「ウィトゲンシュタイン・言語の限界」の著者である飯田隆によれば、
現在の英米哲学の主流である「概念」分析に主眼を置く「分析哲学」において、
ウィトゲンシュタインの「哲学探究」は全く触れられることがないか、単に無視されて
おり、またよく言われるオックスフォード日常言語学派に対するウィトゲンシュタイン
の影響も極めて限定的のようです。
とは言え、多数派ではなくとも「哲学探究」を研究する「職業」哲学者はおり、
それらのいくつかは分析哲学、そして可能世界論を論じる「様相論理」(例えばクリプキの
固定指示詞に関する議論など)を援用し「哲学探究」の提示する様々な問題点を扱っています。
では、何故ウィトゲンシュタインの「哲学探究」がその影響力の大きさにもかかわらず、
現代「哲学」で主流になりえないのか?
また、そもそもウィトゲンシュタインはこの書物で何が言いたかったのか?
この「哲学探究」はご存知のように通常の哲学書や論文の体裁ではなく、ある程度の
まとまりはあるものの、例えばパスカルの「パンセ」にも似た幾つもの断片を
書き並べた形をとっており、ウィトゲンシュタイン自身も序文で、そうした断片の羅列
でしか本書が成立しえなかったと述べています。
様々な事柄が本書には一見脈絡なく提示されているかのようにみえますが、個人的に
最重要かつ「職業」哲学者あるいは言語学者にとって「壊滅的」である議論は次の二点でしょう。
1)「言語とはその使用である」
我々は言語がすでに我々の心、あるいは脳のなかに「存在」し、そこから語彙や文法を選び取り
表現していると考えがちです(例えばチョムスキーの生成文法)。が、ウィトゲンシュタインに
よれば言語は、食事をしたり眠るのと同じように、人が生きる「生の形式」の一部だということです。
言い換えれば「言語」を「使う」とは「食べ物」を「食べる」のと同様、その都度その都度の新たな
生きるための「実践」に他ならないのです。
2)「言語の規則は実践そのものである」
1)において言語の使用が生の形式たる「実践」だと述べました。では、言語自体の「規則」は
どうなるのか?我々は言語の規則に「従って」言葉を発したり、書いたりしているのではないか?
言語使用が実践だとしてもその使用自体は規則に基づくのではないか?
これに対するウィトゲンシュタインの答えは「規則はあらかじめ決まってはいないし、場合に
よってはでっち上げることさえできる」というものです。すなわち、言語の使用とは「事後的」に
共通の規則に従ってみえるだけで、実のところはそれが同じ言葉や表現だとしても常に「新しい」規則
の実践そのものなのです。
さて、上に述べた2点は、実は学問的にはデッドエンドであることに気づかれたでしょうか。「言語の
使用とその規則そのものが新たな実践である」。つまり言語使用の法則性自体がここでは生の地平に
解体されてしまっているのです。従って、「哲学探究」という書物はどこまでもアカデミックな哲学、
言語学の「外部」として、それをまともに見た職業哲学者や言語学者の眼が潰されかねないほど強い光
を放ち続けるのです。
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ウィトゲンシュタイン全集 (8) 単行本 – 1988/6/1
ウィトゲンシュタイン
(著),
藤本 隆志
(翻訳)
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哲学探究
- 本の長さ479ページ
- 言語日本語
- 出版社大修館書店
- 発売日1988/6/1
- ISBN-104469110183
- ISBN-13978-4469110180
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登録情報
- 出版社 : 大修館書店 (1988/6/1)
- 発売日 : 1988/6/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 479ページ
- ISBN-10 : 4469110183
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2014年6月2日に日本でレビュー済み
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2013年6月30日に日本でレビュー済み
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なかなかおもしろかったです。日常の生活で使う言葉をあらためて考えさせられる内容でした。
2022年8月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書『哲学探究』は、
<無・無定形>からの連続性としての、
還元不可能な何ものにも交換することができないような<ある感覚的なものの連続性>と、
<諸言語ゲーム(諸システム・命題・真・確実性)>についての、
ウィトゲンシュタインによる、その考察の書である。
前者と後者は、<ある命題>に対する<その問い>として、
それが<還元・翻訳不可能なもの>であるか、
あるいは、命題-偽と命題-真が<どの程度・どのくらい>還元可能なものであるか、
といわれるような諸基準において考察がなされている。
(<ある動・相>は<動>としての<態>として記述ができるか・できないか)
(<ある動・相>からの諸視点において、<ある静態>は疑いの余地があるか・ないか)
(<ある動・相>からの諸視点においての<ある静態・命題の真の確実性の自明性>の考察)
問いとは<すでに答えのある>問いとして、
その表象的な記号は消失点(不可知・同語反復・トートロジー)となり、
その意味において、ウィトゲンシュタインにとっての語りぬものとは、後者の、
記号・言語という命題(真・真の確実性)の諸システムと、
システム内における概念と、その連鎖における記述であるのかもしれない、と考察することもできる。
・語りえぬものについては、沈黙(~)
・わたくしの命題は、次のような仕方で解明に役立つ。
すなわち(~)それを階段として利用して登り超えると、
わたくしの命題が結局は無意味であることが分かる。
(いわば、彼は梯子をよじ登った後でそれを投げ捨て(~))
そうすれば世界を(~)見るだろう(『論考』6・54)
これらの二重性は、その記号における恣意性・空性という断面(消失点)に結びついており、
それは実は断面なのではなく、動きのある相として連続性として、
(諸言語ゲームの命題の)前提条件が不要な<動>の連続性をなす相として、
この意味において、ウィトゲンシュタインの言語ゲームといわれる概念は、無条件的かつ、
ヒト・動物に割り当てられている還元不可能なもの——
<何ものにも交換することができないような(ある何らかの)ゲーム>——であり、この考察の続きは、
本人しかわからない<ある何らかの感覚的なもの>の連続性と言うことができるのかもしれない、
と本書から考察することもできる。
・(~)に降りていくには、(あるいは、<ある感覚的なもの>の連続性の波にのることは)
遠くへ旅をする必要はない。自分の(~)でできることだ。
(『反哲学的断章』)
(序)
・以下に公刊するのはわたくしがこの十六年間没頭してきた哲学的探究の沈殿物たる諸思想である。
それは、意味、理解、命題、論理などの概念、数学の基礎、意識のありかた、その他、
多くの主題に関係する。わたくしは、
これらの思想をすべて短い分節からなる<覚えがき>として、書き下した(~)
自分の思想は、それを自然の傾向にさからってむりやり<一つ>の方向へ向けようとしたとたん、
(~)になってしまうであろうこと、に気がついた。——そして、このことは、もちろん、
(ここで行われる)探究そのものの性質にも関係していたのである。すなわち、この探究は、
あらゆる(~)へ向かって遍歴することを、われわれに(~)
これらの書物に盛られた(~)は、いわば(~)の錯綜した遍歴から生まれた(~)(10)
(『ウィトゲンシュタイン全集9/確実性の問題/断片/引用』)
・われわれは人間の目を受信機として見ない、
それは何かを受け入れるのではなく、何かを放射するように思える。
耳は受け取り、目は輝く。
目でおびやかすことはできるが、耳や鼻ではできない
参考図書
『ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片』『反哲学的断章 単行本 – 1995/8/15』
『ウィトゲンシュタイン全集 7 数学の基礎』『論理哲学論考 (岩波文庫)』
『ウィトゲンシュタイン全集 補巻 1・2』『ウィトゲンシュタインのウィーン』
『ソシュール小事典』『言葉とは何か (ちくま学芸文庫)』
『ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート』
『言語・思考・現実 (講談社学術文庫)』『文化人類学と言語学(サピア・ウォーフ)』
『不可能な交換』『ボードリヤールという生きかた NTT出版ライブラリーレゾナント010』
『世界の大思想 3-10 ベルグソン-時間と自由/創造的進化-』
