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群衆-モンスターの誕生 (ちくま新書 56) 新書 – 1996/1/1
今村 仁司
(著)
- 本の長さ202ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日1996/1/1
- ISBN-104480056564
- ISBN-13978-4480056566
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1996/1/1)
- 発売日 : 1996/1/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 202ページ
- ISBN-10 : 4480056564
- ISBN-13 : 978-4480056566
- Amazon 売れ筋ランキング: - 168,684位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年3月16日に日本でレビュー済み
1995年出版。第1部は『現代哲学の冒険 第十巻 交換と所有』の翻案である。群衆論の概説書として名著である。モスコヴィッシやル・ボン、タルド等の社会心理学的群衆論や、ニーチェやハイデガーの哲学的群衆論、マルクスの経済学的群衆論などが上手くまとめられている。しかし、著者が経済学部卒であるためか、社会経済に焦点が当てられており、文化論への応用が効きにくい構成になっている。たとえば、群衆論と深く関わるであろうゲオルク・ジンメルの模倣論では、ル・ボンやタルドと異なり、構成的契機のみではなく模倣的契機も高く評価されている。文化的模倣の基礎に群衆論を据えることができるのだ。文化学・美学との接続が欠如していることは、本書に対して指摘できるだろう。
2012年6月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
群衆という視点から社会を眺める試み。
まあ現状を見ても、皆が同じ方向を向き一方向なだれ込む様子は当たり前の光景となっているように思えます。あえて流れに乗らないと、それはそれで異端視されるのが世の常で、肩身の狭い思いをしたりもしました。結局のところ、群衆とはすでに驚きとすら受け止められない、日常的なものになってしまっているのは確かなようです。
さて、内容的には全て納得とはいきませんが、なるほどなあと新たな視座を与えられるような記述も多くありました。個人的には、特に難解な感じもないので、ぜひ読んで見てください。結構面白いです。
まあ現状を見ても、皆が同じ方向を向き一方向なだれ込む様子は当たり前の光景となっているように思えます。あえて流れに乗らないと、それはそれで異端視されるのが世の常で、肩身の狭い思いをしたりもしました。結局のところ、群衆とはすでに驚きとすら受け止められない、日常的なものになってしまっているのは確かなようです。
さて、内容的には全て納得とはいきませんが、なるほどなあと新たな視座を与えられるような記述も多くありました。個人的には、特に難解な感じもないので、ぜひ読んで見てください。結構面白いです。
2021年9月12日に日本でレビュー済み
最近、群衆論にはまっており、いろいろ探していたところ本書に遭遇した。今村仁司氏が群衆論を書いていたとは驚きである。ポー、ボードレール、ニーチェ、メアリー・シェリー、カネッティ、モスコヴィッシ、トクヴィル、ル・ボン、タルド、フロイトなど、多彩に取り上げられている。
中でもタルドに注目したい。タルドが考察の対象になるのは少ないようだが、ドゥルーズ、ガタリの『千のプラトー』(1980年)において、タルドへのオマージュが書かれたことで(河出文庫・中 p.117)、再度タルドに注目が集まった。また、ブルーノ・ラトゥールは、自らのアクター・ネットワーク理論(Actor-Network-Theory)でタルドに似た議論を展開している。
群衆論といえばル・ボンの『群衆の心理』が有名である。ル・ボンもタルドも群衆には指導者の存在を必須とするが、その影響力についてル・ボンは「暗示」とする。タルドは「模倣」とする。今村はこのタルドの模倣を「称賛的模倣」と呼んでいる(p.165)。そして社会が成立するには人々が称賛に値する人物を模倣し、それに同化する必要があると説く(p.165)。
