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方丈記私記 (ちくま文庫) 文庫 – 1988/9/1
堀田 善衛
(著)
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毎日出版文化賞受賞
今日なお私たちをその深部で把えて放さぬ伝統主義的日本文化を鋭く批判する名著。
1945年3月、東京大空襲のただなかにあって、著者は「方丈記」を痛切に再発見した。無常感という舌に甘い言葉とともに想起されがちな鴨長明像はくずれ去り、言語に絶する大乱世を、酷薄なまでにリアリスティックに見すえて生きぬいた一人の男が見えてくる。著者自身の戦中体験を長明のそれに重ね、「方丈記」の世界をあざやかに浮彫りにする。
【解説: 巻末対談 五木寛之 】
僕の宿題 ――宮﨑駿
「堀田善衞の『方丈記私記』のアニメーション化、それも商業映画としてつくること、いや、つくれるか。この途方もなく常識はずれで、成算も何もないと判っている思いつきを、空想の中で転がしている。いくら日本のアニメーション業界というものが、見境も身の程もわきまえずに、何でもかんでもフィルムにしてしまう所でも、『方丈記私記』の映画化は非常識をはるかに跳びこえている。だからこそ、空想で転がす分には良い気分になれるのだが、時折は真剣に組立てを考えたりするのだ。とたん、自分の教養のなさ、宗教を避けて来たための浅さ、映像の元になる材料のストックの不足につき当り、なにより今までの文法では不可能だと思いしらされる。しかし、諦めたわけではなくて、釣糸はたらしつづけている。中世の絵巻の復刻本を眺めている内に、何かが釣針にかかったような気がして、ひと晩興奮したりする。途は遠い。でも、この楽しみを手離す気にはなれない。」
(堀田善衞全集・内容見本 一九九三年三月発行より)
【目次】
1 その中の人、現し心あらむや
2 世の乱るゝ瑞相とか
3 羽なければ、空をも飛ぶべからず
4 古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず
5 風のけしきにつひにまけぬる
6 あはれ無益の事かな
7 世にしたがへば、身くるし
8 世中にある人と栖と
9 夫、三界は只心ひとつなり
10 阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ
今日なお私たちをその深部で把えて放さぬ伝統主義的日本文化を鋭く批判する名著。
1945年3月、東京大空襲のただなかにあって、著者は「方丈記」を痛切に再発見した。無常感という舌に甘い言葉とともに想起されがちな鴨長明像はくずれ去り、言語に絶する大乱世を、酷薄なまでにリアリスティックに見すえて生きぬいた一人の男が見えてくる。著者自身の戦中体験を長明のそれに重ね、「方丈記」の世界をあざやかに浮彫りにする。
【解説: 巻末対談 五木寛之 】
僕の宿題 ――宮﨑駿
「堀田善衞の『方丈記私記』のアニメーション化、それも商業映画としてつくること、いや、つくれるか。この途方もなく常識はずれで、成算も何もないと判っている思いつきを、空想の中で転がしている。いくら日本のアニメーション業界というものが、見境も身の程もわきまえずに、何でもかんでもフィルムにしてしまう所でも、『方丈記私記』の映画化は非常識をはるかに跳びこえている。だからこそ、空想で転がす分には良い気分になれるのだが、時折は真剣に組立てを考えたりするのだ。とたん、自分の教養のなさ、宗教を避けて来たための浅さ、映像の元になる材料のストックの不足につき当り、なにより今までの文法では不可能だと思いしらされる。しかし、諦めたわけではなくて、釣糸はたらしつづけている。中世の絵巻の復刻本を眺めている内に、何かが釣針にかかったような気がして、ひと晩興奮したりする。途は遠い。でも、この楽しみを手離す気にはなれない。」
(堀田善衞全集・内容見本 一九九三年三月発行より)
【目次】
1 その中の人、現し心あらむや
2 世の乱るゝ瑞相とか
3 羽なければ、空をも飛ぶべからず
4 古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず
5 風のけしきにつひにまけぬる
6 あはれ無益の事かな
7 世にしたがへば、身くるし
8 世中にある人と栖と
9 夫、三界は只心ひとつなり
10 阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日1988/9/1
- 寸法14.6 x 10.6 x 0.4 cm
- ISBN-104480022635
- ISBN-13978-4480022639
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商品の説明
著者について