『意識に直接与えられたものについての試論/ ちくま学芸文庫』『笑い(ベルクソン)』
------------------------------------------------------------------------------------
哲学研究
凡例
編纂者の覚え書き
英訳者の覚え書き
序
哲学探究
訳者あとがき
索引
------------------------------------------------------------------------------------
(前-二重性・連続性)(前-動・態・相)
・動相(/変異・無定形・未分節 amorphe)
(_二重性_動・態)
・動詞(<感じ><場所>/程度・度合い・方角/受 acoustiqu)
・動相/動態(変移/分節化・各相)
(_二重性_動・態・静態)
・命題・偽・確実性(否定・~でない/コード無き差異/記述不可能性・共訳不可能性/矛盾)
・記号(二重性/無・空性・恣意性/seme/発 de-coupage/可易・不易/forme)
・連鎖(パロールの回路 sujet supposer/潜在的ラング/動相/像・色・形相)
(_静態 forme)
・システム(命題・命題(〜)・繰返/矛盾・無矛盾の二重性)
・命題・真・確実性(諸言語ゲーム/アプリオリ・前提において/適用・同様)
・命題・真・確実性(規則表・文法・一致/基準・自明/度合い)
・命題・真・確実性(形式・慣習・慣用・様式/適用/報告・命令)
・命題・真・確実性(/教育/自明とされている・驚かない/適合・転釈/説明)
・ゲーデル数(排中律/命題・命題(〜)・繰返/トートロジー・)
(<ある範型・規則>に<ある何らかの説明を、はめ合わせている>にすぎない)
(特殊・特定<どのような状況の下で>/事態/切り取られた静態/即自的ではない)
(<特定の><どのように示されるのか>/<どのような><種類>)
(<いま~として見ている><ある配置の写像>)
(<どの程度><どのくらいの間>/<これ><それとして>/<なにが>)
(<そのように><このように>)
(前- antēcēdent/下部へ配置されている①- la mise en œuvere/(使用)作用 emploi)
(配置されている②- jeu de la com-position)(<共立 - 配置>詩型構成作用 chaīnon)
------------------------------------------------------------------------------------
(前-記号学)
※ <疑いの成り立っているところ>で前提が成り立つのではないか。
そして、疑いが全く欠如していることがありうる。疑うことには<終わり>がある
※ それは、ここでは、<感覚印象と物理的対象の関係のようなもの>だ
われわれはここに<二つの言語ゲーム>をもっており、
それらの相互の連関は複雑な種類のものである——
ひとがそれらの諸連関を<単一>の型式にあてはめようとするなら、道をアやっている
(359)
※ われわれの言語ゲームという<出来事>はいつも<暗黙の前提の上>に成り立っているのである(358)
※ <どういうことを仮定している>のかを、
(つまり、たとえばどういうことが<そのような仮定>から導かれるかを(~)(382)
※ 「わたくしの運動感覚(感じ)が自分の肢体の<運動や位置>について教えてくれる」
(その運動をまさに感じているのでなくては(~))
※ わたくしが音のやってくる方角を述べることができるかもしれないのは(~)
わたくしはそれを耳の中で感知するのではない。にもかかわらず、
それは(そのような)<効果を生ぜしめる>。
(すなわち)わたくしは<どの方角>からその音がやってくるのか<わかる>。
わたくしは、たとえばその<方角>に目をやるのである
※ ある<感じ>には、われわれにとって、まったく<はっきりした>関心がある。(~)
たとえば<感じの程度>、その<場所>、<一方を他方で消去できること>(など)である(369)
※ われわれが<解釈>しているような場合は、容易にこれを認知できる。解釈をしているのならば、
われわれは<偽と証明されるかもしれないような仮設>をたてているのである。——
「わたくしはこの図形を<ある~として>見ている」ということは、
「わたくしは明るい<赤>を見ている」というのと同じように(あるいは同じような意味では)、
<検証できない>
(わたくしはいまこれを<心に(あるいはそのなかで)>映しだされている/表象されている)
671 聴取することは、いわば聴覚印象を<求めている>のであり、それゆえ、
その印象を指し示すことができず、単に印象を求めている<場所>を指し示せるだけである
※288 もし正常な言語ゲーム(別の言語ゲーム)が、
<感覚の表現によって廃される>と考えているのなら、
いまやわたくしは<感覚の同一性に関する基準>を必要としているのであり、
そのときには、<誤謬性の可能性>もまた生じているであろう、ということ。
※284 石を眺め、それが感覚をもっていると考えてみよ!ひとは自問する。
いったいどのようにして、
<物体>に<感覚>を帰属させるといったことを考え及ぶことができたのだろうか。
全く同様にして、数に感覚を帰属させることもできたであろうにと。(~)
——もしだれかが「それは生きているものがしかじか運動し、
死んでいるものがそうしないせいだ、と単純には言えない」というとすれば——
わたくしはそのひとに言いたい、
ここにこそ、<量から質へ>の移行の一例が掲示されているのだ、と。
(「運動」という概念の考察。動態と静態。特定の事態の切取)
※447 この感じは、あたかも否定命題が、ある命題を否定するためには、
まずそれを<ある意味で真としなくてはならない>(と感じている)ようなものである
(否定命題は<主張を否定される命題>を含んでいるが、<その主張>を含んではいない)
※499 「かかる語結合には何の意味もない」と言うことは、
それを〈言語の範囲〉から閉め出し、
そのことによって言語の領域を限界づける(ことである)
※500 ある命題が無意義である、と言われても、いわばその意義が無意義なのではない。
むしろ、ある語結合が〈言語から閉め出されている〉のであり、
交信から〈引き抜かれている〉のである
※400 いわば<視覚上の部屋>を発見したように見えたひと、——ひとが見出したのものは、
新しい話しかた、新たな比較だったり、さらには新しい感覚であったと言うことができよう
※401 あなたは何よりも先に新しい把握(のしかた)を見出したのである。
あたかも新しい画法・韻律・、あるいは新しい歌の種類を見出しでもしたかのように
------------------------------------------------------------------------------------
(諸方法)
※656 言語ゲームを<始原的なもの>と見よ!そして、感じ等を、
言語ゲームの<一つの考察のしかた>、<一つの解釈>を見ているかのように見よ!
※572 <ある状態>の文法を理解するためには、
ひとは「誰かが<この状態>にいるということの<基準>として<何が妥当するか> (何がその基準として考えられるか)」
と問わなくではならない。(硬さ・重さ・適合する<という状態>)
※551 a)「三重否定が単一の否定になるということは(~)の中にすでに含まれている(~)」
(「意味する」ことの神話を企みだそうとする誘惑)
それは否定の本性からして、
二重否定が肯定であるという帰結が生ずるかのような<外見>を呈する
((~)<われわれ>の本性は<この双方>に関係している)
b)「でない」とい語に関して(~)この語は、
これらの規則(ある言語ゲーム)がなければ、まだ意味がないからであって、
われわれが≪規則を変えれば≫、
それにはいまや別の意味がある(あるいは意味がない)ことになり、
われわれはそのとき全く同様にしてこの語を変えることができるのである
※367 表象像とは、<誰かが自分の表象を記述するとき>に<記述される映像>のことである
※426 ある映像が呼び起され、それが<一義的に>意義を規定しているように見える(~)
そこでは再び集合論の中で起こっているようなことが起こっている。(すなわち
)
表現のしかたが(~)のために独断されているように見え、その(~)は知り得ないことを知り、
無限数列全体を見、人間の意識の中を見通しているのである
(映像が前景にあるが、その意義は<背景はるかに退いている>)
(言語ゲーム/連鎖・連辞・連合)
※384 <痛み>という<概念>を、あなたは<言語>とともに学んだのである
※383 われわれが分析するのは<現象ではなく>、
概念(たとえば思考という概念)なのであり、それゆえ<語の応用>なのである
※382 <どのようにして>ひとは同じ表象を<二度>指し示すのか
(表象といわれる、すべての過去の事態・静態)
※534 ある語を〈かかる意味で聞く〉ということ。
そのようなことがあるということは、何と奇妙なことか!
