
後、せっかくジャップロックサンプラーという珍本、奇書を引用しているのだから、草月のケージショック、シュトックハウゼンのNHKテレムジーク、横尾忠則+一柳慧、イーストバイオニックシンフォニア、
青蝕器(北海道のFaust)などにもふれてもっと濃厚な日本のロック論を展開して欲しかった。
D.ベイリーも引用するのならヨーロッパフリー、高柳から大友良英(あまちゃん)についても語れたのでは。さらにこってりした次回作期待しています。
清家竜介氏が放つ不気味さはマイブームです。はまった方には彼の「交換と主体化」もおすすめします。
2013年9月23日に日本でレビュー済み
1部は社会学的アプローチ、2部はロック批評的なアプローチ。読み手の好みで評価が分かれそう。
1部は、社会学者がももクロ(とAKB)を鏡にして日本社会の問題点をあぶりだそうというもの(たぶん)。
学者ゆえか、折口信夫から現代思想までとにかく引用が多い。難解な個所も多々あり、読み手の理解力が不足しているのか、書き手に文章力がないのか判断に迷うところ。ももクロ巫女説や民俗学の援用も目新しさはない。AKB論者の公共性云々への批判や、5次元とPファンクとの類似、二重の繭に包まれた日本人など個々のトピックスは面白かったが、いまいち関連性がよくわからず、最後までぼんやりした印象はぬぐえなかった。
2部は思わぬ拾い物。ももクロのパフォーマンスになぜ我々が魂を奪われてしまうのかをテーマにぐいぐい筆を進めていく。
ももクロの「全力」をそれ自体が目的ではなく、何ものかをステージ上に現出させるための手段であると看破したところに本論の肝があると思う。セックスピストルズやロシアの演劇論を交えながら結論にたどりつく手さばきは鮮やかですらある。今本渉氏や安西信一氏がたどりつけなかった地点にまで確実に進んだ感あり。本論を、ももクロの魅力について言語化できずに悶々としていた諸兄姉にお薦めする。
1部は、社会学者がももクロ(とAKB)を鏡にして日本社会の問題点をあぶりだそうというもの(たぶん)。
学者ゆえか、折口信夫から現代思想までとにかく引用が多い。難解な個所も多々あり、読み手の理解力が不足しているのか、書き手に文章力がないのか判断に迷うところ。ももクロ巫女説や民俗学の援用も目新しさはない。AKB論者の公共性云々への批判や、5次元とPファンクとの類似、二重の繭に包まれた日本人など個々のトピックスは面白かったが、いまいち関連性がよくわからず、最後までぼんやりした印象はぬぐえなかった。
2部は思わぬ拾い物。ももクロのパフォーマンスになぜ我々が魂を奪われてしまうのかをテーマにぐいぐい筆を進めていく。
ももクロの「全力」をそれ自体が目的ではなく、何ものかをステージ上に現出させるための手段であると看破したところに本論の肝があると思う。セックスピストルズやロシアの演劇論を交えながら結論にたどりつく手さばきは鮮やかですらある。今本渉氏や安西信一氏がたどりつけなかった地点にまで確実に進んだ感あり。本論を、ももクロの魅力について言語化できずに悶々としていた諸兄姉にお薦めする。
2014年1月14日に日本でレビュー済み
この本は清家氏と桐原氏の両氏が「ももいろクローバーZ」について書いたものを二つ並べたものです。
私の感想は「参考になることが多く書かれていたが、難しい言葉遣いと抽象的な考えが多くよく理解できなかった」というものです。
趣味の読書としてはとても学術的で、理論の展開に頭がついて行きませんでした。
また私が違和感を覚えたのは、AKB48との比較が多く、最終的にAKB48の悪いところばかりが強調されているところです。
私はAKB48についての記述はよく理解できず、それが妥当なのか判断できませんでした。
もう一つ違和感を覚えたのは、3.11とももクロ現象の関係を強調しているところです。
私には3.11とももクロ現象は直接関係があるとは思えないので、いくら持ち出されても同一直線上でイメージすることはできませんでした。
ただももクロ現象にはとても興味があるので、それを深く検証されたところはとても読み応えがあり読んだことに満足しています。
私の感想は「参考になることが多く書かれていたが、難しい言葉遣いと抽象的な考えが多くよく理解できなかった」というものです。
趣味の読書としてはとても学術的で、理論の展開に頭がついて行きませんでした。