堀田善衛(ほった・よしえ):1918年、富山県高岡市に生まれる。慶応大学文学部フランス文学科を卒業。1952年、「広場の孤独」その他の作品により芥川賞を受賞。主な作品に『海鳴りの底から』、『若き日の詩人たちの肖像』、『方丈記私記』、『ゴヤ』、『スペイン断章』、『定家明月記私抄』、『ミシェル 城館の人』などがある。50年に及ぶ文業は、『堀田善衞全集・全16巻』(筑摩書房)に集成されている。1998年没。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1988/9/1)
- 発売日 : 1988/9/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 272ページ
- ISBN-10 : 4480022635
- ISBN-13 : 978-4480022639
- 寸法 : 14.6 x 10.6 x 0.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 13,122位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 14位作家研究
- - 30位ちくま文庫
- - 228位近現代日本のエッセー・随筆
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年11月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
堀田善衛の分析は面白かった。そのような見方があったのかと思った(長明と新古今和歌集の関連など知識としてなかったので)。方丈記から、その時代の庶民の姿を知ることができる。長明は特に、地下人だからである。
2022年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
短歌が勉強不足で、もっと知っておれば更に理解が深まる。
2009年11月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私がこの本を買ったのは、堀田善衛さんが、方丈記の終わり近くにある、「汝、姿は聖にて、心は濁りに染めり。栖は、即ち、浄名居士の跡を汚せりといへども、保つところは、僅かに、周梨般特が行いにだに及ばず。」をどう感じたかを知りたいためであった。予想に反してこの鴨長明の言葉には、ほとんど紙数が割かれていない。ただ、「最後の拠りどころである筈の仏教までが蹴飛ばされてしまった」とだけ堀田さんは書いている。鴨長明は自分の未熟さを言ってたのだと思うが、堀田さんはそれを、仏教の限界、あるいは仏教を修行して何とかなろうという人の限界ととらえているのだろう。さらに、堀田さんにとって隠者がちっとも悟ってなんかいないのもわかりきったことなのかもしれない。
ということで、私にとっては、少々意外な本だったが、鴨長明と藤原定家の歌に関する解説は面白かった。
ということで、私にとっては、少々意外な本だったが、鴨長明と藤原定家の歌に関する解説は面白かった。
2011年9月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者自身の昭和20年3月の東京大空襲の体験の記述から始まり、それを「方丈記」中の天災・飢饉等の記述と重ね合わせる事によって、「方丈記」あるいは「鴨長明」の新解釈を試みたエッセイ(私事だけを書いたエッセイと作中で再三強調されている)。「無常感」と一括りにされる「方丈記」の著者長明を、徹底的な現実主義者と捉えた所に新規性がある。長明とほぼ同時代に生きた藤原兼実「玉葉」、藤原定家「明月記」との比較考証も面白い。
前半の著者の主張を要約すれば以下の二点であろう。
(1) 日本においては「無常感」という概念が時の為政者によって利用され続けて来た。大きな天災・人災による民衆の苦しみが、この「無常感」によって"いつしか"押し流されるという事を為政者は見抜いていた。
(2) 大きな天災・人災によって、日本全体が階級のない社会になるなら、いっそ快哉を叫びたい。
(1)は今回の東日本大震災にも言える事で、「無常感」という言葉・概念が日本人に与える意味を改めて考えさせてくれる。(2)は多分に思想的色彩が濃い物で、戦時中には言えなかった事をドサクサまぐれに言い放った感がある。
後半は長明により迫って行くのだが、"贔屓の引き倒し"的記述が多く、その論には余り信が置けない。ただ、「方丈記」を「住」の書と捉えている点には首肯出来るものがあった。全体として、「方丈記」の再評価という点で価値がある書だと思う。
前半の著者の主張を要約すれば以下の二点であろう。
(1) 日本においては「無常感」という概念が時の為政者によって利用され続けて来た。大きな天災・人災による民衆の苦しみが、この「無常感」によって"いつしか"押し流されるという事を為政者は見抜いていた。