〈かく区切られ〉、かく強調・聴取されて、
文章は〈これらの〉命題、映像、行為へと移行する端緒となる
(たくさんのよく知られた小径が、これらのことばからあらゆる方向へ向かって)
※464 わたくしが教示したいのは、
判然としないナンセンスから判然としたナンセンスへ移っていくこと
※421 文章を道具と見、その意義を適用と見よ(記述化/動態の記述不可能性)
※412 わたくしは(~)を視たのだけれども(~)
何か特定の点とか対象とかを視ていたのでは<ない>。
わたくしの眼は大きく見ひらかれていたし、わたくしの眉にはしわがよっていなかった
(特定の対象が関心がわたくしの関心のひくときは大抵そうであるように)
そのような関心は視るという行為に<先行してはいなかった>
わたくしのまなざしは<うつろ>であったし、あるいは、空の明るさに感嘆し、 その光を呑み込んでいる人間のまなざしに<似ていた>。
さてわたくしがパラドクシカルだと発言した命題
(<これ>こそ脳内の出来事によって生み出されている)
にはパラドクシカルなことなど全くない点を考慮(~)
※304 何者でもないものが、<何も言明できない何かと同じような働きをするであろう>、
ということであるにすぎない。
ここでわれわれに<(執拗に)迫ろうとしてくる文法>を却けたにすぎない
このパラドクスが消滅するのは、言語が常に<一定>のしかたで機能し、常に思想——
それが家、痛み、善悪、その他何かについての思想であれ
——を<伝達するという同一目的に奉仕している>のだ、
といった考えと。われわれが根本的に<訣別するときだけ>である
※509 わたくしが「abc」と言い、
それによって「天気がすばらしい」ということを意味している、と考えよ
(〜)これらの記号を発声する際に(〜)(意味を配置した)者だけが
正常な場合に有する体験をするのである
※508 ところが、ことばは恣意的な記号である__
それゆえ、その代わりに「abc」で置き換えてみよう
※225 「規則」という<語の適用>は、「同じ」という<語の適用>と結びついている
(「命題」の適用が「真である」の適用と結びついているように)
※224 「一致」という語と「規則」という語とは、互いに<同類>であり、いとこ同士なのである。
わたくしが誰かに<その一方の語を教えているとき>、
かれはそれとともに<もう一方の語の使いかた>も学んでいる
※216 「一つのものは<それ自体と同一である>。」(~)これは表象の遊戯と結びついている。
それは、われわれがものを<表象の中でそれ個有の形にはめこみ>、
<それがうまく合うのを見ているようなもの>である。われわれはまた、
「あらゆるものは<それ自体に合っている>」(~)
「あらゆるものは<それ個有の形に>はめ合わされている」とも言うことが(~)
ひとは、その際、あるものを眺め、
<そのもののための空間>が<あらかじめ準備されていた>のであり、
いまやそのものが<正確にそれに、はめ合わされている>のだ、と想像する
※209 「しかし、それでも理解は諸例をすべてよりも<遠くに及ぶ>のではないか」
——きわめて奇妙な表現だが、全く自然(~)——
(~)それはわたくしが<境界のないもの>を、
<あらゆる長さを超えて伸びている長さと解釈している>ようなものなのか
※208 掲示された諸例から離れないようにしている授業は、
それらを<越え出ていく>授業から区別される
(「等々、無限に続く」というような表現)
※169 わたくしが「i」を見て i 音を発するか、「§」を見てそうするかは、
違ったことがらである、その違いは、たとえば、
文字を見ると i 音の<内的聴取が自動的に>、つまりわたくしの意思に<逆らって生じ>、
その文字を声に出して読めば、その発声は「§」を見たときよりも<努力を要しない>、
ということである。すなわち——
わたくしがこうした<試み>を行うときには<そういうことになる>のだけれども、
わたくしがたまたま「§」なる記号に目をとめて、
たとえば i 音が含まれるような語を発音するときには、もちろん<そうはならない>
※163 <一つ>の書き換えかたを継続せず、ある簡単な規則に従ってそれを<変更する>、
と仮定してみよ。(~)このやりかたと不規則なやりかたとの境界はどこにあるのか。
すると、いまや、「導き出す」という語は、
<その意味を追っていく>と、<溶解してなくなってしまう>ように思われるから、
<もともとどんな意味ももっていないのだ>、ということになるのか
(このことは何らかの薬の適用・作用との類似性がある)
(アプリオリな、前提とされた命題の真の考察)
※142 <正常な場合>にだけ、ことばの慣用がわれわれに明確に指定されている。われわれは、
あの場合、この場合にどういうべきかを知っており、疑いをもたない。
<異常な場合>になればなれるほど、もし物事が、
現実にふるまっているのとは<全く異なった>ふるまいかたをしているのであれば(~)
われわれの正常な<言語ゲーム>は、それによってみずからの眼目を失ってしまう
(異常/正常の応用・語の解説・説明のループ)
※136 命題の何たるかは、
<ある>いみでは(たとえばドイツ語の)文構造の諸規則によって規定されており、
別の意味では言語ゲームにおける記号の慣用によって規定されている。そして、
「真」とか「偽」とかの語の慣用もまた、かかるゲームの一構成要素でありうる。
そのとき、その慣用は、われわれにとっては命題の<一部になっている>が、
命題に<適合>してはいないのである(~)
<われわれの言語の中で>真理関数の計算を応用できるものを命題と<呼ぶ>、
ということなのである
(アプリオリな、前提とされた命題の真)
※134 ある命題が現実と一致する(あるいは一致しない)と述べることは、
明白なナンセンスであろうから、この命題は、
われわれの命題概念の<一つ>の微表が<命題なる音声>であるということを例示している(~)
※95 しかじかの事態である、と言ったり<思ったり>するとき(~)
ひとは、このようなパラドクス(それはまさに自明性という形式)を、
次のように表現することができる。
ひとは与えられた事態でないことを<考える>ことができる、と。
※95 <命題、この不思議なもの!>
ここに<すでに>全叙述の昇華がある。すなわち、
命題<記号>と事実との間に純粋な仲介物を想定する傾向、あるいはまた、
命題記号そのものを馴化し、昇華させようとする傾向である(~)
われわれをキマイラ狩りへと駆り立て(~)
※96 命題、言語、思考、世界といった諸概念は、相前後にして列をなし、
それぞれ<他と同値>になる。
(だか、このとき、こうした語は何のために必要なのか。
それらを応用すべき言語ゲームなどないのである)
※42 道具を指示するためには<一度も>使われたことのないような名も(~)
「X」を<そのような記号>とし、Aが<この記号>をBに与えると仮定しよう——
すると、このような記号もまた、言語ゲームの中へ取り入れられうるのであって、
Bは<そのような記号>に対しても、たとえば頭をふって答えなくては(~)
(ひとは、これを、両者の<両者の一種の娯楽>と考えることがでいよう)
※47 一定の言語ゲームの<外に立って>、
「この対象は(すでに)合成されているのか」と問うことは(~)
たとえば「眠る」という動詞が能動的なことを意味するのか、
受動的なことを意味するのかについて(~)したのに似ている(~)
「単純」とは、合成されていないことである
(分節化・説明・反復/二重性の連続性)
※40 ひとが「意味」という語によってこの語に<対応する>ものを指し示すのであれば、
この語は<語法に反して>用いられている、ということを確認しておくことである。
それは名の意味と名の<担い手>を混同することなのである。
(~)氏が死ぬとき、その名の担い手が死ぬのであって、その名の意味が死ぬとは(~)
そして、そのように語るのが<ナンセンスになる>のは、
その名が意味をもつのを<やめた>のだとすると、
「(~)氏は死んだ」ということが意義を<もたなくなる>だろうからである
※7 われわれはまた(~)語の慣用における全過程を、
子供が<それ>を介して自分の母国語を学び取るゲームの一つだ、と考えることができよう。
わたくしは、こうしたゲームを<言語ゲーム>と呼び、
ある原初的な言語をしばしば言語ゲームとして語ることにする。すると、
石を<名ざし>たり、あらかじめ言われた語をあとから<発音>するような過程もまた(~)
わたくしはまた、言語と言語の織り込まれた<諸活動との総体>をも言語ゲームと呼ぶだろう
※5 ひとは、おそらく、<語の意味>という概念が、どれほど言語のはたらきを煙霧で包み込み、
明瞭にものごとを見ることを不可能にするか、を(~)するであろう——
もしわれわれが言語という<現象>を、原初的な<その適用法>にそくして(~)
その適用例において語の目的とはたらきを明瞭に見渡すことができるのであれば、
そうした(~)は霧酸する
※1 「五つ」という<語>の意味は何なのか(~)
<どのように>「五つ」という語が<使われる>のか、ということだけが(~)
※6 「(~)はロッド(繁索)をレバー(槓杆)に結びつけて、ブレーキを修繕する」
(~)そのためには、ほかの全機構が与えられ(~)それとの関係があってはじめて、
(~)になるのであって(~)されているなら(~)どのようなものでもありうるし、
また何ものでもありえない
(<無>/関係性・てこ・抑止/度合い)
※21 言語の実践においては<命令という機能>をもっているのだ、と言う(~)
(同様にして、ひとは「きみはこれをする」という言い方を予言としてではなく、
<命令>として)述べる。その一方を<他方から区別>するのは、いったい何なのか
(疑問の形をした命令/陳述)
※18 われわれの言語は、これを一つの古都とみなすことができる(~)
様々な時代に建てましまされた家々から成る一つの<錯綜物>であって、これが、
まっすぐできちんとした街路と同じ形の家々から成る、
一群の新開地によって<とりかこまれている>のである(~)
言語が命令だけから成り立っていることに(~)
※16 標本を<言語という道具の一部>と考えれば、もっとも自然で、もっとも混乱が少ない
※17 言語には、さまざまな<語>の<種類>がある(~)
語の種類を<どのように>統括するかは、<区分>の目的に依存し、——
われわれの性向に依存することになるだろう
※14 「<すべて>道具は何かを変えるのに(~)」と誰かが言った場合を考えよ(~)
「あるものの長さについての(~)、にかわの温度、箱の強度を変えるのだ」——
このような表現上の類型化によって何かが得られたことになるのだろうか
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学_パロール/ラング・ディスクール/下部集合・連鎖 chaīnon_2)