また私が違和感を覚えたのは、AKB48との比較が多く、最終的にAKB48の悪いところばかりが強調されているところです。
私はAKB48についての記述はよく理解できず、それが妥当なのか判断できませんでした。
もう一つ違和感を覚えたのは、3.11とももクロ現象の関係を強調しているところです。
私には3.11とももクロ現象は直接関係があるとは思えないので、いくら持ち出されても同一直線上でイメージすることはできませんでした。
ただももクロ現象にはとても興味があるので、それを深く検証されたところはとても読み応えがあり読んだことに満足しています。
2013年10月2日に日本でレビュー済み
本書はももクロにはまったおっさん二人による共著である。
第2部、桐原永叔は、「IT批評」編集長ならではの切れ味でアイドル論をビジネス論に展開する。AKBの構成をパソコンでいえば、モジュールを組み合わせる「組み合わせ型」(モジュラー型)と例える。AKBが ”CPU、メモリ、HDD、ディスプレイなどそれぞれ別の組織で製造された部品が独立しながら、あるルールを順守することで全体を構成(疎結合)している“ 入れ替え可能なモジュラー型ならば一方ももクロは、「擦り合わせ型」(インテグラル型)と例え、全体が密接に関係する構成(密結合)で、調整も難しいが全体の完成度はモジュラー型より高くなると言う。建築設計業界の私がなるほどと共感するもので、はじめに〈編集長ならでは〉と書いたのは、この辺りに仕事の匂いを嗅いだからだ。
第1部は、ももクロに没入するオヤジ達、はたまた女、子供まで巻き込み“急旋回する台風”と、清家竜介が“ももクロ現象”にあらゆる角度から迫っていく。馴染み薄い民俗学でも、アマテラスを岩戸の外へ引っ張り出そうとサイリウム振り回し、踊りくるうおっさんが瞼にちらつき始めると、一気に加速しページを繰った。AKBとの対置で迫るに留まらず、ニーチェ出てくる、出る犬彦、出るアドルノ。今度は大澤真幸の〈現実への逃避〉を起点に、ももクロ現象を起こす〈現実〉へと読者を巻き込み急旋回する。ドライヴのかかったタイフーンは、Pファンク登場で絶好調に達し、コクーニングで隠蔽された現実を繭の糸を逆回転に巻きはがし、むき出しの現実を露呈させるのだ。
そうか!アイドルや原発に「キリスト」や「菩薩」の名前を被せ、絹のヴェールで覆ってしまうこの国の風潮は、サー・ノーズによるプラシーボ症候群か?と気づいてしまうことになるのである。
スーツならぬヴェールを引き裂け、おっさんよ!
スパイク・リー”Do The Right Thing”、水田×クドカン×阿部サダヲ「なくもんか」、井筒監督「ゲロッパ!」なんかが好きな人にマジおすすめ。
第2部、桐原永叔は、「IT批評」編集長ならではの切れ味でアイドル論をビジネス論に展開する。AKBの構成をパソコンでいえば、モジュールを組み合わせる「組み合わせ型」(モジュラー型)と例える。AKBが ”CPU、メモリ、HDD、ディスプレイなどそれぞれ別の組織で製造された部品が独立しながら、あるルールを順守することで全体を構成(疎結合)している“ 入れ替え可能なモジュラー型ならば一方ももクロは、「擦り合わせ型」(インテグラル型)と例え、全体が密接に関係する構成(密結合)で、調整も難しいが全体の完成度はモジュラー型より高くなると言う。建築設計業界の私がなるほどと共感するもので、はじめに〈編集長ならでは〉と書いたのは、この辺りに仕事の匂いを嗅いだからだ。
第1部は、ももクロに没入するオヤジ達、はたまた女、子供まで巻き込み“急旋回する台風”と、清家竜介が“ももクロ現象”にあらゆる角度から迫っていく。馴染み薄い民俗学でも、アマテラスを岩戸の外へ引っ張り出そうとサイリウム振り回し、踊りくるうおっさんが瞼にちらつき始めると、一気に加速しページを繰った。AKBとの対置で迫るに留まらず、ニーチェ出てくる、出る犬彦、出るアドルノ。今度は大澤真幸の〈現実への逃避〉を起点に、ももクロ現象を起こす〈現実〉へと読者を巻き込み急旋回する。ドライヴのかかったタイフーンは、Pファンク登場で絶好調に達し、コクーニングで隠蔽された現実を繭の糸を逆回転に巻きはがし、むき出しの現実を露呈させるのだ。
そうか!アイドルや原発に「キリスト」や「菩薩」の名前を被せ、絹のヴェールで覆ってしまうこの国の風潮は、サー・ノーズによるプラシーボ症候群か?と気づいてしまうことになるのである。
スーツならぬヴェールを引き裂け、おっさんよ!
