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ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり (ドラッカー名著集 9) 単行本 – 2007/11/16
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- 本の長さ310ページ
- 言語日本語
- 出版社ダイヤモンド社
- 発売日2007/11/16
- ISBN-104478001200
- ISBN-13978-4478001202
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登録情報
- 出版社 : ダイヤモンド社 (2007/11/16)
- 発売日 : 2007/11/16
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 310ページ
- ISBN-10 : 4478001200
- ISBN-13 : 978-4478001202
- Amazon 売れ筋ランキング: - 332,878位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,718位経済学 (本)
- - 11,688位経営学・キャリア・MBA
- カスタマーレビュー:
著者について
ピーター・F・ドラッカー
Peter F. Drucker
1909年11月19日-2005年11月11日
1909年、オーストリア・ウィーン生まれ。フランクフルト大学卒業後、経済記者、論説委員をつとめる。1933年ナチス・ドイツの不興を買うことを承知の論文を発表して、ロンドンへ移住。マーチャントバンクでアナリストをつとめた後、37年渡米。ニューヨーク大学教授などを経て、71年、ロサンゼルス近郊のクレアモント大学院大学教授に就任、以降この地で執筆と教育、コンサルティング活動を続けた。
ファシズムの起源を分析して、イギリスの後の宰相ウィンストン・チャーチルの絶賛をうけた処女作『「経済人」の終わり』、GMのマネジメントを研究した『企業とは何か』をはじめ、40冊近い膨大な著作群は、「ドラッカー山脈」とも呼ばれる。
ドラッカー教授の専門領域は、政治、行政、経済、経営、歴史、哲学、心理、文学、美術、教育、自己実現など多方面にわたっており、さまざまな分野に多大な影響を及ぼした。
東西冷戦の終結、高齢化社会の到来、知識社会への転換といった社会の根源的な変化をいち早く示した現代社会最高の哲人であるとともに、マネジメントの体系を確立し、「分権化」「自己目標管理」「民営化」「ベンチマーキング」「コアコンピタンス」などマネジメントスキルのほとんどを生み出したマネジメントの父である。
GEのジャック・ウェルチ、P&Gのアラン・ラフリーなど、ドラッカー教授を師と仰ぐ世界的経営者は多い。『エクセレント・カンパニー』のトム・ピータース、『ビジョナリー・カンパニー』のジム・コリンズといった著名な著述家たちも、ドラッカー教授の薫陶を受けている。
親日家としても知られる。1934年、ロンドンの街角で雨宿りに偶然入った画廊で目にした日本画の虜となり、室町水墨画などのコレクションを有する。
2005年、あと8日で96歳の誕生日を迎えるという日に永眠。「20世紀の知的巨人」「マネジメントの父」など、ドラッカー教授を称する言葉はたくさんあるが、本人は自らを社会生態学者と規定した。
生涯を通じた最大の関心事は「社会的存在としての人間の自由と平等」であり、そのために社会、組織、企業はどうあるべきか、一人ひとりの人間は何をなすべきかを問い続けた。その思想は、モダン(近代合理主義)を超えて、21世紀を支配するポストモダンの旗手である。
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上位レビュー、対象国: 日本
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より人が幸福になるために考えるべきことを訴えたものです。
「民族・人種」を煽って独裁になったナチスドイツ、
「理想社会」を煽って独裁になったソ連、
そして独裁者という共通項で両国が結びついた。
人々が幸せになるためには、
イデオロギーなるものに個々人が敏感になり、
それが行き着く先を想像しなければならない、
ということを教えてくれる本です。
民族・文化・伝統・宗教・・・どれも人が生きていくうえでは大切なものだと思いますが、
それが対立を生むことも確かです。
個人と個人がそれぞれの個性・多様性を認め合い、かつそれらを超えて交流することが重要なのでしょう。
そうでなければ、ハンチントンのいうように「文明の衝突」がさらに拡大してしまうでしょう。
ドラッカーは、経営学者として著名であり経営者や企業の責任を強く訴えており、