※ 日々の言語ゲームそれぞれの<名状しがたい多様性>は、
<われわれの言語の装いがあらゆるものを均一にしてしまう>ために、
われわれの意識にのぼってこない。
新しい(自発的な、<独自な>)ものは、いつも<言語ゲーム>である(450)
※ 風景相のある<種類>をひとは「体制の風景相」とよぶことができよう。
風景相が変われば、以前は一緒になっていなかった(未分節)画像の諸部分が一緒になる
(一緒/分節化・統合)(414)
※ 「<どのような観察(思考範囲)>をこの文章は指しているのか、そして、
<どのような観察>が<これに反している>のであろうか」と問うからであり(~)
(~は~期間の間、存在していた/<どのくらい>~は持続していた、という文)(442)
※ 記憶体験は<想起することの随伴現象>である(現在の体験の記述ではない)
「(~)<想起すること>が<どのように作用する>のか(~)」(~)
この<感じ>が<想起すること>であるということを、かれは<どのようにして知るのか>(~)
<過ぎ去ったことという概念>を、人間はまさしく想起しながら学ぶのである
(「むかし、むかしから」という感じについて語ることができよう)
(過ぎ去った過去から<受け継がれてきた>ある種の物語の一部になっている、
<ある調子、ある身振り>が存在するからである)(460)
※ 「わたくしは自分自身に~と言いきかせた」(~)
すなわち、<その表現から生理的な出来事を推論する>、という<適用>である(440)
※337 意図は<状況>の中に、人間の<慣習と制度>の中に、埋め込まれている。
チェスゲームの技術が存在していなかったならば、
わたくしはチェスの試合を意図できなかっただろう。
※221 わたくしの象徴的な表現は、
ほんらいある規則の慣用を<方法論的に記述するもの>であった
※170 われわれは、ある感じ(静態言語学の規則など)をもつことによって、いわば語の映像と、
自分たちの発する音声とをむすびつける<ある種のメカニズム>を、
<知覚しているように想像>する
※165 わたくしは印刷されたドイツ語の単語を、
その語の響きを<内的に聞く>という<ある個有の出来事>がないと、
全く見ることができないのである
※113 立方体の映像は、もちろんわれわれにある種の適用を<示唆(示差)>したが、
しかし、わたくしはそれを<別用>に適用することもできたのである
(語の映像の連鎖)
※38 名指すということは、一つの語と一つの対象との<奇妙な>結合であるように見える(~)
哲学的な諸問題は、言語が<仕事を休んでいる>ときに発生する(~)
そして、<そのときには>、われわれは、もちろん、
名指すということが何か注目に値する魂の働きであり、いわば対象に先例をほどこすものだ、
と想像することができる(~)
こうしたことは、この語の慣用として奇妙なのであって、
おそらく哲学する場合にしか起こらないのである
(~)われわれがそれ以外に「名」と称しているものは、
すべて<不精確で近似的な>意味においてだけ、名であるのだ、と。
この奇妙な把握にしかたは(~)
われわれの言語の論理を昇華させようとする一つの傾向に由来している
※37 この関係は、とりわけ、名を聞くことが<名指されるものの映像>を、
われわれの心に喚起することによっても成り立ちうるし、
また、とりわけ名が<名指されるものに書きつけられている>とか、
名が<名指されるものを指示する際に発音される>とかいったことによっても成り
立つ
※39 (~)という語は、意義の分析によって消滅し(~)
※50 見かけ上で存在しなくては≪ならない≫ものは、言語に属している。それは
われわれにあっては、一つの≪範型≫であり、それとの≪比較≫が行われるような何かである。
そして、そのことを確認することは(~)われわれの言語ゲーム——
われわれの≪叙述方式≫——に関する<確認>なのである
(標本/言語の道具/手段)
※49 ゲームの中でなければ、ものは名前を<もつ>こともない
※44 われわれは、名(すなわち、われわれが確かに「名」と呼ぶような記号)を伴った、
一つの言語ゲームを考え、その中では、名が担い手の存在している場合にだけ慣用され、
したがって直示の身振りを伴った直示的な代名詞によって<常に>置き換えられうる、
というふうに考えることができよう
(記号の置き換え)
※26 名指すということは、一つのものに一つのレッテルを貼るのに似ている。ひとは、これを、
語の慣用のための準備だ、と言うことが(~)
だが、それは<どういうことに対する>準備なのか。
※27 われわれは「それを何というか」と問うように教育され(~)ということであり、——
その結果、名づけるということが行われるように(~)
(このようにして、子供たちは、たとえば自分の人形に名前をつけ(~)同様にして、
われわれが<名づけられたひと>を<その人名>によって<呼ぶ>、といった人命の慣用が、
いかに特殊なものであるかを考えてみよ)
※23 「言語<ゲーム>」ということばは、ここでは、言語を<話す>ということが、
一つの活動ないし<生活様式>の一部であることを、はっきりとさせるのでなくてはならない
(~)われわれが「記号」「語句」「文章」と<呼んでいるもの>のすべての使いかたには、
無数の異なった種類がある。しかも、こうした多様さは、
固定したものでも一遍に与えられるものでもなく、新しいタイプの言語・言語ゲームが、
いわば<発生>し、他のものが<すたれ>、<忘れ去られていく>と言うことができよう
(この点の<おおよその映像>を数学の諸変化が与えてくれよう)
(連鎖/二重性の連続性)
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(記号学)
※ われわれは<ある語>を<この>意味で発したのであり、
その表現を<かの異なった言語ゲームから取り出して>きたのであろう。
これを一抹の夢と呼べ。それは何も変えはしない。(430)
※ 一つの微妙な美的区別について<多くのこと>が言える(~)
「<この>語はぴったり合うが、<これ>は合わない」(~)
というのは、決着をつけるのが語の<場>であるからである(438)
※ 付け加えられるもの、与えられるものは<生活様式>である——とひとは言うことが(~)(452)
※ <数学の確実さ>は心理的な概念ではない。
確実さの種類は<言語ゲームの種類>である(448)
※ わたくしは他人の感覚について、何かある事実に対するような確信をもちうる(~)
<その確信>は違った種類のものなのだ、という説明は(~)
それはある心理的な差異を指し示しているように見える。
しかし、その差異は<論理的な差異>なのである(447)
※ 真なる告白の重要さは(~)
<その真理性が真実(誠実)>についての、
<特別な基準によって保証されている告白>から引き出してこれるような、
<特殊な諸帰結>のうちにあるのである(444)
※549 「<でない>という語を<どのように>否定することができるのか!?」(~)
あたかも否定記号がわれわれを<何かへ誘っているかのように>。(~)
それがただ暗示されすればよいかのように、
(また)われわれがそれを<すでに知っているかのように>。
われわれにはその事柄が<どっちみちすでにわかっている>のだから、
説明など不必要であると言わんばかりに
※548 何かが起こると願うこと——そして、何かが起こら<ない>ことを願うこと。(~)
その何か画像で描出しようとするとき(~)それを線で抹消したり、
それを囲んでみたり、等。しかし、われわれには、
そうしたことが<粗雑>な表現方法であるように思える。
諸言語の中では、実際われわれは「~でない」という記号を適用する。
これは<拙劣な便法のようなもの>である。
ひとは、<思考>している際にはすでに<別のしかた>で起こっている、と(~)
※261 「E」をある<感覚>の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。
※270 さて、自分の日記帳に「E」という記号を記入することの<適用>について考えてみよう(~)
この場合「E」が<ある感覚のしるし>と呼ぶことにどのような根拠が(~)おそらく、
この記号が<この言語ゲームの中で適用されるしかた>がそれであろう——では、
なぜ一つの「決まった感覚」であり、それゆえ同じ感覚なのか、
いや、われわれはそのつど「E」と書く、と<仮定している>のである
※258 記号と感覚との結合を自分(の心)に刻みつけている(~)——
もっとも(自分(の心)に刻みつける)というのは、このような出来事を経過すれば、
わたくしが将来<正しく>その結合を思い出すようになる、ということでしかない。
この場合、わたくしには<その正しさの基準などないのである>。(~)
このことは、ここでは<正しい>ということについて<語ることができない>、
ということでしかないのである
130 われわれの明瞭かつ単純な言語ゲームは(~)<比較の対象>として掲示されているのであり、
それらは、類似や相違を介して、
われわれの言語の諸状態に光明を投げかける(~)
現実がそれに対応<しなくてはならない>ような先入見として掲示することではない
(哲学の異なった治療法/自己治癒的な諸アプローチ)
※123 哲学の問題は「わたくしは途方にくれている」という形をとる
※124 哲学は、最終的には、言語の慣用を記述できるだけである。
なぜなら、哲学はそれを基礎づけることもできないのだから。
それはすべてのものを、そのあるがままにしておく
※125 矛盾というものの市民的地位、あるいは市民的世界における矛盾の地位、
これが哲学の問題なのである
※119 哲学から生じた<諸結果>は、ある種の単純な<無意味さ>と、
悟性が言語の限界につきあたった際に生じた<瘤(こぶ)>とが発見された、
ということである。これらの瘤が、当の発見の(~)
※116 哲学者たちが語——「知識、存在、対象、自我、命題、名」など——を用いて、
ものの<本質>を把握しようとしているとき、
ひとは常に次のように問わなくてはならない。いったいこの語は、
<その元のふるさとである言語の中で>、実際いつも<そのように>使われているのか、と。
※20 文章の意義とは、それらと同じ<適用>にある(~)
※6 (~)たちは(一民族の全言語・規則)<そのような>活動を行い、
その際<そのような>語を用い、<そのようにして>他人の言葉に反応するよう(~)される
<無・無定形>からの連続性としての、
還元不可能な何ものにも交換することができないような<ある感覚的なものの連続性>と、
<諸言語ゲーム(諸システム・命題・真・確実性)>についての、
ウィトゲンシュタインによる、その考察の書である。
前者と後者は、<ある命題>に対する<その問い>として、
