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スポ-ツを考える: 身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書 47) 新書 – 1995/10/20
多木 浩二
(著)
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表紙カバー:きれいです。 帯:ついてません。 内部:きれいです。 アルコール消毒をしてから出荷します。 配送時は、本を開いて送ります。
- ISBN-104480056475
- ISBN-13978-4480056474
- 出版社筑摩書房
- 発売日1995/10/20
- 言語日本語
- 本の長さ206ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1995/10/20)
- 発売日 : 1995/10/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 206ページ
- ISBN-10 : 4480056475
- ISBN-13 : 978-4480056474
- Amazon 売れ筋ランキング: - 305,155位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年2月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
汚れも少なく、低価格で購入でき、感謝です。若干の書き込みもありましたが、状態は中程度だと思いますが、また機会があればお世話になりたいと思います。
2004年6月29日に日本でレビュー済み
1928年生まれの多作の芸術学者・記号論者が1995年に著した新書本。スポーツ史を本格的な知的対象にしたノルベルト・エリアスは近代スポーツを「文明化の過程」の一環として捉え、「野蛮な現実の模倣」としての古代スポーツとは異なる、規則に基づく「非暴力的競争」と定義した。しかし非暴力化が国家による暴力の独占と表裏の関係にある一国的な出来事であることを看過している点と、現代社会でスポーツ活動の過熱を促している力(資本)について殆ど考慮していない点に、著者はエリアス理論の限界を見、近代スポーツ史を振り返る。それ自体としては現実の根拠を持たない(=地方性の払拭、人為的)書かれた規則に基づくゲームとしての近代スポーツの原型は、都市と田舎を行き来する19世紀イギリスのジェントルマンが個別の地域を超えた規則の統一と制度化を実現する中で生まれ、まずはネイションを基盤として成立した。それゆえにそれは人格陶冶、フェアプレイ重視、規律・訓練を受けた優雅な身体などのジェントルマン的理念を帯びており、近代オリンピックもそうした理念を受けて誕生した。しかしスポーツのアメリカナイゼーションにより、スポーツは大衆化され、企業化され、メディアにより言説化され、選手はプロ化する。ここにおいてジェントルマン的スポーツ観は理念としては維持されつつも現実には失効し、身体的な技量の過剰な洗練化と勝敗へのこだわりが前面に出、また計測の精密化に伴い記録の精密な差異が追求される(記号化)。こうした中でドーピングが恒常化し、また暴力を制御してきたゲーム性の解体としてのフーリガン騒ぎが生じる。1970年代以降の性差の相対化は、男性の身体を想定した従来のスポーツ概念に転換をもたらし、身体の多彩な関係を生み出すと著者は見ている。最後にスポーツの現在として、著者はネーションの相対化(スポーツの個人主義化・国際化)、メディア分析の必要性を指摘している。
2013年7月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
楽しい人間関係は、その人との絆を深めます。
同じように、自分の身体を楽しく動かせば、動かすほど身体との絆は太くなるはずです。
他人との絆はその他人の顔を中心に結び付きます。
りんごの記憶は、そのりんごの見かけに結び付いて記憶されています。
だから、人はりんごを見るとかじりたくなります。りんごを見ると食べた記憶が働くからです。
他人がいつも同じ顔をしているから、その人の記憶はその顔に自然に結びつくのです。