私としては「ちょっと厳しいな」と思っていましたが、
その根底には全体主義への嫌悪があるのだということを、
本書を読むことで理解しました。
組織が多様であり、かつそれぞれが社会に責任を持たなければ、
全体主義になってしまうということだと思います。
ただ、最近はドラッカーが危惧していたように、組織の正当性が揺らいでいます。
組織で働く人は、組織の正当性を今一度再確認する必要があるのでしょう。
また、自分より大きく力のあるものに依存しすぎると、
いずれは不幸になることを知っておくことが必要でしょう。
本書は今こそ読む価値のある本だと思います。
2005年読了(旧版)
「経済人」とは、「常に自らの経済的利益に従って行動するだけでなく、常にそのための方法を知っているという概念上の人間である。」(44頁)
19世紀を支配したブルジョア資本主義もマルクス社会主義も、この「経済人」の概念を基盤にしたが、20世紀に、両者の崩壊により、「経済人」の概念も終わりを告げた。本書のタイトルはここに由来する。そして、ファシズムが生まれた理由でもある。
では、ファシズム全体主義はそれ以前の革命と何が違うのか。ドラッカーは次の3点を挙げる。'@ファシズムにはこれという信条はなく、他の信条を攻撃し、否定する、'A大衆の福祉の向上のために政治権力・社会権力が正当化されることを否定する、'Bファシズムの約束を信じない人間がこれに参加する。要するにファシズムの思想とは無思想である。すべてを否定することが目的化しており、権力の正当性を裏付ける価値も論理ももたないのがファシズム全体主義なのだった。それは大衆の目にも明らかだったが、それでも彼らが支持した理由は、旧秩序崩壊の混沌のなかで人々が感じていた絶望感である。進むも地獄、戻るも地獄という状況のなかで、大衆は「魔術と軌跡」を信じた。ファシズム全体主義はその矛盾と不可能で彩られたファシズム全体主義に傾倒していたのだとドラッカーは指摘する。苦しいときの神頼み。その神が破壊の神であっても、他に選択肢がないとき、人はそこに残されたすべてを賭けてしまうのだ。29歳(出版時)で人間性に対してここまで深い理解に到達していたドラッカーの洞察力には感嘆する。
大衆はなぜファシズムにすがらざるをえないまでに絶望していたのか。それは、ブルジョア資本主義もマルクス社会主義も特権階級による搾取の構造を何ら変えることができず、恐慌と戦争という魔物の前に無力だったからである。ブルジョア資本主義もそれに対抗したマルクス社会主義も、どちらも経済の領域で「自由と平等」を実現することを目指したが、いずれも理想的な社会をもたらすには遠く及ばず、彼らの掲げた「経済人」という人間像の概念が崩壊した。中世における「宗教人」としての人間像がその宗教的秩序が崩れたときに「知性人」としての人間像にとってかわられたように、「経済人」にかわる新しい人間像が必要とされていたが、まだ何人もそれを見出していなかった。
ブルジョア資本主義とマルクス社会主義という「旧秩序」にとどめを指したのは、第一次世界大戦と世界恐慌である。世の中は合理の力ではなく不合理の魔物によって支配されていることを思い知らされた大衆は、この魔物を追い出すことに躍起となり、分別を捨てて奇跡や魔法の儀式にすがるようになった。恐慌という魔物を退治するためなら経済発展や民主主義までも捨てようとするだろう、とドラッカーは書いている。「自由が平等をもたらさないならば自由を捨てる。自由が安定をもたらさないならば安定を選ぶ。・・・自由が魔物の脅威を招くのであれば、自由の放棄によって絶望からの解放を求める」という大衆の自暴自棄のなかで、「安定が普遍かつ最高の目標」となっていった。ほかに頼るものがないがゆえに明らかに怪しい宗教にはまってしまうのとよく似ている。じっさい、ドラッカーもファシズムの「教義は純粋に宗教的な信仰である」と書いている。与党も野党も「安全、安心、安定」を連呼し、産めよ増やせよ戦えよといわんばかりの政策が次々と打ち出されているいまの日本と、ドラッカーが書いている1930年代のヨーロッパの空気は気持ちが悪いほど似ている。
安全、安心、安定はタダでは手に入らない。その代償は自由である。不自由を受け容れることである。しかしそれをあからさまに言ってしまっては大衆の支持は得られない。大衆に喜んで不自由を受け容れてもらうために、ファシズム全体主義は「適法性」や「継続性」を重視する。こうした形態さえ守られれば人々が「安心して」不自由を受け容れる。ドラッカーは「実体を破壊しつつ形態を維持せざるをえないファシズム全体主義においては、伝統的な決まり事の保有が不可欠である」と指摘している。一見保守的な路線をとりつつ、何か別のものとすり替えていくのがその特徴なのだ。自分たちは苦労して変わりたくないが、現状は耐え難いのでどうにかしてほしいという大衆の矛盾した要望に応えるためのさまざまな物語や装置を用意していたのがファシズム全体主義だった。その究極の装置は「組織」である。ファシズム全体主義は信条と秩序の代役に『組織』を充てることによって、問題解決のためのお守り」とし、「『組織』の栄光を最終目的とする」思想であるとドラッカーは見た。本の中でもっとも印象的だったのがこの部分だった。
