ソクラテス、プラトンにスポットが当たることはよくあるが、ソフィストにそれが当たることはあまりない。プラトン側の視点であるために全貌は歪んでいるように思えてならない中、本書はしっかり検討して深めている。ソフィストはそもそも哲学の範疇には入らず、哲学を含む社会全体を捉えて哲学を批判的に見て、同じ土俵に乗っていないため、まともに比較するのは難しいとも思える。
本書の後半はゴルギアスの著作『ヘレネ頌』『パラメデス弁明』の訳と詳細な解説があり、そこからゴルギアスの意図を読み解こうとする。ただ彼の弟子イソクラテスが指摘するように『ヘレネ頌』は頌歌というより弁明であって、トロイア戦争の原因を作った悪女とされるヘレネを弁護する内容である。パラメデスも敵方に内通したとしてオデュッセウスに訴えられるが、ゴルギアスはパラメデスの立場に立って弁明を試みる。
ゴルギアスの意図は言論によって人々を納得させ、また非難者を論駁することにあった。当時はまた人々の前で「演示」する言論活動が盛んで、人々に受け入れられれば評判は上がり成功につながった。ゴルギアスはヘレネの悪い印象を払拭するという意表をついた言論で、耳目を集めたという。『ソフィスト列伝』(デルベ)によれば、ゴルギアスは祖国シチリアの危機のためアテナイを訪れ民会で雄弁を振るい成功を勝ち得たという。ゴルギアス流に話すという意味で「ゴルギアスする」という言葉まで生まれるほど人気があったようだ。
言論活動の重要性は当時の民主政治にも現れていて、議会においていかに相手を説得するかが人々の関心事で、ゴルギアスのような弁論のプロは大いに重宝された。
前後半が逆転してしまったが、前半はプラトンから見たソフィスト、歴史的なソフィストの評価などについて。ソフィストとはどのような者かを明らかにすることで、哲学者とは何かを明らかにしようとした。著者はプラトン対話篇を渉猟してソフィストと哲学者の違いを表のようにして示している。一部を示すとソフィストの活動はギリシア中旅し金銭を取って教育を授ける。哲学者は祖国に貢献し自由な交わりにおいて対話する。ソフィストは言論の力による説得をするが、哲学者は言論を正しく用いる術を追求する。思想基盤はソフィストが懐疑主義で相対主義の立場、哲学者が絶対的な真理を探求の立場をとる。
ソフィストとは誰かについて、後三世紀のディオゲネスは相対主義者のプロタゴラス以外は哲学者に含めていないことからもわかる『ギリシア哲学者列伝』。つまりプロタゴラス以外はソフィストであると見ることができる。また同じローマ時代フィロストラトスは『ソフィスト列伝』をまとめている。こちらはプロタゴラスもソフィストに含まれる。ただプラトンの分類にあるような弁論術以外に自然学や倫理学、数学、天文学に貢献した人もいて、ソフィストとは弁論術だけに限らないようだ。
本書ではソクラテスの刑死についても考察を深めていて面白い。当時のギリシアでは言論が幅をきかせソフィストの教育が熱狂的に支持されていた中、ソクラテスによる「知を愛する(ピロソペイン)」教えは社会で煙たく感じられアテナイ市民への挑戦だとすら考えられていた。ソクラテスは教育、政治、道徳、言論、知識、神のそれぞれの側面で問題を抱えていた。ソクラテスの告発を行ったアニュトスはアテナイの若者への教育についてソクラテスと対立していて『メノン』(プラトン)の中で示唆される。政治問題はソクラテスの弟子の中から名門の出のアルキビアデスやクリティアスといった危険な政治家が生まれアテナイを危機に陥れた。教育責任がソクラテスにのしかかっていた。しかし、『プロタゴラス』(プラトン)ではアルキビアデスとクリティアスがプロタゴラスの元を出入りしていたことを描いているp29。つまりソクラテスの影響下にあったわけではないことを示唆している。プラトンはアルキビアデスが後見人のペリクレスにも良からぬ人物だと見なされていたことも描いているp40。
ソクラテスが抱えていた問題は不敬神だけではなかったようだ。当時のペロポネソス戦争敗北により殺伐とした社会風潮もあった。先のアニュトスは民主派で、ペロポネソス戦争敗北後のクリティアスによる三十人政権(恐怖政治)を打ち破った。『古代ギリシアの民主政』(橋場)によると恐怖政治から民主政治が復活し寡頭派への大赦令も出て民主政が再び進み出したが、ソクラテスの告訴について不敬神という罪状は表向きで、ソクラテスが民主政治を疑っていたため告発されたと読み解く。告訴状に政治的な理由を述べなかったのは当時の大赦令を恐れたためだという。