同じ事が自分の身体との絆についても言えます。
自分の記憶は自分の顔に結び付きません。なぜなら、自分ではふだん自分の顔を見ないからです。
その代わり、直立活動をする人間は、直立姿勢を維持するために、腹筋と背筋を常に働かせ、そこに安定した身体感覚を持ち続けています。
ですから、この身体感覚に自分の記憶は結びつきを形成しています。
目の見えない人にとって、夫の記憶の絆は、夫の顔ではなく、夫の声でしょう。
また、目の見えない人にとって、りんごの記憶の絆は、りんごの見かけではなく、りんごの感触であるはずです。
りんごを触って、はじめてりんごだとわかるのです。
このように、あらゆる感覚が記憶の絆になります。
自分の身体感覚も、記憶の絆に当然なるはずです。
もし他人の顔が毎日変われば、その顔は、その人の記憶の絆にはならない。
他人がいつも同じ顔をしているから、その人の様々な記憶がその顔に結び付くことができる。
楽しい人間関係がその人との絆を育てるように、楽しく姿勢良く運動を楽しむことで、身体感覚と自分の記憶との絆を育てることができます。
イギリスの郊外には、緩やかな起伏のある大地が広がっています。
生垣に囲まれた肥沃な放牧地や農耕地や林です。
緩やかな起伏のある大地を歩けば、歩くに従って、広い展望が変化しておもしろい。
だだっ広い平地を歩くと景色はほとんど変化しないし、大地を見下ろしたり、見上げたりすることがないから展望に欠けている。
このため、たいくつで歩くのが苦痛になる。
イギリスの田舎は、レンタカーで走るとおもしろい。できるだけ田舎道を選んで走るべきだ。
大地の起伏と生垣沿いの道をくねくねと上下左右に走る。走るにつれて緑豊かな広大な展望が変化し、しばしば羊の群れが見え、たまに牛が生垣の入り口から顔を見せる。
そんな起伏のある田舎を歩いている人を見るといきいきしてます。
これに対して、イギリスの東部にはただっ広い平地があります。車で走って、他の場所と違い単調だと思っていると、ウォーキングをしている人もやはり疲れたたいくつ感じです。
アウトドア好きにさせるイギリスの生活環境が、身体感覚と記憶との太い絆を育てます。
自立的で知的で、穏やかなジェントルマンに代表される性格を育てるものは、展望が豊かなイギリスの田舎なのです。
イギリスには楽しく身体を動かせる環境があります。
そしてそれが、イギリスの知性を支え、文化を支えてきた。
楽しく身体を動かすのが、スポーツであって、そうでなければスポーツじゃない。
こういう意味のスポーツが、イギリスや西欧の知性や文化を育んできた。
この本は、こういう視点を欠いているように思う。
同じように、自分の身体を楽しく動かせば、動かすほど身体との絆は太くなるはずです。
他人との絆はその他人の顔を中心に結び付きます。
りんごの記憶は、そのりんごの見かけに結び付いて記憶されています。
だから、人はりんごを見るとかじりたくなります。りんごを見ると食べた記憶が働くからです。
他人がいつも同じ顔をしているから、その人の記憶はその顔に自然に結びつくのです。
同じ事が自分の身体との絆についても言えます。
自分の記憶は自分の顔に結び付きません。なぜなら、自分ではふだん自分の顔を見ないからです。
その代わり、直立活動をする人間は、直立姿勢を維持するために、腹筋と背筋を常に働かせ、そこに安定した身体感覚を持ち続けています。
ですから、この身体感覚に自分の記憶は結びつきを形成しています。
目の見えない人にとって、夫の記憶の絆は、夫の顔ではなく、夫の声でしょう。
また、目の見えない人にとって、りんごの記憶の絆は、りんごの見かけではなく、りんごの感触であるはずです。
りんごを触って、はじめてりんごだとわかるのです。
このように、あらゆる感覚が記憶の絆になります。
自分の身体感覚も、記憶の絆に当然なるはずです。
もし他人の顔が毎日変われば、その顔は、その人の記憶の絆にはならない。
他人がいつも同じ顔をしているから、その人の様々な記憶がその顔に結び付くことができる。
楽しい人間関係がその人との絆を育てるように、楽しく姿勢良く運動を楽しむことで、身体感覚と自分の記憶との絆を育てることができます。
イギリスの郊外には、緩やかな起伏のある大地が広がっています。
生垣に囲まれた肥沃な放牧地や農耕地や林です。
緩やかな起伏のある大地を歩けば、歩くに従って、広い展望が変化しておもしろい。