それが<還元・翻訳不可能なもの>であるか、
あるいは、命題-偽と命題-真が<どの程度・どのくらい>還元可能なものであるか、
といわれるような諸基準において考察がなされている。
(<ある動・相>は<動>としての<態>として記述ができるか・できないか)
(<ある動・相>からの諸視点において、<ある静態>は疑いの余地があるか・ないか)
(<ある動・相>からの諸視点においての<ある静態・命題の真の確実性の自明性>の考察)
問いとは<すでに答えのある>問いとして、
その表象的な記号は消失点(不可知・同語反復・トートロジー)となり、
その意味において、ウィトゲンシュタインにとっての語りぬものとは、後者の、
記号・言語という命題(真・真の確実性)の諸システムと、
システム内における概念と、その連鎖における記述であるのかもしれない、と考察することもできる。
・語りえぬものについては、沈黙(~)
・わたくしの命題は、次のような仕方で解明に役立つ。
すなわち(~)それを階段として利用して登り超えると、
わたくしの命題が結局は無意味であることが分かる。
(いわば、彼は梯子をよじ登った後でそれを投げ捨て(~))
そうすれば世界を(~)見るだろう(『論考』6・54)
これらの二重性は、その記号における恣意性・空性という断面(消失点)に結びついており、
それは実は断面なのではなく、動きのある相として連続性として、
(諸言語ゲームの命題の)前提条件が不要な<動>の連続性をなす相として、
この意味において、ウィトゲンシュタインの言語ゲームといわれる概念は、無条件的かつ、
ヒト・動物に割り当てられている還元不可能なもの——
<何ものにも交換することができないような(ある何らかの)ゲーム>——であり、この考察の続きは、
本人しかわからない<ある何らかの感覚的なもの>の連続性と言うことができるのかもしれない、
と本書から考察することもできる。
・(~)に降りていくには、(あるいは、<ある感覚的なもの>の連続性の波にのることは)
遠くへ旅をする必要はない。自分の(~)でできることだ。
(『反哲学的断章』)
(序)
・以下に公刊するのはわたくしがこの十六年間没頭してきた哲学的探究の沈殿物たる諸思想である。
それは、意味、理解、命題、論理などの概念、数学の基礎、意識のありかた、その他、
多くの主題に関係する。わたくしは、
これらの思想をすべて短い分節からなる<覚えがき>として、書き下した(~)
自分の思想は、それを自然の傾向にさからってむりやり<一つ>の方向へ向けようとしたとたん、
(~)になってしまうであろうこと、に気がついた。——そして、このことは、もちろん、
(ここで行われる)探究そのものの性質にも関係していたのである。すなわち、この探究は、
あらゆる(~)へ向かって遍歴することを、われわれに(~)
これらの書物に盛られた(~)は、いわば(~)の錯綜した遍歴から生まれた(~)(10)
(『ウィトゲンシュタイン全集9/確実性の問題/断片/引用』)
・われわれは人間の目を受信機として見ない、
それは何かを受け入れるのではなく、何かを放射するように思える。
耳は受け取り、目は輝く。
目でおびやかすことはできるが、耳や鼻ではできない
参考図書
『ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片』『反哲学的断章 単行本 – 1995/8/15』
『ウィトゲンシュタイン全集 7 数学の基礎』『論理哲学論考 (岩波文庫)』
『ウィトゲンシュタイン全集 補巻 1・2』『ウィトゲンシュタインのウィーン』
『ソシュール小事典』『言葉とは何か (ちくま学芸文庫)』
『ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート』
『言語・思考・現実 (講談社学術文庫)』『文化人類学と言語学(サピア・ウォーフ)』
『不可能な交換』『ボードリヤールという生きかた NTT出版ライブラリーレゾナント010』
『世界の大思想 3-10 ベルグソン-時間と自由/創造的進化-』
『意識に直接与えられたものについての試論/ ちくま学芸文庫』『笑い(ベルクソン)』
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哲学研究
凡例
編纂者の覚え書き
英訳者の覚え書き
序
哲学探究
訳者あとがき
索引
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(前-二重性・連続性)(前-動・態・相)
・動相(/変異・無定形・未分節 amorphe)
(_二重性_動・態)
・動詞(<感じ><場所>/程度・度合い・方角/受 acoustiqu)
・動相/動態(変移/分節化・各相)
(_二重性_動・態・静態)
・命題・偽・確実性(否定・~でない/コード無き差異/記述不可能性・共訳不可能性/矛盾)
・記号(二重性/無・空性・恣意性/seme/発 de-coupage/可易・不易/forme)
・連鎖(パロールの回路 sujet supposer/潜在的ラング/動相/像・色・形相)
(_静態 forme)
・システム(命題・命題(〜)・繰返/矛盾・無矛盾の二重性)
・命題・真・確実性(諸言語ゲーム/アプリオリ・前提において/適用・同様)
・命題・真・確実性(規則表・文法・一致/基準・自明/度合い)
・命題・真・確実性(形式・慣習・慣用・様式/適用/報告・命令)
・命題・真・確実性(/教育/自明とされている・驚かない/適合・転釈/説明)
・ゲーデル数(排中律/命題・命題(〜)・繰返/トートロジー・)
(<ある範型・規則>に<ある何らかの説明を、はめ合わせている>にすぎない)
(特殊・特定<どのような状況の下で>/事態/切り取られた静態/即自的ではない)
(<特定の><どのように示されるのか>/<どのような><種類>)
(<いま~として見ている><ある配置の写像>)
(<どの程度><どのくらいの間>/<これ><それとして>/<なにが>)
(<そのように><このように>)
(前- antēcēdent/下部へ配置されている①- la mise en œuvere/(使用)作用 emploi)
(配置されている②- jeu de la com-position)(<共立 - 配置>詩型構成作用 chaīnon)
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(前-記号学)
※ <疑いの成り立っているところ>で前提が成り立つのではないか。
そして、疑いが全く欠如していることがありうる。疑うことには<終わり>がある
※ それは、ここでは、<感覚印象と物理的対象の関係のようなもの>だ
われわれはここに<二つの言語ゲーム>をもっており、
それらの相互の連関は複雑な種類のものである——
ひとがそれらの諸連関を<単一>の型式にあてはめようとするなら、道をアやっている
(359)
※ われわれの言語ゲームという<出来事>はいつも<暗黙の前提の上>に成り立っているのである(358)
※ <どういうことを仮定している>のかを、
(つまり、たとえばどういうことが<そのような仮定>から導かれるかを(~)(382)
※ 「わたくしの運動感覚(感じ)が自分の肢体の<運動や位置>について教えてくれる」
(その運動をまさに感じているのでなくては(~))
※ わたくしが音のやってくる方角を述べることができるかもしれないのは(~)
わたくしはそれを耳の中で感知するのではない。にもかかわらず、
それは(そのような)<効果を生ぜしめる>。
(すなわち)わたくしは<どの方角>からその音がやってくるのか<わかる>。
わたくしは、たとえばその<方角>に目をやるのである
※ ある<感じ>には、われわれにとって、まったく<はっきりした>関心がある。(~)
たとえば<感じの程度>、その<場所>、<一方を他方で消去できること>(など)である(369)
※ われわれが<解釈>しているような場合は、容易にこれを認知できる。解釈をしているのならば、
われわれは<偽と証明されるかもしれないような仮設>をたてているのである。——
「わたくしはこの図形を<ある~として>見ている」ということは、
「わたくしは明るい<赤>を見ている」というのと同じように(あるいは同じような意味では)、
<検証できない>
(わたくしはいまこれを<心に(あるいはそのなかで)>映しだされている/表象されている)
671 聴取することは、いわば聴覚印象を<求めている>のであり、それゆえ、
その印象を指し示すことができず、単に印象を求めている<場所>を指し示せるだけである
※288 もし正常な言語ゲーム(別の言語ゲーム)が、
<感覚の表現によって廃される>と考えているのなら、
いまやわたくしは<感覚の同一性に関する基準>を必要としているのであり、
そのときには、<誤謬性の可能性>もまた生じているであろう、ということ。
※284 石を眺め、それが感覚をもっていると考えてみよ!ひとは自問する。
いったいどのようにして、
<物体>に<感覚>を帰属させるといったことを考え及ぶことができたのだろうか。
全く同様にして、数に感覚を帰属させることもできたであろうにと。(~)
——もしだれかが「それは生きているものがしかじか運動し、
死んでいるものがそうしないせいだ、と単純には言えない」というとすれば——
わたくしはそのひとに言いたい、
ここにこそ、<量から質へ>の移行の一例が掲示されているのだ、と。
(「運動」という概念の考察。動態と静態。特定の事態の切取)
※447 この感じは、あたかも否定命題が、ある命題を否定するためには、
まずそれを<ある意味で真としなくてはならない>(と感じている)ようなものである
(否定命題は<主張を否定される命題>を含んでいるが、<その主張>を含んではいない)
※499 「かかる語結合には何の意味もない」と言うことは、
それを〈言語の範囲〉から閉め出し、
そのことによって言語の領域を限界づける(ことである)
※500 ある命題が無意義である、と言われても、いわばその意義が無意義なのではない。
むしろ、ある語結合が〈言語から閉め出されている〉のであり、
交信から〈引き抜かれている〉のである
※400 いわば<視覚上の部屋>を発見したように見えたひと、——ひとが見出したのものは、
新しい話しかた、新たな比較だったり、さらには新しい感覚であったと言うことができよう
※401 あなたは何よりも先に新しい把握(のしかた)を見出したのである。
あたかも新しい画法・韻律・、あるいは新しい歌の種類を見出しでもしたかのように
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(諸方法)
※656 言語ゲームを<始原的なもの>と見よ!そして、感じ等を、
言語ゲームの<一つの考察のしかた>、<一つの解釈>を見ているかのように見よ!