『プロタゴラス』の中でプラトンがクリティアスに触れながら恐怖政治という問題に言及しなかったのは苦々しくも自分の親類であったことが尾を引いているのだろうか。
話が大脱線してしまった。本書後半のゴルギアスの著作の解説も彼の意図を知るには有意義である。歴史的に非難されるヘレネやパラメデスを擁護できる論理を畳み掛けるように示す。ヘレネは神の必然か暴力か言論による説得か愛によってトロイアに出奔したのであれば、責めを受けるべきではないとして、それぞれの論理を説明していく。3番目の言論についてゴルギアスは言論によって説得され魂が欺かれたのならヘレネは悪くないと言い、言論は大いなる権力者で神的な行為を完成するとまで言う。そして言論は恐れを止め苦しみを取り去り悦びを作り憐れみを増すと、言論の可能性を高らかに謳う。
民主政治で誰もが声を発する、言論表現が重要視された世の中だったためにゴルギアスのような弁論家が重宝された。
しかし人々を納得させるための言論の術だけが独り歩きした世の中だったのも、プラトン哲学の存在から明らかである。言葉の背後にある知、善、勇気、正義、真理こそ重要だと訴える思想も生まれる。
これらを踏まえて現代社会を見てみたらどうだろう。言った者勝ち、声の大きい人の意見が通って、無思慮な人気を博す、そんな傾向はないだろうか。言論は無限に溢れながら、実はあまり意味のない言葉が多いように思える。当時ソクラテスはその思想のため社会から煙たく思われていたという考察があるが、現代社会言葉の濁流の中、ソクラテスの哲学は顧みられることがあるだろうか。哲学ブームは無意味な言論氾濫に対する静かな反抗だろうか。
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ソフィストとは誰か? 単行本 – 2006/9/1
納富 信留
(著)
第29回(2007年) サントリー学芸賞・思想・歴史部門受賞
- 本の長さ308ページ
- 言語日本語
- 出版社人文書院
- 発売日2006/9/1
- ISBN-104409040804
- ISBN-13978-4409040805
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登録情報
- 出版社 : 人文書院 (2006/9/1)
- 発売日 : 2006/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 308ページ
- ISBN-10 : 4409040804
- ISBN-13 : 978-4409040805
- Amazon 売れ筋ランキング: - 591,477位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 310位古代・中世・ルネサンスの思想
- - 1,022位西洋哲学入門
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2016年8月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
プラトンによってソクラテスの敵役、引き立て役を割り当てられた従来のソフィスト像の転換を図った本ーーが、本書の著者や解説者が書いているように「戦後2冊目」というのは正しくない。関曠野が1982年刊「プラトンと資本主義」(北斗出版)において哲学・言語学のみならず西洋史・政治思想史の広大な観点からこの問題を論じ尽くしており、そちらを先に読んでいる筆者には、こちらの本はその補遺、90年代以降の新しい情報を盛り込んだ補完物として面白く読めた。本書の著者・解説者も、関の上掲書は一読されると得るものが大きいと思う。
2024年1月24日に日本でレビュー済み
ソフィストへの挑戦
哲学問題としてのソフィスト
ソフィストソクラテス
誰がソフィストか
ソフィストと哲学者
ソフィストからの挑戦
ソフィスト術の父ゴルギアス
力としての言論―ゴルギアス『ヘレネ頌』
弁論の技法―ゴルギアス『パラメデスの弁明』