だだっ広い平地を歩くと景色はほとんど変化しないし、大地を見下ろしたり、見上げたりすることがないから展望に欠けている。
このため、たいくつで歩くのが苦痛になる。
イギリスの田舎は、レンタカーで走るとおもしろい。できるだけ田舎道を選んで走るべきだ。
大地の起伏と生垣沿いの道をくねくねと上下左右に走る。走るにつれて緑豊かな広大な展望が変化し、しばしば羊の群れが見え、たまに牛が生垣の入り口から顔を見せる。
そんな起伏のある田舎を歩いている人を見るといきいきしてます。
これに対して、イギリスの東部にはただっ広い平地があります。車で走って、他の場所と違い単調だと思っていると、ウォーキングをしている人もやはり疲れたたいくつ感じです。
アウトドア好きにさせるイギリスの生活環境が、身体感覚と記憶との太い絆を育てます。
自立的で知的で、穏やかなジェントルマンに代表される性格を育てるものは、展望が豊かなイギリスの田舎なのです。
イギリスには楽しく身体を動かせる環境があります。
そしてそれが、イギリスの知性を支え、文化を支えてきた。
楽しく身体を動かすのが、スポーツであって、そうでなければスポーツじゃない。
こういう意味のスポーツが、イギリスや西欧の知性や文化を育んできた。
この本は、こういう視点を欠いているように思う。
2015年1月9日に日本でレビュー済み
1995年の本。著者は元千葉大教授で、芸術学や記号論が専攻であり、スポーツの専門家ではない。
曰く・・・
フットボール、ボクシング、テニスなどの近代的なゲームの原型の多くは、19世紀のイギリスに遡る。当時、ジェントルマンが政治から余暇にいたる広い社会領域を非暴力的なゲームに変化させる歴史的段階に差し掛かっていた。こうした社会環境にあって、はじめて書かれた規則にもとづいたゲームとしてのスポーツが生み出された。ピューリタン革命を経て、暴力抜きで権力が交代する政治形態が生まれる「文明化の過程」にあった。
クロムウェルの死後、チャールズ二世が王権を回復したときには、極力暴力的緊張を緩和しようとする雰囲気ができる。暴力による対立を議論による対立に置き換えて権力者間の戦闘を回避する議会制度がイギリスで発達したことと、特権階級にスポーツが発生することの間には等質性がある。歴史社会学者のノルベルト・エリアスは、暴力に対する嫌悪感が増してくる歴史のモデルとして、非暴力化のための規則を設けた競技としてのスポーツが生まれた、と言う。スポーツ化は、イギリスの地主階級の議会制度化(政治のゲーム化)の対応物である。
書かれた規則によって暴力的でないゲームとしてのフットボールが発達し、パブリック・スクールでの対外試合も行われると、ケンブリッジ大学の規則に統一化されていく。さらにそれらを統合する協会、団体が結成され、制度化がはじまる。これがアソシエーション・フットボール(サッカー)のはじまりで、手を使うフットボールの一派からラグビーが生まれる。
階級と身分の確認として機能したスポーツは、やがて、身体的技量の洗練化や勝敗へのこだわりにより、非暴力の範囲ぎりぎりでぶつかり合うスポーツを生み出す。企業や労働者にもスポーツが広がっていく。
近代オリンピックの父であるクーベルタンは実際には保守的で人種差別と性差別をする白人男性の思想からのがれられていない。クーベルタンはヒトラーを賛美する傾向があり、晩年はヒトラーから年金をもらっている。クーベルタンは、古代オリンピックは宗教性があり、貴族主義、エリート主義がある、と認識している。女性の公的競技参加には反対であり、女性がスポーツするのは構わないが、スペクタクルに身をさらすべきではない、という考え方。
野球の原型は、クリケットの一種のラウンダー・ゲームといわれる。チームスポーツなのにピッチャーとバッターの対決があり、これが物語化されやすくヒーローも生まれやすい。ジョー・ディマジオらのスターの活躍は、個人のサクセス・ストーリーとなり、アメリカンドリームの典型となる。
バスケットボールは、YMCAの体育指導者であったジェームズ・スミスが1891年に野球とフットボールのオフシーズンに行うスポーツとして考えたのが始まり。狭い屋内でのゲームであるため、スピードがあるようでいて身体的な激突の危険がないように巧みに設計されている。