※572 <ある状態>の文法を理解するためには、
ひとは「誰かが<この状態>にいるということの<基準>として<何が妥当するか> (何がその基準として考えられるか)」
と問わなくではならない。(硬さ・重さ・適合する<という状態>)
※551 a)「三重否定が単一の否定になるということは(~)の中にすでに含まれている(~)」
(「意味する」ことの神話を企みだそうとする誘惑)
それは否定の本性からして、
二重否定が肯定であるという帰結が生ずるかのような<外見>を呈する
((~)<われわれ>の本性は<この双方>に関係している)
b)「でない」とい語に関して(~)この語は、
これらの規則(ある言語ゲーム)がなければ、まだ意味がないからであって、
われわれが≪規則を変えれば≫、
それにはいまや別の意味がある(あるいは意味がない)ことになり、
われわれはそのとき全く同様にしてこの語を変えることができるのである
※367 表象像とは、<誰かが自分の表象を記述するとき>に<記述される映像>のことである
※426 ある映像が呼び起され、それが<一義的に>意義を規定しているように見える(~)
そこでは再び集合論の中で起こっているようなことが起こっている。(すなわち
)
表現のしかたが(~)のために独断されているように見え、その(~)は知り得ないことを知り、
無限数列全体を見、人間の意識の中を見通しているのである
(映像が前景にあるが、その意義は<背景はるかに退いている>)
(言語ゲーム/連鎖・連辞・連合)
※384 <痛み>という<概念>を、あなたは<言語>とともに学んだのである
※383 われわれが分析するのは<現象ではなく>、
概念(たとえば思考という概念)なのであり、それゆえ<語の応用>なのである
※382 <どのようにして>ひとは同じ表象を<二度>指し示すのか
(表象といわれる、すべての過去の事態・静態)
※534 ある語を〈かかる意味で聞く〉ということ。
そのようなことがあるということは、何と奇妙なことか!
〈かく区切られ〉、かく強調・聴取されて、
文章は〈これらの〉命題、映像、行為へと移行する端緒となる
(たくさんのよく知られた小径が、これらのことばからあらゆる方向へ向かって)
※464 わたくしが教示したいのは、
判然としないナンセンスから判然としたナンセンスへ移っていくこと
※421 文章を道具と見、その意義を適用と見よ(記述化/動態の記述不可能性)
※412 わたくしは(~)を視たのだけれども(~)
何か特定の点とか対象とかを視ていたのでは<ない>。
わたくしの眼は大きく見ひらかれていたし、わたくしの眉にはしわがよっていなかった
(特定の対象が関心がわたくしの関心のひくときは大抵そうであるように)
そのような関心は視るという行為に<先行してはいなかった>
わたくしのまなざしは<うつろ>であったし、あるいは、空の明るさに感嘆し、 その光を呑み込んでいる人間のまなざしに<似ていた>。
さてわたくしがパラドクシカルだと発言した命題
(<これ>こそ脳内の出来事によって生み出されている)
にはパラドクシカルなことなど全くない点を考慮(~)
※304 何者でもないものが、<何も言明できない何かと同じような働きをするであろう>、
ということであるにすぎない。
ここでわれわれに<(執拗に)迫ろうとしてくる文法>を却けたにすぎない
このパラドクスが消滅するのは、言語が常に<一定>のしかたで機能し、常に思想——
それが家、痛み、善悪、その他何かについての思想であれ
——を<伝達するという同一目的に奉仕している>のだ、
といった考えと。われわれが根本的に<訣別するときだけ>である
※509 わたくしが「abc」と言い、
それによって「天気がすばらしい」ということを意味している、と考えよ
(〜)これらの記号を発声する際に(〜)(意味を配置した)者だけが
正常な場合に有する体験をするのである
※508 ところが、ことばは恣意的な記号である__
それゆえ、その代わりに「abc」で置き換えてみよう
※225 「規則」という<語の適用>は、「同じ」という<語の適用>と結びついている
(「命題」の適用が「真である」の適用と結びついているように)
※224 「一致」という語と「規則」という語とは、互いに<同類>であり、いとこ同士なのである。
わたくしが誰かに<その一方の語を教えているとき>、
かれはそれとともに<もう一方の語の使いかた>も学んでいる
※216 「一つのものは<それ自体と同一である>。」(~)これは表象の遊戯と結びついている。
それは、われわれがものを<表象の中でそれ個有の形にはめこみ>、
<それがうまく合うのを見ているようなもの>である。われわれはまた、
「あらゆるものは<それ自体に合っている>」(~)
「あらゆるものは<それ個有の形に>はめ合わされている」とも言うことが(~)
ひとは、その際、あるものを眺め、
<そのもののための空間>が<あらかじめ準備されていた>のであり、
いまやそのものが<正確にそれに、はめ合わされている>のだ、と想像する
※209 「しかし、それでも理解は諸例をすべてよりも<遠くに及ぶ>のではないか」
——きわめて奇妙な表現だが、全く自然(~)——
(~)それはわたくしが<境界のないもの>を、
<あらゆる長さを超えて伸びている長さと解釈している>ようなものなのか
※208 掲示された諸例から離れないようにしている授業は、
それらを<越え出ていく>授業から区別される
(「等々、無限に続く」というような表現)
※169 わたくしが「i」を見て i 音を発するか、「§」を見てそうするかは、
違ったことがらである、その違いは、たとえば、
文字を見ると i 音の<内的聴取が自動的に>、つまりわたくしの意思に<逆らって生じ>、
その文字を声に出して読めば、その発声は「§」を見たときよりも<努力を要しない>、
ということである。すなわち——
わたくしがこうした<試み>を行うときには<そういうことになる>のだけれども、
わたくしがたまたま「§」なる記号に目をとめて、
たとえば i 音が含まれるような語を発音するときには、もちろん<そうはならない>
※163 <一つ>の書き換えかたを継続せず、ある簡単な規則に従ってそれを<変更する>、
と仮定してみよ。(~)このやりかたと不規則なやりかたとの境界はどこにあるのか。
すると、いまや、「導き出す」という語は、
<その意味を追っていく>と、<溶解してなくなってしまう>ように思われるから、
<もともとどんな意味ももっていないのだ>、ということになるのか
(このことは何らかの薬の適用・作用との類似性がある)
(アプリオリな、前提とされた命題の真の考察)
※142 <正常な場合>にだけ、ことばの慣用がわれわれに明確に指定されている。われわれは、
あの場合、この場合にどういうべきかを知っており、疑いをもたない。
<異常な場合>になればなれるほど、もし物事が、
現実にふるまっているのとは<全く異なった>ふるまいかたをしているのであれば(~)
われわれの正常な<言語ゲーム>は、それによってみずからの眼目を失ってしまう
(異常/正常の応用・語の解説・説明のループ)
※136 命題の何たるかは、
<ある>いみでは(たとえばドイツ語の)文構造の諸規則によって規定されており、
別の意味では言語ゲームにおける記号の慣用によって規定されている。そして、
「真」とか「偽」とかの語の慣用もまた、かかるゲームの一構成要素でありうる。
そのとき、その慣用は、われわれにとっては命題の<一部になっている>が、
命題に<適合>してはいないのである(~)
<われわれの言語の中で>真理関数の計算を応用できるものを命題と<呼ぶ>、
ということなのである
(アプリオリな、前提とされた命題の真)
※134 ある命題が現実と一致する(あるいは一致しない)と述べることは、
明白なナンセンスであろうから、この命題は、
われわれの命題概念の<一つ>の微表が<命題なる音声>であるということを例示している(~)
※95 しかじかの事態である、と言ったり<思ったり>するとき(~)
ひとは、このようなパラドクス(それはまさに自明性という形式)を、
次のように表現することができる。
ひとは与えられた事態でないことを<考える>ことができる、と。
※95 <命題、この不思議なもの!>
ここに<すでに>全叙述の昇華がある。すなわち、
命題<記号>と事実との間に純粋な仲介物を想定する傾向、あるいはまた、
命題記号そのものを馴化し、昇華させようとする傾向である(~)
われわれをキマイラ狩りへと駆り立て(~)
※96 命題、言語、思考、世界といった諸概念は、相前後にして列をなし、
それぞれ<他と同値>になる。
(だか、このとき、こうした語は何のために必要なのか。
それらを応用すべき言語ゲームなどないのである)
※42 道具を指示するためには<一度も>使われたことのないような名も(~)
「X」を<そのような記号>とし、Aが<この記号>をBに与えると仮定しよう——
すると、このような記号もまた、言語ゲームの中へ取り入れられうるのであって、
Bは<そのような記号>に対しても、たとえば頭をふって答えなくては(~)
(ひとは、これを、両者の<両者の一種の娯楽>と考えることがでいよう)
※47 一定の言語ゲームの<外に立って>、
「この対象は(すでに)合成されているのか」と問うことは(~)
たとえば「眠る」という動詞が能動的なことを意味するのか、