(2) 大きな天災・人災によって、日本全体が階級のない社会になるなら、いっそ快哉を叫びたい。
(1)は今回の東日本大震災にも言える事で、「無常感」という言葉・概念が日本人に与える意味を改めて考えさせてくれる。(2)は多分に思想的色彩が濃い物で、戦時中には言えなかった事をドサクサまぐれに言い放った感がある。
後半は長明により迫って行くのだが、"贔屓の引き倒し"的記述が多く、その論には余り信が置けない。ただ、「方丈記」を「住」の書と捉えている点には首肯出来るものがあった。全体として、「方丈記」の再評価という点で価値がある書だと思う。
2018年11月13日に日本でレビュー済み
ちくま文庫の『方丈記私記』は著者と五木寛之との対談を付録として含む。
この中で五木氏が面白いことを指摘する。鴨長明におかまの匂いがするらしい。
そういえば、
〇 つきはなした冷徹なものの見方
〇 すべてに対する広い関心
〇 一種の疎外感
つまり、いろんなことにとっかりがあってしかもすべてから締め出されている
ところ。中途半端。何かことが起こると、その現場に行って確かめたいと言う
内的逼迫。おっちょこちょい。これらはおかま的資質である。
(と、五木氏が言っている。)
高校で『方丈記』を学んだ。「無常観の文学」のひとことで片付けられたが
堀田善衛はそんなもんじゃねえだろうと自分の体験を方丈記に重ねている。
例えば1945年3月10日の東京大空襲。死者10万人超。3月18日の天皇による焦土
視察は、朝9時に宮城を出発し、まず深川富岡八幡宮跡で下車、ついで汐見橋、
東陽公園、小名木川橋、錦糸町、押上、駒形橋、田原町と経て上野経由、宮城
帰着10時。たった1時間。永代橋では人びとは土下座して、責任は家を焼かれ
家族を殺されたわれわれにあると天皇に詫びたという。「あの戦争をおっぱじめた
ものは、天皇とそのとりまきである」のは明らかなのにどうしてこんなことに
なっているのか。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないような日本に
なってしまったのか?
そして『方丈記』に書かれていたことがこれと瓜二つだったことに思いが至る。
当時の「皇族・貴族集団のやらかしていること」と「災殃にあえぐ人民」という
図式は何も変らない。長く続くことが尊いことなのか。伝統ばかりが尊いこと
なのか。
・・戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな
伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、
他に類例がなかった。・・
この考えかたは現在でも相変わらず続いている。個人の幸福を追求できない
仕組みが日本の社会には厳然と存在する。これは日本民族の宿痾なのか
それとも麗しい美質なのか。
この観点で『方丈記』を読みなおしてみると堀田善衛の目に見えてくるのは、
鴨長明の偏執的ひらきなおり、ザマミロといった具合のふてくされ、厭味、
無常というにはあまりにも生ぐさい態度、世を捨てたからこそなんにでも
イチャモンをつけられる姿勢・・。
鴨長明は楽器の名手で楽才があった。『方丈記』の文章からは強烈なリズムが
響いてくる。もしラップが当時あったなら、長明はこころの奥に鬱積した怒りを
ぶちまけるすごいラッパーになっていたに違いない。
Amazonで購入
ちくま文庫の『方丈記私記』は著者と五木寛之との対談を付録として含む。
この中で五木氏が面白いことを指摘する。鴨長明におかまの匂いがするらしい。
そういえば、
〇 つきはなした冷徹なものの見方
〇 すべてに対する広い関心
〇 一種の疎外感
つまり、いろんなことにとっかりがあってしかもすべてから締め出されている
ところ。中途半端。何かことが起こると、その現場に行って確かめたいと言う
内的逼迫。おっちょこちょい。これらはおかま的資質である。
(と、五木氏が言っている。)
高校で『方丈記』を学んだ。「無常観の文学」のひとことで片付けられたが
堀田善衛はそんなもんじゃねえだろうと自分の体験を方丈記に重ねている。
例えば1945年3月10日の東京大空襲。死者10万人超。3月18日の天皇による焦土
視察は、朝9時に宮城を出発し、まず深川富岡八幡宮跡で下車、ついで汐見橋、
東陽公園、小名木川橋、錦糸町、押上、駒形橋、田原町と経て上野経由、宮城
帰着10時。たった1時間。永代橋では人びとは土下座して、責任は家を焼かれ
家族を殺されたわれわれにあると天皇に詫びたという。「あの戦争をおっぱじめた
ものは、天皇とそのとりまきである」のは明らかなのにどうしてこんなことに
なっているのか。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないような日本に
なってしまったのか?