哲学のパロディ―ゴルギアス『ないについて』
言葉の両義性―アルキダマス『ソフィストについて』)
ソフィストとは誰か。
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誰がソフィストか
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言葉の両義性―アルキダマス『ソフィストについて』)
ソフィストとは誰か。
2023年6月26日に日本でレビュー済み
ケンブリッジ大学でギリシャ哲学の博士号を取得した東京大学現人文社会研究科長・文学部長のギリシャ哲学のエッセンス。
『ソフィストとは誰か?』は目から鱗の哲学書だ。紀元前431~404年のペロポネソス戦争はアテネの民主制の最盛期を示すと共に衰退の始まりであったとも言える。ソフィスト達の活動の背景となっているのは当時のギリシア世界におけるアテネの商業、学芸分野での突出した優位性ではないだろうか。但し、そのような活動は他方では民主制の創成期以来営々と保ってきた社会的な絆をも蝕んできた。すなわち、知識の商業化、価値観の相対化等はアテネ民主制の礎であった祖国観、市民生活を次第に揺るがし紀元前404年のアテネ降伏に至らしめたように思える。ソクラテスが生涯を通じてアテネを離れず、紀元前431年のポティダイアの戦い等では一市民として従軍したにもかかわらず、最後は追放を拒んで刑死したことは「哲学とは何か」を人生をかけて示しているように思えてならない。
従来の、ギリシャ哲学=ソクラテス、プラトン、アリストテレスという既存の捉え方に修正を迫る労作。
『ソフィストとは誰か?』は目から鱗の哲学書だ。紀元前431~404年のペロポネソス戦争はアテネの民主制の最盛期を示すと共に衰退の始まりであったとも言える。ソフィスト達の活動の背景となっているのは当時のギリシア世界におけるアテネの商業、学芸分野での突出した優位性ではないだろうか。但し、そのような活動は他方では民主制の創成期以来営々と保ってきた社会的な絆をも蝕んできた。すなわち、知識の商業化、価値観の相対化等はアテネ民主制の礎であった祖国観、市民生活を次第に揺るがし紀元前404年のアテネ降伏に至らしめたように思える。ソクラテスが生涯を通じてアテネを離れず、紀元前431年のポティダイアの戦い等では一市民として従軍したにもかかわらず、最後は追放を拒んで刑死したことは「哲学とは何か」を人生をかけて示しているように思えてならない。
従来の、ギリシャ哲学=ソクラテス、プラトン、アリストテレスという既存の捉え方に修正を迫る労作。
2021年1月10日に日本でレビュー済み
久しぶりに手ごたえのある日本語の作品を読んだ。寝転がって読める作品ではない。でも僕のような初学者にもなんとかついていけるように丁寧に議論が展開される。
題名が刺激的だ。ソフィストといえば、大学の「西欧政治哲学史」でプラトンの「国家」の最初の部分を読んだ際に、トラシュマコスが、その例として出てきたのだが、そのイメージは限りなくネガティヴなもの。詭弁を操り、「知」とは程遠い、弁論術と知識の行商人(peddler/policy entrepreneur)とのイメージだ。そう、この言葉はもっぱら揶揄と侮蔑の意味合いでしか使われているという記憶しかない。
本書では序章と第一部でまずこのイメージの脱却が図られる。プラトンがその対話篇で作り上げた負のイメージの脱色が試みられている。「復権」と言えるのだろうか、いや復権ではない。ソフィストという存在が、当時の文脈で持った意味合いとその「哲学」誕生との関係で持ったであろう根源的な重要性を正確に整理し直した、といったほうがいい。
第二部では、実際に「ゴルギアス」の3つの作品の全訳が載せられている。そしてそれについての著者の詳細な解説が続く。これは著者に感謝。この全訳の部分は、ギリシア哲学の常で、日本語ではどうもわかりにくい。ネットでこれらの英訳を探し、それと比較するといいだろう。ただ英訳は読んでわかり易いのだが、原典での重要なカギとなるギリシア語の概念(ロゴスやエイコスやエンテュメーマ等)が文脈に合わせて、訳語が統一されることなく、かなり柔軟に意訳されているのには驚く。ここで引き出されるのが、言論の力という観点からの「重層論法」と「枚挙論法」だ。これは懐かしい。