スパイク・リー”Do The Right Thing”、水田×クドカン×阿部サダヲ「なくもんか」、井筒監督「ゲロッパ!」なんかが好きな人にマジおすすめ。
2013年9月23日に日本でレビュー済み
第一部の清家氏の論考で注目すべきは、折口信夫の論を引き、現代のアイドルたちも鎮魂を司る芸能の神の文化的末裔であるとしながらも、「現代の巫女ともいうべきアイドルの力は、実に危険なものでもある。それは、日々の抑圧によって生じる満たされない衝動を、抑圧を生み出す原因を迂回して発散してしまう傾向にあるからだ」と指摘している点にある。つまり、ももクロの「遊び、踊る身体」を分析しそれに興じつつも、あくまで社会の抑圧とも向き合い闘っていこうとする姿勢をとる。これは「ももクロ論」のかたちをとった「日本論」とも読め、特に3.11で露呈した日本の諸問題を提示し、それを乗り越えていく方法を、ももクロとともに見いだしていく。
第二部の桐原氏の論考で面白いのはロックの話題にとどまらず、演劇論にも深く立ち入っているところである。バフチン、メイエルホリド、スタニスラフスキー、はたまた平田オリザにも言及しながら、ももクロの激しい振り付けを「身体にかけられる過酷な負荷によって自意識を後退させる演出」とみなす視点は新鮮だ。そこから導かれるのは舞台を“演じる”のではなく“生きる”ももクロたちの姿であり、キャラクターを演じている本人が自意識につかまってしまうようなAKBの危うさ(あるいは特徴)を対照的に浮かび上がらせる。ももクロを形容する際によく使われる「全力」や「健気」とった表現を「自意識が語ろうとする物語を放棄した瞬間=生きた一瞬から得た感動に対する言葉」とし、再現でも模倣でもない一回限りのステージに生きるももクロを、生の恢復を目指すカーニヴァル論に繋げて展開していく。
両者ともベンヤミンの思想を反映させているが、清家氏と桐原氏の論考自体がベンヤミンのいう「星座」の形態をなしており、それぞれの概念がそれぞれの概念を補強する布置関係にあり、「救済」の可能性をきら星のごとく明かしている。ぜひその光を直に見ていただきたい。
第二部の桐原氏の論考で面白いのはロックの話題にとどまらず、演劇論にも深く立ち入っているところである。バフチン、メイエルホリド、スタニスラフスキー、はたまた平田オリザにも言及しながら、ももクロの激しい振り付けを「身体にかけられる過酷な負荷によって自意識を後退させる演出」とみなす視点は新鮮だ。そこから導かれるのは舞台を“演じる”のではなく“生きる”ももクロたちの姿であり、キャラクターを演じている本人が自意識につかまってしまうようなAKBの危うさ(あるいは特徴)を対照的に浮かび上がらせる。ももクロを形容する際によく使われる「全力」や「健気」とった表現を「自意識が語ろうとする物語を放棄した瞬間=生きた一瞬から得た感動に対する言葉」とし、再現でも模倣でもない一回限りのステージに生きるももクロを、生の恢復を目指すカーニヴァル論に繋げて展開していく。
両者ともベンヤミンの思想を反映させているが、清家氏と桐原氏の論考自体がベンヤミンのいう「星座」の形態をなしており、それぞれの概念がそれぞれの概念を補強する布置関係にあり、「救済」の可能性をきら星のごとく明かしている。ぜひその光を直に見ていただきたい。