受動的なことを意味するのかについて(~)したのに似ている(~)
「単純」とは、合成されていないことである
(分節化・説明・反復/二重性の連続性)
※40 ひとが「意味」という語によってこの語に<対応する>ものを指し示すのであれば、
この語は<語法に反して>用いられている、ということを確認しておくことである。
それは名の意味と名の<担い手>を混同することなのである。
(~)氏が死ぬとき、その名の担い手が死ぬのであって、その名の意味が死ぬとは(~)
そして、そのように語るのが<ナンセンスになる>のは、
その名が意味をもつのを<やめた>のだとすると、
「(~)氏は死んだ」ということが意義を<もたなくなる>だろうからである
※7 われわれはまた(~)語の慣用における全過程を、
子供が<それ>を介して自分の母国語を学び取るゲームの一つだ、と考えることができよう。
わたくしは、こうしたゲームを<言語ゲーム>と呼び、
ある原初的な言語をしばしば言語ゲームとして語ることにする。すると、
石を<名ざし>たり、あらかじめ言われた語をあとから<発音>するような過程もまた(~)
わたくしはまた、言語と言語の織り込まれた<諸活動との総体>をも言語ゲームと呼ぶだろう
※5 ひとは、おそらく、<語の意味>という概念が、どれほど言語のはたらきを煙霧で包み込み、
明瞭にものごとを見ることを不可能にするか、を(~)するであろう——
もしわれわれが言語という<現象>を、原初的な<その適用法>にそくして(~)
その適用例において語の目的とはたらきを明瞭に見渡すことができるのであれば、
そうした(~)は霧酸する
※1 「五つ」という<語>の意味は何なのか(~)
<どのように>「五つ」という語が<使われる>のか、ということだけが(~)
※6 「(~)はロッド(繁索)をレバー(槓杆)に結びつけて、ブレーキを修繕する」
(~)そのためには、ほかの全機構が与えられ(~)それとの関係があってはじめて、
(~)になるのであって(~)されているなら(~)どのようなものでもありうるし、
また何ものでもありえない
(<無>/関係性・てこ・抑止/度合い)
※21 言語の実践においては<命令という機能>をもっているのだ、と言う(~)
(同様にして、ひとは「きみはこれをする」という言い方を予言としてではなく、
<命令>として)述べる。その一方を<他方から区別>するのは、いったい何なのか
(疑問の形をした命令/陳述)
※18 われわれの言語は、これを一つの古都とみなすことができる(~)
様々な時代に建てましまされた家々から成る一つの<錯綜物>であって、これが、
まっすぐできちんとした街路と同じ形の家々から成る、
一群の新開地によって<とりかこまれている>のである(~)
言語が命令だけから成り立っていることに(~)
※16 標本を<言語という道具の一部>と考えれば、もっとも自然で、もっとも混乱が少ない
※17 言語には、さまざまな<語>の<種類>がある(~)
語の種類を<どのように>統括するかは、<区分>の目的に依存し、——
われわれの性向に依存することになるだろう
※14 「<すべて>道具は何かを変えるのに(~)」と誰かが言った場合を考えよ(~)
「あるものの長さについての(~)、にかわの温度、箱の強度を変えるのだ」——
このような表現上の類型化によって何かが得られたことになるのだろうか
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学_パロール/ラング・ディスクール/下部集合・連鎖 chaīnon_2)
※ 日々の言語ゲームそれぞれの<名状しがたい多様性>は、
<われわれの言語の装いがあらゆるものを均一にしてしまう>ために、
われわれの意識にのぼってこない。
新しい(自発的な、<独自な>)ものは、いつも<言語ゲーム>である(450)
※ 風景相のある<種類>をひとは「体制の風景相」とよぶことができよう。
風景相が変われば、以前は一緒になっていなかった(未分節)画像の諸部分が一緒になる
(一緒/分節化・統合)(414)
※ 「<どのような観察(思考範囲)>をこの文章は指しているのか、そして、
<どのような観察>が<これに反している>のであろうか」と問うからであり(~)
(~は~期間の間、存在していた/<どのくらい>~は持続していた、という文)(442)
※ 記憶体験は<想起することの随伴現象>である(現在の体験の記述ではない)
「(~)<想起すること>が<どのように作用する>のか(~)」(~)
この<感じ>が<想起すること>であるということを、かれは<どのようにして知るのか>(~)
<過ぎ去ったことという概念>を、人間はまさしく想起しながら学ぶのである
(「むかし、むかしから」という感じについて語ることができよう)
(過ぎ去った過去から<受け継がれてきた>ある種の物語の一部になっている、
<ある調子、ある身振り>が存在するからである)(460)
※ 「わたくしは自分自身に~と言いきかせた」(~)
すなわち、<その表現から生理的な出来事を推論する>、という<適用>である(440)
※337 意図は<状況>の中に、人間の<慣習と制度>の中に、埋め込まれている。
チェスゲームの技術が存在していなかったならば、
わたくしはチェスの試合を意図できなかっただろう。
※221 わたくしの象徴的な表現は、
ほんらいある規則の慣用を<方法論的に記述するもの>であった
※170 われわれは、ある感じ(静態言語学の規則など)をもつことによって、いわば語の映像と、
自分たちの発する音声とをむすびつける<ある種のメカニズム>を、
<知覚しているように想像>する
※165 わたくしは印刷されたドイツ語の単語を、
その語の響きを<内的に聞く>という<ある個有の出来事>がないと、
全く見ることができないのである
※113 立方体の映像は、もちろんわれわれにある種の適用を<示唆(示差)>したが、
しかし、わたくしはそれを<別用>に適用することもできたのである
(語の映像の連鎖)
※38 名指すということは、一つの語と一つの対象との<奇妙な>結合であるように見える(~)
哲学的な諸問題は、言語が<仕事を休んでいる>ときに発生する(~)
そして、<そのときには>、われわれは、もちろん、
名指すということが何か注目に値する魂の働きであり、いわば対象に先例をほどこすものだ、
と想像することができる(~)
こうしたことは、この語の慣用として奇妙なのであって、
おそらく哲学する場合にしか起こらないのである
(~)われわれがそれ以外に「名」と称しているものは、
すべて<不精確で近似的な>意味においてだけ、名であるのだ、と。
この奇妙な把握にしかたは(~)
われわれの言語の論理を昇華させようとする一つの傾向に由来している
※37 この関係は、とりわけ、名を聞くことが<名指されるものの映像>を、
われわれの心に喚起することによっても成り立ちうるし、
また、とりわけ名が<名指されるものに書きつけられている>とか、
名が<名指されるものを指示する際に発音される>とかいったことによっても成り
立つ
※39 (~)という語は、意義の分析によって消滅し(~)
※50 見かけ上で存在しなくては≪ならない≫ものは、言語に属している。それは
われわれにあっては、一つの≪範型≫であり、それとの≪比較≫が行われるような何かである。
そして、そのことを確認することは(~)われわれの言語ゲーム——
われわれの≪叙述方式≫——に関する<確認>なのである
(標本/言語の道具/手段)
※49 ゲームの中でなければ、ものは名前を<もつ>こともない
※44 われわれは、名(すなわち、われわれが確かに「名」と呼ぶような記号)を伴った、
一つの言語ゲームを考え、その中では、名が担い手の存在している場合にだけ慣用され、
したがって直示の身振りを伴った直示的な代名詞によって<常に>置き換えられうる、
というふうに考えることができよう
(記号の置き換え)
※26 名指すということは、一つのものに一つのレッテルを貼るのに似ている。ひとは、これを、
語の慣用のための準備だ、と言うことが(~)
だが、それは<どういうことに対する>準備なのか。
※27 われわれは「それを何というか」と問うように教育され(~)ということであり、——
その結果、名づけるということが行われるように(~)
(このようにして、子供たちは、たとえば自分の人形に名前をつけ(~)同様にして、
われわれが<名づけられたひと>を<その人名>によって<呼ぶ>、といった人命の慣用が、
いかに特殊なものであるかを考えてみよ)
※23 「言語<ゲーム>」ということばは、ここでは、言語を<話す>ということが、
一つの活動ないし<生活様式>の一部であることを、はっきりとさせるのでなくてはならない
(~)われわれが「記号」「語句」「文章」と<呼んでいるもの>のすべての使いかたには、
無数の異なった種類がある。しかも、こうした多様さは、
固定したものでも一遍に与えられるものでもなく、新しいタイプの言語・言語ゲームが、
いわば<発生>し、他のものが<すたれ>、<忘れ去られていく>と言うことができよう
(この点の<おおよその映像>を数学の諸変化が与えてくれよう)
(連鎖/二重性の連続性)
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学)
※ われわれは<ある語>を<この>意味で発したのであり、
その表現を<かの異なった言語ゲームから取り出して>きたのであろう。
