以前、古本屋で見かけそのときは購入しませんでしたが、それ以降見かけることが無く
忘れていた本でした。今回、購入し吉行氏の洒脱なエッセイに触れて楽しかった。
他の吉行氏のエッセイも再読してみたいと思いました。
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吉行淳之介エッセイ・コレクション 3 (ちくま文庫) 文庫 – 2004/4/8
- 本の長さ326ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2004/4/8
- ISBN-104480039333
- ISBN-13978-4480039330
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2004/4/8)
- 発売日 : 2004/4/8
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 326ページ
- ISBN-10 : 4480039333
- ISBN-13 : 978-4480039330
- Amazon 売れ筋ランキング: - 749,495位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,728位ちくま文庫
- - 11,615位近現代日本のエッセー・随筆
- - 31,171位評論・文学研究 (本)
- カスタマーレビュー:
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2010年7月6日に日本でレビュー済み
吉行淳之介のエッセイを読むのはつねに楽しい。しかし楽しいだけではない。時折、ハッとさせられるような言葉にふれ、唸ってしまう。解説を書く荒川洋治はこう述べている。
《吉行氏の文章は軽快だが、だいじなところに、やはり、ふれる。さらに、ふれているのに、ふれていることが目立たない。そこが涼しい。気持ちのいい文章だと、ぼくは思う。》
私もそう思う。
本書はエッセイ・コレクションの3番目のもので、「作家」と題されている。「自叙伝」「作家のノートから」「雑感」の3部構成で、私は「作家のノートから」を面白く読んだ。例えば、「わたしの文章作法」というエッセイ。漢字の使用を無責任に制限してきた人々に対して、「あまり美意識の発達しているとはおもえぬ人たちが集まって漢字を選び出し、上から押しつけてくることがまず不快である」と乾いた口調で述べるくだり(100頁)は痛快である。
もう1つ、「怒りと慣れ」(119頁)という小文がいい。ここでも吉行の言葉へのこだわりが開陳される。現在では「きもち」を「気持ち」と書くが、吉行は「気持」でないと「気持」が悪かったらしい。そういえば、この年代の人たちには「気持」と送り仮名を使わないで書く人がかなり多いように思う。吉行は結局「気持ち」という表記に慣れたのだというが、私自身はこの文章を読んで以来なんとなく「気持」と書くようになってしまった。「ち」があるとそれこそ「気持」が悪いのである。一作家の弁に過ぎないのだろうが、真似てみたいと思わせるところにこの作家の魅力があるように思われる。
《吉行氏の文章は軽快だが、だいじなところに、やはり、ふれる。さらに、ふれているのに、ふれていることが目立たない。そこが涼しい。気持ちのいい文章だと、ぼくは思う。》
私もそう思う。
本書はエッセイ・コレクションの3番目のもので、「作家」と題されている。「自叙伝」「作家のノートから」「雑感」の3部構成で、私は「作家のノートから」を面白く読んだ。例えば、「わたしの文章作法」というエッセイ。漢字の使用を無責任に制限してきた人々に対して、「あまり美意識の発達しているとはおもえぬ人たちが集まって漢字を選び出し、上から押しつけてくることがまず不快である」と乾いた口調で述べるくだり(100頁)は痛快である。
もう1つ、「怒りと慣れ」(119頁)という小文がいい。ここでも吉行の言葉へのこだわりが開陳される。現在では「きもち」を「気持ち」と書くが、吉行は「気持」でないと「気持」が悪かったらしい。そういえば、この年代の人たちには「気持」と送り仮名を使わないで書く人がかなり多いように思う。吉行は結局「気持ち」という表記に慣れたのだというが、私自身はこの文章を読んで以来なんとなく「気持」と書くようになってしまった。「ち」があるとそれこそ「気持」が悪いのである。一作家の弁に過ぎないのだろうが、真似てみたいと思わせるところにこの作家の魅力があるように思われる。