試合が始まる前、対戦者は平等であり、勝敗という不平等を作る。そのあとはノーサイドとしてまた平等に戻る。スポーツを社会的な理想の実現のように見せかけている。
などなど。
曰く・・・
フットボール、ボクシング、テニスなどの近代的なゲームの原型の多くは、19世紀のイギリスに遡る。当時、ジェントルマンが政治から余暇にいたる広い社会領域を非暴力的なゲームに変化させる歴史的段階に差し掛かっていた。こうした社会環境にあって、はじめて書かれた規則にもとづいたゲームとしてのスポーツが生み出された。ピューリタン革命を経て、暴力抜きで権力が交代する政治形態が生まれる「文明化の過程」にあった。
クロムウェルの死後、チャールズ二世が王権を回復したときには、極力暴力的緊張を緩和しようとする雰囲気ができる。暴力による対立を議論による対立に置き換えて権力者間の戦闘を回避する議会制度がイギリスで発達したことと、特権階級にスポーツが発生することの間には等質性がある。歴史社会学者のノルベルト・エリアスは、暴力に対する嫌悪感が増してくる歴史のモデルとして、非暴力化のための規則を設けた競技としてのスポーツが生まれた、と言う。スポーツ化は、イギリスの地主階級の議会制度化(政治のゲーム化)の対応物である。
書かれた規則によって暴力的でないゲームとしてのフットボールが発達し、パブリック・スクールでの対外試合も行われると、ケンブリッジ大学の規則に統一化されていく。さらにそれらを統合する協会、団体が結成され、制度化がはじまる。これがアソシエーション・フットボール(サッカー)のはじまりで、手を使うフットボールの一派からラグビーが生まれる。
階級と身分の確認として機能したスポーツは、やがて、身体的技量の洗練化や勝敗へのこだわりにより、非暴力の範囲ぎりぎりでぶつかり合うスポーツを生み出す。企業や労働者にもスポーツが広がっていく。
近代オリンピックの父であるクーベルタンは実際には保守的で人種差別と性差別をする白人男性の思想からのがれられていない。クーベルタンはヒトラーを賛美する傾向があり、晩年はヒトラーから年金をもらっている。クーベルタンは、古代オリンピックは宗教性があり、貴族主義、エリート主義がある、と認識している。女性の公的競技参加には反対であり、女性がスポーツするのは構わないが、スペクタクルに身をさらすべきではない、という考え方。
野球の原型は、クリケットの一種のラウンダー・ゲームといわれる。チームスポーツなのにピッチャーとバッターの対決があり、これが物語化されやすくヒーローも生まれやすい。ジョー・ディマジオらのスターの活躍は、個人のサクセス・ストーリーとなり、アメリカンドリームの典型となる。
バスケットボールは、YMCAの体育指導者であったジェームズ・スミスが1891年に野球とフットボールのオフシーズンに行うスポーツとして考えたのが始まり。狭い屋内でのゲームであるため、スピードがあるようでいて身体的な激突の危険がないように巧みに設計されている。
試合が始まる前、対戦者は平等であり、勝敗という不平等を作る。そのあとはノーサイドとしてまた平等に戻る。スポーツを社会的な理想の実現のように見せかけている。
などなど。
2010年11月23日に日本でレビュー済み
近代スポーツの発展と近代化(資本主義・非対称性)の関係が気になって手にとった。ものすごく印象に残るポイントは無かったが。読んでいる間は楽しむことができた。印象に残ったフレーズ。
1章:議会制度化とは政治がゲーム化したこと。規律・訓練による従順な身体への変革
2章:特殊な競技に適した能力向上→ファシスト的傾向。メディアとスポーツの関係のはじまり
3章:アメリカで発展したのは、チームスポーツかつ個人の活躍が目立つもの。スポーツの消費化。メディアがスポーツを規定する時代に
4章:スポーツは平等からスタートして不平等にいたる過程。現実の模倣ではなく合理的なコードに合わせて競技するのは、ローカルな文化風俗を抜け出す世界化の過程、つまり近代化
5章:情報の場では差異の追求が精密になる。ゲームそのものが厳しいものになる。身体にドーピングさせるほどの過剰な力は、現代の社会を貫いている。健康を通り越して身体の形状へと移行しはじめた。
6章:女性のスポーツ進出は社会進出と相関している。
7章:民族衣装や職人の衣装が消滅したのは、民族解体の最も印象的なしるし。資本とはたえまなく差異をつくりだす競争を繰り返して続ける虚妄に近い営みをしている巨大な力の流れ。スポーツとは記号の場に、身体能力から性差を含む社会的矛盾までを描き出す表象活動