ブルジョア資本主義とマルクス社会主義の主戦場であった経済的領域そのものを否定するファシズム全体主義体制下では、非経済的な満足・報酬・報奨が個人の地位と役割を規定する。ナチスドイツは、農民を「民族の背骨」労働者を「民族の精神」ブルジョア階級を「文化の担い手」などと位置付け、精神的領域において非経済的優越感を発揮させるとともに、役割を果たし、能力を発揮することを求めた。市民軍、青年団、婦人団体といった準軍事組織は、「経済的に恵まれない層の人間が命令し、恵まれた層がそれに従うという生活場面」を演出することにより、経済的不平等によって生じる緊張を緩和する装置として使われた。
イタリアの印象を聞かれて「乞食がいなかった。汽車が時間どおり走っていた」と答えた老婦人をばかにしてはならない、というくだりは印象的だ。この老婆の一言は「なまじの論文よりもファシズム全体主義の本質をついている」とドラッカーは指摘する。「ファシズム全体主義においては、汽車が時間どおりに走り、乞食が大通りから追い払われる。南太平洋で最高速の船を運航し、世界一道幅の広い道路を作る。組織と技術の細部それ自体が目的と化す。技術的、経済的、軍事的な有用性さえ二の次となる」。「イタリア」を「日本」に置き換えてもまったく違和感がない
ファシズム全体主義は、究極的には国そのものの軍国主義化を目指す。この体制下では所有と経営抜きの生産体制が築かれ、完全雇用が実現される。このシステムを維持するには戦争が必然となる。「戦争における個々の人間の位置と役割が、社会そのものにおける位置と役割」となるのがファシズム全体主義。ブルジョア資本主義とマルクス社会主義の人間観は「経済人」であったが、ファシズム全体主義の概念の人間観は「英雄人」である。それは「個々の人間の犠牲の正当化」であり「不合理な魔物たちを退治するための最古の呪術的概念」にほかならない。しかし、とドラッカーは言う。この「英雄人」の概念では社会にいかなる目的ももたらすことができない、と。なぜなら犠牲を正当化すれば死そのものを目的とすることになり、そのような社会に意味はなくなる。この矛盾のためにファシズム全体主義は失敗に終わるだろうとドラッカーは予言した。
しかし、ヨーロッパ社会はファシズム全体主義が自滅するのをただ待つではなく、ファシズムではない形態の新しい脱経済至上主義社会を生み出さなくてはならないとドラッカーは力説している。発刊から30年たった1960年のまえがきにこうある。「成熟とは世界を合理化することではない。そのような試みは一九世紀の試みがそうであったように、常に欲求不満に終わる。それは世界の不合理を打破することでもない。成熟とは自らの行動を合理的なものにすることである。そうすることによってのみ、まともで意味があり、かつ生きがいのある社会と人生が可能になる」。『マネジメント』を含む彼の後年の膨大な著作は、「自らの行動を合理的なものにすること」の実践のために書かれているように思える。経営学の巨人と言われるドラッカーの思想の出発点は、経済的価値を中心とした社会秩序の崩壊にともなう政治現象にあった。彼にとって企業や経営について考えることは、「経済人」の次にくる人間観の模索と同義だったのだろう。
それがドイツ国民はじめヨーロッパ人の絶望感に共振・共鳴したようだ。
なかでも、「権力には正当性が必要であること。国民の福祉こそが権力の正当性を担保する」
という考え方を、ファシズムは馬鹿にする。
このこと、自分の中にもこうした見方が存在することに気付いた。
かつて進歩的知識人が、学生運動のころなど、
「権力」を悪者扱いにして以降、
権力の正当性など、信じるのはダサい、ような気分を
自分も無意識にもっていたように感じた。
新しい何かを模索しつつも得られない無力感は、
2011年の現代にも共通する。
政党は、矛盾することを言い、そのことを何ら恥じるところがない。
従来の生ぬるさを否定するのは、キモチいい。
しかしそれは、既存の価値を否定するだけの
「やけっぱち」の状態ではないのか。
「パンの値段を値下げするのではない。値上げするのでもない。
ナチの決める値段にするのだ」
めちゃくちゃな演説に、なぜか気持ちがすっきりする。
知らぬうちに無責任な言説を受け入れ、
自らの知的誠実さを失っていく。
ドイツ国民が熱狂したのは、ある意味、やけっぱちだったのかもしれない。
ドラッカーは、自身のあらゆる知力を総動員して
こうした時代の雰囲気にあらがったのだろう。
ウィーンの、良き時代の空気を吸っていたからこそ、できたのかもしれない。
これらはなにも80年前の昔話ではなさそうだ。
われわれは、ここ100年近く、ずっと全体主義的な考え方に馴染んできたようだ。
そう気づいて、愕然とした。
自分の知性が試されている・・・と、感じた。