そして『方丈記』に書かれていたことがこれと瓜二つだったことに思いが至る。
当時の「皇族・貴族集団のやらかしていること」と「災殃にあえぐ人民」という
図式は何も変らない。長く続くことが尊いことなのか。伝統ばかりが尊いこと
なのか。
・・戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな
伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、
他に類例がなかった。・・
この考えかたは現在でも相変わらず続いている。個人の幸福を追求できない
仕組みが日本の社会には厳然と存在する。これは日本民族の宿痾なのか
それとも麗しい美質なのか。
この観点で『方丈記』を読みなおしてみると堀田善衛の目に見えてくるのは、
鴨長明の偏執的ひらきなおり、ザマミロといった具合のふてくされ、厭味、
無常というにはあまりにも生ぐさい態度、世を捨てたからこそなんにでも
イチャモンをつけられる姿勢・・。
鴨長明は楽器の名手で楽才があった。『方丈記』の文章からは強烈なリズムが
響いてくる。もしラップが当時あったなら、長明はこころの奥に鬱積した怒りを
ぶちまけるすごいラッパーになっていたに違いない。
2019年9月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
平安の皇族・貴族の世から鎌倉幕府の世へのうつろいの中、その晩年に京を見晴るかす大原は方丈庵に居を構えた鴨長明の半生に照らしての、これは著者、堀田善衛自身の物語である。
・太平洋戦争末期、3月10日深夜の東京大空襲を生き延びた堀田は、翌朝、焼け跡の真ん中にピカピカの乗用車でやってきて、多数の軍人を引き連れて「そこに」立つ昭和天皇の姿を目撃している。彼の目にしたものは、昭和天皇を含む権力者が始めた戦争によって死に瀕したにもかかわらず、「現人神」に伏して詫びる群衆の姿である(p59)。理不尽を超越しての感情の真空状態には、方丈記に示された日本中世の被災地獄が連なってみえてくる。平安朝の貴族社会と隔絶した「濁世」を鴨長明とともに掘り下げる堀田は、そこに、現代にまで連綿と続く日本の「業の深さ」を発見するのである(p232)。
・古典が活かされるとき、それは歴史が大きな転換をしようとする時である。そも、一般市民にとっての歴史とは、たとえば義経、頼朝、平家といった名の通った存在ではなく、よくわからないままに過ぎ去ってゆく実状実態「とき」「こと」「ひと」こそがそれである。歴史の転換のただ中に放り出された人々の心の持ち方は、古今東西変わることがない。生きた人間にとっての古典の価値がそこに現れる(p82,98,107)。
・堀田は述べる。概念世界を構築するものは観念ではない。それは「言葉」である(p137)。
・それにしても、なんにでも興味を示し、文学のみならず音楽の才能も併せ持ち、フィールドワークを好んで実践した男、鴨長明。実に魅力的な人物だ。
・巻末に収録された堀田善衛と五木寛之の対談(1980年9月)も実に興味深い。
個人的体験は歴史に勝る。濁世を直視する二人の男の存在を、しかと見た。
現在の日本で顕著な「責任と無関係な政治体制」は、平安時代に完成したことが明確に示される(p61,100)。
「天皇制というものの存続の根源は」と堀田は言う。生者の現実を無視し、政治のもたらした災厄を「人民は目をパチクリさせられながら無理矢理に呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根付いているのである」(p221) デモクラシーとは程遠い日本の「平伏市民文化」の根は深いわけだ。
その昔、庶民と隔離された平安貴族社会の生み出した、現実を無視した「伝統への憧憬」は「一九四五年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらにごろごろしていた頃」にも、「神州不滅だとか、皇国ナントヤラとかいう」ばかばかしい話が誇張され、日本文化の雅やかな伝統ばかりが、ヒステリックに憧憬されていたという(p220)。滑稽な話ではあるが、当時は真剣だったんだろうな。悲喜劇。