そして、ル・ボンは群衆に対して恐怖と嫌悪感を示すが、タルドにあってはそうした感情を群衆に示さない。それとともに、指導者像においても捉え方が異なる。ル・ボンの指導者像は、わずかな洞察力しか具えていない興奮した半狂人の中から輩出するとする(ル・ボン『群衆の心理』講談社学術文庫 p.151)。一方タルドは、手本となる模倣の対象は、卓越し威信に満ちている。それ故、人々はそうした人物に魅惑されるとした(p.164)。
以上タルドは、群衆というおぞましい集団ではなく、集団一般、つまり公衆としての集団の成り立ちを説明している。これらの集団の諸特性から社会を説明しようとした。この点が同時代の人たちには十分に理解されず、タルド―デュルケム論争といわれる論争に負けたとされるのである。
タルドの社会学は、個人間の相互行為に注目した先駆的研究として評価できる。経済学にマクロとミクロがあるように、デュルケムはマクロ社会学であり、タルドはミクロ社会学である。タルドはもう一度見直されてよい理論家だ。
中でもタルドに注目したい。タルドが考察の対象になるのは少ないようだが、ドゥルーズ、ガタリの『千のプラトー』(1980年)において、タルドへのオマージュが書かれたことで(河出文庫・中 p.117)、再度タルドに注目が集まった。また、ブルーノ・ラトゥールは、自らのアクター・ネットワーク理論(Actor-Network-Theory)でタルドに似た議論を展開している。
群衆論といえばル・ボンの『群衆の心理』が有名である。ル・ボンもタルドも群衆には指導者の存在を必須とするが、その影響力についてル・ボンは「暗示」とする。タルドは「模倣」とする。今村はこのタルドの模倣を「称賛的模倣」と呼んでいる(p.165)。そして社会が成立するには人々が称賛に値する人物を模倣し、それに同化する必要があると説く(p.165)。
そして、ル・ボンは群衆に対して恐怖と嫌悪感を示すが、タルドにあってはそうした感情を群衆に示さない。それとともに、指導者像においても捉え方が異なる。ル・ボンの指導者像は、わずかな洞察力しか具えていない興奮した半狂人の中から輩出するとする(ル・ボン『群衆の心理』講談社学術文庫 p.151)。一方タルドは、手本となる模倣の対象は、卓越し威信に満ちている。それ故、人々はそうした人物に魅惑されるとした(p.164)。
以上タルドは、群衆というおぞましい集団ではなく、集団一般、つまり公衆としての集団の成り立ちを説明している。これらの集団の諸特性から社会を説明しようとした。この点が同時代の人たちには十分に理解されず、タルド―デュルケム論争といわれる論争に負けたとされるのである。
タルドの社会学は、個人間の相互行為に注目した先駆的研究として評価できる。経済学にマクロとミクロがあるように、デュルケムはマクロ社会学であり、タルドはミクロ社会学である。タルドはもう一度見直されてよい理論家だ。
2024年3月9日に日本でレビュー済み
私の理解力不足かもしれませんが、文章が回りくどいばかりで中身はあまりないように思えました。群衆をテーマにした本で言えば、作中でも紹介されているルボンの群集心理のほうがはるかに良かったです。個人的に有益だったのは最後の参考文献ぐらいですね。
2006年9月20日に日本でレビュー済み
諸君、近代に「自立的で自律した市民」などいないのだ。
そこにいるのは群衆、
あらゆる個別的差異が溶けてなくなる等質的な場、
指導者を要求し、作り出し、そいつに同一化することで互いの等質性を確認する粘着質の共同体、
それである。
現代思想の課題は、いもしない「自立的で自律した市民」による共同体などを夢想することにはなく、今ここにある「等質的で粘着質な群衆」を直視し、そこから出発して、新たな共同のための絆を見出すことにあるのだ。
ニーチェやルボンが現代に至っても成仏せず、思想界を徘徊する理由は、おそらくその辺にある。
そこにいるのは群衆、
あらゆる個別的差異が溶けてなくなる等質的な場、
指導者を要求し、作り出し、そいつに同一化することで互いの等質性を確認する粘着質の共同体、
それである。
現代思想の課題は、いもしない「自立的で自律した市民」による共同体などを夢想することにはなく、今ここにある「等質的で粘着質な群衆」を直視し、そこから出発して、新たな共同のための絆を見出すことにあるのだ。
ニーチェやルボンが現代に至っても成仏せず、思想界を徘徊する理由は、おそらくその辺にある。