これを一抹の夢と呼べ。それは何も変えはしない。(430)
※ 一つの微妙な美的区別について<多くのこと>が言える(~)
「<この>語はぴったり合うが、<これ>は合わない」(~)
というのは、決着をつけるのが語の<場>であるからである(438)
※ 付け加えられるもの、与えられるものは<生活様式>である——とひとは言うことが(~)(452)
※ <数学の確実さ>は心理的な概念ではない。
確実さの種類は<言語ゲームの種類>である(448)
※ わたくしは他人の感覚について、何かある事実に対するような確信をもちうる(~)
<その確信>は違った種類のものなのだ、という説明は(~)
それはある心理的な差異を指し示しているように見える。
しかし、その差異は<論理的な差異>なのである(447)
※ 真なる告白の重要さは(~)
<その真理性が真実(誠実)>についての、
<特別な基準によって保証されている告白>から引き出してこれるような、
<特殊な諸帰結>のうちにあるのである(444)
※549 「<でない>という語を<どのように>否定することができるのか!?」(~)
あたかも否定記号がわれわれを<何かへ誘っているかのように>。(~)
それがただ暗示されすればよいかのように、
(また)われわれがそれを<すでに知っているかのように>。
われわれにはその事柄が<どっちみちすでにわかっている>のだから、
説明など不必要であると言わんばかりに
※548 何かが起こると願うこと——そして、何かが起こら<ない>ことを願うこと。(~)
その何か画像で描出しようとするとき(~)それを線で抹消したり、
それを囲んでみたり、等。しかし、われわれには、
そうしたことが<粗雑>な表現方法であるように思える。
諸言語の中では、実際われわれは「~でない」という記号を適用する。
これは<拙劣な便法のようなもの>である。
ひとは、<思考>している際にはすでに<別のしかた>で起こっている、と(~)
※261 「E」をある<感覚>の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。
※270 さて、自分の日記帳に「E」という記号を記入することの<適用>について考えてみよう(~)
この場合「E」が<ある感覚のしるし>と呼ぶことにどのような根拠が(~)おそらく、
この記号が<この言語ゲームの中で適用されるしかた>がそれであろう——では、
なぜ一つの「決まった感覚」であり、それゆえ同じ感覚なのか、
いや、われわれはそのつど「E」と書く、と<仮定している>のである
※258 記号と感覚との結合を自分(の心)に刻みつけている(~)——
もっとも(自分(の心)に刻みつける)というのは、このような出来事を経過すれば、
わたくしが将来<正しく>その結合を思い出すようになる、ということでしかない。
この場合、わたくしには<その正しさの基準などないのである>。(~)
このことは、ここでは<正しい>ということについて<語ることができない>、
ということでしかないのである
130 われわれの明瞭かつ単純な言語ゲームは(~)<比較の対象>として掲示されているのであり、
それらは、類似や相違を介して、
われわれの言語の諸状態に光明を投げかける(~)
現実がそれに対応<しなくてはならない>ような先入見として掲示することではない
(哲学の異なった治療法/自己治癒的な諸アプローチ)
※123 哲学の問題は「わたくしは途方にくれている」という形をとる
※124 哲学は、最終的には、言語の慣用を記述できるだけである。
なぜなら、哲学はそれを基礎づけることもできないのだから。
それはすべてのものを、そのあるがままにしておく
※125 矛盾というものの市民的地位、あるいは市民的世界における矛盾の地位、
これが哲学の問題なのである
※119 哲学から生じた<諸結果>は、ある種の単純な<無意味さ>と、
悟性が言語の限界につきあたった際に生じた<瘤(こぶ)>とが発見された、
ということである。これらの瘤が、当の発見の(~)
※116 哲学者たちが語——「知識、存在、対象、自我、命題、名」など——を用いて、
ものの<本質>を把握しようとしているとき、
ひとは常に次のように問わなくてはならない。いったいこの語は、
<その元のふるさとである言語の中で>、実際いつも<そのように>使われているのか、と。
※20 文章の意義とは、それらと同じ<適用>にある(~)
※6 (~)たちは(一民族の全言語・規則)<そのような>活動を行い、
その際<そのような>語を用い、<そのようにして>他人の言葉に反応するよう(~)される
2003年5月24日に日本でレビュー済み
哲学書と言えば、ドイツ観念論を頂点とした難解なものを思い浮かべる人が多いだろう。だが、本書は全く違う。そこには難解な哲学用語も、意味不明で理解不能な論理も全くない。すべては明快だ。当たり前のことしか書かれていないと感じる読者もいるだろう。本当に本書は20世紀を代表する哲学書なのかと訝しく思う人もいるだろう。
しかし、実験や観察、世論調査などの実証的な方法を持たない哲学は、当たり前のことを愚犊に粘り強く考えていくしかない。本書はなによりもそのことを教えてくれる。本書を読み進んでいけば、私たちが日頃無意識のうちに信じていることの多くが、いかに疑わしいかが分かってくる。
ただし、本書はウィトゲンシュタインの遺稿を死後弟子達が纏めたもので完成された著作ではない。そのため、ウィトゲンシュタイが言いたかったことが何かは明確ではなく、難解な用語と論理が充満した普通の哲学書とは別に意味での難解さがある。そのことは覚悟して読んだ方がよい。
とはいえ、本書には、哲学の専門家でないと分からないような議論は一つもない。誰でも知的好奇心のある読者なら読み進むことができる。そして、読み進むにつれて、哲学とはこういう世界だったのかと目から鱗が落ちるだろう。
哲学など自分には無縁だと思い込んでいる方に是非読んで欲しい1冊だ。
しかし、実験や観察、世論調査などの実証的な方法を持たない哲学は、当たり前のことを愚犊に粘り強く考えていくしかない。本書はなによりもそのことを教えてくれる。本書を読み進んでいけば、私たちが日頃無意識のうちに信じていることの多くが、いかに疑わしいかが分かってくる。
ただし、本書はウィトゲンシュタインの遺稿を死後弟子達が纏めたもので完成された著作ではない。そのため、ウィトゲンシュタイが言いたかったことが何かは明確ではなく、難解な用語と論理が充満した普通の哲学書とは別に意味での難解さがある。そのことは覚悟して読んだ方がよい。
とはいえ、本書には、哲学の専門家でないと分からないような議論は一つもない。誰でも知的好奇心のある読者なら読み進むことができる。そして、読み進むにつれて、哲学とはこういう世界だったのかと目から鱗が落ちるだろう。
哲学など自分には無縁だと思い込んでいる方に是非読んで欲しい1冊だ。
2007年10月26日に日本でレビュー済み
有名な哲学者の遺稿集。学説史的には、言語ゲーム理論、日常言語学派への起源となる名著であり、主体哲学(意識哲学)からの脱却の端緒となる名著と巷間評価される。哲学のみならず社会科学一般への圧倒的な影響力も示している。一方、「トラクタークス」で論理主義の極北を示しウィーン学団、科学主義哲学者らのヒーローでもあった著者が、本書で全くその立場に見切りをつけたかのような立場、叙述で周囲を驚かせる。評価の分かれ目で、徹底した論理主義者は、著者の頽落形態を本書に見て、元来の嫌悪感を露骨にする。一方、反論理主義、意識哲学の系統、マルクス系の思想家、批評家はこぞって本書を歓迎し(本書のテーマは意識哲学やマルクス系の思想に反して、主体の解消のはずなのだが)、本書が分からない論理主義者を馬鹿呼ばわりしている。一読すると、マルクス等の「ドイツイデオロギー」にある、天才特有の未刊のメモが持つ独特の輝きがあって、何か「本質」を射すような鋭さを感じるとともに、未刊のメモにありがちな不明瞭さ、荒削りさが、却って読者を深遠な世界へ引きずり込む。自分としては、世評に違わぬ凄さを感じながらも、多くの批判者の言い分も分かるような気がする。或る命題を理解するとは別な命題に置き換えるという意味だが、或る音楽のテーマが別の音楽には置き換えられないのと同様に、無理なことだ、という件などに象徴されるような世間受けする言い回しは、私は嫌いだ。多くのヴィトゲンシュタインへの賛美や評価がこの手のアフォリズムにあるのは頂けない。「思想好み」の向きは、しばしば「本質論」を好み、発生論的な説明を蔑視して、この手の言い分を歓迎するが、大いに疑問だ。それはこの手の脇の堅そうにみえる「ほんとう」に気を委ねるところから来る頽廃に思える。愚直な経験や実験の研究はしばしばこの手の議論を屁理屈だったことに叩き落す。でも、本書は多くを示唆する名著だと思う。なにより簡潔で明快な言葉と多くの読書が無くても「哲学する」事とは何かを教えてくれる。規則そのものを実体化してそれに「従う」という解釈を否定し、規則とは適用の局面にのみ、解釈されたものとして現れ、規則に叛くと称する際に「規則の把握の仕方」を現す、という言明にいたる分析の過程などは誰しも触発されると思う。現象学がideationを志向性の作用の中に見出そうとして十分でなかった件がここで確かなことに近づいているような気がする。言語とは古都市のようなものだ、とはこれまた示唆的で、兎に角危険なアフォリズムに溢れている。