この思想が現在にも受け継がれ、強化され、この2019年の日本社会、特に政治体制を彩っている現状(もはや隠そうともしない)には目がくらむが、それでも生きてゆくしかない。
方丈記に「世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり。……しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」とある。現代日本・2019年の現実は、世にしたがえば狂せるに似たり。したがわねば、身くるし、といったところか。
・太平洋戦争末期、3月10日深夜の東京大空襲を生き延びた堀田は、翌朝、焼け跡の真ん中にピカピカの乗用車でやってきて、多数の軍人を引き連れて「そこに」立つ昭和天皇の姿を目撃している。彼の目にしたものは、昭和天皇を含む権力者が始めた戦争によって死に瀕したにもかかわらず、「現人神」に伏して詫びる群衆の姿である(p59)。理不尽を超越しての感情の真空状態には、方丈記に示された日本中世の被災地獄が連なってみえてくる。平安朝の貴族社会と隔絶した「濁世」を鴨長明とともに掘り下げる堀田は、そこに、現代にまで連綿と続く日本の「業の深さ」を発見するのである(p232)。
・古典が活かされるとき、それは歴史が大きな転換をしようとする時である。そも、一般市民にとっての歴史とは、たとえば義経、頼朝、平家といった名の通った存在ではなく、よくわからないままに過ぎ去ってゆく実状実態「とき」「こと」「ひと」こそがそれである。歴史の転換のただ中に放り出された人々の心の持ち方は、古今東西変わることがない。生きた人間にとっての古典の価値がそこに現れる(p82,98,107)。
・堀田は述べる。概念世界を構築するものは観念ではない。それは「言葉」である(p137)。
・それにしても、なんにでも興味を示し、文学のみならず音楽の才能も併せ持ち、フィールドワークを好んで実践した男、鴨長明。実に魅力的な人物だ。
・巻末に収録された堀田善衛と五木寛之の対談(1980年9月)も実に興味深い。
個人的体験は歴史に勝る。濁世を直視する二人の男の存在を、しかと見た。
現在の日本で顕著な「責任と無関係な政治体制」は、平安時代に完成したことが明確に示される(p61,100)。
「天皇制というものの存続の根源は」と堀田は言う。生者の現実を無視し、政治のもたらした災厄を「人民は目をパチクリさせられながら無理矢理に呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根付いているのである」(p221) デモクラシーとは程遠い日本の「平伏市民文化」の根は深いわけだ。
その昔、庶民と隔離された平安貴族社会の生み出した、現実を無視した「伝統への憧憬」は「一九四五年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらにごろごろしていた頃」にも、「神州不滅だとか、皇国ナントヤラとかいう」ばかばかしい話が誇張され、日本文化の雅やかな伝統ばかりが、ヒステリックに憧憬されていたという(p220)。滑稽な話ではあるが、当時は真剣だったんだろうな。悲喜劇。
この思想が現在にも受け継がれ、強化され、この2019年の日本社会、特に政治体制を彩っている現状(もはや隠そうともしない)には目がくらむが、それでも生きてゆくしかない。
方丈記に「世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり。……しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」とある。現代日本・2019年の現実は、世にしたがえば狂せるに似たり。したがわねば、身くるし、といったところか。