終章:政治が暴力によらずして議会制度によって遂行されることと、身体の闘争がルールによって非暴力化されたスポーツになる相関性。スポーツ新聞では、スポーツと性的な記事が隣り合う。・・・スポーツの世界ほど建前が全面に出ているものはない。スポーツ誌はこうした建前を一切放棄している。大衆はスポーツがきれいごとの世界だとは思っていない。スポーツはメディアにとってスペクタクルとなり、消費行動につながる。スポーツはますます記号として消費される身体のパフォーマンスになる
1章:議会制度化とは政治がゲーム化したこと。規律・訓練による従順な身体への変革
2章:特殊な競技に適した能力向上→ファシスト的傾向。メディアとスポーツの関係のはじまり
3章:アメリカで発展したのは、チームスポーツかつ個人の活躍が目立つもの。スポーツの消費化。メディアがスポーツを規定する時代に
4章:スポーツは平等からスタートして不平等にいたる過程。現実の模倣ではなく合理的なコードに合わせて競技するのは、ローカルな文化風俗を抜け出す世界化の過程、つまり近代化
5章:情報の場では差異の追求が精密になる。ゲームそのものが厳しいものになる。身体にドーピングさせるほどの過剰な力は、現代の社会を貫いている。健康を通り越して身体の形状へと移行しはじめた。
6章:女性のスポーツ進出は社会進出と相関している。
7章:民族衣装や職人の衣装が消滅したのは、民族解体の最も印象的なしるし。資本とはたえまなく差異をつくりだす競争を繰り返して続ける虚妄に近い営みをしている巨大な力の流れ。スポーツとは記号の場に、身体能力から性差を含む社会的矛盾までを描き出す表象活動
終章:政治が暴力によらずして議会制度によって遂行されることと、身体の闘争がルールによって非暴力化されたスポーツになる相関性。スポーツ新聞では、スポーツと性的な記事が隣り合う。・・・スポーツの世界ほど建前が全面に出ているものはない。スポーツ誌はこうした建前を一切放棄している。大衆はスポーツがきれいごとの世界だとは思っていない。スポーツはメディアにとってスペクタクルとなり、消費行動につながる。スポーツはますます記号として消費される身体のパフォーマンスになる
2008年4月13日に日本でレビュー済み
著者は芸術学を出発点に、修辞学や記号論の立場から近現代文化を論じてきた人物。
本書は、国民国家論、ナショナリズムの議論を越える現象としてのスポーツに着目し、分析してみせたもの。
前半は、80年代以降のスポーツ史研究の動向をまとめたもの。近代スポーツの概念、スポーツがイギリスで発祥したこと、オリンピックの発生、アメリカにおけるスポーツの変質とメディア。先行研究の大まかな流れが見事に整理されており、これからスポーツ史を勉強しようという学生には有用だろう。いくつか疑問点も残るが。
後半は、近現代スポーツをどのように解釈するかという議論。身体性、ナショナリズムとの複雑な関係が提示され、多木氏がスポーツに注目した理由が良く分かる。ただ、あくまでアイデアの提示という段階に留まり、もう少し踏み込んで欲しかったとも思う。スポーツ研究への導入の書としては充分なのだろうが…。
多木氏の他の著作に親しんでいる読者には、ちょっと物足りないかも知れない。
むしろ、スポーツに関心のある人に読んで欲しい一冊だ。
本書は、国民国家論、ナショナリズムの議論を越える現象としてのスポーツに着目し、分析してみせたもの。
前半は、80年代以降のスポーツ史研究の動向をまとめたもの。近代スポーツの概念、スポーツがイギリスで発祥したこと、オリンピックの発生、アメリカにおけるスポーツの変質とメディア。先行研究の大まかな流れが見事に整理されており、これからスポーツ史を勉強しようという学生には有用だろう。いくつか疑問点も残るが。
後半は、近現代スポーツをどのように解釈するかという議論。身体性、ナショナリズムとの複雑な関係が提示され、多木氏がスポーツに注目した理由が良く分かる。ただ、あくまでアイデアの提示という段階に留まり、もう少し踏み込んで欲しかったとも思う。スポーツ研究への導入の書としては充分なのだろうが…。
多木氏の他の著作に親しんでいる読者には、ちょっと物足りないかも知れない。
むしろ、スポーツに関心のある人に読んで欲しい一冊だ。