第7章「哲学のパロディ」は本書での一番の難所だろうか。解説されても、パロディのパロディたる所以がわからないというのは、情けない。
第8章での、「語り言葉、書き言葉」を通しての言葉の両義性の議論を通して、最終的には以下の結語となる。
「哲学の言論を笑いによって打ち倒すソフィスト術を、「不健全」として頭ごなしに否定するだけでは、もはや済まされない。哲学は、ソフィストの挑戦を避ける訳にはいかないのである。また、哲学の側が「笑い」を逆用することで、ソフィストを退けることも許されない。ソフィストの議論に、同じ土俵で、同種の議論で対応すれば、まさに自らがソフィストとなってしまう。」
「哲学にできることは、おそらく、ソフィストの「笑い」が持つ魅力や魔力、そしてそれが隠蔽する力さえも冷静に分析し、それに対処することであろう。そのために哲学は、まず、自らの内なる対立、混乱、矛盾に向き合い、それらと対決することが必要とする。哲学の言論とは何か、それが追求する「真理」とはいったい何なのかを、改めて根元から問うことが強いられる。」(p.287)
「ソフィストは単なるレッテルや仮構ではなく、生まれ確立しつつある哲学という営みへの対抗、挑戦、パロディとして、何らかの思潮をなしている。」(p346)
僕自身は、図書館で借りてこの作品を読んだのだが、これは購入したほうがいい作品。著者の他の作品も面白そう。
題名が刺激的だ。ソフィストといえば、大学の「西欧政治哲学史」でプラトンの「国家」の最初の部分を読んだ際に、トラシュマコスが、その例として出てきたのだが、そのイメージは限りなくネガティヴなもの。詭弁を操り、「知」とは程遠い、弁論術と知識の行商人(peddler/policy entrepreneur)とのイメージだ。そう、この言葉はもっぱら揶揄と侮蔑の意味合いでしか使われているという記憶しかない。
本書では序章と第一部でまずこのイメージの脱却が図られる。プラトンがその対話篇で作り上げた負のイメージの脱色が試みられている。「復権」と言えるのだろうか、いや復権ではない。ソフィストという存在が、当時の文脈で持った意味合いとその「哲学」誕生との関係で持ったであろう根源的な重要性を正確に整理し直した、といったほうがいい。
第二部では、実際に「ゴルギアス」の3つの作品の全訳が載せられている。そしてそれについての著者の詳細な解説が続く。これは著者に感謝。この全訳の部分は、ギリシア哲学の常で、日本語ではどうもわかりにくい。ネットでこれらの英訳を探し、それと比較するといいだろう。ただ英訳は読んでわかり易いのだが、原典での重要なカギとなるギリシア語の概念(ロゴスやエイコスやエンテュメーマ等)が文脈に合わせて、訳語が統一されることなく、かなり柔軟に意訳されているのには驚く。ここで引き出されるのが、言論の力という観点からの「重層論法」と「枚挙論法」だ。これは懐かしい。
第7章「哲学のパロディ」は本書での一番の難所だろうか。解説されても、パロディのパロディたる所以がわからないというのは、情けない。
第8章での、「語り言葉、書き言葉」を通しての言葉の両義性の議論を通して、最終的には以下の結語となる。
「哲学の言論を笑いによって打ち倒すソフィスト術を、「不健全」として頭ごなしに否定するだけでは、もはや済まされない。哲学は、ソフィストの挑戦を避ける訳にはいかないのである。また、哲学の側が「笑い」を逆用することで、ソフィストを退けることも許されない。ソフィストの議論に、同じ土俵で、同種の議論で対応すれば、まさに自らがソフィストとなってしまう。」
「哲学にできることは、おそらく、ソフィストの「笑い」が持つ魅力や魔力、そしてそれが隠蔽する力さえも冷静に分析し、それに対処することであろう。そのために哲学は、まず、自らの内なる対立、混乱、矛盾に向き合い、それらと対決することが必要とする。哲学の言論とは何か、それが追求する「真理」とはいったい何なのかを、改めて根元から問うことが強いられる。」(p.287)
「ソフィストは単なるレッテルや仮構ではなく、生まれ確立しつつある哲学という営みへの対抗、挑戦、パロディとして、何らかの思潮をなしている。」(p346)
僕自身は、図書館で借りてこの作品を読んだのだが、これは購入したほうがいい作品。著者の他の作品も面白そう。